魔物の棲む森 ~Everybody Has “IT”~
この作品では、文章を頁に散りばめることでの場面表現を試みています。
編集画面ではきちんと配置等をやったつもりなのですが、もしかしたら投稿後だと、あるいはこれを見るデヴァイスによって変なことになっているかもしれません。PC投稿ですので、特に携帯だと目もあてられないことになっているかもしれません。読みにくいでしょうが、すみません。
鬱蒼と茂る暗緑の木々。
不気味に響く風の音。
人里離れたその森を、人は称してこう呼んだ。
―魔物のすむ森、と。
ここで言う「魔物」とは、あくまで不気味さの象徴としての言葉であり、決して人外的な存在が住む森、という意味で使われたわけではなかった―少なくとも、そう呼ばれ始めた頃は。しかし、今ではあながち後者の意味も的外れというわけではなくなっていた。その森を、一人の魔女が住処にしたのだ。
彼女は、不思議な魔法の力を持っていたが、それを使って意地悪ばかりしていた。道行く人を迷わせ、甘い木の実をすべて苦くし、新緑の葉っぱを全て枯らせ、動物たちの巣を入れ替え……森の生き物は皆、彼女を避けていた。
彼女はいつも、独りだった。
しかし、それはあくまで一面からの見解に過ぎず、彼女とて生まれたときから性根が歪んでいたわけがない。知られざる過去が、彼女にもあったのだ。
それは、そう遠くない昔に遡る。
† †
彼女は元々、遠方の国に住む普通の乙女であった。普通の親の元に普通に生まれ、普通の家の元に普通に育ち、普通の男と共に普通に恋をした。
しかし、皮肉なことに、唯一彼女の運命だけが普通でなかった―彼女は、裏切られたのだ。永遠の愛を共に誓った男は、他の女と駆け落ちし、一人残された彼女は、底知れぬ愛を果てしない憎悪に変え、彼女の幼い頃の記憶と引き換えに禁断の呪術を会得し、彼の生を断たんと居場所を突き止め―それは、名前を聞いたことも無い遠くの小さな町だった―そこにまで至った。
―しかし、結局彼女は、彼を殺すことができなかった。代わりに、他の人間の手によってそれがなされるのを、為す術も無く見ていただけだった。
† †
彼女は彼のいるという街に入った。彼女はまず、酒場へ行った。酒場なら、人がたくさんいるし、彼についての情報、あわよくば彼自身を見つけることができるかもしれないと思ったから。果たして、彼は、喧騒で賑わう街の酒場で、一人酒を喰らっていた。
彼女は彼の姿を見ると、ちくりとした胸の痛みを感じた。それは、長年の夢が成就するという喜びから来る緊張では―決して、無かった。言うなれば、一種の切なさにも似た感情が、今、彼女の心を支配していたのだ。
彼女は呪文を唱えようとするが―唇は乾いて声を出さず、指は動かず、掲げることさえできなかった。いざ目の前にすると―殺せるはずが無かった。たとえ裏切られたとはいえ―かつては、共に愛し合っていたのだ。彼の愛は蝋燭の炎が散るように儚く消えてしまったが、彼女はまだ、無限の憎悪の奥底、心のどこかでは、まだ彼を想っていたから。
躊躇。それは時に、結果を全く違うものに変えてしまうときもある。今回はまさにそうだった。彼女が躊躇している時―それは、起こった。
綺麗な金髪をし、赤いドレスを身に纏った女性が酒場に入ってくる。喧騒や酒のにおいを気にも留めないふうに奥へ入ってゆく。そして女性は彼の後ろで止まった。彼はおろか、酒場にいる人は、誰も女性に気付いていないようだった。それほどまでに、女性の存在は異質であったから。
最初から握られていたのだろうか、ふと気が付くと、女性の左手には細身のナイフが握られていた。彼女は天井を仰ぐ。
―一瞬。
彼女はそのナイフを高く掲げる。
そして、それが遥か古から決まっていたことのように、一遍の躊躇も無く、ごく当然のように、それを真っ直ぐ振り下ろした。
その先には、彼の背中があった。
「ぐッ……!?」
彼の呻き声は、酒場の喧騒にかき消された。しかし、そのナイフは細身とはいえ、その切れ味は恐らく本物。そう、それは人一人の命を絶つには十分すぎるほどに。
彼は恐ろしいほどゆっくりと、後ろを振り向く。そこにいる女性の姿を瞳に映した瞬間、彼は憎悪も後悔も悲嘆も謝念も、一切の感情を滲ますことなく、ただ、
「……お前…か……」
と呟いた。女は一瞬険しい目つきになり、刺さったナイフを、全く動揺の見られない手つきでそのまま引き抜いた。栓の役を果たしていたナイフが失われた瞬間、紅い鮮血が舞い散る。それを見て、女は高らかに笑い出した。
「ふ…ふふ……は…あはははははははッ…!」
その声に、酒場の人々が振り返り―彼の背中から溢れる真っ赤な液体を見て、喧騒が水を打ったように静まる。その中で、ただ、女性の笑い声だけが高らかに響いていた。
そして、男は緩やかに崩れ落ちていった。女性は踵を返し、笑いながら出口へと走る。
一瞬、女性とすれ違う。その時見た顔は、忌まわしい記憶の中にいた彼女とよく似ていた。ただ、狂気に染まった顔からは、人間の面影さえ見えないが。
女性が闇の彼方へ走り去ってから―ようやく、誰かが思い出したように悲鳴を上げた。
「う……わぁぁぁっ!」
その声がやけに遠く、彼女の耳に響いた。
† †
終始、彼女は何もしないままに目的は遂げられてしまった。―否、遂げられてはいない。結果は同じであれ、過程が絶望的なまでに違った。彼女が殺さなくては、彼女が人生を捧げた意味が無いと言うのに―自分以外の人間の手によって、彼は殺されてしまった。
憎しみと愛しみを残したまま、彼女の復讐劇には強制的に幕が下ろされた。空回りした気持ち。彼女が魔女となったのは、ある意味で、その時だと言えた。
彼女は生きる意味、気力を失い、あちらこちらを着のみ気のまま彷徨っていると、やがて彼女はある森に辿り着いた。
木々が鬱蒼と茂るが、どこか明るい雰囲気が漂う。太陽の光を受けて葉が光り、柔らかな風が枝葉を揺らす。互いに慈しみあい暮らす動物たち。そこでは、とても優しい、悠久の時が流れていた。
彼女は許せなかった。愛を求めた自分が苦しんでいるのに、何もせずにただ愛を謳い平和を謡う動物たち。それが、酷く理不尽に思えたから。
だから―彼女は、その森に残酷な呪いを詠った。
―それは、愛を封ずる呪い。
……それからだった。人―否、動物が余りその森に寄り付かなくなったのは。しかし、その森は田舎町と比較的大きな街とを繋ぐという地理条件上にあるので、商人たちが物資を輸送するためには通らざるを得ない場所であった。無論しようと思えば迂回もできるが、そうすると余計に日にちを費やすことになる。愛が根こそぎ奪われ、呪いが掛けられているとはいえ、通る分には、一見ただの森でしかなかったので、彼らはわざわざ迂回などという面倒なことをせず、そこを通り続けていた。
そして、やがて変な噂が流れ始める。夜に通ると道が変わるだとか、穀物を積んでいると荷物が少し減ってしまうだとか、といったものが当時は主であった。当然それは魔女の仕業であったのだが彼らには知る由も無く、そしてその森は本当の意味で「魔物の棲む森」と言われるようになったのだ。
しかし、所詮は何の確証も無い噂話、まだまだ可愛いものであった。それが覆されたのは、魔女がこの森に棲み始めてからしばらく経った―初夏のある日、空がどこまでも蒼く澄み渡っていた時であった。
† †
鬱蒼と茂る木々が、そこだけ切り取られたようにぽっかりと空洞が作られていた。ドーム状に広がるスペース。かつては、そこが行商人たちの憩いの場となっていたが、不気味な噂が立つようになったこの時世、そこで休憩している商人はいなかった。代わりに、二人、男性と女性が倒れていた木に腰掛けていた。明るめの漆黒の長髪を腰にまで伸ばした若い女性が、体を小さく縮こませ、不安そうに傍らにいる男の腕を抱く。
「……気味が、悪いわ」
「……ああ、全くだ。昼だと言うのに薄暗い―さすが、魔物の森と呼ばれることはある。本当に、魔女くらい棲んでそうだな」
茶色い髪を初夏の爽やかな風に靡かせながら彼は軽く言う。
「嫌、アルバート、冗談は止めて」
彼女は彼に言う。アルバートと呼ばれた彼は、ただ微笑んだ。
「……はは、悪かった、ティセラ」
そう言って彼はくしゃくしゃとティセラと呼んだ女の頭を撫で、彼女はいじけたようにしながらも、目元は幸せそうに笑っていた。
「……それにしても、さっさとこんな暗いところは抜けてしまいたいな、ここさえ抜けてしまえば、もう街はすぐなんだが」
愛惜しげに抱いた彼の腕を放すと、彼女はそれに答えるように言う。
「街、ね……いい衣装があるといいけれど」
思案するようにティセラは言い、アルバートは何も考えていないように言う。
「何でもいいだろう、ティセラならきっと似合う」
恥じらいもせずに、さらりとそんなことを言ってのける彼に、逆にティセラが恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「……もう……貴方も」
「ん?まあ、俺も何かしらの衣装は借りないといけないだろうな―」
「―きっと、何でも似合うわ」
彼女ははき捨てるように言うと、ぷいとそっぽを向いてしまう。しかしどうしても、その耳が赤く染まるのは隠せない。そんな愛らしい様子を見て、彼は微笑む。
「……そうか、ありがとう」
ティセラは顔を戻し、呆れたように、そしてどこか甘えるように言う。
「……全く、もう」
彼らは幸せそうに談笑しながら、暗い森を通って行く。
それはどう見ても、結婚を間近に控えた、幸福な恋人たちの姿であった。
―運命は残酷だ。運命は不幸の者を一瞬で幸福の絶頂に送り、また、幸せの頂点にある者を刹那のうちに奈落へと突き落とす。彼らも、かつての魔女と同じように、決して忍び寄る運命から名逃れられない。
† †
「……嗚呼」
どこまでも続いていると錯覚してしまうほどに、切り拓かれた道に沿って延々と木々が立ち並ぶ。その木々の狭間、独りの魔女が嘆息した。齢二十後半と見られる彼女の目の前には、幸せそうな恋人たち。村の方向から歩いてきた彼らは今、木に腰掛けながら楽しそうに談笑を交わしていた。
……かつての自分が、否が応にも重なった。幸せそうに寄り添う彼ら。どこからどうみても、二人は恋人同士だった。
―恋人。
「……」
何よりも自分が忌み、何よりも自分が欲したそれは、魔女となった彼女にとって、最早遠く届かぬ儚い幻想。
正直に生き、そして裏切られたかつての自分、切ない思い出。
「……く……」
恨めしい。
何で、私が……?
