さよならの前に、泡沫を添えて
まだ冬の名残でなのか、寒さの残る三月。なんとも言えない曇り空の下で、欠伸をする。最近は毎日のように卒業式の練習があって、嫌いな授業が減っているのが少し嬉しく感じる。卒業までのカウントダウンカレンダーは後、九日。なんだか、自分が卒業なんて考えられなくて、最近は地面に足が着いてないみたいに気持ちがふわふわとしている。
「はぁ」
こうやって、この時間に下校して、ため息をつきながらランドセルを背負う事も無くなるのだろう。別に、学校にそこまで思い入れもないし、六年間行きたいと思って学校に来たことは無い。ただ、環境が変わることへの恐怖があるだけだ。そんな風に悩んでいる僕を表したかのような曇り空を見ながら、今度は欠伸ではなく二度目のため息を零した。
目線を下げて、地面を見ながら歩く。履き慣れた靴、見慣れた道、いつも通りの車の通る音。そして
「水溜まり…?」
道にできた見慣れない水溜まり。雨は最近降ってないし、誰かここに水でも撒いたのだろうか。それにしても不思議だ。ここだけ、陽だまりのようになっている。
「変なの」
違和感を感じながらも、家へと歩み始めた。
1.水溜まりの先
やっぱりある。昨日と同じところにある水溜まりを見ながら、思わず独り言を言う。今日は晴れだし、もう乾いていると思ったが、昨日、そして朝と変わらない現状に疑問で頭がいっぱいになる。もしかして、自分の知らない内に雨が降っていたのだろうか。でも、だとしたら他のところにも水溜まりがないとおかしい。そして、昨日と同じ陽だまりはこの水溜まりを指していた。分からない、分からないが、陽だまりの元にある水溜まりを見ると呼ばれているような気持ちになって、足を一歩踏み出した。
ぱしゃっと景気のいい音が鳴るのと同時に、不思議な浮遊感を感じ、次の瞬間、僕の視界に広がったのは青い幻想的な世界。自分が動く度に泡立つのを見て、ここは水の中なのだと気づいた。水面が泡立つ事を泡沫って言うんだっけ、と足りない知識の中をまさぐって思い出す。こんな状況下でも何故か冷静な自分が少し怖く感じたが、こんな非現実的な状況だからこそ、逆に冷静になっているのだと思った。
「息、できる」
人間はエラ呼吸なんて出来ないから、勿論水の中では息は出来ないはずだ。でも、出来た。ここは自分の知っている水、いや海じゃ無いのかもしれない。
「僕、泳げない…」
どんどん沈んでいくのを感じて、恐怖心を紛らわすために届くはずのない右手を上に伸ばす。
「え、うわっ」
届かないと思われた右手は、からぶること無く、誰かが掴んで上へと連れていってくれた。水面に顔が出ると、夜風に|靡かれ肌寒さを感じる。そして、目の前には自分を助けてくれたであろう、宙に浮いている女の子がいた。
「危な、もう少し遅かったら飲み込まれてたよ。私がいて良かったね」
自分とは反対の色をした髪。この夜空によく馴染む色の目。重力を無視した体。これだけだと、アニメの世界から出てきたのかと錯覚しそうになるが、一つ自分の見たことのあるものがあった。制服だ。この制服は確か、近くの中学校の制服だったはず。よく、この制服を着ている人を見るから覚えていた。
「…ありがと」
「ん、とりあえず上がって来なよ。最近、代わり映えしなくて暇だったんだ」
女の子の言葉を聴きながら、全体的に青を前面に出したような世界だと思った。あの水溜まりのように所々陽だまり、いや月明かりに照らされていてそこまで夜の暗い印象は無い。女の子に腕を掴まれながら、チラッと見えたのは手首に貼られている絆創膏。ざぶざふと水音をたて、時間がかかりながらも海から上がってこれた。今更だが、水溜まりに落ちたのと同時にランドセルが無くなっていたことに気がついた。一緒に海に落ちていたら、教科書やノートは全部ダメになっていただろうから、無くなって良かったのかもしれないが。
水を吸いまくった服を絞りながら、周りを見渡してみる。新しい建物は無くて、崩れかけたボロボロの建物だけ。苔も生えていて、時間の流れを感じた。
「ここには私以外、人はいないよ」
「いない…?」
「うん、だーれも居ないんだ。私だけ、取り残されたみたいに」
明るい夜空を見上げながら、その子は声のトーンを少し下げてそう言った。
「えっと、名前は?」
「私の名前は、そうだな、片桐さんと呼んでもらおうかな」
「分かった、かたぎりさん」
かたぎり、どんな漢字なのだろう。身近にそのような名前の人はいないので、頭の中で漢字に変換できない。そんな僕を見越してか、クスクスと笑う声が聞こえてきた。
「片方の片に、桐…なんて説明しようか。ま、桐は平仮名でいいさ。少年の名前は?」
「涼風、葵」
「とても綺麗な名前じゃないか!いいね、やはり名前って大事だ。忘れるなよ」
名前を忘れることなんてそうそう無いと思うが、一応片ぎりさんがそう言うなら忘れないようにしておこう。すると、あ!といい事を思いついたとでも言うような笑顔で僕の手を引いて、浜辺から歩き出す。片ぎりさんは浮いていた足を地に着けて、僕と同じように地面を蹴っていた。
「ここに来ることなんてもうないと思うから、案内してあげよう。面白いものが沢山あるからね」
2.建物の先
「ここら辺の建物は私が来た時にはボロボロだった。災害が起こった後みたいに。それも苔が生えてるあたり、相当な時間が経っているのだろうね」
「片ぎりさんはいつからここに?」
「んー、何時だったかな。ここに長いこといると大切なことをどんどん忘れていってしまうから、葵も早いとこここから出た方がいい」
「!、出方を知ってるの?」
そんな僕の希望も虚しく、片ぎりさんは首を横に振った。
「初めの頃は私もここを捜しまわったが、それらしきものは…」
そう言って言葉を止めてしまった片ぎりさんは、何か考え込んでしまった。きっと、気づいたことがあったんだと思う。でも、確信が持てないから教えてくれない、そんな所だろう。
「葵、これはまだ確信が持てていないから真に受けて欲しくないんだけどね。この坂を登った先に、綺麗な橋があるんだ。私自身も橋の先には行っていなくて、そこならばまだ希望はあるかもしれない」
その言葉を聞いて、とても安心した。ずっとここから出られなかったらどうしよう、と不安だったから。でも、今考えると僕はずっと何かに不安を感じて、先に進むことを怖がっている気がする。これまでずっと静かだった波が、何かの拍子に荒波に変わってしまうような。その荒波に飲み込まれて右も左も分からなくなって、独りぼっちになることを恐れているような。そんな、根拠の無い不安にずっと僕は駆られているのかもしれない。
