87 赤ん坊、宣する
夕食までの三刻ほどで、メヒティルトは二冊分の噺を書き終わっていた。
食後やや時間を置いて、パンケーキが届けられた。
使用人たちには後から支給することにして、妃と僕だけでソファで食する。
厚く柔らかな焼き菓子を一口して、妃はわずかに目を丸くした。
「ふむ、悪くない。初めての食感じゃな、これは」
「ん」
妃の満足を確かめて、僕はタベアを呼んで自分の分を切ってもらい、半分を隣に譲った。前回もそうだったが、当然赤ん坊の腹には大きすぎるのだ。
王侯貴族の儀礼としてどうなのかはよく知らないが、主従とも細かく気にする様子もなく、妃は平然と受け取っていた。
「くどくはないが、けっこうな甘さじゃな。砂糖を贅沢に用いているのではないか」
「さとうじゃない。もっと、やすもの」
「何だ、それは」
「ひみちゅ」
「此奴、妾に逆らうか」
「かわりに、いつでもきさきでんかのちゅうもんにしたがう、りょうりにんにめいじる」
「ふん。まあよかろう」
いつものように鼻を鳴らしたが、表情に不機嫌はない。
甘味にそこそこ満足で、気が和いでいるのか。
後で聞くと、侍女たちにも菓子は大好評だったらしい。
夜はまた、妃のベッドの隅に寝せられた。
さんざん昼寝をしたのでどうかとは思ったが、案外すぐに熟睡に落ちていたようだ。
朝はまた、生存危機とともに目覚めさせられた。
首を振っても離れない鼻摘まみの指から、数秒の格闘の末に逃れ、大きく安堵の息をつく。
「ぶふ――ぷはあ――」
「起きよ」
――いや、危うく二度と起きられないはめに陥りかけたんですけど。
でれ、と弛緩して天蓋を仰ぎ見ていると、タベアに抱き上げられた。
無造作に運ばれ、ナディーネの腕に抱き渡される。
ソファで侍女の世話を受け、着替えを行う。
「よくお休みになれたようですね」
「そ?」
自分では分からないが、顔色がいいのだろうか。
確かに、夜中に一度も目覚めることなく、熟睡できたようだ。
着替えや洗顔やといった日課の奉仕を、ナディーネの何処か強ばりの力が籠もった手つきで受けていく。
朝食のテーブルに着くと、出された皿の中身はこれまでの通例より固形物が多く見えた。当然、昨日ナディーネが料理人と相談してきた成果なのだろう。
いつになくころころとした舌触りの野菜だが、小さな少ない歯でも苦もなく噛むことができる。噛みしめると、塩分は少ない中に深い味わいが染みてくるようだ。
ひと掬いふた掬い、休まず匙を口に運んでしまう。
「いかがですか、ルートルフ様」
「ん、おいしい。たべごたえ、ある」
何というか、これまでよりも食事をしているという実感が増した感覚だ。
昨日までは、これより液体分の多い一皿を何処か機械的に流し込んでいたのだな、と改めて顧みてしまう。
さして抵抗のないものをゆっくり噛みしめて、味わい。手を止めることなく、見る見る深皿は底を覗かせてきた。
「……よかった」
すぐ脇から、固い声が降りてくる。
匙を置きながら、ようやく気にかかってきた。思い返せばさっきからずっとなのだが、聞き慣れた侍女の声が心なしか強ばり震えているようなのだ。
脇を見上げると。
隙のない服装の少女の視線はこちらから逸れ、テーブルの上に落ちていた。その組み合わせた両手と眉間に力が籠もり、噛みしめた唇が震えて見える。
つまりは疑問の余地なく、今にも泣き出しそうな感情を抑えているとしか見えない様子だ。
「どした、なでぃね?」
「……申し訳、ございません……」
「ん?」
「わたし……いたらず……こんな、お食事、簡単なこと……にも、配慮……できなくて、ご不自由、おかけして……」
「いい。これから、べんきょうすれば」
「でも、もっと優秀な侍女、他に……でもわたし、お役に立ちたく……でも……」
ず、と鼻を啜り上げる。
必死に、明らかに、涙の零れ落ちを押さえている。
一雫でも落とした刹那、すぐ横から冷たい横目を送っている妃やベテラン侍女から、「主のお世話の手を涙で止めるなど、言語道断」と断罪されるのがありありと見えるようで、必死に堪え続けているのだ。
ルートルフ様のお世話に相応しい侍女は、他にもっといる。しかし先日誓った「身命を賭してお仕えします」という言葉は、疑いなく衷心のものだ。
僕の王宮生活の最初からついていた、しかもそれでなくとも初め十日程度の勤めには悔いばかりが残るナディーネにとって、その思いは他の仲間に比べても一入のものだろう。
「べんきょうすれば、いい」
「……でも……」
「もし、かいこされても、ぼくが、こじんでやとう」
「……え」
「さんにん、かけがえない」
「そ……」
相変わらず、だけど。語彙量と口回りの都合で、言いたいことを伝えきれない。
歯がゆさを噛みしめ、真っ直ぐテーブルを睨んでいると。
ぽとり、水滴が一つ落ちてきた。
数呼吸間、室内が静まり返り。
やがて、
「ふん」と、隣から鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
「確かに、個人で雇うというのを禁止するすべはないわな」
「ん」
「しかし、その者、見苦しい、下がれ」
「いえ……」
慌てて手拭き布を取り出し、ナディーネはぐしぐしと顔を拭った。
「申し訳ございません。でも、ご容赦……ルートルフ様のお世話、させていただきたく……」
「ふん、好きにせよ」
もう一度鼻を鳴らし。
妃は悠々とティーカップを口に運んだ。
「しかし、甘い主人よの」
「あまくない。しんじつ」
「ん?」
「このこたちさんにん、ほかにない、かちある」
「どうだかの」
「くにのやくにたつ、かち、ある」
「大げさな」
カップを置き、これ見よがしに肩をすくめている。
「まあ、勝手にするがよい。其方の元がいかに禍乱に陥ろうが、妾の知ったことではない。第一、この後の其方の扱いもまだ未定だしの」
「ん」
言うだけ言って気が済んだように、妃は食後茶のお代わりを受けている。
僕も頭を切り替えて、隣を見上げた。
「なでぃね」
「はい!」
「きょう、かてんかとめひてるとには、いつものようにしつむしつへいかせて。なでぃねは、ぼくのせわ」
「はい、かしこまりました」
一声高めて、ナディーネは僕の皿を片付け始めた。