恨めしい。
何で、彼は……?
恨めしい。
何で、奴らは……?
―羨ましい。
それは魔女の、ただの醜い逆恨み。いや、逆恨みですらない。彼らは、ただここを通りかかっただけの恋人なのだから。しかし、魔女はその行き場の無い憤りを、彼らにぶつける他無かったのだ。―彼は、既にいないのだから。
誰が悪いと言うことも無い、ただ、運が悪かったのだ。
憤りは魔女に憎悪をたぎらせ、恋人たちには残酷な呪いをおくった。
「ッ……ああああッ!」
女がビクリと振り返り、男もどきりとしたように振り向く。二人と魔女の目が合い、魔女は構わず呪いの文句を唱える。
「― !」
刹那、魔女の華奢な指先から、紫色の閃光が放たれ―女の胸に直撃する。
「き、きゃああああッ!?」
「……!?」
呪いの光を受けた彼女は目を虚ろに見開く。一、二歩よろめいて、男のほうを見―そして、その両目を閉じながら緩やかに崩れ落ちていった。
彼女が倒れたのを見、男はようやく事態を理解した。
「ティ……ティセラッ……!?」
男はかがみこみ、彼女の体を抱き起こしながら必死に女の名前らしき言葉を発するが、彼女が答えることは無い。
彼は無念に眉をひそめる。冷や汗が、その額を流れていく。彼は彼女から目を切ると、前で口を歪めて哂っている女性を睨みつける。
「お……お前ッ!ティセラに何をしたッ!」
しかし、彼女はおどけたように言う。
「うふふ……別に、私は何もしていなくてよ?ただ、ちょっとした呪いを掛けてあげただけ……」
「の……呪い……だと……?」
「うふふ……そうよ……いい気味ね……貴方たちには絶望こそが相応しいわ……希望があるから、貴方たちは絶望するのでしょう?そんなくだらない希望など、打ちひしいであげますわ……」
彼は堪えかねたように、腰から長剣を抜き、一直線に魔女を睨みつけながら叫んだ。
「ティセラの呪いを解けッ!さもなくば、我が剣の錆としてくれようぞ!」
しかし、彼女は動じることなく、むしろ小ばかにしたように言う。
「うふ、怖い怖い……気に入らないことがあるとすぐ暴力に訴えるのは、男の性だわね……」
彼は振り払うように一喝する。
「黙れッ!斬るぞッ!」
そう言って、彼は腰を低く、剣を斜に構えた。それは、彼が本気である証明。かつて戦場で「獄門の構え」と謳われた、無敵の構え。
しかし、そのことを知ってか知らないでか、あるいはそんなことなど気にも留めずに、あくまで彼女は彼を馬鹿にしたような態度を崩さない。
「うふふ……無駄。貴方に私は斬れないわ」
「おのれ……!」
彼女を殺したところで、呪いが解かれるかどうかなどと考える余裕は、彼には無い。ただ、燃え滾る義務感と憎悪に、彼は剣を振るう。腰を低くし、右足で地面を思い切り蹴る。すさまじい瞬発力とスピード。一瞬で、彼は両者間の距離をゼロにした―
―しかし、その剣が届くことは無かった。
「うっ……!?」
剣は虚しく空を切る。さっきまで目と鼻の先にあった女の姿は、忽然と消えていた。
どこへ、と愕然とする彼を嘲笑うように、森の何処からか声が響く。
『うふふ……無駄と言ったでしょう……?もっと嘲りたかったけど、仕方ないわね……そろそろお暇させてもらおうかしら…』
「ま……待てッ!待ってくれ……!」
その声は答える。嘲笑を含みながら。
『うふふ……一つ、言い忘れていたことがあったの……その女は、死んではいないわよ』
「……!」
彼は後ろを振り返る。
何かが、その体を起こしていた―しかし、それは彼の知る、愛しい彼女ではなかった。
それどころか―人ですら、なかった。むしろそれは―魔物。
巨大な体躯は木の幹よりも太く、長い腕は地面にまで届きそうなほど。辛うじて人の形をしてはいたが―人間の部位という部位が、人間とは絶望的なまでにかけ離れていた。彼の目の前にいたのは、人と呼ぶには余りに不気味な生き物だった。
「ティ、ティセラ……?」
それでも、彼は恐る恐る愛しい人の名前を呼んだ。しかし、彼女は答えない。代わりに彼女は醜く歪んだ顔を上げ、低くしわがれた、気味の悪い音を発した。
「……アア……」
「……!?」
彼は思わず後ずさった―理性的な判断からではない。間違いなく、それは本能的な恐怖から。
「ある、ばーと……?」
彼女は顔を彼のほうに向けると、辛うじてそう聞き取れるような音を発した。
「うっ……」
「あるばーと……助ケテ……」
そう言いながら、彼女は一歩、また一歩と彼の元へ歩み寄る。彼の頭からは、彼女をこんな姿に変えた魔女の存在などとうに消し飛んでいた―その、圧倒的な恐怖によって。
「助ケテ……あるばーと……私…オカシク、ナリソウ……」
「うわ……く、来るなッ……!」
彼の口から突いて出た言葉は、本能的な拒絶の言葉。彼女の瞳が、傷ついたように凍りつく。それでも彼女は歩み続けた。不自然なほどに長いその腕を伸ばし、愛しい彼に助けを求める。
「ネェ……助ケテヨ……私、トテモ苦シイ……」
すがるような声。しかし、彼女が救いを求めれば求めるほど、彼は恐怖と拒絶に身を固めてゆく。
「う……うわぁぁぁぁッ!」
そして、ついに恐怖と拒絶が臨界を突破し―彼は、助けを求める彼女を置き去りにして、背を向け走り出した。それは、明らかな逃亡と拒絶。
置き去りにされた彼女は、その瞳をさらに凍りつかせるように見開きながら、長い腕をゆるりと下ろして呟く。
「あるばーと……何デ……?私達ハ……」
彼女は最後まで言わず、代わりにゆっくりと、闇に染まりゆく夜空へ顔を向け、大きく哮ぶ。
「グ……グアォォォォッ……! ガ……グワアァァァッ!」
その叫び声はどこまでも遠い夜空にどこまでも遠く響き、どこまでも暗い森の中でどこまでも反響した。
―それは、慟哭のように。
† †
「うふふ……いい気味」
暗い森の木の上で、魔女はそう呟いた。不気味な姿に成り果てた―否、不気味な姿に成り果てさせた、女だったソレが泣き叫ぶ様と、逃げ出した男の背中とを交互に見やりながら。
―しかし、いい気味だ、と口では言っても、本当にそれが彼女の心に会館と歓喜をもたらしたわけではない。むしろそこにあるのは、嫉妬を解消させたときに、一時的に感じる黒い喜び。そしてそれは、心にもやもやした何かをねっとりと残すものであった。
「……ふ」
彼女はそれを振り払うようにして呟く。
「所詮、愛なんていつ朽ちて裏切られるとも知らない幻想よ……。ちょっとしたことで、信頼なんて一瞬で崩れ去るわ―愛なんて、羽のように軽い」
男は逃げ出した。
女は見捨てられた。
結局―こんなものだ。
―かつての自分も、そうだったように。
「……うふ、ふ……、……ああ」
彼女は複雑な顔をしながら、拡がる夜に身を任せるように闇へと溶けていった。
そこには独り、女だった魔物だけが残された。
―その慟哭は昏い闇の中、いつまでも響き渡った。
† †
暗い道、苦く哂う木々、ぼんやりと佇む月、煌く星空、固い大地。
それからのことを、彼はよく覚えていなかった。不気味な魔物の鳴き声を背中に受けながら懸命に走ったことだけは何となく覚えているような気がしたが、どのようにして家にまで辿り着いたのかはわからない。気が付いたら彼は、天井を見上げるようにしながら布団に横たわっていた。
