河岸区の方術士(1)
「……しまった」
紙が切れた。
メモやノートなどに使うものではなく、札用の紙だ。
東洋の製法で作られており、これでないと墨を含ませて綺麗に文字が書けない。
ペンと高級紙でも代用できるらしいが、こういうのは道具の質からも変わってくるとナンリに言われ、マキアもそれもそうだと思っている。
最近消費が多いのに、油断していた。
まあ、だからといって、買いに行けば済む話なのだが。
今日は客が来る気配がないし、数時間閉めても問題ないだろう。ペチカは学校で、今日は夕方にならないとこない。
その他にもいろいろ足りないものがあるようなことをペチカが言っていたし、買い出しに行くことにする。
買い出し用のメモと金を持って、店を出る。
そういえば、とドアに掛ける閉店の掛札を見ながら、もし来客があったら驚くのだろうか、とふと思う。基本的に気まぐれに休店しているのだが、今日はペチカが来る前に戻ってくる予定だ。
例の衛兵などが、ぽかんとドアの前に立つ姿を想像して――
(なんで、あいつのこと?)
また数日後に来るだろうし、いちいち気にするほどでもないはずだが。
「……」
自分でも首を傾げながら、一度店に戻り、紙に『一時休店、夕方再開』と書いた紙を閉店の板にくっつけておく。風もないし、飛ばされることはないだろう。
ようやく、マキアは満足して歩き始めた。
辻馬車を運良く捕まえられて、30分以上かけて河岸の商業区へとたどり着く。
大河ノウスールの河岸に、船着場がある。
船はひしめくように停まり、それに乗せたり降ろしたりする荷物や乗員、荷物を買ったり売ったりする商人に、それをその場で買い付ける商人。その場で売りさばく商人に買い付ける客。店ももちろん並んでいる。
ノウスール河はこの国を南東から北西へ斜めに通る大河だ。この商業都市カイメはちょうどこの国の真ん中に位置し、ノウスール河岸に発展した、運輸の街である。この国のすべてのものが一度この街を通ると言われるほどで、その中でも河岸商業区では何でも手に入ると評判だ。
もうひとつ、商業区があるが、そちらは裕福層や貴族層の商売が多い。高級品には事欠かないが、庶民はあまり足を踏み入れない。
ともかく、この河岸区は……賑わいがすごい。
あまり賑やかなところが得意ではないマキアだが、さすがに言っていられず、数カ月に1回はここに足を運んでいる。主に、ほかでは手に入らない書道具の補充に。
今日は混雑の時間を外したから、たまに人にぶつかりながらでも歩けた。ひどい時間帯だと、人に押しつぶされそうになりながら、歩いて10分のところを1時間以上かけて通ることになる。
(まずは……コーヒー?)
裕福層の店にもあるが、価格が高い上に下流の平民の来店を嫌がるところが多い。ならばと以前買った店がここにある。
たまにハズレ……品質が悪いのに高いという、詐欺の店も並んでいるのが河岸区だが、一度当たれば贔屓するのがいい。
さいわい、その店は外側の方にあり早々に見つけて、入って……
「「あ」」
――さっき思い描いた衛兵が、目の前にいた。
ビクトル……彼は衛兵の制服ではなかった。ラフなシャツとズボン、ブーツはショート丈で頑丈そうなもので、帯剣はしていない。
びっくりしたのはおたがいさまで、しばらくまじまじと顔を見合わせてから……ビクトルが笑った。
「ははっこんなとこで会うんだな!」
「……ああ」
まだ驚いていてろくな返事ができないマキアに、軽く肩を叩くビクトル。
「買い物か?いや、偶然だなあ」
「……ああ、その、いろいろ必要なものをな」
「まあ、この街にいたらそりゃ河岸は来るよな。なんか……お前はそういう買い出しとかする姿が思いつかなくて」
「……できれば外は出たくないんだが」
「ほんとかよ。くく、今日は本当に偶然なんだな」
「……そっちもか?」
「ああ、まあほとんど暇つぶしに来たんだが。あ、そうだ」
突然ずいっと顔を近づけられて、一瞬身を引きかけた。
「俺、コーヒーってやつ初めて買うんだ、なんかおすすめとかねえ?」
「店主に聞けばいいだろう」
「うーん、お前の店で飲んだやつが美味しくてな、できればそれがいいんだ」
「……ふぅん」
