雄牛を駆る者ども
ウァラアラとグァラガラと雄牛のはなし
俺がシンを受け継いでから、幾年月が経ったろうか。
天は昔とは比べられないほど重くなったと言い、地に潜りがちになった長老どもの小言を聞く日もめっきり減った今日この頃だ。
ぼんやりと雄牛の群れを眺めていた俺は、背後から感じる気配との間合いを頭の中で測っていた。
(4……3……2……)
「―――だらぁッ!!!」
予想より一秒早く飛び掛かってきた妹分の拳を避けると、そのままの勢いを利用して腕を引き、その身体を大地へと叩きつけた。
背中を強かに打ったグァラガラが呻きをもらす。
「……ッぐう」
「素速くなってるのは良いが、声を上げたら奇襲にならないんじゃないか?」
「声を出すとより速うなるのだ!」
「うーん、一理ある。ガラも色々と考えているんだな。えらいぞ。俺も兄貴分として誇らしい。愛いやつだ」
「フハハ!」
頭を撫でて褒めると、グァラガラは寝転んだまま胸を張るという器用な真似をしてのけた。
そしてバッと起き上がると、俺の顔を覗き込んで問うてくる。
「何を見、何を考えていた?」
「雄牛を見ていた。あそこのは今夜にも脱皮が始まりそうだと思っていたんだよ」
俺が指差した一頭の雄牛に、グァラガラも注目する。
シンの眼力を使うまでもなく、脱皮前の雄牛は毛艶が他のものとは異なるのですぐ分かる。
「そうなのか?俺様は雄牛の脱皮に出くわすのは初めてだ」
「本当か?それは良い機会だな。よくよく見ておくと良い」
確かグァラガラはまだ生まれてから百年も経っていない。雄牛を駆る者の寿命は長く、本来百歳程度は未だ童の姿であることが常なのだが、小人と変わらないほど身体の小さなグァラガラはとりわけ形の成熟も早かった。
そうして見た目の割に言動が幼いことも、古老どもに眉を顰められる一因となっている。
だから俺としては出来る限り多くに触れさせ、学ぶ機会をやりたいと日頃から考えていた。
そんなことを考えていると、グァラガラが脱皮前の雄牛に近付き、しげしげと眺め始めた。
「他の雄牛と何も変わらぬな」
「そうかな?腹のあたりをよぉく見てごらん」
「むぅ?」
言われて、グァラガラは大地に寝そべって雄牛の腹を下から覗き込んだ。
うーむと唸りながらしばらく観察していたかと思えば、あっと声を上げる。
「裂け目がある!もう剥け始めているのか!?」
「うんうん、そうだな。よく見つけた!
それにほら、目も違うぞ。よーく見ると他の雄牛よりも白く濁った色をしているのが分かるか?」
「むぅ……?言われてみれば……」
俺も近寄って、腹の裂け具合を確かめた。
肉色の膜の奥に、新しい雄牛の畳まれた脚が見える。
このくらいならもう、人の手で剥いてやっても大丈夫だろう。
そっと腹を撫でると、シンである俺の意図を正確に汲み取った雄牛がごろりと横になった。
「剥いてみるか?ガラ」
「良いのか!?うむ!やってみたいぞ!」
「ならまずはここに手を添えて……そしてここに指をかけるんだ」
「こうか……?」
「うん、いいぞ」
俺はガラの手に手を添えて導きながら、鉤のかたちにした指で裂け目を開かせていった。
雄牛の状況によっては自力で脱皮できずに中で腐ってしまうものもいるので、ミネバラダムに触れられる俺たちにとって、脱皮の介助は必修の技術だ。
裂け目を尻まで広げ終わると、今度は薄い粘膜を破ってやる。
すると中から、元の雄牛よりもひと回り小さな雄牛が這い出てきた。
まだ目も見えないだろうに、誰に教わるでもなく体に張り付いた膜を舐め取っている。
「剥けた!剥けたぞアラ!」
「ああ、とても上手に出来たな。初めてとは思えない手捌きだったぞ。ガラは要領が良い」
「フハハハハ!もっと褒めろ!」
「ガラはなんでも呑み込みが良いなぁ!早くも牛剥き名人の風格が出ているぞ!」
「ハァ―――ッハッハッハ!!」
鼻高々に踏ん反り返るグァラガラは素直そのものだ。顔を合わせれば古老どもからため息を吐かれ、一族の未来の暗さを嘆かれて育ったにも関わらず、この突き抜けるような真っ直ぐさはこいつの何よりの美徳だ。
愛い奴め。
「見ろ!俺様の雄牛はもう土を食い出したぞ!」
「本当だ。ガラに似て元気だな。良いことだ」
雄牛にとって土は血であり、乳だ。
彼らは生涯、土や砂、岩などを食べて暮らす。
これはバニアシュの大地そのものが全の血肉であるからだ。
