アナとアダ
アナとアダが七歳頃のおはなし
歓声と拍手が降り注ぐ土俵の中心で、その方ははにかみながらも朗らかに笑っておいででした。
金の稲穂をお渡ししたわたくしからはすぐに視線を逸らされてしまいましたが、その大きな手のひらが弟の赤い髪をくしゃりくしゃりと撫でる様を眺める時間は、何故だかとても長く感じられたのを覚えています。
きっと、いつも父上のお顔を窺って相応しい振る舞いを心がけている健気な弟が、その時ばかりは歳相応に照れたような表情で身を委ねていたことが印象的だったのですね。
今思えば身勝手なことですが、この時のわたくしは、なんだか酷くアダが……双子の弟のことが、羨ましく感じられました。
「また闘士様のことを考えているの?」
午後の手習いの時間、フートゥールの穴を押さえる手が止まっていたアダにこっそりと声を掛けると、はっと我に返ったように赤茶色の瞳がこちらを見ました。
嫡子であるアダと女の身のわたくしでは当然手習いの内容も掛ける時間も異なりますが、楽器の時間だけはこうして同じ教師に習っています。
乳色をした骨笛をきゅっと掴むと、アダはいつもの難しい顔に戻ってわたくしを睨みました。
「……姉上こそ、弦から手が離れている」
むすりと憎まれ口をきくアダに笑いつつ、わたくしもキルトゥィンのピンと張った弦を押さえ直します。
わたくしたちの音が揃い始めたのを確認した教師は叱るでも褒めるでもなくひとつ頷くと、また自分の楽器を磨きはじめました。
この教師も難儀なことです。
去年までは決して王子様方を追い抜かぬようにとお父様や侍従頭から言い含められて音を聴かせるだけの授業に留めていましたのに、今はそれもどちらつかずなのでしょう。
わたくしたちだって、身を入れて手習いに集中できずにいるのですから。
「やはりアダ様も男児ですから、楽器よりも武術や剣術の方にご興味がおありなのでしょうね」
「そんなことは……」
「いいんですよ。武家の跡取りでいらっしゃるのですから、楽師になりたいなどと言い出すよりは闘士に憧れていらっしゃる方がお父君も安心でしょう」
「……………」
お父様の名が出たことで、アダは俯き、黙りこんでしまいました。
確かにアダは近ごろ闘士様のことばかりを思い出しているようですけれど、それは別に闘士というお仕事に憧れてのことではないように思います。
強いて言えば、闘士様ご自身に憧れる気持ちがあるのだと感じられますが、そのようなことはわたくしの口から申し上げるべきではないでしょう。
「失礼。いずれ軍籍に入られるアダ様よりも、アナ様の手習いを進めるべきでしょうね。さ、音階を最初から」
「はい……」
促されて、わたくしは習った通りにひとつひとつ、弦を弾きました。
子供用のキルトゥィンなどありませんから、端の音などを弾く際には腰を浮かせて腕を伸ばさなければいけません。
音の良し悪しよりも、そのような所作の美しさをこそ覚えるようにと常から言われています。
兄王陛下にお心穏やかにお過ごし頂くことを何より大切にされていらっしゃるお父様は、王ご自身から望まれぬ限りわたくしを宮仕えさせる気も、有力な家に嫁がせるつもりもないのだと仰っていました。
あるいは王陛下に姫御子が誕生すれば、忠誠の証しとしてお仕えするようにと仰せつかっておりますので、わたくしに今出来るのは身を立てる為の技術を学ぶことなのでしょう。
最後の音を弾き終えると、教師はよろしいとひとつ頷かれました。
楽器の授業はひたすら耳で音を覚え、真似ることが肝要なのだそうです。
何度も音階を押さえたのちは、教師の実演を聴く時間が続きます。
骨笛も置き琴もひとしきり鳴らし終えると、教師は楽器を仕舞いながら思い出したように呟きました。
「そういえば、あの立派な闘士様はゴルダナ将軍の隊に在籍されているそうですね。
ラァダイモン様の謂れなき疑いが晴れた今、将軍にお願いすればかの闘士様をアダ様の武術指南役にお招きすることも可能なのではないですか?」
「えっ」
ついでのように零されたその言葉に目を輝かせたのは誰あろうアダ本人でした。
ゴルダナ将軍というお名前はよく耳に致しますが、六将軍の中では珍しく、お父様とご一緒しているところを見かけることが少ない方です。
神儀にて王子暗殺の疑いが晴れたとはいえ、お父様とはそのように頼み事が出来る仲なのでしょうか?