こうやって店の真ん中でワイワイやってもニコニコと店主はこちらを見ている。まあほとんど今は貸し切り状態……他の客がいないからだろう。
「……店主、いつものを倍で。それと、こいつに100」
「ふむ、倍か。あと100だな、分かったぞ」
「おお、常連ってやつ」
「……まあな」
「嬢ちゃん元気か?」
「ああ」
「ペチカちゃんまで知ってるのか」
「ああ、ほとんど嬢ちゃんが買いに来るからねえ。ツクモさんは久しぶりさね」
「……ほんとに外に出たくないんだな……!」
笑うビクトルは、何が楽しいのやら。
だが、ミルで豆を挽く音にぎょっとして大きな体を揺らした。
「な、なんだ!?」
「ああ、これは……」
ちょっと笑いそうになった。
専門知識などはないが、店主の受け売りを話しながら待っていると、いつもより多い量を挽き終えた店主が袋に包んだ。
支払いをしながら、ふと思いつく。
「……飲み方とか聞いたほうがいいんじゃないか?」
「そういえば!」
「おお、お兄さんは初めて自分で淹れるのか。そうだな……」
店主は趣味が高じてこの店を構えたらしく、かなり詳しい。マキアも教えてもらった。
ビクトルは乗せられて、別の2種類と、濾すための道具も購入していた。
「……大丈夫なのか?」
いくらこの店が良心的な値段とはいえ、コーヒー自体がまだまだ高いものではあるのだが。
「ん?まあ奮発したがたまにはいいだろってくらい。結構衛兵の稼ぎはいいんだ」
「ふうん」
やはり身体を張る仕事だ、それなりの給金なのか。
「お兄さん衛兵さんなのか。いつもお世話になってるね」
「ああ、俺はこっちに回ってこないが、同僚にはまたよろしくな」
「こちらこそ。じゃあ、おまけしておこう」
小さな花のようなものを別の袋に入れた。
「淹れたコーヒーにミルクとこれ……飾り砂糖だ。甘いものがいけるなら、試すといい」
「へえ……ありがとうな!」
「……ありがとう」
ミルクと砂糖とは、聞いたことがない。
店主が勧めるなら試してみよう。コーヒーが苦手だと言っていたペチカもどうだろうか。
店をあとにし、そういえば、とそこで我に返る。
なぜ、最後までビクトルの買い物を見守っていたのか。
「……俺はこれで」
「まあ、待てよ、俺もお前の買い物に付き合うぜ」
がしっと太い腕に肩を抱かれた。
「……なぜ」
「暇つぶしだって言っただろ?なんなら荷物持ちもやるぜ」
「……」
いや、どうしてそうなる?
とは聞けなかった。手を取られてそのままやみくもに行きそうになって、そっちじゃない、と抵抗するだけでマキアは諦めた。
まあ、知らない男でもないし、衛兵だ。
次は店の奥のガラクタをどうにかするための道具だ。刷毛やほうき、最近出てきた値打ちがありそうな皿やカップなどを拭くきれいな布に、収める木箱。
たしかにかさばって、自分だけだったら半分で終わっていたかもしれない。
それに、客用のカップと皿だ。
「足りなくなってきた?」
「……客層が違ってきた」
「あーなるほど!」
今まではきれいであればいいか、というようなものしかなかったが、すこし気になってきた。
まあ裕福区にまで足を伸ばす人たちだ、文句を言う心の狭い人間ではなかったが、これからはどうなるかわからない。
多少値の張る、見た目はきれいなセットを見つけ、購入。どうやら店へと送ってくれるらしいので、頼んでおく。
「次で最後だ」
「そうか」
ほとんどビクトルに持たせているのだが、彼はぜんぜんへこたれもしないし嫌そうでもない。
やはり、人が良すぎるのではとすこし心配だ。
「すこし歩くが、いいか」
「おう」
「……元気だな」
マキアはだいぶ疲れてきた。
「そりゃ、毎日の鍛錬に比べたらぜんぜんだ」
「ああ、そういうのもあるのか」
「まあ、ないに越したことはないが、やっぱり暴漢とかとやり合うこともあるわけ。勤務日は絶対走り込みと運動、素振りは義務だな」
「……すごいな、さすが衛兵ということか」
「城の騎士とかどうしてんだろうなって、たまに話すこともあるぜ」
「たしかに」
そんな他愛ないことを言いながら、河岸の方へ。
荷物の昇降場所や、倉庫通りのわずか手前、かなり雑多な露店が並ぶところにやってきた。
「このあたりはスリが多いよな」
「ああ、あまり場所はよくない」