「なら、そこに行ってみれば…。……?どうしたの?片ぎりさん」
ウキウキの自分とは違って、片ぎりさんは暗い顔をし、まだ言いたいことがあるみたいだった。
「私はあそこには行けない。行くなら葵一人で行ってもらわなきゃ…」
「行けない?何故?」
「あの橋を渡ろうとすると、変な恐怖心に駆られてしまうんだ。まるで誰かに、行くなって言われてるみたいに」
そんな弱気な片ぎりさんを見て、大人な片ぎりさんも自分と同じように怖いものがあるんだと、ビックリしてしまった。そりゃ、大人にも怖いものはあるだろうけど、なんだか意外だったんだ。すると、黙り込んだ僕に申し訳なさそうに呟く。
「葵、ごめんね。とりあえず、その橋まで連れて行くよ」
謝らせるつもりなんてなかったのに、前を行く片ぎりさんの背中を見ると、とても悲しそうでなんて声をかければいいのか分からなかった。
無言の時間が長ければ長いほど不安は募っていく。そんな時、片ぎりさんはなんでここにきて、出ることを諦めてしまったのか分からなくなった。
僕と同じように水溜まりに落ちた?僕じゃあるまいし、そんな馬鹿な事を片ぎりさんがするだろうか。聞けば直ぐに分かる事だけど、その聞くという行動にも凄く勇気がいる。
そんな風に悩んで下を向いていたせいで、急に止まった片ぎりさんの背中にぶつかってしまった。
「うぶっ…、ど、どうしたの?片ぎりさ…」
「走って!ごめん、タイミングが悪かったね。葵には何も気付かれずに帰って欲しかったけど、それはちょっと難しいみたいだ」
血相を変えた片ぎりさんに手を引かれながら、水を沢山吸って重くなった靴を履きながらも走る。
その時は片ぎりさんの言っていることも分からなかったし、何から逃げているのかも分からなかった。分かることがあるとするなら、走り出したタイミングで心做しか暗くなっていった夜空だけ。
3.視線の先
「ふぅ…。急に走らせて悪かったね、もう大丈夫だよ」
「はぁ、はぁ、ゲホッ…」
キツくて道端に座り込んだ僕の背中を優しくさすってくれる片ぎりさん。本当にこの世界で一人きりじゃなくて良かった、と心から思った。
呼吸を整えて、片ぎりさんに状況を説明してもらおうと疑問だったことを口にする。
「なんで、急に走り出したの?なにか居たとか?」
「あぁ、居た。それも捕まっては行けない系の危ないヤツさ」
ホラーゲームとかでもいるだろう?と、自分に分かりやすい例えを出してくれて、何となく逃げた理由は分かった。じゃあ次に出てくる疑問は、そいつの正体についてだ。
「アイツの事については私もよく分かってないが、敵なのには変わりない。一人のときは気をつけて、警戒していた方がいい」
「でも、片ぎりさんは…私以外誰もいないって」
嘘をついていたってことなのだろうか。けれど、悪意があってやった訳じゃ無いと思う。片ぎりさんに限ってそれは無いはずだ。
「葵にはこれ以上怖い思いはして欲しくなかったんだ。騙すような形になってしまって、すまない」
「ううん、そこまで考えてくれてたなんて、ありがたいよ。でも片ぎりさんと僕、そこまで年齢離れてないと思うのに、なんだか片ぎりさんが凄く大人っぽく見えるな」
そんな僕の一言を聞いて、片ぎりさんは下を向いた。
「こんな状況だったら、自分より少しでも年上でも大人に見えるよね。少しでも不安を紛らわす為に、大人に頼りたくなって、思ってもない嘘ついて、そして…」
頭の良さそうな片ぎりさんにしては的外れな返答だと思った。すると、立っているのが疲れたのか僕の隣に腰掛けて、片ぎりさんは僕の頭を優しく撫でた。
「葵は何か嫌だな〜って思ったり、不安に思うことってあるかい?」
「…あるよ。最近になって、卒業して今までの日常がガラッと変わってしまうのが怖い」
「なるほど、そうか。葵は六年生か…、なんだか小学校が懐かしく感じるね」
「片ぎりさんは中学生だよね?」
「ああ、よくわかったね。中学三年生のお姉さんだ」
そんな僕らの雑談を他所に、波の音が聞こえる。静かで、月と星の光だけの世界は非現実的に思えるも、それがとても落ち着いた。僕らだけ違う世界にいるみたいで、このままここに居てもいいかも、なんて馬鹿なことも考えてしまう。
「じゃあ今年で、高校生になるんだ。だから大人っぽく感じたんだね」
「そうかも。けどね、もう高校生にはなれないんだ」
「え、受験成功しなかった…?」
もしそうなら僕は最低な事を言ってしまったかもしれない。ショックを受けているだろうに、そこに追い討ちをかけるようにこんな話題を…。
なんて焦っている僕を見て、片ぎりさんは心底愉快だと言うように笑って見せた。
「ふふ、違うよ。受験もしてない、その前に、高校生になる前に私の時間は止まってしまったんだ」
やっぱり、頭のいい片ぎりさんは少し難しい事を僕に言った。時間は止まらずに進み続けるから、僕は時々止まって欲しいと思うことがある。テストがある日とか、嫌いな授業がある日とか、とにかく嫌なことがあった日とかは特に。だから、片ぎりさんは僕とか違う世界にいる漫画とかでよく見る魔法使いなのかもと思った。
「時間を止められる片ぎりさん、凄い!」
「え、あぁ、そんな褒められる事じゃないんだ。だから、葵には時間を止める方法は教えてあげられないな」
目をキラキラさせて褒める僕とは違って、片ぎりさんは気まずそうにそっぽを向いた。僕は凄いことだと思ったけど、片ぎりさん自身はそう思っていないのかもしれない。でも、なんで?なにか理由があるんだろうけど、その理由が分からない。
「さて、雑談タイム終了だ。橋をめがけて進もうか」
いつの間にか夜空は初めの頃と同じくらい、明るくなっていた。
4.坂の先
「アイツは居ないみたいだ、一応無駄な音がならないように歩こう」
さっきの事があったので、警戒しながら歩く。また橋への道を邪魔されたらめんどくさい事になるからだ。正体不明なこの世界から出るためにも、橋に行かなければいけない。片ぎりさんは確信が持てないと言っていたけど、僕は橋の先に何かがあると確信している。勿論、理由なんてないけどね。
「片ぎりさんもここから一緒に出ない?ここで一人なのは寂しくなるよ」
「そんなこと言って、葵が一人で行くのが怖いだけなんじゃないかい?」
図星を付かれた。でも、心細くなるのはしょうがないと思う、ほんとに!
