プロローグ ―黒猫の棲む部屋―
呪いを祓うのではなく、祈りへ還す――黒猫と男が誰かの“絶望”に寄り添う
呪いは祈り であり 祈りは呪い である
強い想いがなければ辿り着けない黒猫呪術代行事務所。
寿命と引き換えに人の“呪い”を祈りへと還す、
黒乃零と黒猫クロの哀しくも温かな救済譚。
都会の片隅、古びたビルの最上階。
昼なお暗いその階に、一枚の扉がある。
表札も看板も無い。だが、目に映る者にはこう見える――
「黒猫呪術代行事務所」
ただし、それを見つけられるのは、強い“想い”を抱く者だけだ。
恨み、怒り、絶望、あるいは――深い愛。
人の心の底で煮えたぎるそれが、扉の輪郭を照らし出す。
だからこの部屋は、普通の人間には存在しない。
街の喧騒にまぎれ、地図にも載らぬまま、ただ静かに息づいている。
古い時計がゆっくりと秒を刻む。
硝子窓の外では雨が降っていた。
細い水滴が、黒いカーテンを伝うように、ビルの壁を滑り落ちていく。
部屋の中には、二つの影。
一人は、漆黒のスーツに身を包んだ青年。
整いすぎた顔立ちは、どこか現実離れしている。
その名を――黒乃 零。
もう一人は、黒猫。
その毛並みは墨のように艶やかで、金の瞳は灯火のように光を湛えていた。
猫は、机の上に置かれた古びた万年筆をじっと見つめている。
「……また来るな、今日も」
零が静かに呟くと、黒猫は尻尾を揺らした。
扉の向こう、かすかな足音。
この部屋を見つけたということは、すでに“人としての限界”に触れているということ。
その魂は、もう片足を冥府へ踏み入れている。
扉が軋む音。
そこに立っていたのは、ひとりの女だった。
白い傘を握りしめ、目は涙で赤く腫れている。
その姿を見て、黒猫は小さく喉を鳴らした。
彼女の背後にまとわりつくのは――重く、濁った怨念の気配。
「ようこそ。黒猫呪術代行事務所へ」
零の声は柔らかかった。
だがその奥には、深い闇の底を覗くような冷たさがある。
女は震える唇で言った。
「……呪いたい人が、いるんです」
黒猫が机の上から軽く跳び降りる。
その瞳がまっすぐ女を射抜いた。
“言葉ではないもの”が、空気を震わせる。
零は頷いた。
「代償は、あなたの寿命です。十年をいただく。十年に満たぬ場合――残りのすべてを」
女の肩が、びくりと震えた。
その一言で、彼女の中に“死”の気配が生まれたのだ。
だが同時に、それは“救い”でもあった。
愛も恨みも、誰にも理解されぬ痛みも――すべてを終わらせる契約。
「……それでも、構いません」
女の声は、雨音のようにかすれていた。
零は机の引き出しから、小さな封筒を取り出した。
中には白い紙片が一枚。そこに、女の名前と“呪いたい相手”の名を記す。
それが契約書――命の取引。
黒猫はその紙の上にそっと足を置いた。
瞬間、空気がわずかに波打つ。
女の背中に見えない印が刻まれ、黒い霧がゆらりと立ち上った。
契約完了。
次の瞬間、黒猫の姿がふっと消えた。
まるで闇の中へ溶け込むように。
残された女は、茫然と立ち尽くす。
零は静かに言った。
「……これで、すべて終わります。ただし、あなたの“想い”が本物であれば、の話ですが」
女が顔を上げた時、部屋にはもう零しかいなかった。
雨音だけが、ゆっくりと世界を洗っている。
――そして、街の片隅で一匹の黒猫が歩いていた。
細い路地を抜け、人通りの絶えた信号を渡る。
猫の足跡は、雨に溶けて消えていく。
だが、その瞳だけが、まるで生きた炎のように揺れていた。
黒猫は、とあるマンションの前で立ち止まった。
カーテンの隙間から、ひとりの男の影が見える。
写真立てを倒し、酒をあおり、狂ったように笑っている。
――“この男が、呪われる相手だ”。
黒猫の姿が、ふっと変わる。
それは、黒髪の女の姿。
雨に濡れた髪を払い、冷たい瞳で部屋を見上げた。
「お前が、あの人を壊した」
次の瞬間、部屋の電気が弾ける音がした。
闇の中から、かすかな声が響く。
「……呪いとは、祈りの裏返しだ」
そして世界は、静寂に沈んだ。
――翌朝。
男はベッドの上で心臓を押さえ、息絶えていた。
表情は安らかで、まるで夢の中で誰かに抱かれていたようだった。
ニュースにも、警察にも、原因はわからなかった。
ただ一匹、屋根の上に黒猫がいたという噂だけが残った。
黒乃零は、事務所の窓辺で雨上がりの空を見上げていた。
「……また、ひとつ終わったな」
机の上には、黒猫の足跡が一つ。
まるで、“お疲れ様”とでも言うように。
零は微笑む。
その瞳の奥には、どこかに哀しみの影が宿っていた。
「呪いの根は、いつも“愛”から始まる……そうだろ、クロ」
答える声はない。
ただ、カーテンの隙間から差し込む光が、机の上を照らした。
金色に揺らめくそれは、まるで黒猫の瞳のようだった。
こうして今日も、誰かの“想い”が、ひとつ終わりを迎える。
呪いによって、あるいは救いによって。
その境界を見届ける者――黒乃零と、黒猫クロ。
彼らの物語は、まだ始まったばかりである。




