14
どうやら、蓮がふらりと出かけたのは、日中ひまを持て余しているからだと察したディルクは、すぐに学生時代の教科書を持ってきてくれた。
――つまらないと思うが。
渡す顔は渋面で、勉強に苦労したのがわかる。嬉々として教科書を開く蓮を信じられないものを見る目で見て、図書館で本を借りることもできると教えてくれた。
王城務めなら、申請すれば王宮内にある図書館で借りられる。ただ騎士で本を借りる者はほぼいない。まあそうだろうなと、蓮は納得するところがあった。
文字の勉強も少しずつしていて、おかげで時間を持て余すこともなくなっている。のんびり本を読み過ごす時間に加え、最近では散歩にも出ていた。ほんの少し、近所のコンビニへ出かけるような感覚の距離だ。
先日のように、蓮が家に居なくても心配しないように、ディルクにも伝えてある。どうもこの世界に落ちてきた時の、蓮の狼狽え、怯えた姿を目の当たりにしたせいで、庇護欲がかき立てられ、過保護になっているようだった。
年下で、十代の男に心配される成人男性とは――と、蓮はありがたくも微妙な気持ちになる。生活能力だって、ディルクよりあるのに解せない。
そろそろ、記憶を上書きしてほしかった。
とりあえず、頼りなさを払拭するのが先決なのかもしれない。
「レン、まだ勉強していたのか」
物好きだな、と目が言っている。正しくは教科書を開いたまま、ぼんやりしていただけだ。勉強からすっかり意識を逸らしていた蓮は、笑ってごまかした。
「ディルクはまた、髪濡れたままだし」
「ほっとけば乾く」
「せっかく綺麗な髪なんだからさぁ」
とんとん、とソファの座面をたたきディルクを座らせる。風呂上がりにいつも髪を濡れたままにして、放っておく姿がずっと気になっていた。
「乾かしてやるよ」
「いや、」
「いいから」
ソファの後ろに、蓮は移動する。魔石で動くドライヤーは、コードがないので使いやすい。
濡れて色の濃さが増したような、ディルクの髪に温かな風を当て、丁寧に乾かしていく。無造作にしていても、寝癖すらつかないのだから驚きだ。正直羨ましい。くせのある蓮の髪は、すぐに爆発する。
「もっと、楽にしなよ」
妙に、ディルクの姿勢がいいことに、蓮は気付く。ごうごうとうるさい音もしないので、会話も普通にできる。こういうところが、異世界ってすげぇと感心させられた。
「いや、人に髪を乾かしてもらうことがないから、なんかヘンな感じで」
「そっか、でも疲れるだろ。ほら、肩の力抜いて」
「あ、ああ」
少しずつ水分が飛び、さらさらとした指通りになる感覚を楽しむ。相変わらずディルクは借りてきた猫のようで、背後で気付かれないのをいいことに、蓮は口元を緩めた。
「そうだ、俺なんか仕事したいんだけど」
まずは経済的な自立から、とディルクに申し出てみる。しばらくずっと、考えていたことだ。
「俺でもできそうなの、ない?」
「何か、欲しいものでもあるのか?」
「いや」
過分なほど、与えられている。欲しいものは? と尋ねられても、ぱっと浮かばないくらいだ。
「それなら、家のことをしてくれているし、働かなくてもよくないか?」
「うーん、なんか、やだなって」
今のぬるま湯のような生活は、心地好い。このままディルクに甘え、快適に保たれた安全な家で暮らしていれば、とても楽な人生だ。
無駄飯食いと罵ることも、置いてやってるんだ、誰のおかげで生活できていると思っているんだ、などと声を荒げることもない。そんな男と暮らすなど、神経をすり減らすだけなので、とっくに逃げ出しているかもしれないが。
ただ、優しいからこそ心苦しくなる。結局は、他人だ。こんな生活が、ずっと続く保証はなかった。
ディルクはまだ若いから、結婚を考えられないのかもしれないが、恋に落ちるのなど突然で、前触れもない。いずれは、伴侶を迎える。そのとき、蓮の存在は邪魔でしかない。些事で、ディルクを悩ませたくはなかった。
