第三話 契約の代償 ― 後半 ―
夜が、静かに訪れていた。
窓の外では、月が薄雲の向こうに揺れ、街の灯が遠く滲んでいる。
黒猫呪術代行事務所の中では、蝋燭がひとつ、静かに燃えていた。
黒乃零は机に向かい、手帳を閉じた。
「七瀬透の契約、完全に解除。呪紋の残留反応はなし」
淡々とした声だったが、その指先は少し震えていた。
黒猫クロが机の端に座り、尻尾をゆらゆらと揺らす。
「零、さっきから手、冷たいよ」
「気のせいだ」
「ううん。……寿命、また削れたんでしょ?」
零は笑った。
「お前は敏いな」
「当たり前。あたしの命は、あなたの寿命でできてるんだもん」
クロの声は、どこか悲しげだった。
零は静かに紅茶を注ぎ、ゆっくりと一口飲んだ。
苦みの中に、ほんのわずかに甘さが残る。
それは彼が好む味――だが、今夜の味は少し違っていた。
「クロ」
「ん?」
「俺が死んだら、お前はどうする?」
猫の瞳が揺れる。
「……死なないでよ」
「仮の話だ」
「仮でも嫌。だって、あたしは“あなたの命の欠片”でできてる。あなたがいなくなったら、あたしも消える」
「そうだな」
「それなのに、どうしてそんな顔で笑うの?」
零は目を閉じた。
「契約というのは、“共に終わる”ことでもある」
クロの耳が伏せられた。
「やだよ……。あたし、まだあなたの傍にいたい。呪いでも、式神でも、なんでもいい。だから、お願い、もう命を削らないで」
零はしばらく黙っていた。
そして、静かにクロの頭を撫でた。
「……お前を救うために契約を結んだ。お前の命を繋ぐ代わりに、俺の寿命を分け与えた。その選択を後悔したことは、一度もない」
「……嘘。何度も苦しんでたじゃない」
「苦しみは代償ではない。証だ。お前が生きているという、証」
クロは目を閉じ、零の掌に頭を押しつけた。
「そんなの、あたしには重すぎるよ」
「なら、俺の分も生きろ」
「無理だよ。だって、あなたがいないと……」
零は優しく微笑んだ。
「俺がいなくなっても、お前の中に“俺の祈り”は残る」
その瞬間、蝋燭の炎がわずかに揺れた。
まるで風もないのに、何かが部屋を撫でていったようだった。
クロが顔を上げた。
「……誰か、いる?」
零は頷いた。
「“契約の残響”だ。まだ終わっていない」
机の上の鏡が、ふたたび黒く染まった。
水面のように波打ち、そこから声が響いた。
『――黒乃零。お前の“最初の契約”を、覚えているか?』
零の瞳が一瞬だけ揺れる。
「……忘れるわけがない」
『あの夜、お前は命を差し出した。その対価に何を望んだ?』
零は、鏡を見つめながら答えた。
「“祈りの形を、この手に”」
『ならば、その契約はまだ終わっていない。お前の祈りは、いまも世界の底で鳴り続けている』
鏡の中に、ひとりの少女が現れた。
白い服に包まれた影。
その瞳は金色――まるで、クロと同じだった。
クロが息をのむ。
「……あたし?」
零は頷いた。
「お前の“原型”だ。あの夜、命を落とした少女。お前は、その魂の欠片が猫の形を取った存在だ」
クロの瞳に涙が滲んだ。
「……じゃあ、あたしは人間だったの?」
零は静かに答えた。
「そうだ。だが、お前が願った。“もう一度、零と共にいたい”と」
少女が微笑む。
「零……ありがとう。あのとき、あなたが私を呼んでくれた。『生きろ』って。あの言葉が、私をこの世に繋いだ」
零は目を細める。
「お前が願ったからだ。俺はただ、その願いを形にしただけ」
少女は頷き、クロを見た。
「だから、今度はあなたが選ぶの。この命を、どう使うか」
クロの体が淡く光り始めた。
「……零、これって、あたしが決めるの?」
「そうだ。お前が俺の寿命を喰う存在として生まれたなら、今度は“俺の命を繋ぐ”存在として生きろ」
「命を、繋ぐ……?」
「俺が消えても、お前の中で祈りは続く。お前が誰かを救えば、それは俺の生きた証になる」
クロの頬を、光が包んだ。
彼女の姿が少しずつ変わっていく。
黒い毛が光に溶け、人の形が浮かび上がる。
白い指先、柔らかな髪。
金色の瞳を持つ少女――。
「零……あたし、人の姿に……」
「お前が“願った”からだ」
少女は涙を流しながら微笑んだ。
「あなたが生きていた証を、あたしが繋ぐ。呪いじゃなく、祈りとして」
零は頷いた。
「それが、契約の“完成”だ」
部屋の中に光が満ちていく。
鏡の中の少女が、安らかな顔で消えていく。
蝋燭の火が揺れ、影がひとつに重なった。
――黒乃零は、ゆっくりと立ち上がった。
「これでいい。呪いも契約も、誰かを想うためにある。それを忘れなければ、呪いは祈りに変わる」
クロ――今は人の姿をした少女が、彼の手を握る。
「零、あなたの寿命は?」
零は微笑んだ。
「もう、俺の中に“時間”はない。でも、それでいい。命は数えるものじゃない。渡すものだ」
少女の瞳から涙が零れた。
「……零、行かないで」
「行かないさ。お前が誰かを救うたび、俺はそこにいる」
その言葉を最後に、零の体が光に包まれた。
風が静かに吹き、蝋燭の火が細く揺れる。
彼の姿は徐々に薄れ、やがて――消えた。
静寂。
少女は床に膝をつき、掌を胸に当てた。
そこに、まだ微かな鼓動が残っていた。
「……ありがとう、零」
外では夜が明け始めていた。
東の空が薄紅に染まり、光がビルの窓を照らす。
少女は立ち上がり、机の上の封筒を見つめた。
差出人――黒乃 零。
中には、一枚の紙。
そこには、たった一行だけが記されていた。
『この世界に生きる限り、祈りは呪いを超える。』
少女は微笑み、そっとその紙を胸にしまった。
「……了解。契約、継続だね」
窓辺の陽光の中、黒猫の影が一瞬だけ見えた。
風が吹き抜け、花のような光の粒が舞う。
――黒猫呪術代行事務所。
その名を刻む扉の前で、少女は静かに呟いた。
「次の依頼を、受け取ります」