「ああいえ、申し訳ありません。軍の事情など良く知りもしないで適当なことを申しました。お忘れになって下さい」
「け、けれど、そういうことは良くあることなのでしょうか?将軍の子が隊の者に相撲の手解きを乞うというのは?」
「それはまぁ……そう珍しいことではないのでは?特にアダ様ほどのお血筋であれば」
「そ、そうですか……!」
いつも縮こまって見えるアダの顔がぱぁっと華やいでいます。
もしも本当に闘士様が指南役となって下さったら、アダは毎日このように明るい顔で過ごせるかもしれません。
アダが楽しそうなのは、わたくしも嬉しいです。
けれどどうしてでしょう。やはりどこか、胸の奥がちくちくと痛むような気がします。
わたくしも男児であったなら……いえ、わたくしのように女としても軟弱な者は、例え男児に生まれていてもお父様や指南役をがっかりさせるだけだったでしょう。
地理や兵法だってきっと、同じ手習いを受けてもアダには到底敵わなかった気がします。
女の身である為に優秀な弟と横並びでは比べられずに済んだことを、わたくしはせめて感謝すべきなのです。
楽器の教師が退出し、わたくしたちも渡り廊下を通って本館へ戻ります。
すると先ほどまで頬を染め瞳を煌めかせていたアダが、今度は一転思い詰めたような顔でわたくしに問い掛けてきました。
「……闘士様を指南役に招いて欲しいなどと言ったら、父上に叱られるだろうか」
「そうね……王陛下とゴルダナ将軍という方との関係によるのではないかしら……?」
「そうだな……」
お父様はとにかくいつでも兄である王陛下の御心が第一と考える方です。
懇意になさっていた役人であっても、王子様方の暗殺で疑惑の上がった方が我が家の敷居を跨ぐことはけっしてお許しになりませんでした。
ゴルダナ将軍と通ずることを王陛下がどう思われるか。それが最も重要なところなのです。
「将来王陛下をお守りする為、あの闘士様のような力を身につけたいのですとお願いしてはどうかしら?王陛下の為になることなら、お父様も無碍にはなさらないのではない?」
「……確かに……うん!そのようにお話してみよう……!ありがとう姉上!」
「ええ、がんばって……!」
わたくしが励ますと、アダはまたあの夢見るような表情に戻って、浸るように己の髪を撫で始めました。
きっと闘士様に頭を撫でて頂いた時のことを思い出しているのでしょう。
あの時闘士様は、わたくしとはほとんど目も合わせては下さりませんでしたが、アダにはとても気安く接していらっしゃいました。
闘士様がアダの指南役になってこの家に通われるようになれば、いつかわたくしもあのように親しみのこもった目で見て頂くことができるでしょうか?
「……闘士様は、どのような方なのでしょうね」
「そんなもの、強くてやさしい方に決まっている!」
「それはそうだけれど、もっとこう、どのような場所でお生まれになったとか、お食事は何がお好きかとか」
「お好みは分からないが、侍従頭の言うところによると、ずいぶんな田舎からその身ひとつで都入りされた方らしいぞ」
「まぁ……では、闘士になる前は稲をお育てになっていたのかしら?」
アダの地理の教師が少し話してくれたことがあるのですが、わたくしたちが毎日口にするミルガは黄金の稲穂から作られるそうで、都の外ではそのような黄金の畑を育てる方々がたくさんいらっしゃるのだそうです。
わたくしは神儀で扱う金の稲穂しか見たことはないのですが、黄金の畑からミルガを生み出すというのは、まるで天の御業のようではないでしょうか。
金色の畑を想像し、そこに闘士様と並んで立つ大人の自分を思い浮かべてしまってから、ハッと我に返ります。
いくらなんでも、夢見がちが過ぎるでしょう。
見れば、アダの相貌が疑わし気にこちらを窺っています。
「姉上は……闘士様に嫁ぎたいのか?」
「そ、そのようなこと……っ!闘士様はきっと、わたくしなど相手になさりませんわ……!
