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 自室に戻ると宝石はそのままだった。誰かが入った形跡はない。ほっと胸をなでおろし、ネックレスを立てつけの悪い引き出しにしまった。古びた木製の机がギシギシと不穏な音を立てている。もしこの音を母に聞かれ、盗品を隠したんだろうと追及されれば逃れられない……とまで考え、突飛のない妄想だと否定する。思考がひどく鈍っていた。四六時中筋肉が硬直しており、休まる暇がない。


 ふう、とため息をつきベッドに横たわる。昨夜の睡眠時間も短かった。サッカーの練習はしていないのに、試合後のように身体が重い。眠ろうにも脳を締め付けるような頭痛が休息を許さなかった。活動も眠りもできない狭間で時間を浪費していると、不意に天井の汚れが人の顔に見えた。

 顔の目が、ぎょろりと見開く。


 アスリートの肺活量で叫んだ。集合住宅に声が響き渡るが、気にしていられない。


 誰かが天井から見ている。監視している。悪魔のように、裁判官のように、ひどく怒った両目で睨みつけている。


 ロージャは布団をかぶりしばらく震えていたが、すぐに幻覚だと気づいてもう一度天井を確認する。ただのシミだった。徒労感に襲われて大きく息を吐く。平静を取り戻して見ればなんてことない。


 自分の余裕のなさに愕然としていると、心配した末の弟がドアを開けて覗いてきた。


「兄ちゃん、何があったん?」


 目を丸くして不思議そうに言い、小さな歩幅でてくてくと近づいてくる。ロージャの腰ほどにも満たない背丈から訝しむようにのぞきこんできた。母を手伝っていたのか、香辛料の香りが漂ってくる。今日の仕事は早く終わったらしい。


「怖い夢を見たんだよ」

「変な声やったなぁ。お化けか泥棒でもでたんかと思ったぞ」


 反射的に肩がビクッと震えた。どろぼう、という四文字に敏感になっていた。幸い弟には気づかれていない。人の機微を察せる年齢ではなかった。


「違う違う。ほら、さっさと戻れって。母さん怒るぞ」

「え~、兄ちゃんはお昼寝してたのにズルい~。母ちゃんはひいきばっかりだ~」


 母は弟たちの扱いが荒い。不満げに頬を膨らませる弟を部屋から追い出し一人になると、壁に背をついてずるずると座り込んだ。部屋の中の“目”を減らしたくて孤独を欲していた。シミを何とか消せないかぼんやり考えていると、再びドアがノックもなしに開かれた。唐突さに驚いて心臓が痛いほど跳ねる。


「あ、そうだ兄ちゃん。そろそろご飯だって」


 弟の両目が向けられる。ロージャは怯え、「わかった。すぐ行く」と返事するので精いっぱいだった。純粋な瞳に悪を見抜かれているのではないかと不安を抱く。鍛え抜かれた筋肉が縮こまる。


 連れられてリビングへ行くと食事は用意されていた。焼いた肉の香りが漂っているが、練習せずに帰ってきたので、あまり食欲はそそられなかった。それでも弟や母とは違いおかずには豪華な肉があり、白米は山盛りに配膳されている。弟たちは成長期にもかかわらずみじめな盛り付けだった。


 弟たちは嬉々として席につく。一日中農園で働いて腹が減ったのだろう。泥にまみれた衣服からは汗の匂いが漂ってきた。いつもはロージャの方が汗臭いが、今日は家族で最も清潔である。クラブを追い出されたロージャに新しい仕事はなかった。


「食欲ないね。体調でも悪いの?」母が訊いてきた。

「いや、気分じゃないだけ。母さんのご飯は美味しいよ」

「やっぱりショックだったのかい」


 ロージャは目を見開いた。クラブを追い出されたのがバレたのかと思い、思考が奈落の底に突き落とされる。だが、目を合わせた母はすまし顔で言った。


「エストレラ選手が亡くなっただろう。あんた憧れていたじゃないか。辛くて食欲がないなら残していいんだよ」

「え、兄ちゃんお肉いらねーの? も~らいっ!」


 ロージャの皿にフォークを伸ばす弟の手を、母が「意地汚い」とたしなめるようにはたく。時に冷血だと感じるほど母は弟たちに厳しい。ロージャに向ける生暖かい愛情とはまた違ったものだった。厳しい指導に弟はむくれたが、おかげで返答を考える時間ができた。


「うん、惜しい人をなくしたよ。この町になくてはならない人で、僕たちの憧れで、みんなのヒーローだった」


 悲しみに暮れる演技をした。家族との夕食なのに、心休まる暇はない。夕食の味を楽しむ余裕はなかった。


「エストレラってそんなにすごい人なのか? 今日、みんな泣いてたんだよー」


 弟たちが不可解そうに言う。みんな、というのは農園で働く仲間のことだろう。本日の『神の町』は衝撃的なニュースでもちきりだった。


 だが、弟たちは彼のことをほとんど知らない。この家ではロージャをサッカー選手に育てるため、弟たちに労働を強いている。サッカー選手に憧れて不平不満を持たれては困るので、教育方針でプロサッカーの観戦を禁止していたのだ。