「ぐっ、それはそうだけど…」
片ぎりさんが心配なのには変わりない。片ぎりさんはなんだか、いつの間にか知らない間に消えてしまいそうで、不安になるのだ。それに、時々する暗い顔もなにか理由があるんだろうし、ここから出る前にその理由くらいは聞きたいと思った。
「あははっ、葵は私の事なんてここから出たら忘れてくれていいのに」
「嫌だよ、忘れない。じゃないと、片ぎりさん ずっと独りぼっちになっちゃう気がする」
はっ、と片ぎりさんの息を飲む音がした。片ぎりさんの事は僕が別に覚えていなくとも、片ぎりさんの家族が覚えているだろうし、そこは別にいい。でも多分、ここで片ぎりさんが独りぼっちになっていることを知っているのは僕だけだと思った。それでもし、僕が忘れてしまったら本当に片ぎりさんは一人だ。だから、忘れない。ここを出ても、絶対に。
「こんな所じゃなくて、葵とは現世で会いたかったな…。そしたら、私がここに来ることもなかったかも…」
その一言で一つ、分かったことがあった。片ぎりさんは自分がこの碧色の世界に来た理由を知っている。知っているからこそ、出ようとしない、ずっと諦めている。でも、後悔もしている気がする。言葉の節々に感じる、苦しさや悲しさ。一体、片ぎりさんに何があったと言うのだろう。
「これが…、坂か」
「転げ落ちないように気をつけてね」
登るなとでも言いたげな凄く急な坂。坂の途中で転ぶなんてことがあったら、間違いなく転げ落ちるだろう。これは、今まで以上に警戒しながら登った方が良さそうだ。またアイツが来ることも考えて行動しよう。
「私も一度登っただけで、体力がある訳でもない。最悪、一人でも登れたら上出来だ」
確かに、この坂を眺めているとそう思わせざる終えない。隣にいる片ぎりさんの長い髪が目の前で靡く。白い髪は月明かりに照らされて、なんだか水面みたいだ。
海のそばだし夜だからなのか、肌寒い。でも、自分はジャージを着てるし、あまり寒がりじゃないからそこまで気にならない。気になるのは、半袖の制服で夏服の片ぎりさんだ。見ていて寒くなってくる。
「か、片ぎりさん…寒くないの?」
「ん?葵、寒くなったかい?」
「ううん、僕じゃなくて片ぎりさん。半袖で寒そう」
「あぁ、私は大丈夫さ。寒さをあまり感じないんだ」
やっぱり、片ぎりさんは不思議な人だと思ったのと同時に、思いつくことがあった。時間を止められて、寒さを感じないなんて、まるで…。
「幽霊みたい、って思った?」
僕の思考を読まれたような気持ちになる。確かに、失礼だとは思ったけど、そう思ってしまったのは事実だ。魔法使いなんて言葉で片付けていたけど、心のどこかでは思っていた。時間が止まったのは、片ぎりさんが、、。と思ったところで思考を止めた。
だって、あまりにも苦しそうな顔を片ぎりさんがするものだから。
「とりあえず、話していても坂が緩やかになってくれる訳でもないから登ろうか」
坂を登るために気合いを入れ直し、一歩踏み出した。
…否、数分後に死に目にあうことになるのだが。
「もう、もう終わり?登り終わった?」
「ふ、ふふ…まだまださ…。登り始めて五分しか経ってないよ」
思っていたよりもキツくて、開始五分でバテ始める。それは片ぎりさんも同じようで、さっきの話の続きをしようと思ったが、それは始めることも出来ずに失敗に終わるみたいだ。
「あれ、この感じは…」
「まさか」
明るかった夜空がどんどん暗く染っていく。その光景を見て、僕らは真っ青になる。こんなに疲れながらも頑張って坂を登っているのに、その途中予想していた最悪の事態になろうとしている。今は、坂の半分くらいまで来ている。これなら、ギリギリ走れば登りきるかもしれない。
「片ぎりさん、登り切ろう」
「え、ここからかい!?」
「うん、僕らなら行けるよ!こんな所で足止め食らってたら一生帰れない!」
戸惑う片ぎりさんはなんだか新鮮で面白い。でも、一応覚悟は決めたみたいで深く深呼吸をした。
そんな時、目の前に知らない奴の姿が写った。影で顔は見えない。片ぎりさんと同じ制服の同じくらいの髪の長さの誰か。
これだけ聞くと片ぎりさんなのでは?と錯覚してしまいそうになるが、片ぎりさんはここにいるし、何より色が違うのだ。白く綺麗な髪は、僕と同じ黒に染まっていて、制服も紺色が黄色ベースの明るい色となっている。だが、目の前にいるだけで追いかけたりはしてこない。僕らが動いてないから?気づいてない?そんな馬鹿な事は無いと思うけど、否定もできない。
「な、なんで動かないんだ?」
「私たちの姿を見たら直ぐに追いかけて来るはずなのに、なんだか不思議だね」
「これは…、走るよりもゆっくり行った方がいいかも…?」
「だね」
気合いを入れて走ろうと準備していたのに、これじゃあ歩いた方がいいみたいだ。
音を立てないように、目の前で止まっているアイツの視界に少しでも映らないように、片ぎりさんとタイミングを合わせてゆっくりと歩く。アイツを通り過ぎた所で、片ぎりさんとめと目を合わせ、全速力で走る。とにかく登りきることを考えて、考えて…。
その時だ。片ぎりさんが視界から消えたのは。
「片ぎりさん!?」
「うぐっ、葵…先にいけ」
「え、あ、」
片ぎりさんの背中にアイツが乗っかって、身動きを封じている。風に靡かれて見えた顔は、
「片ぎりさんが…二人?」
5.橋の先
「…」