何か不可解な目でビクトルはこちらを見るが、用事があるのだからしかたがない。
「……こっちだ」
店舗と露店の中間のような、テントらしきものが張ってある隙間に入る。
ビクトルは少し警戒しているらしく、ちらちらと周りを見ながらついてくる。
ほんの2分ほどの道を行き、黒っぽい壁の行き止まり……の、右手のドアを押した。
「えっ?」
なんだか呆気にとられたようなビクトルの声。
シャラン、と独特の金属音が聞こえ、中に入ると嗅ぎ慣れない香の匂い。
店内は薄暗くて、雑多だった。
まだ自分の店がいいと思えるくらいだ。
「なんだ、ここ?」
キョロキョロ店内を見回すビクトル。
面白そうな光が目に宿っているので、興味が爆発するのも時間の問題か。
何度来ても不思議な空間だと思う。
窓は天井近くに小さなものしかなく、明かりをつけているがなぜか全部赤い。つばの広い笠飾りと、明かり部分に赤い紙が覆ってあって、だからなのだが。
店内は色んなものが置いてある。ほとんどなにか分からないものばかりだが、目を引くのは大きなライオンに似た生きものらしい彫刻と、細かい美しい彫りがされている木製の衝立。細かい……細かすぎて見るものが狂いそうな絵付けがしてある、大きな水瓶。
他は不思議な顔立ちの人形に、なぜか木の枯れたようなものが大切に布の上に置かれている。黒い地模様に金色で緻密な絵が描かれている箱に、色々な石の玉に紐飾りが付く。細長いパイプ。
「……おや、ツクモの坊やかい」
ぬうっと、どこからか出てきたのは総白髪の老人だった。
背が低いがピンと背筋を伸ばし、どこか揺るぎないものを感じる。
衣服は異国の貫頭衣に飾り紐で腰を留め、黒い羽織を羽織っている。シワに埋もれたような目が、ちらりとビクトルを見た。
「珍しいな、連れとは」
「まあ、成り行きで」
「ふうん、武人のようだが」
「ああ、俺は衛兵だ」
「ほほ、そうか、街のためにようなさる」
「……はあ」
ビクトルは面食らったようだ。
店主は手に持っていた細長い筒を口にくわえる。
それから、ふうっと煙を吐き出した。
「何が入り用だい」
「ああ、紙と墨を」
「おや、いつもの量でいいのかえ?」
「……どこまで視たんだ、老師」
さすがに、苦笑する。
切らした理由を分かっているのかもしれない。
「さてな。ちょっと待っておれ」
小さく笑い、店主は奥へと姿を消す。
ビクトルはただぽかんと店内を見ている。
どうやら、刺激が強かったらしい。
ラインハルテだと、暴れているんじゃなかろうか。ここには人の命でも賄えないものがあるというし、絶対に彼女は連れてこられない。
「ほれ、倍はいるじゃろうて」
「ありがたい。これで」
赤い紙に包んだ本当に渡すはずだった金額と、同じ金額を添えて渡す。
店主は相好を崩した。
「よく覚えていたのう。まあついでに……南離はすぐに来るだろう」
「……ありがとう。この次に何か」
「いや、これはそこの衛兵さんに……な」
「……そうなのか?」
「まあ、期待してよし、というところか。そういうことでな」
「なんだ?俺?」
「あとで説明する。悪いことじゃない」
いろいろと、長い話になってしまうからあとのほうがいいだろう。
「では、またな」
「ああ、ありがとう老師」
すう、影に溶け込むように店主は消えた。
店を出ると、ふは、と息を吐き出す音が隣から聞こえた。
「なんだ、ここ」
「さっきも同じようなこと言ったぞ」
「何度でも言う。別の世界みたいだったぜ……」
「まあな。これで用事は終わった。あとは……」
「なあどっかでなにか食わねえ?俺腹減った」
「あ?」
……そういえば、この区画には食べるものもいっぱいある。休憩がてらにどこかで済ませてもいいかもしれない。
だが、はたと思い直す。
「ああ、その、店を長く留守にするのもな……」
「あ、そっか」
残念そうな顔だ。
こういうときは、と、いつも使わないような頭を使う。
荷物も持ってもらって、そのまま帰すのは不義理だろう。
「……その、何か持って帰って店で休憩するか」
「……え?まじで?」
「ああ。これのお礼も兼ねて、奢る」
とん、と荷物をたたく。ビクトルはうれしげに頷いた。
こうして、マキアは人に奢るという初めての経験をした。