「う……」
薄く彼の目が開く。傍らに座っていた男がそれに気付いて言う。
「おお、目ェ覚めたか」
聞き慣れた声が、彼の耳に飛び込んできた。彼は声の主を確認するように顔を横に向ける。
「ああ……兄さん」
兄さんと呼ばれた彼は、笑って答える。
「おう、俺だとも。……それにしてもお前、大丈夫か?」
彼は質問に答えるでもなく言う。
「……俺は、どうしたんだ?」
男は頭をかきながら答える。
「……ああ、一昨日森の入り口でぶっ倒れてたのを、イレースが見つけてきてな。俺に知らせてくれて、それで、俺が拾ってきたんだ。重かった」
冗談に笑うこともせず、ただ彼は事務的なことを述べるように淡々の述べる。それは、面倒だからということではなく、ただ、気付かなかったのだろう―恐らく、自分が今何を喋っているのかさえ、明瞭ではないだろう。
「義姉さんか……迷惑をかけてすまない」
彼は屈託なく笑う。
「ああ、気にするな。……それより、一体何があったんだ?確かお前は、嫁さんと一緒に、町のほうに式の晴れ衣装を見に行ったんだったよな?」
「……!」
刹那、彼の脳裏に森での出来事が溢れるようにフラッシュバックする。紫色の閃光、倒れる恋人、嗤う魔女、立ち上がる魔物。
―そして、逃げ出した自分。
「……?」
当然、何も知るところではない兄は首を傾げるだけだが―アルバートにとって、それは余りに耐え難い衝撃だった。
「う……あああああッ……!」
「……!?」
突然叫びだした弟に、兄は驚く。アルバートはそのまま頭を枕に突っ伏した。
「……どうしたんだ?」
明らかに動揺しながらも、彼は尋ねる。しかし、アルバートは答えない。
「……セラ……」
「?」
「ティセラ……」
やっと理解できる単語が出てきたが―その成す意味がわからず、彼は怪訝な顔をして、弟の顔をのぞく。
「……嫁さんが、どうかしたのか?」
しかし彼は、兄の質問には答えず、譫言のように繰り返す。
「ティセラ……」
彼は首を傾げたが、今はどうしようもなく、彼に一番必要なのはいたわりではなく時間なのだと悟り、立ち上がりながら言う。
「……じゃあ、俺は他の部屋にいる。何かあったら呼べ」
「……ティセラ……」
彼は肩を竦め、部屋を後に扉を開く。開かれた扉の先には、細い手を胸の前で合わせ、心配そうに立ち尽くす一人の女性の姿があった。小柄で華奢な体、雪のように白い肌。蒼色の瞳は、義弟を気遣うように細められていた。
「アルディアス……アルバート―義弟は、大丈夫ですか?」
彼女は小さな声で聞き、アルディアスは肩を竦める。
「ん、どうも情緒不安定だがまあ元気だ……心配をかけたな、イレース」
彼女はとんでもないというふうに首を振り、不安げに聞く。
「いえ……。それにしても、義弟はどうしたのでしょう」
「さあ、な。あいつに聞いてみない限りは」
イレースは、一瞬目線を扉に移してから言う。
「確か、お嫁さん―ティセラさん、でしたっけ―彼女と、結婚衣裳を町まで見に行ったのではありませんでしたか?」
彼は驚きと感心の入り混じった瞳で彼女を改めて見る。
「……ああ、そうだが……、お前は相変わらずマメだな」
「? 何でですか?」
彼女は訳がわからない、といったふうにきょとんとする。
「よく義弟の行動から結婚相手の名前まで把握していることだ。俺なら絶対にそんなことは言えない」
「……それは、貴方が無関心すぎるんです」
彼女は困ったように微笑みながら言う。彼は頭をかく。
「……そうかい」
「……そんなことより、何が起こったのかわからないのなら、義弟に直接聞いてみては?」
「……それができれば苦労しないんだが。さっきから譫言ばかりで、まともに話すことすらままならん」
彼女は眉をひそめる。
「譫言……どのような」
「『ティセラ……』を繰り返すばかりだ」
「譫言でお嫁さんの名前を……よっぽど、心で想っているのでしょうね。しかし、それでは……お嫁さんに、何かあったのでしょうか?」
彼は肩を竦める。
「わからないが……、森の中ではぐれたか?」
彼女は人差し指を顎に当てる。考える時の、彼女の癖だ。
「まさか……あの道は一本道です。『魔物の棲む森』と呼ばれていても、まさか本当に道が変化するはずがありません」
彼は同意するように頷く。
「……そうだな。しかも、奴は森の入り口のところに倒れていたんだろう?妙な話だ」
「ええ……」
彼女は心配そうな顔を扉に向けると、ふう、とため息を漏らす。彼女は、昔からそうだった。出会ったあの日から、彼女が背負う必要のない荷物までを背負ってしまう。ある意味で、悩みを一番相談してはいけない相手であるのだ。基本的に聞き上手で、頭もそれなりに切れるのだが、相談すると彼女まで共に悩んでしまい、遂には相談した当の本人よりも気に病んでしまうことすらあるのだ。そう、彼女は少し優しすぎるのだ―優しいことを、悪いこととは言わない。むしろそれはいいことだ。強いのは、ただ、人に痛みを与える人ではなくて、人の痛みをわかることができる人間なのだ。しかし、他人に、問題を解決するだけの努力をさせて、たとえ彼がその中途で痛みを受けても、それを見守ってやれるだけの強さがないと彼のためにはならない。……それに、共に痛む彼女の姿を見ている方が、はらはらするのだ。だから彼女に惹かれた、ということもあるが。
「……? どうかしましたか?」
彼女は首を傾げるが、彼は首を振る。
「……いや、何でもないんだ」
そして、彼は彼女に微笑みかけた。
「……さあ、すっかり遅くなっちまったな。飯にしよう」
彼女も答えるように微笑む。
「……そうですね」
彼は誤魔化すように提案し、彼女も誤魔化されるように承諾した。二人は扉から目を切り、居間へと向かう。
† †
「ティセラ……どこへ行ったんだ」
布団の中で、彼は呟く。既に答えがわかっていることを確認するかのように。
―ティセラは森にいる。逃げ出したお前の帰りを待っている。
「違う……あれは……」
―違わない。あれが、お前の愛する人だ。
「いやだ……」
―逃げるな。それが、現実だ。彼女は、呪われた。
「呪い……」
話に聞いたことはある。魔と契約を交わし、己の何か―寿命や恋人、魂や記憶など―と引き換えに、圧倒的な人外の力を手にする……しかし、それを聞いたのは御伽噺である。現実に存在するなんて……。
「ティセラ……」
もう、二度と―会えない、のだろうか。
いや、そんなはずはない。家に帰れば、もしかしたら、彼女が咲いながら『お帰りなさい、どうしたの、そんな浮かない顔して』などと言ってくれるかもしれない。
「そうだ―家」
二人で一緒に生活していたあの場所。
もしかしたら、ただ単に自分たちははぐれただけかもしれない。あれは、悪い夢だったのかもしれない。もう既に、彼女は家に帰っているのかもしれない。
―都合のいい妄想を……
「うるさいッ」
彼は心に響く声を掻き消すようにそう言うと、バッと立ち上がる。立ち眩む頭を無視して、彼は扉から外へ出る。
† †
「……!」