 とはいえ、偉大な彼の功績を知らないのは『神の町』に生きる者として許されないと考え、ロージャは説明する。


「立派な人だよ。お前たちが農園で使う機械だって、彼の寄付で買っていたりする」

「ふ~ん、でも兄ちゃんよりはサッカー下手なんだろ?」


 絶句した。あんまりな認知のゆがみを正そうと慌てて否定する。


「いや、僕なんかとは比べ物にならないよ。一生かかっても勝てな――」

「やだもう、あんたは謙遜が上手ね」


 説明を母が笑顔で遮った。強引さに驚いて顔を見ると微笑を浮かべていたが、目は笑っていない。ぞっとした。表に現れない圧力を全身で感じ取り、生存本能から口をつぐむ。


「あんたはこの家の英雄になるんだから。この町の救世主になるんだから。勝てない、なんてはずないじゃない」


 ロージャは何も言えなかった。生まれてからロージャに捧げられた母の献身を考えると、見返りを求めるのは当然だと思えた。実力がないロージャが悪い。才能がないなら責められても仕方ない。


 勝てないなんて言える立場ではない。


 理屈が圧力によって捻じ曲げられていく。勝てるわけないという現実認識が、勝たなくてはならないという理想との齟齬を解消していく。


「もちろん戦ったら負けないよ。けど、一流は相手をリスペクトするものなんだ」


 母はにっこりと笑った。







 ロージャに行く場所はなかった。坂の上のクラブにはもう顔を出せないが、家にもいられない。坂の上にあるクラブと下にある家のちょうど間あたりをユニフォームを着て彷徨った。壁に描かれた落書きの中を進んでいく。使い込まれたユニフォームは古びていたが、服のなさから半裸で過ごす人さえいるこの町では浮くほど立派な身なりだった。


『神の町』には浮浪者が多い。どこにも居場所はなく、生と死の境界線を彷徨っている。今のロージャは身なりこそ小ぎれいだが、立ち位置としては彼らと同じだった。何かに怯えながら境界線の中をトボトボと歩いている。


 ふと、カラフルな公園が目についた。エストレラ選手の寄付によってサッカー場が併設された広場だ。様々な遊具が設置されているが、立派な労働力である『神の町』において昼間から遊べる子供は少ない。案の定、青年の落書きの標的とされ、粗悪なスプレーで塗りたくられていた。


 複雑な気分で眺めていると、公園の奥でボールを追いかける男たちを見つけた。観察するに、三対二でサッカーをしている。半裸、タンクトップ、ドクロの服など身なりは様々だ。顔つきを見るにロージャと同年代だろうか。


「あれ、ロージャか? 久しぶりだな」


 ネット越しでしばらく眺めていると、ドクロの服を着た男が気づいてこちらにやってきた。よく見ると、三年前まで同じサッカークラブで共に練習していた旧友だった。顔つきが変わりすぎて気づかなかった。名前を思い出せなかったので「ああ……君か」と誤魔化す。男は嬉しそうに笑った。


「いやぁ懐かしいな! お前いま何やって……ああ、そのユニフォーム」


 ほんの一瞬だけ男の笑顔が消えた。困惑したようにユニフォームを凝視していたが、すぐに察したのか取り繕うような明るい声を取り戻した。


 二人を阻む緑のネットが、果てしなく巨大な壁に思えた。今のロージャは何者でもない。恥ずかしさから身体が熱くなった。


「いや、元気ならそれでいいんだ。最近は物騒だしな」


 男の笑顔が眩しい。包み込むような優しい声を前に目を合わせられず、口の端がひきつった。話題をつなごうと「君こそ最近はどうなんだ」と当たり障りのないことを問う。


「俺は農園を継いだよ。サッカーを諦めないなら別れるって彼女に言われたんだ。情けない話だけど、じゃあもういいやって」

「立派だな」素直な言葉が出た。

「逃げただけだよ。本当にサッカーが好きなら、家族も彼女も捨てるべきだった。全てを捨てて打ち込むべきだった」


 ロージャは思わず首を傾げた。家族を救うためサッカー選手を目指しているのに、家族を捨てては意味がない。『神の町』を救う選ばれし者なのに、投げ出しては情けない。


「それでは本末転倒だろう。僕たちは、みんなを救うために練習してる。その使命を忘れちゃいけない」

「正しいな。けど、サッカーの神様を前にしたとき、人の正しさなんてちっぽけなものだよ。手段と目的が入れ替わることだってある」

「よくわからん」


 悟ったように言う男の態度に、ロージャは不愉快になった。淡々とした男の語調は決して上から目線ではないが、常に下から世界を見上げているロージャにとっては説教のように聞こえた。


