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家の外に出てみて、ディルクに半袖を勧められたわけを蓮は知る。実際は半袖のはずが、肘のあたりまであるけれど。
これはきっと、袖が長めのデザインだ。肩の位置はずれているけれど、思い込みは大切である。そんな蓮の心の声など知らないとばかりに、空は青くからりと晴れ渡っていた。
夏を思わせる陽気に、蓮は感覚に齟齬が生じる。数時間前までは、どこからともなくふわりと香る金木犀が季節の移り変わりを知らせる、寒くなり始めた初秋の中にいた。
驚いたのはそれだけではない。昨夜は暗くてわからなかったが、周囲を何気なくぐるりと見回すと、視界を埋めるやけに存在感たっぷりの建造物が見える。隣に並んだディルクは、シンプルだけどスタイルの良さが際立つ服装だった。
「えーっと、あの建物って、なに?」
「王城だ」
さらりと教えられ、蓮は唇が開く。ぼんやりと輪郭の曖昧なものが頭の中にあるのと、実際目にするのでは受ける衝撃の大きさが違う。もう、異世界だ、とそれ以外の感想が浮かばなかった。
蓮が居るこの世界の魔法は、子どもの頃に欲しかった、なんでも出てくるポケットとか、好きなところに行けるドアと、同じくくりでいいのだろうか。
好奇心からディルクに尋ねて、あっさり「ない」と言われてしまう。残念だ。
「そんなドアはないが、転移魔法がある」
「え、それで帰れる!?」
ふわっとテンションが上がり期待してしまったが、蓮が想像するようなものではないらしい。転移できるのは行ったことのある場所のみで、使える者もそう多くないと言われた。
「ちなみに、ディルクは使える?」
「使えない」
「そっか」
「悪い」
「なんで謝ってんの?」
悪いことなど、何もしていない。むしろ、蓮が思いつくまま尋ねることに、嫌な顔もしないで律儀に答えてくれている。
「言われてみれば、そうだな」
いい子だな、と蓮はしみじみ思う。年下と知ってからは、仏頂面も、無愛想に感じるような態度も、不器用だなと可愛いらしく見えてくるから単純だ。
「ほんと、騙されんなよ」
お人好しな性格に助かってはいるが、心配になってくる。狡猾な年上の女に手玉に取られ、貢ぐようになるのは断固阻止したい。
「騙されねぇよ」
ほんとかなぁと思いながら、蓮は眩しさに目を眇めた。
「俺のことはいいから、服を買いに行こう」
「ん、ありがと」
実のところ、なかなか切実だ。ディルクの服を貸してもらえるならそれでいいと思っていたのに、本当にサイズが合わない。ぱっと見はそこまで体格差がないように思えるから、余計に納得がいかない気分になる。けれど現実は、容赦がない。首回りが大きいから鎖骨がみっともなく見えるし、前屈みになると蓮の薄い腹筋までまる見えだ。
可愛い女の子や綺麗なお姉さんが同じ状況になれば、ラッキースケベ的なものでディルクのテンションも上がるのかもしれないが、蓮では全く意味がない。すうすうして寒いだけだ。これから真夏へと向かう季節なら、風邪をひくこともないが。
ボタンのあるシャツなら、まだなんとか見られるので蓮はそれを借りている。ウエストをベルトで締めているので落ちることはないが、どうしてもダボっとするズボンはもう気にしないことにした。
細身に見えて実は脱いだらすごいんです! の、細マッチョなど羨ましいかぎりだ。容姿もいいのだから、モテないわけがなかった。
早めに自立する手段を得なければいけないと、蓮は決意を新たにする。現状を嘆き、元の世界へ戻る方法を探すよりも、きっと建設的だ。この世界に来た原因さえもわからないのだから、どうしようもない。
まだしばらくはディルクの家に置いてもらえるようなので、素直に甘えることにしていた。
だいたい働くにしても、まずは一般常識を学ばなければ挙動不審の不審者でしかない。悪い意味で目立って、この街に居られなくなるとどこへ行っていいかもわからなかった。