イレースは目を見開く。その手には、温かい食事の乗ったトレイ。その目の先には、夏風に揺れる布団。
その中にいるべき人は、どこにもいなかった。
† †
「グ……」
私は口を閉じた。―いや、本当に閉じることができているのだろうか?感覚がない。自分の体ではないかのように。泣きたかったが―涙が出ない。まるで、体が泣くことを忘れてしまったかのように。
「アォォォ……」
自分の口から発せられたものとは到底思えない不気味な『音』が、自分のものとは到底思えない不気味な『口』から発せられる。
……私は―どうなってしまったのだろうか。自分の今の姿を見ることはできないが―きっと、凄まじい形相を呈しているのだろう。
それは、彼が逃げ出してしまうほどに。
―あんなにも、愛し合っていたのに。
黒い何かを巻き起こさせるその声は、彼女の中で強く響いた。彼女はそれを振り払おうとするが、その声はより強く、甘く、黒く響く。
―彼は。お前を捨てた。
彼女は抗うように反論する。そうしないと、理性が崩壊してしまいそうだったから。
……違う、捨てられてなんていない。彼はただ……
―彼はただ……逃げただけ。そうだろう。
逃げてなんていない。彼は、きっと……
―戻っては来ない。もう、三日も待っているのだ。
三日……そうだけれど……
―彼は、お前を捨てたのだ。
……そん……な……
―受け入れろ。そして―
憎め。
恨め。
自分を捨てた彼を。
戻ってこなかった彼を。
「グラァァァッ!」
彼女は、永劫に拡がる夜空へ向かって大きく吼えた。
その時、
がさり、
と何かが身じろぎする音がした。
そちらを見やると、人の形をした生き物が立っていた。
顔は、よく見えなかった。
けれど、それは、もしかしたら―彼かも、知れない……
そう半ば期待しかけた心を、黒い声が制する。
―殺せ。
誰だろうが構わずに。
今やお前は、素晴らしい力を手にした。
その力を―殺戮に、使うのだ。
お前を陥れた世界への―報復だ。
破綻した論理。しかし彼女の頭には、最早それを不道理と感じるほどの理性が残っていなかった。ただ、渦巻く衝動が、彼女の頭を駆け巡っていた。
「ウグワァァァァッ!」
ソレは一声大きく咆哮ると、歩いてきた何かに向かって飛び掛り―瞬間見えた驚愕に見開かれた顔は、アレのものではなかった―、そしてソレは、不気味に長い腕を、人間の頭部にめがけて力任せに叩きつける―
† †
彼は扉を開いた。夜だというのに明かりさえ灯らない、閑散とした部屋。
―彼女と共に過ごした、二人の領域。
「……」
彼は憑かれたようにフラフラと中に入ると、目の前に広がる闇に向かって声を投ずる。
「ティセラ……」
お帰りなさい、遅かったわね―遠い空のどこかで、そんな声が聞こえた気がした。それは、彼が最も欲し、そして今はどこかへ言ってしまった日常。彼ははっとしてあたりを見渡すが、どこを見ても変わらぬ、黒く塗りつぶされた風景だけが目に飛び込む。彼は現実を認めないかのように、もう一度声を張る。
「ティセラ……?帰ったぞ……」
しかし、闇は残酷な沈黙を守り続ける。彼はゆっくりと家内に入ると、覚束ない足取りで家中を歩き回った―彼女を、探すように。
そこに、彼の求めた影はない。ただそこにあるのは、かつての生活の名残、彼女の幻影。心のどこかでは、彼女にはもう会えないと感づいていながら、彼は彼女を求める。
「……嗚呼」
彼はそう嘆息すると、フッと、操り人形の糸が切れたように地面に崩れ落ちた。 温かいはずの床が、今日はどうしても冷たかった。
立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。まるで、動力源が尽きたように、体は一切の意思を拒む。うつ伏せに倒れた彼に、やがて眠気の波が押し寄せる。
抗おうという気さえ起こらない。彼はそのまま、目を閉じた。
……そういえば、食事をしていなかったな……
そんな、どこか間の抜けたことを考えながら、彼の意識は、緩やかに沈んでいった。
† †
―ソレは、最早人ではなかった。
大地に臥せった、人だった肉塊。
赤黒い液体が染み出る、拉げた頭部。
傍らに、不気味な形相の魔物。両の手にも、赤黒い液体。
「ガァァァァッ!」
広がる夜空、届かぬ思い。
大きく吼える、醜い獣。
その目に浮かぶは、少しの諦念と後悔。そして、絶望的に多い狂気の色。
―ソレは、最早人ではなかった。
† †
……
…………
………………
そこはどこだろう。
初めてみたような気もするし、いつも見ていたような気もする。
他の通行人に紛れて、二人の人間が、寄り添うようにして歩いていた。とても幸せそうに談笑しあう二人には、どちらにも見覚えがあった。一人は、憎ましいまでに愛した彼。
もう一人は、彼よりもよく知っていた。毎朝鏡で見ていた、決して好きではない―あれは、自分だった。何かを楽しそうに話し、時折笑いが混ざる。彼らは、妬しいまでに平和で、残酷なまでに幸せで―
そこへ、明るい蒼穹に暗い暗雲が垂れ込める。自然からの逸脱さえ感じさせるその黒い雲は、やがて人の顔へと形を変えてゆく。憎しみに歪み、二人を睨むその顔。その口が小さく動くと、歩いていた女の姿が見る見る変貌してゆく。醜い顔に、巨大な体躯。不気味なまでに長い腕。変わり果て行くその女は、さっきまで幸せそうに咲っていた自分ではなくて、線が細くて、明るめの漆黒の長髪を腰にまで伸ばした若い女性―ティセラと呼ばれていた、彼女だった。男も、恨めしき彼ではなくて、茶髪の、あの男。彼は彼女の前から逃げ出し、魔物は絶望に嘆いて、通り行く人を虐殺していく。やがて殺す人がいなくなると―ソレは、自分自身を殺してしまう。その目から、涙を流しながら。
やめて、と声に出そうとするが、声は出ない。のどが、カラカラに渇いている。
ああ、何ということを―幸せは、二人だけのものなのに、なぜそのような仕打ちをするんだ―
―雲が、口をゆがめて嘲笑う。
それは、自分。
………………
…………
……
「……はッ……!」
誰かの喘ぐ声が聞こえた。彼女はそれで目を覚まし、やがてそれが自分自身のものだったことに気がつく。
「…………」
悪い、夢を見た。私のような魔女にしたって眠るし、魔女だって夢を見る。
もちろん、悪夢も。
夢に見たのは、二人を引き裂いた自分の姿。
自分がかつてされて酷く―とても、酷く傷ついたことを、再び他人に繰り返している愚かで醜い魔女の姿。
「……嗚呼」
彼女は怠い体を起こし、嘆息する。
……あんなことが、やりたいわけではないのに……
しかしそれは、弱者の言い訳。
実際に、やってしまったのだ。
幸せの蕾を刈り取るというなんとも罪深いことを―いや、それは今回に限らず、今までだってそうだ。森には呪いを掛け、動物達は虐げ―そして、何の関係もない美しい女性を怪物へと変貌せしめた。その結果、男は逃げ出し、女は残された。そして彼女は―人を、殺めた。
……違う。こんなのは、歴史の繰り返しだ。憎悪と復讐の無限螺旋。断ち切らなくてはならず、そして断ち切れなかった重い、重い鎖。それは罪悪感となって彼女を押しつぶす。
―なぜお前が、罪悪を感じなくてはならないのだ?
