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異世界、ディルクの家で暮らすのに、蓮に大きな不便はない。現代っ子に必須なスマートフォンが使えないのには慣れないが、他の便利家電はなくても類似品が多く存在している。空調に至ってはディルクが魔力を流すだけで、一日中ずっと快適な温度に保ってくれた。
今までは、ほぼ寝に帰るだけだったので、空調はあまり使っていなかったらしい。たいして魔力を消費するものではないと、蓮の心配を先回りしてディルクは付け加えた。
それと家が最低限清潔に保たれているのは、通いの使用人のおかげだと知る。家事全般があやしいディルクなので、納得の事実だった。今後は蓮が家事全般を請け負ってもいいが、使用人の仕事を取るのはよくない。
「食事は、使用人が来ない日に作ればいい?」
このあたりかな、と推測して訊いてみる。蓮の作る適当な料理よりも、専門とする使用人が作る料理の方が、食べ慣れていて口に合うはずだ。
「その、できれば、レンに毎日作ってほしい」
だめだろうか? と窺う姿が、ぺしょりと耳を伏せた大型犬のようで、妙に庇護欲をかきたてられる。ぎゅん、と蓮の心臓がときめきを伝えた。
「いいよ」
喜んで! と、心の中で付け加えて即答する。元々そのつもりではいたのだから、問題ない。
ぱあっと瞳を輝かせるディルクに、く、と蓮は息を詰める。なんだこれかわいい。犬にするような感じに、よしよしと頭を撫で回したくなった。
「食材の調達は今まで通り、通いの使用人に頼むがいいか?」
「もちろん」
蓮では、ひとりで買い物に出て、何かあれば対処などできない。物価の相場も、なんなら貨幣の価値もわからない。迷子になったら、帰宅も困難だ。
一緒に出かけた際にざっくりと説明されたが、一度歩いただけで記憶できた自信はない。うろ覚えでしかない道を一人で歩き、スマホもないのにうっかり迷子になるなど恐怖でしかなかった。
案内看板があるのかもわからない。あったところで現在地も、目的地も理解できる気がしなかった。
「レンは騙されやすそうだし、な」
気遣いに安堵したが、付け加えられた台詞には納得がいかない。ディルクの方が、よほど騙されやすいのではないかと言いたかった。
希望の食材、それに限らず日用品でも、欲しいものがあったら言いつけるといいと、使用人のカルラを紹介してくれる。感じのいい、母親くらいの婦人だった。
蓮を見た途端、「まあ、まあ!」と声を上げていた理由はわからない。警戒されたわけではないようで、笑顔で「何なりと申し付けください」と言ってくれた。
食事は蓮が用意するので、これからは作り置きもいらないと言えば、その笑顔は深くなる。毎日食事を家で作り二人で食べるのなら、もう少し食材を届ける頻度を増やすか、買い置きの量を増やすと請け負ってくれた。
「なんか、食えないもんある?」
食事を作るにあたって、蓮はディルクに訊いてみる。苦手な食材は考慮する程度だが、体質的に受け付けないものがあれば、知っておきたかった。
「とくには、ないな」
「なら、適当に作るから、もしなんかあったら都度言って」
「わかった」
「リクエストも、どーぞ。俺が作れるもんに限りだけど」
この世界特有の料理は無理だ。教えてもらえば作れるようにはなるだろうが、独学で学ぶにもまず食べて見なければ、未知のものはどうすることもできなかった。
「わかった」
なんて言っていたのに、一緒に食事してみると、気付くことがある。嫌いなものはないと言っていたが、どうやら茄子もどきは苦手なようだった。
食べられないわけではなく、苦手。わずかに寄る眉根が、蓮にそれを教えてくれた。
自己申告がないので、知らないふりをしている。わからないように混ぜてみたり、時々わかりやすく入れてみたりすると、ディルクの見せる反応が、なんだかかわいくて、微笑ましくて、蓮は口元が緩みそうになるのを毎回必死で堪えていた。
表情が乏しいとも言えるクールな面差しが、案外表情豊かなのだと蓮は気づく。むしろ、年下だと思えばとても可愛く見えた。
元々蓮は可愛いものに弱い。主に動物なのだが、対象は存外広いのだと知った。
「レン」
朝食の後片付けをしていると、すっかり支度を終えたディルクに呼ばれる。手を止め振り向くと、言葉を継いだ。
「明日は休みだ」
「あれ? 三日後じゃなかった?」
「代わってほしいと言われた」
「そっか。りょーかい」
休みに変更があるのは、騎士団ではよくあることだ。月初めに予定を渡され、それにそって休日を取るのが基本だが、団員が各々、自分の予定に合わせ交代するのは許されていた。
「ん? どうかした?」
予定を伝え終えたのに、ディルクはその場に立ち尽くしている。何か言い淀んでいるようにも見えて、蓮は話を促した。
「休みの日の朝食は、ホットケーキなのだろう?」
「ぅん、ホットケーキだな」
重要事項を確認するような顔で訊いてくるので、蓮は軽く息をつめるが、すぐに平然を装い答える。明日の朝食のメニューは、たった今決まった。
表情を隠すように、ディルクがさっと背を向ける。一瞬だが、その口元が、緩んでいるのが蓮には見えた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
姿が完全に見えなくなると、蓮は洗い物を一時中断する。手を拭き、ふらふらとソファのところまで行くと、手のひらで顔を覆い倒れ込んだ。
(くっそかわいいな?!)