片ぎりさんと類似したソイツは言葉を発することなく、無表情で片ぎりさんを押さえつけている。そんな意味不明な状況に身体が硬直した。
「いいから!先にいけ!」
鋭い叫び声に動かなかった身体は動き、片ぎりさんの方を見ずに走り出した。
色々な感情がグチャグチャになりながらも、目的は決まっていた。坂を登った先にある橋に行くこと。
「はぁ、はぁっ、ゲホッ…」
坂を登った先にあったのは、下の方のボロボロで苔が生えた建物ばかりじゃなくて、形を保った建物ばかりだった。疲れた足を無理やり動かし、住宅街らしき所を歩く。
「人は、居ないよね」
ここに人が居たら、逆に少し怖いかもしれない。多分、幽霊だし。
「橋なんて何処にも…」
いや、あった。それも目の前に。こんなボロボロの建物とは違って、最近できたと言われても違和感のない綺麗な白で統一された橋だった。ただ、その綺麗さが逆にここでは浮いて見えて、変な不気味さと不思議さを纏っていた。
住宅街を通り抜け、橋の前まで来て踏みとどまる。
初め、片ぎりさんはこの橋を渡ろうとすると恐怖心に駆られて進めなくなる、と言っていた。だから、僕が今この橋を渡ってしまったら、片ぎりさんにはもう会えない。片ぎりさんには、サヨナラもありがとうと伝えたいし、聞きたいことだってある。本当に自分が帰るために、片ぎりさんを犠牲にするような真似をしていいのか、自分の頭の中にいる天使と悪魔が口論している。
「片ぎりさん…」
「どうした?葵」
「うわあっ!?」
後ろから聞き馴染みのある声が聞こえて、思わず尻もちをついてしまった。見上げると、面白そうにクスクスと笑っている片ぎりさんがそこには居た。
「片ぎりさん!?だっ、大丈夫なの?怪我は?してない?」
我ながら支離滅裂な言葉だと思った。疑問形が沢山あって、早口で、聞き取る事が難しそうだ。でも、片ぎりさんは優しく笑って、僕に落ち着くように促した。
「アイツ、葵の姿が見えなくなった途端に腕を離してね、本当何がしたいのか分からないやつだよ」
呆れ顔の片ぎりさんを見ると、安心した。怪我も無さそうだし、体調が悪そうという訳でもない。
「それで?葵はなんで橋の先に進まないんだい?」
「ここを渡ったら…、片ぎりさんに会えなくなる気がして」
「…本当に可愛いね、葵は!」
「なっ、可愛いって、、」
唐突に変なことを言われて、気を張っていたのが少し緩んでしまった。こっちは本気で悩んで考えているのに、こういう時に限って片ぎりさんは話を脱線させるのが得意なのだ。
「元は出会うことの無い私たちなんだから、葵が私のことを気にする必要は無いんだよ。自分のために生きなきゃ」
そんなのは言われなくとも分かっている。分かっていても、片ぎりさんの事は分からない。アイツと片ぎりさんが同一人物なのかも、とか片ぎりさんは幽霊なんだ…とか色々自分で考えて、でもそれにも限界はあって、最後は片ぎりさん自身から全てを聞かなきゃいけなくて。
卒業式前の大冒険は体を使うよりも、頭を使う方だったみたいだ。
「分かった、なら最後に片ぎりさんのことについて教えて。人の秘密に土足で踏み入れるような事をしちゃいけないのは知ってる、でも一人で抱え込むよりは話した方がいいことも少なからずあると思ったから」
そんな僕の言葉を聞いて、数秒の沈黙が流れた。たった数秒でも、今の僕には長い時間に感じた。緊張していたからなのか、何を言われるか不安だからなのか、原因はハッキリとしないがどちらも有り得る。
そんな長い沈黙を破ったのは片ぎりさんで、重く閉じていた口を開き、穏やかな表情でこちらを見つめた。
「…やっぱり、葵とは私が自殺する前に会いたかったな」
その一言。それだけでも僕を驚愕させるのには足りすぎたのだった。
自殺、毎年何人もの子が犠牲になっているそれは、ニュースでもよくあるため知らないなんてことは無かった。自殺する理由は様々で、いじめに周りからのプレッシャー、虐待、職場でのストレス、心身へのダメージなど挙げ始めたらキリが無い。それほどまで、この世の中において自殺を選んでしまう人は多い。
「自殺って…」
「本当に聞くかい?聞いていて気持ちのいいものでもないよ」
確かに、戸惑ってしまった部分はあったが、自分から言ったことには全て責任を持ちたい。だから、今更辞めるなんて事はしたくないんだ。
「話して、片ぎりさん。大丈夫、僕から聞きたいって言ったんだし」
「ふふっ、強いね、葵は」
「片ぎりさんもね」
「!…わかった話すよ。私が、ここに来てしまった経緯を」
6.海
自分を嫌でも照らしてくる太陽。顔見知り程度の人達。見慣れた通学路。中学を卒業したらもう通ることもない道だ。可も不可もなく、楽しいと感じることもなかった。それも友達が居れば変わったのだと思うけど、私 片桐 真白に友達と呼べるやつはいなかった。
いや、居るには居るが…友達と呼んでいいのか分からない部分がある。
めんどくさい奴?知らないよ、そう思うなら関わらなければいい。…こんな事ばっかり言うから、クラスで居ないものとされてるのかもしれないが、特に気にしてる訳じゃない。本当に、マジで。
「おぉ、片桐!このプリント、半分運んでくれないか?」
「分かりました」
担任の先生に言われ、積み上げられたプリントの山を持つ。前回やったテストの答案用紙のようだ。丸つけられたプリントに点数が付けられている。
「最近、大丈夫そうか?クラスに馴染めてない気がしてな」
