第四話 夢の契約 ― 前半 ―
夜の帳が下りる少し前。
街のネオンが一つ、また一つと灯り始めるころ、
黒乃零は古びたビルの最上階――黒猫呪術代行事務所の窓際に立っていた。
カーテンの隙間から見える街は、
まるで遠い誰かの夢のように滲んでいた。
行き交う人々の笑い声、車の音、誰かの泣き声。
それらが混ざり合って、ぼんやりとした現実の輪郭を描いている。
「零、また起きたまま夢を見てる」
黒猫クロが棚の上から声をかける。
零は微笑んだ。
「夢とは不思議なものだ。見る者の心を映す鏡でありながら、時に現実よりも真実を語る」
クロは尻尾を揺らしながら首を傾げる。
「でも、あんたは最近、夢を見ないじゃない」
「夢を見る暇がないだけだ」
「ふーん。夢を見ない呪術師なんて、ちょっと寂しいね」
零は返事をせず、静かに窓を閉めた。
そのとき――
ドアが、三度だけ叩かれた。
「……来たな」
零が手をかざすと、結界がわずかに揺れる。
その波紋の向こうに、少女の姿が浮かんだ。
十七、十八歳ほどだろうか。
白いワンピースに黒いカーディガン。
髪は肩までで、瞳は眠たげな灰色をしている。
「入れ」
少女はおずおずと中へ入り、扉を閉めた。
その仕草は、まるで夢の中で歩く人のようにどこか曖昧だった。
零は椅子を勧める。
「依頼の内容を」
少女はしばらく黙っていた。
クロが机の上から彼女を覗き込む。
「もしかして、言葉にできない夢?」
少女はかすかに微笑んだ。
「……夢、が見られないんです」
零が目を細めた。
「夢を、見られない?」
「はい。子どものころからずっと、眠るたびにいろんな夢を見ていました。でも――ある日、ぱたりと消えたんです。眠っても、何も映らない。ただ、真っ暗な空間に閉じ込められて……」
彼女の手が震えた。
「……目を開けても、そこはまだ夢の中のようで。現実なのかも、分からなくなってしまって」
零は静かに紅茶を注ぎ、少女の前に置いた。
「名前を」
「……葵です」
「葵。夢が見られなくなったのはいつからだ?」
「去年の冬です。ある人に“夢を売ってほしい”と言われて……」
クロの耳がぴんと立つ。
「夢を、売る?」
葵は小さく頷いた。
「はい。“その夢は、美しいから少しだけ譲ってほしい”って。笑ってそう言われて……何も考えずに頷いたんです。その夜から、夢が消えました」
零はカップを置いた。
「取引の記憶は? 何か渡されたか、奪われたか」
葵は目を伏せる。
「……目が覚めたら、枕元に古いコインが置かれていました。銀色で、片面に“月”、もう片方に“瞳”の刻印があって」
零の瞳が一瞬だけ鋭く光った。
「――“夢貨”だ」
クロが息をのむ。
「夢貨……まさか、まだ使われてるの?」
「古い呪具だ。夢を現実の価値に変換するための媒介。つまり、彼女の夢は“買われた”」
葵の唇が震える。
「取り戻せますか……?」
「取引が成立した場合、夢は対価と交換に封じられる。ただし、まだ“夢を売った相手”が生きているなら――可能だ」
「……生きてると思います。その人、夢の中で今も私を見てる気がするんです」
クロが小さく唸る。
「夢の中で見るって……もう完全に呪いじゃない」
零は頷いた。
「夢は魂の鏡だ。彼女の夢を買った相手は、今もその“夢”を使って生きている」
葵は涙をこらえながら言った。
「私の夢を、返してほしい。もう一度、眠りたいんです。あの世界で、誰かを想う夢を見たい」
零は静かに立ち上がる。
「分かった。引き受けよう」
クロが小声で言う。
「零、本気? 夢貨を扱うのは危険だよ」
「分かっている。だが、“夢を奪う者”を放置すれば、現実そのものが歪む」
零は机の引き出しを開けた。
中には、無数の古びた封印札と、ひとつの銀の鏡。
鏡の縁には、同じ“月と瞳”の刻印があった。
「……俺にも、昔“夢”を買われかけたことがある」
クロが目を見開く。
「まさか、零が?」
「御影真道が生前に使っていた“夢の呪具”。現実を喰い、夢を生む。あの男が残した呪いは、まだ完全には消えていなかったようだ」
葵は小さく息を飲んだ。
「その“夢を買った人”って……」
零は彼女の目を見た。
「名前に心当たりは?」
葵は震える声で答えた。
「“白衣の男”でした。いつも微笑んでて、声が優しくて――でも、瞳の中に何も映っていない人」
零の瞳に、淡い影が差した。
「……御影の残滓だ」
クロが呟いた。
「まさか、またあいつが……」
零は立ち上がり、外套を羽織った。
「夢の回廊へ行く。彼女の夢を追う」
葵が顔を上げた。
「私も、行けますか?」
「お前の夢を取り戻すのは、お前自身だ。俺は案内人にすぎない」
クロが小さくため息をついた。
「また無茶するんだから……。わかった、あたしも行く」
零は小さく頷き、鏡を持ち上げた。
「――“夢界門”、開門」
鏡の表面が波紋のように揺れ、室内の空気が変わる。
風が逆流し、蝋燭の炎が真横に流れた。
葵が目を閉じると、世界がゆっくりと反転していく。
足元の床が消え、代わりに無数の光の粒が広がった。
夜空のようであり、深海のようでもある。
――そこは“夢の回廊”。
クロが小声で言った。
「ここ、久しぶりだね……零」
「最後に来たのは十年前だ。御影を封じた夜、ここで“夢を喰う影”と戦った」
葵は静かに立ち尽くしていた。
足元から淡い光が立ちのぼり、
遠くにひとつの扉が見える。
その扉には、“月と瞳”の紋章。
零は短く呟いた。
「やはり、御影の系譜か」
クロが低く唸る。
「零、気をつけて。ここでは現実の法則が通じない。願いも呪いも、同じ形になる」
零は頷き、葵の肩に手を置いた。
「この扉を開けたら、お前の夢が始まる。だが、気をつけろ。夢の中の“願い”は、時にお前自身を呪う」
葵は唇を噛み、ゆっくりと扉に手をかけた。
――その瞬間、温かい風が吹き抜けた。
遠くで誰かが歌っている。
子守唄のような、懐かしい旋律。
「この声……知ってる」
葵が呟いた。
零は目を細める。
「お前の夢の中の“誰か”だ」
扉が軋み、光が溢れた。
次の瞬間、三人はその光に包まれて――消えた。