だからこそ、このまま無一文のままでいるのは落ち着かない。何かあったときのためにも、さっと自立できるような環境を整えたかった。
ずっと見ないふり、気づかないふりで暮らしていたが、限界を迎えたようで焦燥に駆られている。ここが異世界で、蓮は何も持ち得ないのだとわかってから、不安が少しずつ降り積もり、じわじわと胸の中を満たしていった。
それにレオンとリュークの店の、スイーツたちを買うという目標もできた。
まだ、ディルクを誘っていない。できることなら、蓮が得た金銭で連れていけたらいいと、そんな風に思う気持ちもあった。
「だからさ、仕事ないかなって」
「まあ、手っ取り早いのは冒険者だが」
「冒険者?」
「色々な雑事を請け負う仕事だ」
便利屋みたいな説明だが、冒険者、には結びつかない。
異世界ならではの職業なのだろうが、蓮にはうまく想像できなかった。
魔法があって当たり前の世界ではあるが、蓮にとっては使えないのが当然すぎて、意識したことがない。せいぜい、ディルクが魔石に魔力を込めるのを見て、そういえばそうだったと思い出すくらいだ。
いかにもな魔法を見たい気もするが、ゲームのせいなのか、イメージするのは攻撃魔法だ。騎士であるディルクが使うのもきっとそうなのだろうとの思い込みで、蓮は見たいと言えないでいた。
「レン、腕におぼえは?」
「それは、武力的な?」
「ああ」
「それなら、まったくない」
以前にも、自己申告していることだ。
自信満々に言い切れば、ふ、とディルクの表情が緩む。わかっていた、というような眼差しだ。
だったら訊くな、と言いたくなる。鍛えられ、強さを誇りにしている騎士と、ひ弱な一般人を同列に考えては駄目だ。
「冒険者ギルドに行けば誰でも登録できるが、危険な仕事も多い。低ランクの者が選ぶ仕事でも、安全とは言い切れない」
「はい、俺には無理です」
「そうだな」
あっさりとあきらめれば、ディルクが安堵したように頷く。仕事内容を正しくは把握していないけど、とにかく蓮では無理なのは理解できた。
「他に、なんかない?」
カフェとかバーで、バイトした経験はある。店の手伝いも散々していたので、接客業でもいける気がするが、問題はこの世界の常識があやしいことだ。
「なら」
何かを思いついたようにディルクは声を上げ、けれどその先は続かない。代わりにぎゅうっと、眉間にシワが寄る。何か葛藤があるように見えた。
「ディルク?」
「……心当たりがないわけじゃない、けど」
「けど」
「俺が、あまり気乗りしない」
心からの言葉なのだろう、渋面でディルクが口を開く。ぱたぱたと瞬きしながらそんな表情を眺め、蓮はむくむくと疑問がわいた。
(なんだろう、逆に気になる)
まさか、いかがわしい系の仕事か? と、蓮は思うだけに留める。ないな、とすぐに自己完結したからだ。
どうにも、ディルクとそういう場所が結びつかない。性欲あんのかな、と思ったことがあるのは絶対に内緒だ。
「なら、その心当たり以外のとこは?」
「よけいに気乗りしない」
「なんだそれ」
思わず、苦笑いになる。これは、蓮を心配してのことだろうか。
「……働きたいのか?」
「ああ」
「どうしても?」
「どうしても」
捨てられた犬のような眼差しで、見られる意味がわからない。ほだされそうになるから、やめてほしかった。この短い付き合いで、蓮の扱い方をディルクは学んできている気がしてならない。
「あ、家のことは今まで通りするけど」
まだしばらくは、このまま置いてもらえると嬉しい気持ちを込めて、蓮は訴える。働き始めたからといって、即追い出されたらそれはそれで困るのだ。
「いや、それはどうでもいいんだけど」
「どうでもいいのかよ」
つい、突っ込んでしまう。
だったらなんだ? と、蓮はよけいにわからなくなる。ううんと唸って、ディルクはあきらめたように嘆息した。
「訊いてみる」
そう呟くディルクは、ひどく苦いものを食べたような顔だ。どんなところを紹介されるのかと、蓮は蓮で不安を煽られた。




