31 赤ん坊、うなされる
そのとき。
「ウォン」
「ざむ」
濁った意識の中で、僕は希望が叶ったことを知った。
林から駆け出してきた、白銀色。
喜色をその目に込め、たちまち駆け寄ってくる。
屈んだ首を抱え込み、その温かさに、夢でないことを確かめる。
「つれてって、ざむ」
「ウォン」
低くしてくれた背に、辛うじて這い昇り。
温かな首筋を撫で。
「ゆっくり、おねがい」
「ウォン」
背中で眠る妹も、半死半生の僕も、いつ力抜けて滑り落ちるか分からないのだ。
心得て、慎重な足どりで、ザムは帰路を辿ってくれた。
暗い木々の間を、抜けて、抜けて。
「あ、いた、ザム」
「ウォン」
「ルート、ルートだ」
遠く、兄の歓声を聞きながら。
ついに僕は、意識を手放していた。
目覚めに近づく。
に、つれ、夢が暗さと重さを増していた。
目を見開いたまま、一瞬で命を手放した、醜怪な男の顔。
近づき、遠のき。
のしかかり――。
「ひ――」
思わず身をすくめ、逃がす――その動きが空振って。
よすがを求めた両手は、確かな温かみを握っていた。
腕の中に、少し前まで馴染みの、固い温かさ。
背中に、このところ親しく離れない、小さな温かみと湿り。
今までそれほど得られなかった、二つながらの幸福を認めて。
ほう、と僕は安堵の息をついていた。
思わず、手の中の親しい腕を力任せに握って。
ううん、とそちらに動きを生んでしまった。
「んーー、どうした、目が覚めたか、ルート?」
「……ん」
頭の上から兄に覗き込まれて、僕はわずかに目を瞬かせた。
ベッドの上、のようだけど、部屋は真っ暗で兄の顔もはっきりとはしない。
確かなのは、僕が兄の腕を抱きしめていることと、背中にミリッツァが抱きついていること、だ。
自分の現状を探ると、掌や肘や膝や頬や、あちこち擦りむいたらしい痕がひりひり存在を訴えている。手も足も、奥の方からじんじんと筋肉痛が脈打って浮き沈みしている。
おそらく深刻な状態ではないのだろうけど、何とも満身創痍と形容したくなる状況だ。
実際のところ縋るものが他になく、固い腕を胸に抱き寄せ直す。
「……どこ?」
「王都の、父上の屋敷だ」
「まよなか……だよね」
「ああ。夜中の一刻は過ぎたと思う」
「……そ」
いろいろ確認したい、のに。頭の中の整理がつかない。
とにかく、いちばん大切なこと――。
背中の寝息は、安堵を伝えてくるが。
「みりっちゃ、だいじょぶだね。べてぃなは」
「ミリッツァは、傷一つない。ベティーナは賊に蹴り倒されたが、大丈夫、もう痛みもない」
「……そ」
「いちばんひどいのは、お前だ。あちこち擦りむいて、汚れて、疲れ切っていた」
「……ん」
「怖い思い、したんだろう。それでミリッツァを助けて、大変な思いをしたんだろう。よくやった。もう何も心配はいらない。ゆっくり休め」
「……ん」
「お前はよくやった、ルート」
さわさわと、頭が撫でられる。
息を吸うと、兄の匂いで胸が充たされる。
何とも安心できる、慣れた匂い。――今になって、ミリッツァの気持ちが理解できる、ような。
理屈では分からなくても、赤ん坊の身に、こういうものは必要なのかもしれない。口に出すと恥ずかしいのだけれど、母の匂い、兄の匂いは、この上なく胸に安寧を染み込ませてくれるのだ。
どこかで渦巻く不安は、消えないのだけれど。とにかく、今は。
頭を撫でられ、温かな匂いに包まれ、僕は眠りに沈んでいた。
しかし。
次の目覚めも、悪夢に揺られた末のものだった。
目を見開き睨み続ける、死人の顔。
くるめき、近づき、遠のき。
何かを訴え、非難するように。
こちらへ呪いを吹きかけるように。
自分の呻き声で、目が覚めた。
全身が、汗びっしょりだ。
目が明るさを認めても、震えが止まらない。
胸の前に、必死に固い腕を抱き寄せる。
背中のへばりつきと肩へのしゃぶりつきが、何とも安心を伝えてくる。
それなのに。
怖い。怖い。
どうしたことだろう。
見慣れない部屋の中は、もう薄明るい。
前と後ろから、穏やかな寝息が聞こえている。
何も心配はいらない――眠る前の、兄の声が蘇る。
何も、心配は、いらない、のだ。
僕は、ミリッツァを守り抜いた。
賊の元から、逃げ延びた。
僕は、やり遂げた、はずなのだ。
それなのに。どうしてこんなに、恐怖が消えないのか。
考えて。気がついた。
――僕は、人を、殺した。
一人目は、半分無意識、無我夢中、だった。
二人目は、かなりのところ意識した上、だったかもしれない。
前から、考えてだけはいた。
加護の『光』を最大限細めれば、動物の表皮を貫くかもしれない。
人を殺せるかもしれない。
しかし、結果を知ることが恐ろしくて、試すこともしないできた。
それを、あのとき、僕は実行した。
一人目は、半信半疑、無我夢中。
しかし二人目は、その結果を知った上で、意識的に。
――殺すつもりで、実行した。
――…………。
――だから、どうした?
妹と自分の命を守るため、だ。
こちらの命を狙う相手を、返り討ちにしたのだ。
何の問題もない。
むしろ、誇ってもいいくらいだ。
なのに。
――どうして、こんなに怖いんだ?
たぶん、僕がおかしいのだ。
この世界で、命を狙ってきた相手を殺すなど、当然のことだ。
特に、誰かに確かめたわけでもないけど。
たぶん、みんなそうだ。
騎士の修業をしたものは当然、敵を屠ることにためらいはしない。
そこまで修行をしていない兄にしても、あるいは村の人たちにしても、意識はそれほど違わないだろう。
相手を殺らなければ、自分が殺られる。
その場合、先に殺ることが、唯一の正解だ。
そこに疑問が、あろうはずがない。
なのに。
――どうして僕は、こんなに怖いんだ?
分からない。
理屈抜きで、恐ろしい。
こうして、震えが止まらない。
たぶん、僕がこの世界の人間として、おかしいのだ。
根本の常識、のようなものが、たぶん異なっている。
それはもしかすると、例の『記憶』がもたらすものなのかもしれない。
あるいは、赤ん坊の頭と身体に、この感情が過剰なせいなのかもしれない。
いずれにしても。
たぶんこれは、誰に相談しても理解されないもの、という気がする。
最も僕を理解してくれている兄にも、それはきっと無理だろう。
僕自身が克服し、押さえ込まなければならないもの、なのだと思う。
自分で、何とかしなければならない。
そのままにしていいはずも、ないのだ。
これまでも僕は、何度も命を狙われている。
これからも同様のことがないとは、言い切れない。
また、妹や他の家族が巻き込まれることがあるかもしれない。
そんなとき、僕は決断しなければならない。
それ以外にも。
この国では、いつ軍事衝突が起きても不思議はない。
自分で戦闘の場に出なければならないかもしれない。
兵や民衆に、戦闘を命じなければならないかもしれない。
人を殺すことをしたくないなど、綺麗事を言っていられるはずがないのだ。
僕はこれを、克服しなければならない。