36 赤ん坊、父と会う
先生の帰りを見送って、昼食。この日は皆午後の外出は見送って、午前と同じように居間で過ごすことになった。
配置も、ベッセル先生がいなくなっただけで、同じ。兄はやはり僕を膝に乗せて、先生から借りた本を開いていた。
国内各地の農村の生活について記録したもので、旅行をしたことのない僕とほとんど王都との往復しか知らない兄にとって、なかなか興味深いものだった。
もちろん僕が兄と一緒に読書に集中しているというのもおかしな話なので、適当にときどき「きゃいきゃい」とはしゃぎ声を挟んだりするが。
「こうして見ると、本当にルートルフはウォルフに抱っこされて大人しくしてるのねえ。まるで二人一緒に本を読んでいるみたい」
ふと編み物の手を止めた母に、笑われてしまった。
嬉しそうに、ベティーナが声を返す。
「ええ本当に、ルート様はウォルフ様の抱っこがお好きなんですよお。私といるとむずかることがあっても、ウォルフ様と一緒で機嫌悪いの見たことないですう」
「少し前まではこんなに仲いい姿見なかったけど、今は本当に仲よしさんなのねえ」
「そうなんですよお」
「本当に、ウォルフ様はいいお兄様におなりです」
イズベルガにまで笑いかけられて、兄は何も言い返せなくなっていた。
頭の後ろに手を上げて兄の頬を撫でると、「こらルート、読書の邪魔をするな」と、八つ当たりをされた。
お返しに、きゃきゃ、とご機嫌な笑い声を立ててやる。
女性陣に生温かい目を向けられて、兄はますます読書に熱中の格好を作っていた。
一度部屋から出ていったヘンリックが何かを手にして戻ってきた。
「王都から鳩便が参りました。旦那様が明日の朝向こうを出発して、明後日夕刻こちらへ到着の予定、ということでございます」
ここから王都まで、鳩便では数時間、馬車では一日半の距離だという。
ふつう王都からここまで来るには馬車を使い、南隣の侯爵領で一泊するらしい。
聞いて、母は編み物を置いた両手を合わせた。
「まあ、嬉しい。旦那様は先月いらっしゃれなくて、ひと月半ぶりのお帰りだもの」
「一泊の滞在になる。今朝お願いした、護衛の増員を連れてくる。帰りに塩とセサミを持ち帰って王都で鑑定させたい、との仰せです」
「やはりお忙しいのですね。護衛のことも兼ねて無理をなさったのでしょうか。ウォルフ、塩とセサミというのは、大丈夫なのですか?」
「父上にお持ちいただく分は、できています」
「でしたらあとは、お迎えの準備を皆、お願いね。一行は何人になるのかしら」
「ロータルとヘルフリート、他護衛が二名、ということになるようです。ああ、護衛の一人は女性のようです」
頷いて、イズベルガとベティーナが動き出す。
ヘンリックから出た名前は僕に覚えのないものだけど、おそらく父の側近とかで、他の人には馴染みがあるのだろう。
何にせよ僕にとって、父を含めた全員が事実上初対面になる。
それから二日間、屋敷は父を迎える準備で大わらわになった。
兄が襲撃を受けた緊張は忘れないが、明るい話題で空気が変わったという感覚だ。
領主が帰郷という情報は、護衛番に来ていた者を通じて村人たちにも知れ渡ったようだ。
予定当日になると、屋敷の全員が久しぶりの高揚感で、到着を今か今かと待ち侘びる様子になっていた。
通常なら、午後の七刻過ぎには到着するのだという。
しかしこの日は、十刻を過ぎても馬車の姿は見えない。
日の短くなった頃で、もう街道の先は暮れ始めている。
母は、不安な顔色を隠しきれなくなっていた。
南の侯爵領とこちらの領を結ぶ、湖の間を抜ける道は、国中に知れた物騒な街道なのだという。つまりは、盗賊の類いがはびこっているという意味で。
しかしさすがに、領主の紋章をつけた馬車を襲う馬鹿な盗賊はいない。護衛が手練れなのはまちがいないし、もしそんなへまをしてしまうと、王国から徹底的な捜索を受けて盗賊たちも生きていけなくなる。
母の憂慮をみんなで宥めて、さらに数刻。すっかり外も暗くなった頃、
「ウォン」
ザムの吠え声が上がった。
耳を澄ますと、遠くからかすかに、近づく音がする。
馬の蹄の走行音と、乾いた木の擦過音。つまりは、馬車の走る音、のようだ。
「旦那様?」
「――にしては、馬車の音が荒々しすぎる気がします。皆様はまだ、こちらにお控えください」
一同を制して、ヘンリックは玄関をそっと開いた。
その間にも、荒々しい馬車の走行音は、屋敷に衝突しそうな勢いで近づいている。
馬の蹄の音は、複数だ。
「どうしました?」
怒鳴るようなヘンリックの声の先に、馬車は停止したようだ。
「これは、旦那様」
という声を機に、一同は玄関に殺到した。
しかしその足は、ヘンリックの叫び声に緩められた。
「これは――ロータル!」
「野盗に衝撃されて、命を落とした。そのつもりで、扱いを頼む」
「かしこまりました」
見ると、馬車の両脇に停めた騎馬から降りた二人の人物が、協力して車内から大柄な男の身体を運び出しているところだ。
そのまま、乱暴な足音が近づいてきた。
開かれた戸口に、貴族らしい装束の男が姿を現す。
「旦那様」
「遅れて、心配をかけた。途中で野盗の襲撃を受け、ロータルを失ったが、何とか退けることはできた」
「え……」
青ざめる母を、黙って抱き寄せる。
「ロータルの亡骸は、王都に持ち帰って荼毘に付す」
「はい」
抱かれた腕の中からちらと見上げると、兄は囁き声で教えてくれた。
「ロータル……何年も父上の護衛を務めていたのに……」
「十五年以上の付き合いだった。学院で知り合って以来の友人だ」
皆に言い聞かせるように呟いて、父は兄に手を差し伸べた。
僕をベティーナに渡して、兄はその抱擁を受ける。
「こんなことになって、慌ただしくてすまんな。今日のいちばんの目的は、ウォルフを褒めることだった。いろいろ頑張ってくれたそうだな。ありがとう」
「父上……その、光栄です」
ひしと抱きつき、頭を撫でられ。
このところの大人びた言動とは裏腹に、見た目完全に父親に甘える小さな子どもの図だが、兄は精一杯とり繕った言葉を絞り出しているようだ。
ひとしきり温もりを交わした後、父子は名残惜しげに抱擁を緩めた。
長男を脇に置いたまま、父はこちらに向き直ってくる。
「ずいぶん長いこと会わなかった気がするぞ。ルートルフは、実に大きくなったな」
「はい、大きくおなりです」
よいしょと揺すり直して、ベティーナは僕を父に手渡した。
「おお、何とも重くなったものだ。ルートルフ、無沙汰してすまぬな。父だぞ、分かるか」