そう思うなら、そう思う節があるなら、助けてくれたっていいのに。なんて、最悪なことを考えてしまう。心配してくれているのに、こんなんじゃ居ないやつとされても文句は言えない。
「大丈夫です、皆良い人ですよ。私が口下手なだけで」
「そうか、何かあったら気を使わずにどんどん相談しろよ!」
ありがとうございます、それで私と先生の会話は終了だ。二人きりと言うのは、なんだかんだめんどくさい。無理に会話をしなきゃいけない、みたいな空気が漂っている。仲いい子ならいいんだけど、さほど会話もしない人だったり、友達経由で仲良くなった人とかは共通の話題がない限り、在り来りな会話しかしないだろう。
「おいしょ、っと。片桐、ありがとうな」
「いえ」
こうやって感謝されるのには慣れていない。だって、"ありがとう"を言われるほどの事はしてないはずだ。皆、大袈裟だと思った。
先生とはとりあえずそこで別れて、一人で教室に向かう。階段を登る足が、どんどん重たくなっていって、とうとう踊り場でうずくまってしまった。話しかけてくる人はいない、傍から見れば変なやつだし、心配してくれるような友達もいない。
「あぁ、一人居たな…」
ボソリと誰にも聞こえないような声で呟いた。アイツと出会ったあの公園を、小説好きでよく色んな本を勧めてくるあの声を、いつも笑っている変なやつを思い浮かべて、立ち上がり教室のドアを開けた。ザワザワとした五月蝿いのは変わりなく、異変があるとするなら、チラッとこちらを見てくる奴がいるくらいだろうか。それほどまで、私の存在というのは消えかかっている。生きているはずなのに、幽霊にでもなった気分だ。
席に座って、オススメされた小説を読む。ピアノを弾く少女のお話だ。楽器なんて小学校の頃のリコーダーくらいしか充分に弾けなくて、この小説を読み進める度に、ピアノを弾いていたらもっと感情移入できたんだろうな、と考える。ピアノに人生を捧げるなんて、わたしには分からない思考だが、そんな生き方が出来たなら、きっともっと楽しかったのだと思う。
「全員席に着けー、出席取るぞ」
ドアの開く音と共に先生のよく通り響く声が聞こえてきた。ガタガタと席に着く音が聞こえる中、小説を閉じで鞄の中に直す。今日も何事もなければいいと願いながら。
「片桐ってさ、なんかすました顔してウザくない?」
「わかる!先生に媚び売ってさ、自分に何の取り柄もないからって」
一軍女子の無駄にでかい悪口は本人にも勿論届いている。いや、聞こえるように言っているのかもしれない。アイツらはそういう奴だ。
刺激しないように、静かに前を通る。すると、足を前に出され思わず転んでしまった。
「ちょっと、ぶつかったらどうすんの?笑」
「気をつけてよね〜笑」
自分たちが原因で起こったことなのによく言えるな、と思う。想像の中でコイツらをぶん殴って早足で学校を出る。一刻も早くこんな所から逃げ出したかった。何処か、今までの辛いことを忘れられるような所に行きたくて、無我夢中で走った。
唐突に、青くて綺麗な海で、泡沫に見守られながら死にたくなった。
「はぁはぁ、は、ぁ」
「随分疲れているね、なんであんなに走ってきたんだい?」
「なんか、はぁ…逃げたくなった」
意味がわからないことを言っている自覚はあるが、これが本心だ。唯一の知り合い、成瀬 霖は小説を閉じて心底面白そうに笑い、私の背中を力いっぱい叩いた。
「痛った!?」
「あっはは!、真白にはこっちの雰囲気の方が似合うね。あんなジメジメしたナメクジみたいのはダメだ、変なやつに見つかっちゃうからね」
ナメクジなんて、失礼にも程がある。もう少しオブラートに包むということを覚えろ!と思うが、元から口の悪いコイツに改善なんて求めるだけ無駄だ。
成瀬は学校で虐められているらしく、午後の大半はこの公園で小説を読んでいるらしい。夏のこの時期は制服も半袖の夏仕様となるため、露出しているところから見える痣が痛々しい。毎日、手首の会う度に変えられている血の滲んだ絆創膏を見る度に思う。コイツが、成瀬が、こんなことをしなくても生きていける日は来るのだろうか、と。
「ん?わっ、真白痣が増えてるじゃないか。凄く痛そう…」
「え、あぁ、さっきのか」
「何かされたのかい?」
「足を引っ掛けられただけ」
どうしよう、何か冷やした方がいいのかな?とあたふたしている成瀬は、見ていてとても面白い。気にしないで、と声をかけるも納得のいっていない様子だ。
「こんな痣…、残ったらどうするのさ?やっぱり、虐めるやつは例外なくやる事が全部クズだ」
私の痣を心配しながら、加害者に怒りを抱いているようだ。
成瀬も自分に余裕が無いはずなのによく他人を心配出来るな、と感心してしまう。こんなことを言うと、真白は他人なんかじゃないよ!と怒られてしまうから心の内に秘めておこう。
「ねぇ成瀬。今度海に行こう」
「お!夏っぽいね、良いじゃないか」
違う、そんな綺麗なものじゃないよ、私は…。
その言葉は成瀬に届くことはなく、私の中で消えていった。
苦しみなんて人それぞれだし、誰かがその苦しみの価値を決めることなんて出来ない。自分が言った一言で誰かが傷つくこともある。そんな変な世界に私たちは生きていて、死ぬその時まで生き続けなければいけないのだと思う。
自殺なんてしない方が良いよ!、誰かが言う。
生きていればいつか、生きていて良かったって思える日がくる!