その声は、甘く、冷たく響いた。
―お前は、かつてされたことと同じことをしたに過ぎない。憎悪と復讐の連鎖……そんなもの、人間が古から繰り返してきたものではないか。お前はあくまで自然の摂理に従ったまでではないか。
「……」
彼女は葛藤に口を歪め、そのまま外へと出て行った。
† †
暗い。
どこまでも―暗い。
何も見えない。
希望なんて―一欠けらも無い。
ここは、どこだろう。
懐かしい香りのする―ここは、一体どこだろう。
そうだ。
ここは―家、だ。
うっすらと目を開けると、眩い火の光が網膜に飛び込んでくる。それと、もう一つ、心配そうに彼の顔をのぞく、端整に整った女性の顔。
「……!」
「あ……大丈夫、ですか?」
しかし、それは彼の期待した人の顔ではなかった。しかしある意味で、彼の欲した人なのかもしれなかった。
「……義姉さん」
「ええ」
彼女は、綺麗に微笑んだ。それから、彼は彼女が自分の安否を気遣ってくれているのだと気付き、やつれた顔で小さく声を出す。
「……何とか、大丈夫」
「そうですか。よかった。食べ物を持って来たのですけど、食べますか?」
彼はふと、彼女が腕に下げていたバスケットに目をやった。途端、忘れていた空腹感がよみがえる。彼は頷くと黙ってバスケットを受け取り、我を―彼女のことをいったん忘れたように中身を胃に納め始めた。その間、イレースは微笑んだまま彼を見守っていた。無表情とはいえ、やはり、自分の作ったものをぱくぱくと食べてくれるのは嬉しかったのだろう。
やがて彼がバスケットを空にすると、彼女は労わるように聞いた。
「どうでしたか?」
彼はぼんやりとした表情で答える。しかし、顔色は幾分良くなっていた。
「ああ……美味しかった」
「よかった」
彼女は空のバスケットを受け取ると、微笑んでいた顔をキッと引き結び、静かに口を開いた。
「……余りこういうことは言いたくないのですが、勝手にいなくなってはいけませんよ。アルディアスも心配していました」
アルバートは薄く頷く。
「……ああ……すまなかった」
「はい」
彼女は顔に微笑を戻す。元々、糺すのは彼女の領分ではない。どちらかといえば―いや、どちらかと言わずとも、静かに微笑んでいるほうが、彼女の性にも合っていた。彼女は続けた。
「けれど、無事でいてくれてよかった……もう大分落ち着きましたか?」
「……ああ」
彼は小さく肯んずると、やがて質問の声を返した。
「ティセラを……知らないか」
彼女は少し悲しそうな顔をして、首を振る。
「私たちは貴方の看病があったので動けませんでしたが、代わりに、先程町への用事があるという私の友人に捜索を依頼しましたが、音沙汰がありません」
「……そうか」
低かった声色がさらに低くなる。明らかな、落胆。それに、彼女の手落ちは一切無いということも明らかなのに、しかし彼女は、何も知らない自分を不甲斐なく感じた。彼女は、少し重い声を出した。
「……すみません」
彼女は悲しそうに目を細め、再び労わるように続ける。
「……では、ベッドで安静にしていて下さい。彼女のことは、心配ですけれど……今は、待ちましょう。もしかしたら、ひょっこりと戻ってくるかもしれませんしね」
それが恐らくありえないだろうことは、アルバートは無論だがイレースも感づいていた。既に三日が経っている。彼女が今無事であるという保証はどこにも無い。それでも、彼を少しでも和らげたいという思いから、彼女はそれを口にしたのだ。それを知ってか知らずしてか、アルバートは少し声色を上げて答える。
「……そうだな」
イレースは、悲しそうに眉を下げたまま、目と口だけで微笑む。彼女は、敢えて彼に事情の説明を求めなかった。保護する者として、彼らに何があったのかを知るほうが先決であるということは、彼女にも分かっていたが、そうして余計に彼を混乱させることを心配したからだ。ティセラのことも心配だが、友人に捜索を依頼するに留めることにした―彼女だって大人なのだから、よっぽどのことが無い限り、何とか生き延びているはずだという、言うなれば希望的観測によって。
―もし、彼女が三日前から森に入っていった人が皆―アルバート一人を除いて全員未だに目的地にも家にも至っていないことを知っていたら、彼女は混乱を強いてでも、彼に説明を求めていたに違いない。
このすれ違いが、悲劇を生んだのだから。
† †
「ぐッ……あああああッ!」
体が、地面に吸い込まれていくような感触。大地に叩きつけられる、ドサリと言う音。心配そうに人探しを依頼してきた彼女の顔を思い浮かべながら、彼は苦痛に呻く。目の前にあるのは、圧倒的な暴力。
「グォォ……ガッ!」
そして、ソレは、長い腕を、倒れ伏す彼の頭部に叩きつける。強い―生命活動を保つには余りに強すぎる絶望的な衝撃を一瞬感じ―それに続く、ぐしゃりというどこか間の抜けた音。その音が、彼が最後に知覚した、世界の欠片だった。
真紅に染まりゆく、最早動かぬ男だった肉塊。ソレは腕を振るようにしながら一声吼える。
「グラァッ……ガァッ!」
しわがれた声、血に染まる顔。狂気と狂喜に淀んだ瞳に映るのは、どこまでも深くどこまでも残酷な、黒い森。その奥に彼女は、一人の男の影を欲していた。
『嗚呼……』
まだどこかに残っていた、理性の欠片。やがて闇に埋もれゆく彼女の名残は、ひしひしと感じていた切なさに遂に耐え切れなくなり、小さなため息を漏らした―そしてそれは、大きな咆哮となってソレの口から出る。
「ガアアッ!」
彼は、まだ現れない。
―破壊セヨ。
まだ、迎えに来てくれない。
―殺傷セヨ。
これまでも、きっと、これからも。
―殺戮セヨ。
―彼は、戻ってこない。
戻ってきたら、
きっと私は、
彼がもう二度と逃げないように、
二度と裏切られないように、
彼を、
―殺スだロウ。
「ウ……ドグワァァァッ!」
僅かながら彼女のうちに残っていた理性―罪悪感、嫌悪感、それから期待は完全に闇に呑まれ、ただ、無限の破壊衝動だけがその体を満たしていた。
―そうして、彼女は、完全に魔物となった。
† †
イレースが、捜索を依頼して三日目。彼が彼女と会っていないのは、これで六日目となる。今や日常生活に支障を来たさない程度には精神的にも回復した彼は、椅子に座り、テーブルの上で本を読んでいた。『古の魔術』。ちょっとした読書家のイレースに頼んで持ってきてもらった。もしかしたら、何かが分かるかもしれなかったから。今、彼女の元に行っても自分にできることはない。むしろ、彼女を傷つけるだけだ。彼女を元の姿に戻す方法を調べることが、今するべきこと―彼はそう信じていた。あるいは、そう思い込んで現実から逃げようとしていた。
しかし、その本の記述の中に、魔物に変わり果ててしまうというものはなかった。ただ分かったのは、魔術を使うものの性質―魔術師は水に溶けてしまうことや、寿命が長くなること、等―や、ちょっとした魔術の一例だけ。人から人間であるということを奪い去ってしまうという残酷な呪いの記述は、この本の中にはなかった。彼は仕方なしに―半分暇つぶしに、漫然とページを繰っていた。
窓から差し込む優しい初夏の光、鳥達の平和なさえずり、それらを引き裂かないように気を使っているかのような、控えめなノックの音が響いた。彼は一旦本から目を切り、「どうぞ」とだけ言う。
キィ、とドアが開いて、イレースが入ってくる。この二日間、毎日彼女はここを訪れて、食事を置いて、少し話をしてから帰っていく。それは少なからず彼に安息をもたらしていた。
「失礼します……あら、本を読んでいたのですね。邪魔してすみません」
心なしか、少し微笑が固い。どこか不自然に微笑んだまま、イレースはそう言った。内心では、彼の回復に安堵していた。
……しかし、そう安堵できるような状況ではないということも、また事実であった。気になる―あるいは、致命的なことにつながりかねない情報をつかんだのだ。彼女はその真偽を確かめるためにここに来たのだ。
イレースは、傍目から見ていても分かるくらいに若干緊張しつつ、彼の座るテーブル、その向かい側に座る。
「はいこれ。差し入れ、です」
彼女は彼にバスケットを手渡した。彼は例を言いつつそれを受け取る。例を言うこともままならなかった先一昨日からすると、やはり回復の兆候が見て取れる。それを喜び、そしてそれを妨げたくない彼女は、ただ、自分の思い描く予想が外れていることを祈った。
「……義姉さん?」
「えっ……ああ、すみません。すこし、考え事をしていました……もう一度、お願いします」
彼女はあわてて返答し、彼は笑い声を上げながら、しかし目は笑わずに言う。