そうして土を喰み、ろくに眠ることもなく、一日のほとんどを歩くことに費やす。
そして身体が古くなると、こうして肉と皮とを脱ぎ捨てて若返るのだ。
雄牛と呼ばれてはいるが、本質は太古の蛇に似通っており、実際には性別がなく、生殖もしない。
実に太古の生き物らしい荒削りな生態をしている。
「知っているか、ガラ。俺たち雄牛を駆る者も、原初の頃には土だけを食って生きていたんだ」
「知って居る。古年寄りどもの中には今も土しか食わん者がおるのだと教えてくれたろう」
「そう。よく覚えてたな。
彼らの中には、アァナアダが牛食いのせいで堕落したと本気で信じている者もいる」
実際のところ、食うものが土にせよ牛にせよ、俺たちが天に甘やかされていたことに変わりはない。
全はこのバニアシュを飢えの苦しみのない楽園として作り上げようとしたが、結果はどうだろうか。
飢えることのない原初の者どもは衰退し、飢えを知る小人たちが栄華を極めようとしている。
「与え施すだけではいけないのだろうに、俺は不行き届きなシンだな」
「? そんなことはない。アラは最強のシンだ。剣も使えるしな」
「雄牛を駆る者はふつう、剣なんて持たないんだぞ?」
「なら、その分もアラが秀でて居るということだろう」
「ははは愛い奴め」
手のひらに収まってしまう大きさのグァラガラの頭を撫でてから、俺は腰に帯びていた剣を抜いた。
そして雄牛の抜け殻の残った肉に刃を沿わせ、開いていく。
その手元をグァラガラが覗き込み、わくわくと弾んだ声で訊いてきた。
「どうやって食う!?焼くのか!?」
「そうだな。焼くか」
「うむ!焼いた方が美味いからな!」
喜色満面のグァラガラに笑いを漏らしつつ、俺は火の用意に取り掛かった。
牛の脂肪の中でも燃えやすい部位を切り出すと、石を打って火を起こす。
ミネバラダムの肉はそもそも雄牛を駆る者の身に馴染みやすい。このように火を通したり、塩や草などで味をつけたりするのは小人のやり方で、これもまた古老たちからすると眉を顰めるような行いと思えるそうだ。
けれど、グァラガラの身体は原初の者どもなどよりも小人に近いようで、食い方によっては腹を壊したり吐き戻したりすることもあった。
何よりも、グァラガラは舌が繊細で選り好みがある。これはバニアシュの遍く物質に食ってはならぬものなどなかった原初の者どもにはなかった特徴で、嘆く天のもと生くる為の進化とも言えるのだ。
赤子など口に砂を詰めておけば勝手に育つと思っている古老たちにはとても任せられなかった。
俺はグァラガラが好む赤肉の塊を火の中に焚べる。
夕暮れの平原に、脂の焼ける音が鳴っていた。
時おり肉を裏返しながら、俺は脂のついた剣の手入れに掛かる。
「そうだ。残りの肉をヴォノボノに持って行ってやろう」
「む……あいつか。あいつ嫌いだ」
「そう言うな。あいつは新しいことにも理解がある。この剣もヴォノが鍛えてくれたんだぞ」
「でも嫌いなものは嫌いだ」
「しょうのない奴だな。そんなところも愛いが」
ヴォノボノはある意味でグァラガラよりも異端な存在だ。
昔から積極的に蛇や小人の技術を取り入れ、日々何かを探究している変わった奴だった。
もともとシンだったこともあり、あちらからの干渉に関しても相談に乗ってくれたりと頼れる奴なのだが、いかんせん顔つきが陰気で言葉を選ばぬところがある為、子供には好かれにくい。
とはいえ新しい時代の雄牛を駆る者であるグァラガラにはいつか必ずヴォノボノの助けが必要になるだろうし、ヴォノボノにとっても、グァラガラは興味深い存在のはずだ。
なので、俺は少しでも二人の橋渡しをしたいと思っている。
「ほら、焼けたぞ」
俺は焼けた肉をグァラガラの手に乗せてやろうとして、一度思い留まる。
そういえば、グァラガラの皮膚は薄く、小人のように熱で簡単にただれるのだった。さすがに小人ほどヤワではないので痕が残る前には修復するだろうが、痛みがあるのはかわいそうだ。
俺は軽く肉を振って熱を冷まし、真ん中で千切ってからそっとグァラガラに渡してやった。
「熱いぞ。気を付けて食え」
「赤子ではないのだ。その程度は心得ている」
「そうだな。ガラはかしこいものな」
「うむ」
ぶちぶちと歯で嚙み千切って口いっぱいに頬張る顔は実に幸福そうだ。
俺も千切った半分を口に入れ咀嚼するが、砂よりは弾力があり、岩よりは柔らかいという以上の違いは分からない。