こういうことを言う人は皆、良い人で嘘偽りのない綺麗な人なのかもしれない。反対に、そんなことを言う人を嫌う人達は皆、何か嫌なことがあった人。自殺をした人に感想を聞くことなんて出来ないから、最後の決断は自分でしなきゃいけない。自殺って、ダメな事だと分かっていても、一つの手段として頭に入れている事が多いんじゃないかな。長くて、終わりの見えない地獄みたいなところから少しでも早く逃げたくて、身近な楽な方に行く。それが自殺なんだと私は思ってた。賛否は受け入れる、これはこの世界にいる何億人の内の一人の意見。
「私、人魚姫とかにある泡沫、好きなんだよね。なんだか、海の中の星みたいに見えないかい?」
「確かに、漢字も綺麗だよね」
なんて、泡沫の良さについて語っているのは楽しい。泡沫が好きなんて物好きな奴、私たちの他には居ないんじゃないだろうか。
でも、私は泡沫や魚、波の音も含め海が好きだ。水の中にいる時のくぐもった、音の聞こえない世界にいると、どうしようもなく心が落ち着く。これまでに無いくらい、幸せな気持ちになるんだ。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「そうか、また明日」
「うん」
成瀬に背を向けて、歩く。少し歩いて、公園からまあまあ離れただろうか。
家に帰っても、誰もいない。海に行こう。
「そして、死のう」
なんでそんなことを思ったのか分からない。でも、今しかないと思った。
今死んだら、綺麗な海が見られる気がする。
7.自分が選んだ結末の先
「あの頃は後悔するなんて、考えてもなかったよ」
片ぎりさんはコンクリートの地面に腰を下ろして、夜空を見上げた。初めて知った。片ぎりさんが虐められていたことも、大切な友達がいたことも、自殺した事も。片ぎりさんは海で死んだことによって、こんな所に来てしまったのでは無いかと思っているようだ。確かに、その説が正しいと思うし、それ以外今のところ考えられない。
「死んだ後にあれもしとけば良かったな、とかアイツらのこと殴っとけば良かったって後悔することがあるんだけどね、一番の後悔は私だけが先に楽になっちゃったことなんだ。成瀬が苦しんでたことも、死にたいってずっと思ってた事も知ってたのに…。私が、私だけが楽になったことを、この世界に来て悔やんでた。一つだけ願いが叶うなら、時間がもどればいいのにって。そしたら成瀬の事を私が助けて、私も自殺しなくて、ハッピーエンド」
ぶっきらぼうに言ったその言葉は、片ぎりさんの本当の願いなんだと悟った。
成せさんに友達と呼ぶのが怖くて、本心からの相談が出来なくて、こんな悲しい結末が生まれてしまった。そんな結末が嫌で、片ぎりさんはあったかもしれない結末をずっと望んでいる。
「私によく似たアイツは、私の忘れたかった過去の具現化のようなものなんだ。アイツを見る度に、よく分からない罪悪感に蝕まれる」
それは片ぎりさんが優しいからだと、僕は思った。片ぎりさんにとっては忘れたくて仕方の無い、くるしい過去。それでも罪悪感を感じるのは、そんな過去に向き合いたいと思った気持ちの前触れなんだろうと思う。
「さて、葵。私の物語はこれでおしまいだ。橋を渡りな」
そう背中を押されるも、なかなか足は進んでくれない。自分で感じていた以上に、片ぎりさんと会えなくなるのは悲しいと思っていたんだと分かった。
「片ぎりさん…」
「どうした?」
「ありがとう。片ぎりさんと成せさんが、幸せな世界でありますように」
そういって、僕より背の高い片ぎりさんを抱きしめた。これで、もう歩くことを渋ったりしない。もう覚悟を決めたから。不安でも、僕はここから出ていくって。
その時、足元に違和感を覚え、体が沈む感覚に襲われた。これはあれだ、水溜まりの時と同じ感じだ。
次に瞬きをして目を開けると、沢山の気泡の隙間から片ぎりさんの泣き笑いのような顔が見えた。キラキラと夜空に輝く星の反射で気泡も輝いて見えるせいか、海の中に浮かぶ星屑のようにも見えた。海の中で髪の毛が揺れ、ふわふわと浮いている気持ちになる。息はさっきと同様出来るようで、安心した。
「葵…、君とは生きている頃に会いたかったな」
そう言って、出会ってから何度も言った言葉を放ち、片ぎりさんは今までで一番の笑顔をこちらを向ける。
僕も!、その言葉は伝えられることなく、まるで人魚姫の物語のように片ぎりさんは、泡沫となって消えた。それを見たのと同時に、僕の意識は遠のいて行った。
8.この世界の先へ
「…」
理解が追いついていない。パチパチと瞬きを数回繰り返し、ガバッと起き上がった。
「片ぎりさん!」
目の前で泡沫となった片ぎりさんの事を思い出し、辺りを見渡す。立ち上がると水しぶきがかかって、足元に水が溜まっていることに気づいた。長い、果ての見えないここは、さっきまでいた所とは違うようだ。ぼろぼろの建物だって、坂だって、海もない。今あるのは、夜空だけ。
「夜空…。でも、さっきの夜空とは違うみたい」
さっきの夜空は、プラネタリウムで見た夏の夜空だった気がする。今の夜空は、冬の夜空だ。星が散らばっていて、凄く綺麗だと思う。肌寒さも増していて、現実世界に近づいているのだと分かった。ザブザブと音を立てて、何も無い世界を歩く。
「ここは多分だけど、あの橋の先…なんだよね。きっと、どこかにここから出られる場所があるはず」
いつまでも希望だけは捨てずに、歩き続ける。変わらない景色に飽きてきた頃、少しなんで自分がここに来てしまったのか考える。小さい頃、水が跳ねるのが面白くて水溜まりで遊んだことがあるが、この世界に来たのはこれが初めてだ。片ぎりさんと会わせる為?タイミングが悪かった?その中でもう一つ、新たな考えが浮かんだ。僕の不安や、精神の揺らぎでこの世界に来て決まったのではないだろうか。
そして、一人後悔し続けている片ぎりさんを助けるため。
こんなことを言ったら、自意識過剰と思われてしまいそうだが、何となくそう思った。その証拠に僕は、今までの不安が軽くなった気がするんだ。確かに、今まで日常だったことが変わるのは怖いし、不安だ。
でも、それでも、僕は片ぎりさんのことを忘れずに、片ぎりさんのように最悪な結末になりそうな子を助けたいと思った。だから、不安になっている暇なんて無い。こう思えたのはこの世界に来たからで、片ぎりさんと会えたから。
「片ぎりさんが幽霊になっても、仲良くしたかったな。僕に霊感があれば…」