「はは……ああ。ティセラのこと……何か、分かったか?」
ドキンと、心臓の鼓動が跳ね上がるのをイレースは感じる。そして、自分の顔が固く強張ったのも。しまったと思ったときにはもう遅い、彼は不安に顔を曇らせた。
「……何か、あったのか」
彼女は意を決し、勘違いであることを祈りながらも、いつになく重い口を開いた。出たのは、労わりながら問いただす言葉。
「……もし、貴方の心が未だ乱れているのなら―無理にとは言いません。それでも構わなければ、私に教えてください。あの森で―魔が棲むと言う、あの森で、貴方とティセラさんに何があったのかを」
途端、彼の顔が凍りつく。後悔が彼女の胸を掠めるが、彼女は懸命に振り払う。彼もまた、重い口取りで言う。
「……やっぱり、何か、あったのか」
「今はなんともいえません。あの森で何があったのかを教えてくれれば、私も何があったのかをお話できます」
交換条件。ある意味で一番効果的だが、彼女はこの手法が好きではなかった。しかし、彼女の予想が外れていたという事を考えると、これが最良の選択と言えた―少なくとも彼女は、そう考えていた。
「…………………………………………………………………………。」
永劫という名の刹那、沈黙という名の闇。不自然に長い空白を経て、彼は顔を凍結させたまま言う。
「わかった。話そう。あの日、あそこで、ティセラに何があったのかを」
そうして、彼はゆっくりと語りだした。
やがて、彼女の予想は正しいということが、確信となって否応なく彼女の胸に迫った。
† †
不可思議な出来事、
忌まわしき記憶。
二人歩いた森、
紫色の閃光、
地に伏す彼女、
現れた魔女、
不気味な魔物。
……そして、背を向けて―彼女をおいて、逃げ出した自分。
全てを説明し終え、彼は疲れたようにため息を一つ吐いた。
「……これで、全部だ、……!」
彼は伏せていた顔を上げ、そして驚く。イレースの薄氷色の双眸から、綺麗な雫が頬を走っていたから。
「……義姉さん……?」
嗚咽も漏らさず、目を細めさえせずに、ただ、静かに泣き続ける彼女。思わず彼はそう呼びかけていた。しかし彼女はそれには答えず、ただ、嗚呼、と嘆息した。それはまるで、無力な自分と残酷な運命を呪うかのように。
彼女は涙を拭おうともせずに、静かに言った。
「……分かりました。さあ、私にもお話しないとならないことがあります。辛いことですが、聞いてください」
彼は意を決したように言う。
「……わかった」
イレースは一旦目を瞑り―涙がさらに零れ―また、静かに花が開くようにゆっくりと目を開ける。
「この前、ティセラさんの捜索を依頼した友人が、本来ならば昨日帰ってくるはずなのですが、帰って来ませんでした。それだけではありません。最近―具体的には五日前から、この村から向こうの町へと行く人、あるいはその逆の人―つまり、あの森を通行する人が、ことごとく行方不明になっています。そうして、彼らを探しに漏りに入った人もまた、帰ってきていません……貴方一人を除いて」
「……!」
「森の近くでは、哭きながら笑い、そして嗤いながら泣いているような、獣のようなものの咆哮が聞こえるそうです―貴方の話していた、怪物のしわがれた声のような」
「……そん、な……」
彼は頭を抱えてしまった。恐らくは、自分と同じ予想を抱いて。そして、その苦しみは、自分なんかより彼のほうが辛いに決まっている。それでも、彼女は先を続けなくてはならなかった。
「……それだけではありません。さらに悪いことに、魔物の姿と腐乱死体を見て、逃げ帰ってきたものがありました。彼はそれを王に訴え、王は疑いながらも討伐隊の派遣を即決しました」
彼は顔を上げて絶句する。
「な……」
普通、この手の奇怪な話を王に訴えようものなら、門前払いか無視、良くて適当にあしらわれるのが関の山だろう。しかし、今の王は民の申し立ては余さず聞き、適切な処置を施す―言わば仁君といえる人であった。普段、彼はその王に好意を抱いていたが、この時ばかりは不運を恨まざるを得ない。
いや、そのようなことは問題ではないのだ。運が悪かった、等というのは、何もせずにその所為にしてしまう馬鹿の台詞だ。問題は、それが何を意味すか、だ。
そして彼には、否応なく理解できてしまう。それが、やがて彼女の死につながると。
「ティ……ティセラを連れ戻すことはできないのか?」
彼は縋るようにイレースに問うが、彼女は空しく首を振る。
「……無理でしょう。恐らく、彼女の理性は既に破綻しているでしょう―そうでなければ、あの優しい彼女が人を殺めるはずがありません。……貴方のことを認識できるかさえ、怪しいです」
「そんな……ティセラは……死ぬしかないというのか……!」
彼女は悲しそうに顔をうつむける。まるで彼が彼女を責めているようで、彼の胸が痛むが、今はそれどころではない。
「……余りに、長い時間が経ちすぎました。彼女は今や、破壊と殲滅の徒と化しています。やがて討伐隊に討伐されるでしょう……討伐隊の到着は、明日の明朝あたりということです」
明言はしなかったが、それは何よりも強い肯定に他ならなかった。アルバートは耐え切れなくなったように頭を抱え込み、叫んだ。無常な運命、非力な自分に向かって。彼が単なる被害者だったら、心はもう少し楽だっただろう。しかし、そうではない。彼は、逃げ出し、彼女は、絶望した。そして、人を殺めた。間違いなく、彼は加害者も同じだったのだ。そのことが、彼の心を重く蝕む。
「そんな……ティセラっ……ああ……ッ!」
イレースは、悲しい目に涙を溜めたまま、彼のことを見ていた。
† †
ソレは、不自然に長い両肢の動きを止め、殺戮を中断した。両目に飛び込んでくる、紅い夕日。
―いつか、誰かと見た光景。
ソレは、不細工な頭をゆっくりと擡げる。
―懐かしい、あの場所。
血に塗れた腕をだらりと下げる。
―今はもう失った、あの時間。
「……グ…アォ…」
それは、小さく吼えた。
空っぽの胸を吹きすぎてゆく一陣の風。それが何故に生じたものなのか―理性の破綻したソレには、最早理解の及ぶところではなかった。
それでも、ソレは、何かを感じずにはいられなかった。
……紅い夕日が遥かなる地平線へと姿を隠し、やがてその翼を広げて、暗黒が天空を支配する。夜は近い。昏く微笑む月を背に、ソレは闇へと姿を消した。
† †
『私が一緒にいてあげられるのはここまでです―後は、自分の思う道を進んでください』
その言葉を残して、イレースは去っていった。今や彼は一人、ベッドに横たわって悲嘆と思案に暮れていた。
―ティセラは、もう死ぬしかない。
それが、傲然たる事実として、彼の前に立ちはだかる。
人格の破綻、理性の崩壊。イレースははっきりと言わなかったが、それは間違いなく、逃げ出したのみならず、すぐに彼女の元に駆けつけなかった彼の所為だった。それが理解できてしまう彼にとって、それは耐えがたい苦痛に他ならなかった。
―あの時、逃げ出さずにいれば、
―すぐに、彼女の元に戻っていれば、
―一緒にいてやれれば、
……そうすればどうなったかなんて、彼の知り及ぶところではない。彼は、そうしなかったのだから。だから今、彼は後悔しかできなかった。
逃げ出された彼女は一体何を思ったのだろうか。
想像には難くない。彼に見捨てられたと思い、絶望し、彼を恨んだに違いない。彼女の―否、どの人間の心にも必ず棲んでいる魔物を呼び覚ましてしまったに違いない。
そう。
彼女を殺したのは、自分だ。
なら―どうすれば、
いいのだろうか。
俺は、 ……、
何をすれ ば、
いいの 、 だろう か。
……………………………………………………………………………………………。
ティセラ……。
† †
どこまでも遠く、明るい夕日。
オレンジに染まる彼方。
いつか見た、懐かしい光景。
今はもう、届かない幻想。
隣には、愛しい彼女。
彼女は、笑っていた。
―あんなに酷いことをしたのに。
俺にはもう、君を愛する資格なんてないというのに。
それでも、君はまだ微笑んでくれるのか―
俺は、彼女に謝っていた。
ゴメン―
彼女は、笑っていた。
夕日よりも眩しいその笑顔が、
胸にちくりと刺さった。
『ちゃんと謝ってくれないと、イヤだよ』
そんな声が、聞こえた気がした。
† †
「……!」
眩しいオレンジ色の光が目を差す。彼は、いつの間にか自分が寝てしまっていたことに気がつき、次いで今の状況を思い出す。
「……嗚呼……」
彼はため息を一つ吐く。しかし、その心持が不思議と、不気味なくらいに晴れやかなのに驚いた。何故だろうかと考えを巡らせて、彼は見た夢を思い出す。オレンジの聖域、懐かしい面影。