すうっと、心臓が冷える。現実が、かなり蓮にとって厳しく、怖いものだった。
(何も、ないんだ)
帰る家も、家族も友人も、使える金さえもない。誰が見ても絶望的な状況だ。一歩間違えば、生きていく術も知らないホームレス。昨夜落ちてきた蓮を受け止めくれたのが、ディルクで本当によかった。感謝しても、しきれない。
「そんなに優しくて、大丈夫なのか?」
「今度はなんの心配だ」
「ディルクが優しすぎる件について?」
「俺は、蓮が思うほど優しくない」
「そうかぁ?」
「そうだ。まずは、服だな」
見た感じ、高級そうな店に入ろうとするので慌てて引き留める。わからない、という顔をディルクはするので、普段利用する店なのだとわかった。
「もっと、庶民が喜びそうな服がある店ない?」
むしろ古着屋のようなところがあればそこで! と、訴える蓮になかなか頷かない男が優しくないわけがない。昨夜成り行きで拾っただけの男に、金をかけようなど誰が思うか。
逆の立場なら、関わり合いにならないよう、そそくさとその場を離れている。まずは詐欺かもしれない、ゆすりたかりの類ではないかと、疑う。世知辛いとは思うが、そんな環境、世の中に普段蓮は身を置いている。善意で関わっても損をすると、ネットにはよく書かれていた。
それを鵜呑みにするわけではないが、どうしたって身構えてしまうものだ。
「ここならどうだ?」
平民向けの店だという衣料品店は、先ほどの店よりは入るのに抵抗がない。貨幣の価値がわからないので、高いのか安いのかわからないが、数字を頼りにその店で安めの服を選んだ。
「本当にいいのか?」
「いいんだよ」
試着してみても、ぶかぶかな服より動きやすい。生地の違いはわかるが、充分だ。通いの使用人が洗濯するのを前提にした、最低限の枚数を選ぶとディルクが購入してくれた。
一着は、そのまま着ていく。今まで着ていた服を、代わりに袋に入れてもらうことにする。
「安いのだから、もう少し買えばいい」
そんな提案は、固辞した。食事を作ることになっているが、対価には到底満たない。食費さえ入れるあてがないのだから、本当に最低限の生活ができればいいスタンスだ。
「じゅうぶんだって」
出かけるところもない。比べなければ、悪くない服だ。それに最悪ディルクの服も、着られないわけではない。ただ蓮が着ると不恰好なだけで。
「処分されていなければ、実家に学生時代の服があるから持って来てもらおう。今より少し、サイズは小さい気がする」
ありがたいのに、少し複雑な気分になるのはどうしてだろう。ディルクの学生時代の服のサイズが、ちょうどいい成人男性――そこで、蓮は思考をむりやり止めた。
「まだ、身長伸びてんの?」
「たぶん?」
羨ましい。とっくに、伸びなくなっている。二、三歳差なのにと、蓮はがっくりと肩を落としたい気分になった。
「あ、次はここだ」
「うん」
今度は下着の店で、何気なく眺めて蓮はぎょっとする。男性物だよな? と、首を傾げたくなるほど、デザインが奇抜なものが多くあった。
女性物にも見える紐パンなんて、需要があるのかと首を傾げたくなる。昨夜新品だと出してくれたディルクの下着は、違和感なく履けるボクサータイプだった。
(透けてんだけど、これ)
手に取って、眺めて蓮は微妙な気持ちになる。今まで何気なく下着を買っていたが、こんなデザインを見かけたことはない。店の品揃えの違いなのかと、今まで行ったことがある売り場を思い浮かべた。
やっぱり、見かけた覚えはない。
「それが、いいのか」
遠慮がちにかけられた声に、我に返る。気まずそうなディルクの視線の先を追って、蓮は慌てた。
「え、違う! なんかすげぇなって見てただけ!」
誤解だ。決して、履いてみたいなどと、真剣に検討していたわけではない。
「あ、ああ。いや、遠慮しないで、買っていい」
「遠慮じゃないからな!」
さっと元に戻し、馴染みのある下着の方へディルクを促し移動する。奇抜さなどなにもない下着を、服よりは少し多めに選ぶ。これで、着替えの心配はなくなった。