神儀でわたくしが額に口付けた時なんて、ぎょっとしていらっしゃいましたもの……!」
「……そうかな。私には、喜んでいらっしゃったように見えたが……」
「それを言うなら、アダに対しては最初から随分と砕けたご様子だったわ!
わたくしとは目も合わせず、貴方ばかりに笑いかけていらっしゃったでしょう?」
「……………それは、ただ私が同じ男で、遠慮がいらないと思われたからだろう」
「……わたくしはそれが羨ましいわ」
「そうか………」
どうやらわたくしたちは二人とも闘士様に同じ想いを抱いてしまっているようです。
生まれ持ったものはこんなに違うのに、そんなところばかり双子らしいのですね。
「なぁ姉上……天衣というのを知っているか?」
「え?それは、まぁ……」
急にお話の向きが変わったことに、わたくしは目をぱちくりとさせました。
「天衣というと、あの建国記の天衣でしょう?確か、ハレムにも天衣の妃がいらっしゃるのよね?」
「そう……天衣は、体は男の形をしているけれど、子を成すことが出来、王の妻の一人となったこともあったというだろう?」
「そうね。そう習ったわ」
「初代王の妻であったなら、私たちに天衣の血が流れているということはないのかな?」
「……?それは……どうかしら。聞いたことがないわ」
「そう……そうだな……」
「なぜ急にそんなことが気になったの?」
わたくしが訊ねると、アダは人気のない中庭を見回し、いっそう声をひそめました。
「父上は、宦官や子種なしに堕ちることほど男にとって恥ずべきことはないと仰っていただろう……?
では、天衣のことはどうお考えだと思う……?」
「……分からないわ。お父様が天衣についてお話されていた記憶がないもの」
「けれど少なくとも、宦官や種なしのようには不快に思っていらっしゃらないのではないか?」
「どうかしら………」
この家を訪れるお客様も使用人たちも皆、わたくしたちのお父様はとても高潔な方だと仰います。
高潔で兄王陛下を尊重なさるお父様がハレムの妃として陛下の寵を受ける天衣をご不快に思っていらっしゃれば、すぐに分かりそうなものです。
けれど、やはり何故、アダがそのようなことを気にするのかが分かりません。
「この身が天衣かそうでないかは、どのように分かるのだろう……?」
「……ニーニャが、天衣は赤子の姿では生まれて来ないと言っていたわ。わたくしは赤子の頃の貴方をうっすらと覚えている気がするし、やはり天衣ではないのじゃなくて……?」
「……………」
「……アダ、天衣になりたいの?どうして?」
「べつに……天衣になりたいわけではない」
そこまで言ってしまってから、アダがやはり言うのではなかったという顔で目をそらしてしまいました。
「……今の話、父上にも、誰にも言わないでくれ」
「…………わかったわ」
お父様に隠さなければならないというところで、わたくしはなんとなく、アダの本当の希望に察しがついた気が致しました。
わたくしたちは、お父様によってその名を女と男と付けられました。
どんなに至らずとも、せめてわたくしは女で、アダは男でなければならないと、課せられているのだと思います。
「……姉上はいいな。ちゃんと女だ」
「そう、かしら……わたくしには、貴方は立派な殿方に思えるわ……わたくしなどよりもずっと」
「……………」
「……ねぇ、先ほどのお話は内緒だけれど、闘士様をお招きしたいということはお願いしてみるのでしょ?
わたくしも口添えするわ。きっと我が家にお招きしましょう?」
「……………うん」
アダはこっくりと頷き、わたくしたちはほんの幼子であった時のように、手を繋いで本館までを戻りました。
わたくしたちが無理を言って闘士マクス様をお招きしようとしたことでお父様とゴルダナ将軍との仲を勘繰った王陛下が、お父様の毒殺を命じたのだとわたくしが聞かされたのは、ハレムの婢女となったのちのことでございます。
はしたなくも闘士様とお近付きになれるかもなどと欲をかいてアダをそそのかし、お父様を死に追いやったのも、今こうして宦官たちの慰みに体を嬲られているのも、全てはわたくしの浅はかさが招いたことなのです。
ああ、この身はなんと至らぬ女でございましょう。