―そして、空欄だった解答に、いつの間にか答えが埋められていつことに気がついた。
「……そうか」
死を待ち、死を紡ぐ彼女、彼女を愛した彼にできること。彼はその解を、幾度となく反復する。そして、決意を強固にする。
バッと、彼は立ち上がった。立ち眩みは、ない。壁に立てかけられていた一振りの長剣を手に取り―彼は、外へと飛び出した。
† †
どんよりと曇った空の下、深緑に囲まれて一人の女性が空を仰いだ。
「……私は、どうすればいいの?」
長いこと口にしていなかった弱音。それは、今まで自分が強かったからではない。むしろ余りに弱く、吐くことさえ諦めていたのだ。昔は、弱音を吐くときにはいつも必ず彼が傍にいて―
「……うう」
―いや、彼のことは、もう考えたくない。特に、今のような時には、尚更。
「……私は……、どうすれば、いいのでしょうか……?」
幾度目になるか―其の問いを、また繰り返す。それは誰に向けた言葉だろうか。いるかも分からない神か、もういない両親か、血に伏せった彼か。
自分が掛けた呪い。それによって二人の人生を無茶苦茶に破壊し尽くし、さらに、無関係な命が奪われつつある。そのことが、彼女の心を酷く縛り付けていたのだ。
たとえ其の心が憎悪で醜く歪んでしまったとはいえ、生まれながらの悪人などいない。命を弄ぶことは絶対なる禁忌として彼女に刻み付けられていた。
そういう意味では、彼女は魔女になりきることができなかったのだ。幸せ者にも、復讐者にも、あるいは魔女にもなりきれなかった彼女。彼女が犯した罪は、簡単に償えるものではなかった。しかし、それでも彼女は、償いたかった。彼女は今、その術を考え求めていたのだ。
何をしたらいいのだろうか。
どうすれば―これだけの罪を、償いうるのだろうか。
……償い。かつて自分が罪人に求め、そして今は自身がただ求めるもの。
そこまで思考が及び、彼女は一つの―彼女にとって、唯一の贖罪を見出した。
それはやはり、かつての自分が罪人に求めたことだった。
「……簡単」
その心中とは裏腹に、そんな台詞が口を吐いて出る。彼女は自分が出し、正しいと信じたその解に従って、森の深まるほうへゆっくりと歩き出した。
† †
目的地まで、後半ばといったところ。森への入り口が見えてきたあたりで、彼はイレースと出会った。恐らく、彼女は彼を待っていたのだろう。彼が何を決意するのかを予測して。彼女は彼の手にしている剣を見、自分の予測が外れていないことを感じて哀しく微笑んだ。
「……答えは、決まったようですね」
彼は強く頷いた。
「ああ」
彼女は静かに続けた。
「……アルディアスから伝言です。それがお前の選んだ道なら、行け。やって後悔するならいいが、やらないで後悔はするな、と。そして、これは私から。今回の出来事に、黒幕は存在しません。救われぬ人、救われぬべき人、救われるべき人がいます。見落とさないで」
「……、そうか」
彼は小さく答え、一つ寄るべきところができたことを理解する。彼女はそんな彼の様子を見て、優しく微笑む。彼はばつが悪そうに言う。
「……最後まで、貴方に頼りっぱなしだった。はは、格好悪いことこの上ないな……これじゃあ、ティセラに嫌われてしまうよ」
彼は自嘲気味に笑う。
「ふふ、いえ、格好いいです。過程はどうであれ、貴方は貴方の答えをその手に掴んだのですから。きっと彼女は、気付いてくれるはずです……では。貴方の想いが、燦然と輝く星にまで届きますように」
彼女はそう言って、綺麗に微笑んだ。
「ああ―ありがとう」
さようならは言わず、彼は走り出した。さっきよりペースをさらにあげる。ほぼ、全力疾走だ。
† †
―走れ。
愛しい人の下へ。
―走れ。
完全な闇が訪れる前に。
―走れ。
この命、果てたとしても。
―届け。
俺の、
この、想い。
彼女を想う権利さえ、俺にはないのかもしれないけれど。
彼女を救う資格さえ、俺にはないのかもしれないけれど。
そんなこと、知るか。
俺は―行かなくてはならないんだ。
逃げ出してしまったけれど。
裏切ってしまったからこそ。
俺は―謝らないと、いけないんだ。
そして、悪夢を、終わらせるんだ。
そうして、彼は疾風のごとく道を走る。
天空に燦然と一個の星が明るく輝く頃。
彼は、森へと至る。
† †
静かな湖のほとり。手を伸ばせば水に浮かんだ月に届きそうなほど。その岸辺の縁に、彼女は立っていた。深いため息。両手を胸の前で組む。
「……」
犯した罪を償うもの―即ち、死。かつて彼への報復を誓った彼女の考える唯一の贖罪。
彼女は一瞬、死後について思いを巡らせた。自分は楽園にいけるだろうか、などと考えているわけではない。ただ彼女は、死んだら彼に会えるだろうかと考えていた。―もし彼が謝ってきたら、その時自分は、彼を赦してあげるだろうか。それなら、死ぬのも悪くないと、ただそんなことを思っていた。
彼女は橙と紫に染まる空を仰ぐ。
ゆっくりと、その目を瞑る。
そして、体を、徐々に傾けて、やがて重力が彼女を捕らえ、
「―何を、している」
息を切らせながらもなお絞り出すようなその声が響き渡った。
聞き覚えのある、凛としたその声。彼女は振り返る。
「……!」
そこに立っていたのは、茶髪で精悍な顔つきの青年。額に浮かぶのは大粒の汗、顔に浮かぶのは疲れと決意。そしてその目に浮かんでいたのは何か。彼女には、分からなかった。
―そしてその右手には、長い剣が握られていた。
「探したぞ。お前、あの魔女か」
「……ええ、そうよ」
彼女は振り向いて答えた。わざと、挑発するように。死ぬのなら、彼に殺されるほうが道理に叶っていよう。憎まれながら死ぬ、何かを憎み続けた自分に相応しい末路ではないか。なら、自分は悪役のまま死のう。
「……うふふ、わざわざお迎えだなんて、ご苦労様ね。いかな魔の力を得たとて、その剣で心臓を貫かれては生きていら」
しかし、彼はその言葉を遮って言う。彼の頭に浮かんでいたのは、前に読んだ書物の一節。
「魔女は水に溶けるという。お前、死ぬ気か」
魔女は口をつぐむ。彼はそう言い―しかしその後、彼女が想定していたのとは全く別の―むしろ正反対の言葉を続けた。
「―死ぬな」
「……!?」
彼女は驚きに揺れるが、彼は構わず続ける。
「……勘違いするな。俺はお前を赦したわけじゃない……むしろ一生掛かったって、俺はお前を赦せはしないだろう。だから、お前を死なせない」
彼は強く、強く、言い切った。
「……!」
「死ぬのは簡単だ。すぐに済む。けれど、それは罪から逃げているのと一緒だ。逆に、罪を背負ったまま生き続けることは辛い。やりたいことやって、さっさと死んで楽になるなんて勝手なこと、させるか。死ぬのが贖罪?違う、死ぬのは逃避だ。だから」
彼は一旦そこで言葉を切り、目を閉じる。深く息を吸ってから、再び彼は続ける。
―彼女の頬を一筋。長く忘れていた何か。生ぬるいそれが伝う。
「生きろ。どんなに辛くて惨めでも、どんなに苦しくて嫌でも、生きて生きて生き抜いて見せろ。お前のような存在がどのくらい生きるのかは知らないが、犯した罪を背負いながらその生を全うするんだ。お前の罪はやがて、その生の中で裁かれていくだろう」
魔女は―魔女だった彼女は、震える声で問い返す。
「それで―あなたたちは救われるのですか」
彼は答えた。
「……さあな。ただ、俺達の分までお前が精一杯生きてくれれば、俺達の物語をお前が受け継いでくれるのなら、俺達は、少なくとも報われる」
「……!!」
彼女は驚きも露わに目を見開く。緋色の両の瞳から、さらに透明な雫が零れる。
「わかったら―さあ、顔を上げろ。生きろ。俺達の物語を、ここで終わりにするな」
そう言って、彼は踵を返すと走り出す。あっという間に、森の中へと消えていった。
がくりと膝を折る。拭うことも忘れ、久しぶりに―本当に久しぶりに、彼女は嗚咽と共に双眸から涙を流し続けた。
―鎖は、断ち切られた。後は、彼女が変わるだけだ。
橙と紫に染まる空に、綺麗な月が浮かぶ。
夜が訪れる。
† †
ソレは、動かしていた両の足を突然止めた。鬱蒼と茂る木々が、そこだけ切り取られたようにぽっかりと空洞が作られていた。ドーム状に広がるスペース。
そこは、忌まわしく哀しい、愛惜しく憎ましい記憶が刻み込まれているあの場所。
ソレは両手をだらりと下げ、闇の彼方へと目をやる。
―足音。
「……!」
―規則的な、吐息。
それは動揺したように体をびくんと揺らす。
―黒いシルエット。
夕日はもう沈んだが、その余韻をまだ遠く空に残している。ソレは、それが誰であるのかを認識し、
―失くした筈の場所が、空しく疼いた。
「グラァァァァッ!!」