なんて変なことも考える。それにしても、僕の勘は間違っていたんじゃないかと思うほど、景色が変わらない。歩いても歩いても同じ景色で、出口らしきものは見当たらない。ここで僕の人生終わり…?なんて考えたくもないが、嫌でも考えてしまう。一体どうすれば…。
「んー…。って、痛っ!?」
歩くのも嫌で、冷たい水の中に座り込んだ。その時、頭にコツンっといった音と共に痛みが走った。何が落ちてきたんだと見渡すと、水の中に光る何かが目に止まった。
「宝石みたいにキラキラしてる。でも、なんだ?これ」
水の中に手を伸ばし、まじまじと観察する。
手のひらサイズのそれは、この何も無い世界で一際目立っていた。黄色に光っていて、高価なものかと思うほど綺麗だ。一体どこから落ちてきたのか気になるが、この世界で僕の常識は通用しないため、星が落ちてきたとでも考えた方がいいだろう。
星を掴んだまま、何気にここは落ち着くところだと思った。ちょうどいい暗さ、綺麗な水、静かなおかげで、時間の感覚が狂ってしまいそうだ。
何気なく、星を夜空にかざしてみた。すると、どうだろう。星が一定の方向を光で指し始めた。もちろん、今の位置からは光の先に何があるなんて見えないし、何故急に…?という疑問もある。けれど、これ以上止まっている訳にもいかないから、光の方へ足を進め始めた。
「まさか、この星が役に立つとはな…」
意外な場面で役に立った星に感謝をする。これからは夜空を眺めた時、星に手を合わせて礼を言おう。
「それにしても、水が進めば進むほど、光ってる?それに見たことない魚まで…」
今までの水も綺麗だったが、今はどちらかと言うと神秘的という言葉が合う気がする。それともう一つ、先程までは生き物の気配なんて微塵も感じなかったのに、今水の中にいるのは魚。でも、見たことの無いヒラヒラとした尾びれのある綺麗な魚だ。またしても不可解な現象に頭を悩ませながら、光の方角へ進む。
すると光がパッと消えて、ここが光の指していた位置なのだと分かった。でも、ドアがある訳でも、世界の切れ目がある訳でもない。一体、あの光が指していたのはなんだったのか、そう思ってもう一度星を目の前へ持ってきて、眺める。さっきと何ら変わりのない、黄色に光る綺麗な星だ。
んん?と悩んで、力を入れすぎてしまったのか星が手元から飛び出していってしまった。ぽちゃんっと静かに水の中に落ちていってしまい、それを拾い上げようとすると、目の前が光に包まれた。厳密には、星が落ちたところから光が広がり、この世界全部の水が光り、どんどんと赤い花が咲いていく。さっきとは打って変わった世界にビックリして座り込んでいると、近くに咲いていた赤い花を見て、何の花なのか分かった。
「これ、彼岸花だ」
確か、毒があったような…。不本意に近づかないようにしようと心に誓う。手を突っ込んで水の中を探してみるも、あの星は見つからなかった。消える前にとんだ置き土産をしてくれたもんだと、少し呆れる。立ち上がり、周りを見渡してみると一つだけ彼岸花の咲いていないところがあった。ここを通れば現実世界に戻れると思い、彼岸花を避けながら歩く。
「なんか、凄い変な世界だったな。海に落ちたところを片ぎりさんが助けてくれて、ボロボロの街を探索して、アイツから逃げて、坂を登って、橋を渡る前に片ぎりさんの話を聞いて、お別れをして今ここにいるんだもんな。一生分の大冒険をした気分」
ここに来るまでは沢山の不安を抱えていたけど、全部海が流してくれたように感じる。そんな事を考えて、歩き続けた。
歩いて、歩いて、暖かい光の先へ━━━━━━
8.卒業をした僕はこれから
パチパチと瞬きを繰り返して、目を開ける。そこには見慣れない天井があって、理解が追いつかない。
「ん、あれ?出て、これ…た?」
ふわふわとまだ頭が起きていないが、とりあえずあそこから出てこれたことを喜んだ。その隣では、信じられないとでもゆう顔でこちらを見つめ、じわりと目元に涙を滲ませた母さんがいた。
「あ、葵アンタ…」
「えっと、おはよう?」
「…あんたって子は!どれだけ親を心配させれば気が済むのよ!卒業まで後二日、もう起きないんじゃないかって、夜も眠れなくて…」
嗚咽混じりの声で母さんは僕に言った。約七日間寝たきり状態だったようだが、病気などではないことは分かっていたので、次の日から学校に行くと自分から志願した。僕が寝ていたのは病院の一室で、色んな検査を終えて、万全の状態で家に帰った。もちろん、あの世界のことは誰にも言っていないし、言うつもりもない。何か、突拍子のない事が起きない限りは…。
「突拍子もない事…起きたなぁ」
数分前に遡る。無事、卒業式を終え、家の中で暇をしていた僕は近くの公園まで散歩でもしようかと家を出た。
まだ、卒業式気分が抜けていなかったのと、着替えるのがめんどくさかったので服は卒業式に着た服をそのまま着ている。すると、さっきの晴天が嘘のように雨が降り出し、一度家に帰って傘をさして外へ出た。でも、その時に外に出ず、家でゴロゴロしていたらこんな事にはならなかったはずだ、こんなことには……。
「な、なんかビチョビチョの人いる…」
傘もささずに雨に打たれている女の人がいた。あの制服は片ぎりさんと同じ、中学の制服。もしかして、、
「成せさん…?」
つい声に出してしまった。成せさんらしき人は俯いていた顔を上げ、びっくりした表情でこちらを見つめる。成せさんじゃなくても、びちょ濡れの人を放っておくほど鬼じゃない。傘を差し出し、ぎこちない笑顔を向ける。
「風邪、ひきますよ?」
「!、…」
傘を差し出されるとは思っていなかったのか、僕と目を合わせた状態で固まってしまった。目を見開いて、幽霊にでもあったみたいな顔だった。
「真白…?」
真白、聞いた事のない名前だ。もしかして、人を待っていたのだろうか。でも、雨が降ったら雨宿りしたり、家に帰ったりしないか?と思ったが、気分を害しないように心の中に留めとく。
「いや、すまない、独り言だ。傘、ありがとう」
声を聞いた時、喋り方が片ぎりさんそのものでビックリしてしまった。でも、この人は凄く疲れている気がする。それこそ、直ぐに消えてしまいそう、片ぎりさんみたいに。通りすがりの奴が何言ってんだって思うかもしれないけど、もう少しこの人と話していたいと思った。傘もさしとかなきゃいけないしね。
「あの、隣に居てもいいですか?」
「え?」
「少し、話したくて…」
「ふふ、こんな雨の日に不思議な少年だ。いいよ、場所を移すかい?」
「そう、ですね」
とは言ったが、一体濡れずにゆっくり話せる場所はどこだろう。キョロキョロと見渡して、一箇所いい場所を見つけた。