 能天気な男はロージャのいら立ちに気づかない。自分が抱く感動を何とか伝えようと言葉をひねり出す。


「俺たちはもっと自由であるべきなんだ。俺たちの心は広い世界にもっと解き放たれているべきなんだ」


 男は両手を広げ空を仰ぐ。陶酔するように目をつむり、大きく息を吸い込んだ。

 その仕草を見て、心が急速に冷めていった。他者との交流のため開いていた心の門が音を立てて閉じていく。男の言葉は悪魔のささやきに等しいものだった。


 ロージャは自分を難儀な性格だと自覚していたが、社会の外側で生きられるほど孤独に強くないとも知っている。しがらみから抜け出して自由の空へと羽ばたけない。彼をサッカーの修練へと突き動かすのは、家族に対する奉仕の精神からだった。使命は彼を苦しめるが、苦痛から抜け出して蒼い空へ向かっても羽ばたく鳥にはなれず、虚無を彷徨う廃人が出来上がると予感している。


「勘違いするなよ。人生はサッカー以外にも楽しいことがあるとか、凡人の理屈は言ってない」

「わかってるよ」


 ロージャは人生論が嫌いだった。金持ちか、もしくは社会の輪から外れた人間の所有物だからだ。役に立たない理屈を語れるほど余裕はない。


 男は「違うんだけどなぁ」とおどけて頬をかいた。


「まあとにかく、俺はお前が羨ましいよ。立ち向かい続けるお前はかっこいい」


 男の声音は、ボールを追いかける少年のように真っすぐだった。


 眩暈がした。


 柔らかな光にさらされて、惨めさが浮き彫りになっていく。胸の奥に澱む、見ないふりを続けていた感情が暴かれていくようだ。


「お前は俺のヒーローなんだ。エストレラ選手は英雄だけど、俺たちにとっては天才過ぎて憎たらしい。お前が諦めずに頑張る姿を見ると勇気をもらえるんだよ。身勝手だけど、俺の夢を託したくなる」


 やめてくれ、と心の中で叫んだ。

 男はロージャを見ていなかった。蒼く澄み渡る空をうっとりと眺めている。数日前に破綻した、サッカーに真摯なロージャという幻影を追いかけている。


 赦してくれ、と心の中で懇願した。

 幻想の中にロージャはいない。『神の町』と名付けられた、悪臭漂う世界の中に叩き落されたのだと実感した。おとぎ話はなく、物理法則に従って上から下へと水が流れていく町だ。


 輝く眼差しを向けられて、ロージャはようやく気付いた。

 いつの間にか、誇りがなくなっている。 

 一日の大半を修練に費やしていたロージャには、一流に対する敬意があった。小さいころにエストレラ選手の傍でプレーした経験も大きい。常軌を逸した才能を持つ人間は、努力の量もまた尋常ではないと知っていた。その真実を知り、一流に追いつこうと修練を続ける毎日を自負していた。


 だが、その覚悟が霧散している。無限に湧き続けていたサッカーへの情熱が枯れ果てている。心の中は驚くほど何も入っていなかった。


(僕は……誰だ……? お前は……何者なんだ……?)


 これが自分の内側なのかと愕然とした。


 自分の正体がわからなくなる。広すぎる伽藍洞のなかで迷子になっていた。積み上げてきたものは崩れ去り、ただ行いだけがべっとりと張り付いている。


 部屋の引き出しに忍ばせている宝石はロージャを逃がさない。ユニフォームを無価値へと引きずり下ろしたのだ。


 男とロージャを阻む緑のネットが、監獄の鉄格子のようにそびえ立つ。

 無意識のうちにネットを掴んだ。


「どうした?」


 ロージャは口を開けなかった。


 ただ、遊ぶ男らに憧れた。立派に仕事をして、たくさんの友人たちと笑顔でボールを追いかける姿が眩しく見えた。人として正しい生活に思える。全ての罪を赦されて監獄から脱出し、自分も生活をしたい。仕立て上げられた英雄ではなく、苦しみ続ける罪人でもなく、ただ生きていたかった。


 ロージャが停滞の中で諦めない間、この男とどれだけの差が開いているのか。想像しただけでゾッとする。


 赦されたい。縋るような思いが胸の内を満たしていく。助けてほしかった。

 だが、どうしても、一緒に遊ぼうとは言えなかった。サッカーをしている彼らに混ざれない。素人と一緒にプレーをすると勝負勘が鈍る、という傲慢なストイックさが素直な言葉の邪魔をした。


「ごめんな……」


 ロージャはぽつりと謝罪した。


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