食事時のグァラガラの顔を見ている限り、『美味い』という感覚には大いなる幸福が伴っているように感じる。
毒を避けるために手に入れた繊細さ、弱さが幸福を産むというのは実に興味深かった。
不味さを知らねば美味さも知り得ないということは、不幸を知らねば幸福をも知り得ないということにはならないだろうか。
「この世の創造には、本当に多くの過程が抜けているんだな……」
「む?なんの話だ」
「天の幸福について考えてたんだよ」
「またそれか……ウァラアラは本当に天が好きなのだな」
フンと面白くもなさそうに鼻を鳴らすグァラガラに苦笑しつつ、口元に付いた焦げを拭ってやる。
「俺はまがりなりにもシンだからな。
お前もいずれ俺を倒してシンになるんだろう?その時になればきっと、俺の気持ちが分かるさ」
「フン。どうであろうな」
我らが天は幼いが、今のグァラガラはまだそれ以上に幼く、視野も狭い。
この先シンを受け継ぐことがあれば嫌でも知識を得るだろうが、それは果たして幸福に通じる道だろうか。
グァラガラにもあの憐れな天の個を気遣ってやって欲しいと思う反面、天の呪いにあいつを囚わせたくないと思う自分もいた。
「奴がどこに寝ぐらを置いているのか知っておるのか?」
「そうだな……おおよその見当はついてるし、近くに寄れば感知出来るだろう。シンだった者の気配は独特だ」
「そうなのか?何が違うのだ」
「違うというか、蓄積が受け継がれるんだ。己の半分がその者であるように錯覚するというか……とても、身近なのさ」
「むぅ……」
ヴォノボノを半身のように身近だと言ったことが気に食わないのか、グァラガラが口をへの字に曲げてしかめつらしい顔を作る。
愛い奴だ。
「拗ねるな。お前が次のシンになれば、俺の半分を受け継ぐのはお前だ」
「……一度でもお前より長く男でいれば良いのか?」
「そうでもない。男の刻と女の刻の割合は心身の秤の傾きに寄る。
確かに、長くどちらかであろうと己を制御する胆力はシンに不可欠なものだが、男で在ることそのものに価値があるわけじゃない。見てろよ」
言って、天の秤を己の芯に置く。
凪いだ湖面のように均等に、偏りなく、この世界の声に耳を貸すのだ。
物質と魂、両方の訴えが囁くのを、女の俺と、男の俺のどちらもで受け止める。
自然、俺の肉体は魂に倣う。
心はひとつ、頭はふたつになって、流るるべきへと魂が水を向ける感覚。
目を開けると、四つの目、二つの鼻口から入る情報が溶け合い、世界を広角に見せてくれていた。
ごくりと息を呑むグァラガラの喉の音も、その鼓動も鮮明に聴き取れる。
「天の秤を得れば平定者となれるわけじゃない。平定者の境地に達して初めて、天の秤を己が芯に置くことが出来るんだよ」
「ただ長く男で居ようとしても意味がない。己の中の男と女、親と子、全と個の声を聞くことだ」
「「シンに成るとは、そういうことさ」」
「……………」
二つの頭、女の声と男の声、その両方で語り掛けると、小さなグァラガラは真剣な面持ちでこっくりと頷いた。
俺はそれを見届けて、秤を天に返した。
ひとつに戻った頭で微笑めば、グァラガラもニッと笑う。
「さて、ヴォノボノはどうやら雄牛を駆れば夜中に辿り着く範囲にいるようだ」
「朝に出れば良いではないか。女の刻のお前を眺め回すのは俺様だけで十分だ」
言われて見下ろせば、俺の身体は女体に変じていた。
もう陽も完全に沈んでいる。
「ヴォノボノは今さら俺の身体など眺め回さないだろうけど……まぁ、そうだな。たまには女の肉体でお前と夜を過ごすのも一興だ」
「良し!言ったな!?朝まで付き合えよ!」
「わかったわかった。けれど肉が腐る前に届けたいからな。明日の朝は早いぞ」
「フン!別に腹を下すでなし、腐った肉を与えておけば良いだろうに」
「こーら、意地が悪いぞガラ。
まぁ、そんなところも愛いけれどな」
「ヒヒヒ」
悪戯めいた笑いを漏らしながら、グァラガラが擦り寄ってくる。
俺は小さな妹分の身体を受け止めると、ごろりと大地に寝そべった。
空にはうっすらと光り始めた月と一番星。
創造主たちの世界ではすでに見られぬ景色となってしまったらしいその光景を、両の目に焼き付ける。
きっと、俺が死ぬ時に巡るであろう世界への土産話になるだろう。
ぽつぽつと上がり始めた星を指差し、ひとつひとつの名をグァラガラに教えていく。
雄牛を駆る者どもの夜は、そうしてふけていったのだった。