文学作品におけるエロについてとりとめなく考えてみた。
敬称略です。
ちょっときっかけがあって、安部公房の『砂の女』を読み、今は『箱男』を半分くらい読んでいる。
安部公房は没後30年だそうだが、令和の今でも充分に読み応えがある。
しかし、なんか、こう、女の扱いが嫌だなあと思ってしまう。
『砂の女』の中では駆け引きというか、女の体で引き止められることを恐れているというか、その辺の揺らぐ描写を上手くしている、というのは分かる。
分かるんだけどぉ〜?うーん。
『箱男』の見習看護婦が出てきたところで、なんだかもやもやが止まらない。
文学作品に男と女が出てくれば、当然ながら性にまつわることは出てくる。
そこで改めてエロい描写について、つらつら考えてみることにした。
どの辺から考えてみようか。
たぶん、12歳くらいの頃に太宰治の『斜陽』を読んだ。
薄くて安かったから文庫本を買った。
その中で性行為を示すところがあったけれど、当時はよくわからなかった。
中学生になって、池波正太郎の『剣客商売』を読んでいた。
"新妻"の巻では「わぁ……」となってたので、意味は分かってた。
その後に『鬼平犯科帳』も読み始めたが、池波正太郎の書く女性へのまなざしは、優しさと敬意があった。
確かに中学生が読むにはちょっといかん性行為の描写はあるけれども(そしてそれを父に貸していたりはしたけれども)、人物間の関係やその人となりを示す行為として必要なんだなと分かった。
剣術しか知らない『剣客商売』の大治郎と三冬が、毛饅頭についてなんだか分からないと小兵衛に聞きに行くところはユーモラスであり、2人の初々しさを感じさせる。
『鬼平犯科帳』で、盗賊同士の交わりも、こういう男女であり、2人だけの特有の関係が理解しやすかった。
うろ覚えだが、池波正太郎は出征前、馴染みの女の人がいたが、その人だけに通い、母親も挨拶に伺っていたらしい。
商売で体を売っていても、その女の人への礼儀というか、通すべき道理がきちんとあった。
そういう男女の繋がりが根っこにあるせいか、池波正太郎の書く濡れ場は不快ではなかった。
女性を下に見ていないからだろうと今なら思う。
そんな感じで、エロ描写の基本履修は池波正太郎だったと思われる。
そして、高校生の頃に村上春樹の『ノルウェイの森』が古本屋で安かったから、買って読んだ。
確かにエロ描写は多い。多いんだけど、エロが目的じゃないというのは分かってた。
主人公のワタナベが周囲と関わるために性行為が必要だったように思う。
体をつなげてようやく会話が始まるというか。そんな印象を受けた。
その作中だったと思うけれど、女子高の焼却炉から登る煙を見て、毎日生徒の4分の1が使用した生理用ナプキンが燃やされているとかそんなことを考えているシーンがあった。
日本語すべての作品を読んだわけではないけれど、使用済みの生理用ナプキンが燃やされていることについて書いた作家は、村上春樹以外に私は知らない。
毎月の体調不良を伴う生理について、男性として適度な距離感を持って触れていたのは、忘れられない。
図書館や人から借りた本で、「エロス!」と思った作家は、渡辺淳一だろう。
『自殺のすすめ』という文庫本から入ったけれど、軒並み長編小説はエロかったです。はい。
ただ、「そんな女いねーよ」と高校生ながら思う女性ばかりが出てきて、主人公に喰われてました。
1回読んで、再読はしなかった。
ただ不感症のヒロインが、性行為の最中に感じる虚無感とか煩わしさとか、女性目線でのなんともいえない男性への愛情の無さが描写されていたりとかしていたので、記憶に残る作家だと断言する。
男性目線だけで書いていないことが、記憶に残る理由だと思う。
あとは、タイトルは忘れたけれど田辺聖子の作品で、甥っ子とベッドインする主人公の女性がいてびっくりした記憶がある。
吉行淳之介はとにかくエロかった。
エロかったけど、ひどく物悲しかった。
めくるめく大人の世界すぎて、高校生の私には刺激が強すぎたけれど、体を繋げても何も繋ぎ止められない自分の心や、相手の心がひどく寂しかった。
うろ覚えだったが、箱入り古本が激安で手に入ったので、今度再読するつもりだ。
大学生になって、授業で知ってから読んだのは、村上龍と中上健次だった。
村上龍の作品に男女の性行為の描写が出てきても、エロいというよりも物語の歯車のような印象で、ひどく怖かった。
互いの思いが通じてとか、そういうものではなかった。
中上健次は、なんていうか、一番衝撃を受けた。
性行為の描写はかなりエグい。
え、えええ?、ええええ?!
そんな感じ。完全にレイプじゃねーか!
そうなんだけれども、それ以上の含みがあって、性行為自体が物語の主軸になっているのに、エロ目的で書かれていないと分かるのが、凄まじかった。
エロ目的で書いているのに、突き抜けすぎていて、もはやエロではないものになっていたのは、翻訳ものだが、マルキ・ド・サドの『ソドムの百二十日』。
あれは読まない方がいい。
図書館の一般開架に置いてあって読んだけれども、最後まで読んでも救いはなかった。
残ったのはものすごい要らない情報だけだった。
人間の脳みそってすげえ。
それしかコメント出てこない。
気になった人はどうぞ。
止めないけど、おすすめもしない。
つらつらと考えて、小説におけるエロ描写は、その物語の中において、人物描写やその関係性を示すものであれば、それは単なるエロではないと思う。
そこを間引くと、人間性の描写や関係性を示す要素が薄くなるのであれば、それは必要なものなのだろう。
安部公房の書く女性というものは、触りたい触れたいものだけれど、手を伸ばしてはいけないもの。そんな印象を『砂の女』と『箱男』を途中まで読んでいて、受けた。
大したものではないと決めつけてしまえば、触れられるけれど、本当の意味で大事にする方法を知らない。だから、手を伸ばすまでにかなりの経緯を要する。
その途中にある「どうせ大したものじゃないんだ」と決めつけるまでの女への扱いが妙にもやっとするのだろうなと書いて思った。
なんとなくスッキリしたので、『箱男』の続きを読むことにしよう。
何か心に残るエロ描写のある文学作品があれば、感想にどうぞ。
その作品のどの辺が刺さったとか教えていただけると嬉しいです。
あ、文学作品とは少しずれますが、水木しげるが描いた『今昔物語』の漫画版にあった濡れ場は、図書館で読んで「ひえっ!」となりました。
今読むと全然なんともなので、10代の頃の性への耐性は本当に低いなぁと改めて思った次第です。
なお、感想欄は全年齢で、R15には対応しませんので、独断と偏見で「これはダメだろう……」と判断した感想は無言で削除しますので、ご了承ください。
どうぞ日本語を駆使してくださいませ。
_:(´ཀ`」 ∠):体調が万全ではないので、感想返信遅れるかも……←今ごろ気づいた。ごめん。