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日本人はなぜディベートが下手なのか?

いましがた、NHKの「日本の、これから」という番組を見ていて、泣きたくなった。

この番組の趣旨は「草食系の若者が増えているなか、日本はどうなっていくのか」という議題について様々な立場から集められた人たちが議論を繰り広げる――というものだったのだが、これがあまりにもお粗末すぎたのだ。

私は番組を責める気はない。

議論自体は面白かったし、若者と中年、団塊世代が互いの意見を述べているのも興味深かった。はっきり言って、悪くはない出来だった。

私が嘆いているのは日本の将来などではなく、喋っている人たちの態度だったり、内容だったりなのだ。

私とて一介の高校生であるからディベートのなんたるかを詳しく説明できるほど慣れているわけではないが、拙いながらも批判を行いたいと思う。



最初に断っておこう。タイトルに「日本人」などとつけてしまったが、ひょっとしたら世界共通の問題点をあげている可能性もある。なにもイギリス人やアメリカ人が完全無欠なディベーターであるはずはないから、彼らにも問題点はあるのだ。とにかく、私のわかる範囲で持論を述べたいと思う。


まず感じたのが、態度の悪さだ。

たぶん一番大切なこと。相手を敬い、尊重するということができていないのだ。

わかりやすい例をあげると、例の仕分け議員だろうか。相手の話を最後まで聞かない、自分の意見ばかりを一方的に押し付けるというのは言語道断だ。

ディベートに唯一ルールがあるとすれば相手を尊重することであるはずなのに、彼らはそれを完璧に忘れてしまっている。いや、気づいてないとさえいえるかもしれない。それほどまでに――見ていて反吐が出るほどに――ひどいのだ。

年上から年下に意見を述べるとき、ここで目下の者を軽視するという日本の悪い風潮がにじみ出てしまっている。

「理由を言え」「言い訳するな」のコンビ的なものだ。話を聞く気が最初からないのだ。番組を見ていても、他のゲストの話はうなずいて聞いているのに、相手が若者となると一気に攻撃的になり、話を遮り、説教を垂れようとする。

自分のほうが長く生きているんだから、自分の言うことが正しい。そんな思惑が見え見えだ。端的に表現すると、これも一種の差別だろうと思う。個人的に叱っているのならまだいいが、公的な場所でそんな風潮が許されていいはずがない。

反対に若者から年上に話すとき、ここにもどうせわかってもらえないだろうという気持ちが出てしまっている。これは半分ほど相手側に問題がある。自分の意見を受け入れてもらえないのなら、どうでもいいやと投げやりになってしまうのは仕方ない。それでも説明の責任を放棄するのは反則だ。あっていいことじゃない。



次に、話の要点が見えないことだ。

このエッセイも要点を得なくて大変申し訳ないが――なんてことを書いているとややこしくなる。本題が見えにくい。つまり話が長い。

一つの要素を一つの文に込めるというのが基本だろう。それを二つも三つもいれてしまうのだ。だから反論したいポイントがあったとしても、メモでも取っていない限りそれをすぐに指摘することができないのだ。(まあ、無理やり遮って言いたいことを言う人もいるが)

何を言いたいのかがわからない。

やたら比喩とか、自分の話とかを巻き込むこともおおい。「私は子供が2人いるんですけどね……」とか「たとえば、なんとかがあるとするじゃないですか……」みたいなやつだ。これはたいがい失敗する。

たしかにうまく使えば効果的な手法だろう。ただこれにはセンスがいる。即興で誰にでもわかりやすいたとえをできる人はそういない。それなのに自己満足でやたらと使いたがるから、話が脱線し本質が見えにくくなってしまうのだ。

これはだれにでもある傾向だ。

ただ、総じて話の長い人はわかりにくい。日本語がディベートに向いていないという原因はここにある。回りくどいのだ。



そして三つめ。

自己分析が甘い。

自分の人生についてそれが己の行動による結果なのか、それとも時代に乗っかっただけの産物であるのか、そこの区別ができていない。

これはいささか難しいことかもしれない。

成功した人ならば誰しも努力によってその地位を得たと思いたいだろうし、没落した人ならばそれを時代のせいにしたがるだろうから。人間臭くて私は好きなのだが、それとディベートは別物である。あくまで客観的に、クールであらねばならない。

認めたくないけど認められる力。これはディベートにおいてとても重要なことだ。相手を認められないと、ディベートに終わりはないからだ。ただ自分のをうっぷんを適当にぶちまけて周囲を不快にさせるだけになってしまう。これじゃ意味がない。

たしかに経験は大事な根拠となる。ただそれは大いに主観的なものだ。そこを理解してほしい。



上記の三つは、改善してほしい順に並べてある。

フェアであること、シンプルであること、クールであること。

細かい技術はともかくとして、とりあえずこれらの点を修正できれば少なくとも聞いていてイライラして仕方ないということにはならない。

これらはもちろん経験の有無も関わるだろうが、気持ちの持ちようでだいぶ変わるものだ。せめて社会に出ている大人として、これくらいは守ってもらいたい。もちろん私たち未成年も上手にディベートを進められるよう、頑張らなければいけない。

ご意見などありましたら、書き込んでくださると幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 高校生でこのような批判眼をお持ちで考察ができ、それを文章にして公の場で表現できるというのが素晴らしいと思いました。 [一言] ひとびとの取る態度はすべて先達から学んだものなのです。失望さ…
[良い点] 様々な問題点がブレなく提起されていると感じました。 [気になる点] 多少「ディベート」と「ディスカッション」を混同されている点がある気がします。 [一言] 関心を持って読ませていただきまし…
[良い点] 番組に対して抱いた気持ちがありありと伝わってきて、作者がどれだけ憤りを感じたのかがよくわかる文章である。 [気になる点] 批判は適切であり、説得力もあるのだが、「なら、どうするべきなのか」…
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