それは一際大きく、どこか切なく、月に向かって吼えた。
† †
やもすれば鼓膜が破れかねない轟音を受けるが、彼は何事もないかのように歩き続ける。彼は愛しい彼女の前に来ると、頭を下げた。
「逃げ出して―裏切って―傍にいてやれなくて―ゴメン」
ソレは目を見開く。
「……ァ…、ガァァァァッ!」
ソレは一声叫ぶと、右手を振りかぶって、彼の頭部へと渾身の力を込めてなぎ払いを食らわせる。
彼はその姿勢のまま、それを避けなかった。
「……!」
中に放り出されるように。体が吹っ飛ぶ。束の間の開放感と、次いで来る重力の束縛。転地が逆転する中、彼は飛びかける意識を懸命に保つ。
彼は背中から地面に落ちて、大の字に横たわる。意識が混濁し、視界が紅く染まる。
「ウガァァッ!」
それは追い討ちを掛けずに、ただ咆哮した。
彼は手放さなかった剣を支えにし、フラフラと立ち上がる。その顔に、とても優しい微笑を湛えながら。彼は立ち上がると、両手を広げる。
「ティセラ……」
ティセラと呼ばれたソレは、びくりと反応するが、その動揺を打ち消そうとしているかのように彼に飛び掛り、体全体でタックルする。彼は敢え無く吹っ飛び、地面に転がる。
「ぐ……がふッ」
吐血。鉄臭い味が口の中に広がる。転がったまま、微笑んだまま、彼は言う。
「近いうちに……王の討伐隊が、お前を殺しにやってくる。今までの人とは違って、今度は殺戮のプロだ。お前はこのままじゃ、一遍の情けも容赦もなく、見ず知らずの奴らに消されてしまうんだ」
「ウ……ガァッ!」
ソレは彼の言葉を遮るように跳躍し、彼に馬乗りになる。かつての彼女からは到底想像し得ないその圧倒的な重量に彼は苦しげに顔をしかめながらも、笑顔を絶やすことはなかった。
「それは、全て俺のせいだ。俺がお前を裏切りさえしなければ……お前の中の魔物を目覚めさせずに済んだんだ」
「ガァァッ!」
ソレは雄叫びを上げながら両手を振り上げ―そのまま、振り下ろす。単純がゆえに破壊的な行為。次は、勢いよく掲げた左手を勢いよく下ろす。次は右手。左手。右手。左手。右手。左手。右手。左手。右手。左手。……やがてソレは腕を止めると立ち上がり、彼を思い切り蹴飛ばした。彼は無抵抗のままに吹き飛ばされ、立っていた一本の木に激突。ボキリという嫌な音。そして、その根元に座り込むように彼は倒れる。
人力を超えた力。
圧倒的な暴力。
彼は最早虫の息だった。体中を駆け巡る苦痛を感じながらも―まだ、彼は微笑んでいた。
「ぐ……ッ、……」
声にならない苦悶。はぁ、はぁ、と肩で弱い息をする。真っ赤に染まった顔で、ソレの顔を見返すと、彼は再び剣を支えに立ち上がると、今度は、刀身を覆い隠していたその鞘を外し、地面に転がす。
―そして、とぎれとぎれになりながらも何事もなかったかのように、さっきの話の続きを語る。
「ッ……だから、」
彼は愛しい者に向けて、精一杯の笑みで愛を伝える。
「―せめて、俺の手で、愛しい君を殺そう」
「あ……」
彼女は声を漏らした。その声は、先程までのようにしわがれた声ではなかった。
彼は覚束ない足取りで彼女の元へ歩み寄る。お互いに手を伸ばせば届きそうな距離にまで至って、彼女は攻撃をする。
一歩、
「ガァッ!」
右手を振り上げ、そのまま下ろす。彼は刀身の面の部分を使って、彼女の手を傷つけないように攻撃を受け流した。
一歩、
今度は予備動作なしの突きを左手で入れるが、彼はボロボロの体を苦にもせずに、瞬時にそれを避ける。
結果、彼は彼女の懐へ入り込んだ形になる。
そして、一言、
「ティセラ……」
びくりと揺れ、彼女は動きを止めた。彼はさらに一歩を踏み出し、彼女と密着する。
そして、剣を持ったまま、両腕を彼女の背に回した。
「あ……」
愛しい彼女の声。彼は目を瞑り―その目から血色の涙が零れ落ちた―そして、彼女を抱擁する。彼女の目もまた閉じられ、透明な雫が零れる。
「ティセラ……ごめん。そして……、ありがとう」
彼は彼女に想いを伝え終わると、愛惜し気に右手を彼女の背中から離し、剣を逆手に持つ。そして、それを自分に貫くように勢いよく剣を振るう。
「……あ……」
長く鋭い剣は彼女の体を完全に刺し貫いた後―さらに、彼の体をも貫いた。
「ぐ……」
彼は剣をいっぱいに突き刺すと、やがてゆっくりとそれを抜く。二人の血の色に染まった剣が、月の光で綺麗に映えていた。
二人は、アルバートを下に、ティセラが上に覆いかぶさるように倒れた。信じられないほど重かった彼女の体躯は、元の軽い体に戻っていた。夜風になびく黒髪が、少しくすぐったい。彼が剣を握る手に重ねるように添えられた手は、雪のように白く光のように暖かい、華奢な手。目の前で微笑んでいたのは、目にいっぱい涙を溜めた、愛しい彼女。
恋人達は何を言うでもなく、ただ、お互いに見詰め合っていた。
―そして、ただ一言、
『ありがとう……』
そう声に出すと、二人は震える唇を、そっと重ねた。
永遠の愛の誓い。二人は、淡く微笑む月の下、最期まで―最期を迎えても、その唇を離すことはなかった。
† †
翌日、王命を帯びて派遣された討伐隊が到着した。彼らは、耳を劈くような雄叫びの代わりに鳥達のさえずりを聞き、話に聞いた世にもおぞましい魔物の代わりに、腐乱した殺戮の跡と、奥のほうで折り重なりあうように、抱きしめ合うように、愛し合うように倒れて死んでいた男女を発見した。魔物の正体はなんだったのか、なぜ人々はこのように無残に殺されたのか、そして奥で冷たくなっていた恋人達は何を想って死んでいったのか―。
全ては依然、謎のままである。
† †
「……嗚呼」
冷たい湖のほとりで、長い髪の女はため息を吐いた。彼女は彼らがどうなったのかを、見届けはしなかったが知っていた。風が、無言で吹き通るだけだった風が、その重い口を開いて教えてくれたのだ。
自分に生きろといった彼。彼はきっと、愛しい者の元へ帰れたのだろう。そして、暖かな草原の傍ら、清らかな小川の傍で、二人で愛を謳っていることだろう。
「次は―私の、番」
そう言って、彼女は立ち上がり、突きが薄く消えて行く、薄明るくなってきた空を見上げた。
―黒色の絶望は切り裂かれ、金色の希望が一条、差し込んだ。
そして、彼女は朝日に誓う。
さあ、今こそ、呪いを解こう。
森の中に消えていった彼のように、自身に掛けた呪い―憎しみという呪いを。
そして、彼女は思いを胸に刻む。
彼らの分まで生き抜いて見せよう。
そうして、彼らが報われるならば。
―そうして、彼らが永遠になるならば。
私は、彼らの物語を、繋ごう。
彼女は朝日の昇る方を見やる。どこまでも明るい金色の光。
今はまだ、余りに眩しすぎるけれども、いつか必ず。あの太陽の下で笑おう。
―それで、呪いが解けるのなら。
顔を出した朝日が優しく微笑み、温かな風は優しく彼女の頬を撫でていった。
昏かった空は、今や明るく輝き、暗かった湖は光に煌く。
彼女は天を仰ぐと、ゆっくり、そして確かに歩みだした。
明日へ向かって。
―其の決意を、胸に抱いて。
―†FIN†―
前書きで言ったように、この作品では文章を頁に散りばめることでの場面表現を試みています。俗に言う散らし書きって奴です。ただでさえ読みにくい文章なのに、これ以上見難くしてどうすんだー!!と思われた方も多々おられると思います。
……。
……ごめんなさい!調子に乗りました!次からはちゃんとやります(多分)!
……はい。以上、「魔物の棲む森」でした。ちなみに、この作品は想定当時、自分のある作品のスピンオフ作品として構想していました。「獄門の構え」、後はアルディアスとイレースのくだりなど。あの二人の過去には実は壮大な物語があるわけでして。……まあ、それをノベライズできるかは(する気もあるのか)微妙なところです。もう早くも次の作品を書いているので、難しいかな。知りたい人がいたら教えてください。後書きに追記、という形で想定していた彼らの過去を書きます。ちなみに今書いてるのは、世界を破滅させかねない力を持った少女の話です。途中で挫折しなければ、投稿できると思います。
さて、これはSound Horizonという楽団の音楽からインスピレーションを得ました。恋人を殺し、自分も死ぬ。一見どろどろしてそうだけど、実はそうでもない、誰も救われてなさそうだけど実は誰かが救われてる、そんな中途半端な作品をめざしました。コンセプトは、「黒幕がいない物語」。というか、作者が元々ヤンデレ好(以下略)
というわけで、今後の参考のため、感想をお願いします。
最後に、この物語が貴方の心に多少でも影響を与えることができたら光栄です。
あなたと私の交点の存在に無上の感謝を送りつつ。