よくある山の形の遊具で、真ん中に穴が空いて入れるようになっている。そこなら濡れていないし、静かに話もできるだろう。
『あそこは?』
同時に同じところを指さし、目を見合せた。ポカンと沈黙の時間が流れる。
「あっはは!私たち、考えていることは同じだったみたいだね。私の名前は、成瀬霖。君は?」
「え、な、成せ…?」
「え?うん、成瀬だよ」
自分にされた質問なんて頭に入ってこなかった。成せ、片ぎりさんの話で沢山でた名前だ。この人が片ぎりさんの友達で、心配していた人。そして、自殺して一番後悔していたのも、成せさんを置いていって自分だけが楽になってしまったから。こんな偶然あるのか、とビックリして上手く喋れない。
「か、片ぎりさんの友達の…?、えっと」
「!、真白を知ってるのかい!?」
「え、え?」
成せさんが僕を見た時、一番初めにいった一言だ。今の会話だと、真白って人は片ぎりさん自身で、成せさんは僕と片ぎりさんを間違えた…?似ているところなんて何一つ無い気がするが。
「少年の言っている片桐さんの下の名前さ。片桐真白、去年の夏に私の前から消えてしまった友達。ずっと探してたんだ、たった一人の大切な友達だったから」
そう大切な思い出を頭に思い浮かべているような、切ない表情をしている成せさんに本当の事を言っていいのか分からなかった。まだ希望を捨てきれていないこの人に、救いのない現実を突きつけていいのか、悩んでしまう。
「話が長くなりそうだね、聞きたいことも山ほどあるし、穴の中に行こうか」
そう言われて傘をさしながら歩き、冷たい地面の上に座った。穴の中は声が反響して、なんだか不思議な場所だ。
「それじゃ、単刀直入に聞こう。君はなんで…、あ、名前は?」
「涼風葵です」
「とてもいい名前だね、涼しげだ」
その言葉は片ぎりさんが言ったのと同じで、嫌でも重ねてしまう。この人は成せさんで、片ぎりさんとは違う人なのに、喋り方も相まって益々片ぎりさんに見えてしまう。
「一つ、僕も聞いていいですか?傘を差し出した時、なんて僕を見て真白って言ったんですか?全く似てないと思うんですけど…」
成せさんの方が聞きたいことも、気になることも沢山あると思う。だけど、これだけは聞いておきたかった。あの時呟いた言葉の意味を。
「いや、似てたさ。私が真白と初めてあった日、あの日も雨でね今日みたいに傘もささずにボーッと突っ立ってた私を気にして、葵みたいに傘を差し出してくれた。それがすごく嬉しくて、葵と無意識の内に重ねてしまっていたみたいだ」
そっか、そうだったんだ。ストンと成せさんの言葉が頭の中に落ちてきて理解ができた。片ぎりさんと似てるなんて言われると嬉しいし、なんだか恥ずかしくなる。僕にとって片ぎりさんはカッコよくて、恩人だ。そんな人と似ていると言われて嬉しくないはずがない。
なんて喜ぶのは後だ。嬉しさを堪えて成せさんに話さなくてはいけないことを思い出す。初めに話さなきゃいけないのは片ぎりさんとどうやって知り合ったか。
けれど、ここから僕の不思議な体験は始まっているし、成せさんが信じてくれない限り、片ぎりさんの自殺の事や後悔のことなんて話せない。
「あの、これから話すこと信じてくれますか?」
とりあえず聞いてみて、成せさんの反応を見て決めようと思ったのだ。あの綺麗な世界の事は誰にも話さないでいようと思っていた。でもこの人は別だ、知る権利がある、そう思ったから。
「ああ、怪獣なんかが出てきても信じるよ」
「よかった。僕が片ぎりさんとあったのは━━━━━━」
それからは少し緊張して、文章になっていなかったかもしれない。けれど、成せさんに全てを伝えたい、片ぎりさんが死んでもなお貴方の事を思っていたことを、後悔していたことを伝えたくて、必死に話した。その間、成せさんは頷きながら静かに話を聞いてくれた。
「…信じると言ったのは私だし、葵が嘘をついていると思っているわけでも無い。だけど、信じたくない自分がいるんだ。真白は死んでない、生きて私と海に一緒に行って、まだまだたくさん話して…」
最後ら辺は鼻声で、涙を堪えているのが分かった。全てを話したあと、成せさんは虚ろな目をしていた。そして、俯いた成せさんの目から、大粒の涙が零れる。苦しそうで、信じたくなくて、ぐちゃぐちゃの感情が涙に表されている気がする。もしかしたら、本当のことは言わない方が良かったのかもしれない、そう思ったけど叶うはずのない希望を持たせるのも違うと思った。
「成せさ…」
今は、何も言わない方がいいのかもしれない。自分の中でまとまらない考えを、感情をゆっくり涙と共に流して、落ち着いた頃合いで話しかけよう。
肩を揺らして、声を殺しながら泣く成せさん。数分そうしていると、どんどん落ち着いてきたようで、最後の深呼吸をし、僕と向き合った。目や鼻は赤く腫れていて、それでも吹っ切れたような笑顔を僕に向けた。
「葵、私に話してくれてありがとう。私たちにとっては忘れたい夏だけど、それでも真白との思い出は、私の人生を彩らせてくれたから。全部忘れずに、大切に仕舞っておく」
そう言って、最後の一筋の涙を流した。僕としても忘れられなくて、凄く大切な思い出になった。僕の不安があの世界への扉を開けて、片ぎりさんと出会わせて、片ぎりさんとの出会いが僕と成せさんを繋ぎ合わせた。様々な事が偶然繋ぎあって、今回の物語が創られた。いい事だけじゃなかったし、難しいことだって沢山あった。そんな山あり谷ありの短くて長い一週間だったけど、成長出来たんじゃないかな。
いつの間にか雨はあがっていて、綺麗な晴天になっていた。その時、晴天の中で一際目立つ虹色に輝くものがあった。
「虹だ…」
「凄く、綺麗だね。久しぶりに見た気がするよ」
暗い穴から抜け出した僕らは、空を見上げて笑いあった。
成せさんに手を振ってお別れをする。これから、成せさんがこの公園に来ることは無いんじゃないかと思う。まだ一歩踏み出すのには時間がかかるかもしれないけど、成せさんはきっと大丈夫だ。僕らは沢山悩んで、悩んで、死ぬまで悩み続けて、何度も綺麗な星空を見る。あの海の世界は、悩んでいる人を呼び込ませる不思議な世界だ。どんな結末になるかはその人次第で、いい方向にも悪い方向にも簡単に傾いてしまう、天秤の様なもの。
僕が出てこれて、悩みも晴れたのは運が良かっただけ。
「それでも、僕らは生きなきゃね。死んだら、絶対後悔するんだから」
そう言って、僕は虹の写った水溜まりをパシャっと踏んで、一歩踏み出した。
読んで下さってありがとうございます!