3
当面の居場所が見つかり、安心して気が抜けた途端、ぐううと腹が空腹を訴える。身体は蓮が思うより正直で、現金だ。
「風呂より、食事が先だな」
真顔で言われてしまう。なんだか、笑いがこみ上げてきた。
「ディルクは食べた?」
「いや、まだだ。何か買ってくるつもりだったけど、忘れていた」
困った、というように眉を下げる。トンデモナイ拾いものをすれば、忘れもするよなと、蓮は苦く笑った。
「悪い、俺のせいだよな。食材は何もないかんじ?」
「たぶん、それなりにあるとは思う」
妙に曖昧な物言いに、蓮は首を傾げる。一人暮らしなら、食材を用意するのも自分だ。あるかないかは、答えるのに難しくない。
「えっと、把握してないわけ?」
「食材の管理、調達は、主に通いの使用人がしているんだ」
時々目についた物を、ディルクが買うこともある。ここ数日は食品庫に入っておらず、見なければ何があるのかわからないと言った。
「普段の食事はどうしてんの?」
口ぶりから、自炊しているようには思えない。けれど食材は用意してあるというから、蓮は疑問がわいた。
「職場にある食堂で、食べることが多い」
「食材あるんだろ?」
「通いの人がつくりおきしてくれたり、家族が時々来て何かつくったり、そのままかじったり?」
「かじったり?!」
最後のは、納得がいかない。そのままかじるって、なんだ。
「その、料理ができないんだ」
「え、できないのに食材用意してもらってんの」
うっかり、思ったことがそのまま口から飛び出す。しまった、と思っても遅い。親しくもない蓮が口を出すことではないのだが、ディルクは怒ることなく、どこかばつが悪いような表情を浮かべた。自覚はあるようだ。
「その、当初は作る気はあったんだ」
「うん」
「けど、失敗ばかりが続いて、食材を無駄にするくらいならそのまま食べた方がいいかと」
まるで飼い主にしかられた猫や犬のように、しゅん、とする姿に、蓮は気付かれないよう唇を引き結び、軽くうつむく。誰もがかっこいいと形容したがるであろう容姿の、でかい男がしょげる姿がかわいく見えて、うっかり変な声を上げそうだった。
んん、と小さく咳払いして、蓮は気持ちを立て直す。
「実家から通えばいいのに。遠いの?」
「いや、王都の家から通えなくはない」
「なら、実家から通えばいいのでは?」
「兄が結婚していて、子どもも三人いるんだ。学園を卒業したなら、さっさと出て行くべきだろ」
そんな理由だと、実家とはいえ居座りづらい。同じ状況なら蓮も、仕事に就くタイミングで家を出るはずだ。
「あ、ディルクも近々結婚の予定あるとか?」
この話の流れなら、先ほどの疑問を訊くのも不自然ではない。早々に追い出されるのなら、心の準備はしておきたかった。
「ないな。そんな相手はいない」
「そっかぁ……そーいえば、ディルクっていくつ?」
「十九になった」
はい? と、蓮は目をしばたたく。
「うそだろ……まさかの年下?」
「は? 年上?!」
びっくりしたような声が上がる。ぱち、と視線がぶつかった。
そんなに驚くか? と、蓮は心の中で突っ込みを入れる。そこまで、幼い容姿をしていない。ただ単に、ディルクが大人びているだけだ。
「レンは、いくつなんだ?」
「二十一だよ」
「……てっきり、同じ歳くらいかと」
呆然と呟くディルクに、俺も、と蓮は返す。
二歳差などあってないようなものだが、目の前の色気さえ感じさせる男を年下と表現した途端、違和感が強くなった。
完全に負けている。何に対してなのかはわからないが、蓮は手で顔を覆い、天を仰ぎたくなった。
「けっこう、驚きました」
俺もだよ、と今度は心の中で相槌を打つ。
「いや、なんで突然敬語?」
「年上なんで」
「そーいうの、いーよ。俺、拾われたんだし」
捨て犬、捨て猫の類いではないが、似たようなものだと思わないでもない。途方に暮れていたところを、親切なディルクに拾われたようなものだ。
それに元々、上下関係が厳しいような体育会系に、蓮は身を置いたことがない。バイト先でも先輩後輩、果ては社員まで距離が近く、最低限のマナーを守ればいいような緩い環境だった。
それなら、とディルクが頷く。気を遣わなければいけないのはむしろ蓮の方なのに、本当にいい子だ。
「そういえば、レンはなんで落ちてきたんだ?」
「あ」
やっと訊いた。このままなあなあになりそうな予感が、いい意味で裏切られる。危機管理能力は大丈夫なのかと、疑っていた。
訊かれたからといって、正確に答えられるとは限られないのだけれど。
蓮の身に起こったことを、ありのままディルクに話すかに迷う。本人さえもいまだに信じられない、荒唐無稽なことを言って、関わってはいけない危ない人認定され、追い出される可能性がよぎると躊躇した。
「何らかの、魔法に巻き込まれたのか? もしくは、」
「魔法!?」
素っ頓狂な声が出て、ディルクが驚いたように瞳を瞬く。けれどそれ以上に驚いている蓮は、気にしていられなかった。
「え、魔法ってなに」
使えるものなのか? 空想の世界の話ではなくて? と、思考が忙しない。蓮にとっては使えないことが普通で当然で、幼い頃ならいざ知らず、そこそこの大人になった今では、魔法使える? なんて世間話の流れでもする機会はなかった。
「魔法だが?」
真顔で軽く首を傾げるディルクに、蓮はもどかしくなる。知りたいのは、そこではない。
「……ディルクは、魔法を使える、のか?」
訊くのに、えいっとした気合いがわずかにいる。大学の友人たちにそんなことを訊こうものなら、残念な子を見るような眼差しを向けられるか、冗談として受け取って笑われるだけだ。
「使えるが?」
それなのに、当然のように肯定される。まじか、とまったく違う世界にいることを、蓮はここにきて、やっと実感できた。
「レン?」
「俺は、使えない」
「そうなのか?」
「ん。俺、ほんとなんで落ちてきたんだろ」
嘆くような、力のない声が蓮の唇からこぼれ落ちる。あんな誰が見ても不自然な道路の光に、近づかなければよかったと心底後悔した。
「その、落ち込むな。そうだ、食事にでもしようか」
未知の料理以外は作れないんだが、と続けられた台詞に、蓮は吹き出す。顔を上げると、色々な意味で狼狽えるディルクの姿があって、なんだか気持ちが引き上げられた気がした。
「俺、料理できるよ」
「そうなのか?」
ぱあっと、表情が明るくなる。
「俺が作ったのでいいなら、作るけど」
「作ってもらえるなら、助かる。食べに行ってもいいが、この時間は酔っ払いも多いんだ」
絡まれ、あしらうのが面倒だと軽くディルクの眉根が寄った。
「なら、作るよ。ある食材見せて」
どんなにショックを受けても、落ち込んでいても、しっかりと空腹は感じる。人の良さそうな男に拾ってもらえたことを感謝して、何はともあれ、まずは腹ごしらえから始めることにした。