悶えずにはいられない。本人は似合わないからと、甘いものが好きなのを隠している。実際蓮も、ディルクは出せば食べるけれど、なければないでいいと思っていた。
甘いものがなくても、生きていける人は多い。けれど、蓮のように幼い頃から甘いものに囲まれた生活をしていると、あって当たり前でない方が落ち着かない。
やっぱりどうしても無性にホットケーキが食べたくなり、前回のディルクの休日に朝食として出した。休日の日の朝食は、ホットケーキ――甘い物でも許されると言い訳を添えて。
眉間にシワが刻まれるのを覚悟していたが、ふわふわに焼いた厚めのホットケーキに、バターをたっぷりとしみこませ、好みではちみつやジャムをのせたものをディルクは気に入ったようだった。こうして、滅多にしないリクエストをしてくれるくらいには。
なんだかそれが、とても嬉しい。
二十歳を過ぎている蓮は、それなりに女性とのお付き合いも経験している。一人暮らしをしている者同士なら、泊まりあうこともあった。
その時に、いつもの習慣で作って出すと、最初は笑顔で喜んでくれる。二度目になると、少し表情を曇らせて。
やがて自分より料理の手際も味付けもうまく、見栄えのいいお菓子まで作れる蓮に劣等感を覚えるのか、だんだん嫌な顔をするようになる。
――そんなに甘いものばかり食べたら、太るよ。
――ねぇ、あたしより女子力高いってなに?
そして理不尽に、責められるようになった。
苦い経験を何回か繰り返せば、そういうものだと諦めが勝る。蓮はただ、甘い物もそうでない物も、喜び幸せそうに食べてくれる姿が見たかっただけだ。
すり込み、なのかもしれない。母が、そういう人だった。
実家が元々洋菓子店を経営していて、母も子どもの頃から甘い物に囲まれて育ち、将来の夢は時々よそ見をしつつパティシエで、高校卒業後の進路は製菓学校を選んだ。
若いうちに有名店で修行をして、いずれ家を継ぐ将来設計を立てていた母に、一目惚れして猛アタックをかけたのが父だった。
出会いは、実力派パティシエの特別講習会。そこで講師として、父は立っていた。
外国籍で、若いながら国内外に有名なパティシエで、作品とも評されるスイーツは美しい芸術品のようだった。一人っ子だった母は、家を継ぐから無理ですと即座に断るが、あきらめない父のアプローチは情熱的で、婿になるという決意と、自分のためだけに作られるスイーツに、結局絆されたと母は笑っていた。
両親ともにパティシエで、抱きしめ、抱き上げられれば甘く香ばしい香りがする。物心がつく前から甘い香りの中で、蓮は極上のスイーツに囲まれていた。
将来は同じ道を歩んで行くことも考えたけれど、弟の方がよりその気持ちは真摯で、早々に家は弟が継げばいいかと結論づけた。
蓮にその気があれば、店舗を新たに立ち上げればいいだけの話ではあるのだが、どうにもその将来図がしっくりとこない。だからお菓子作りは好きでも、製菓の道には進まず一般の大学へと進学した。
両親も反対することはなく、好きにしてくれていいと応援してくれた。弟は、ほんの少し複雑な顔をして、自分のせいでと気にしていたが、実は本当にそうではないと知ると笑顔をみせた。
――将来俺が店を継いだら、兄さんの希望する職種で雇うよ。
――それまでは起業でも、腰掛け就職でも好きにしてて。
――いずれは、安心して失業していいよ。
まだ離れてそうたたないのに、蓮は懐かしさに目頭が熱くなる。もう、会うことはないのだろうか――そんな予感に胸が苦しくなった。
一人でいると時間を持て余すせいなのか、余計なことを考えすぎる。特に夜、ベッドに入ると、眠る前の少しの間に色々なことが浮かんで消える。眠りに落ちる前のわずかな時間に、蓮は否応なしに色々なことを考えさせられた。
だめだ、と後ろ向きの思考を蓮は振り払う。ゆっくりと深呼吸して、気持ちを切り替えた。




