15 赤ん坊、常識を知る 3
「おーい、アヒムはいるかー」
呼びかけると、少し間を置いて、返事があった。
例の小屋に農作業に来ていたのだろう。
「はーーい」
「お前の親父さん、午後から手が空いてないか、訊いてきてくれないか」
「はーい、分かりましたー」
頷いて、兄は窓を閉める。
少し見当がついて、問いかける。
「りょうし?」
「ああ。アヒムの父親のディモは農家だが、若い頃からあの森で猟師もやってるんだ。俺が知ってる中では、いちばん森についてくわしい」
「もり、いく」
「行くって、お前が森にか?」
「ん」
「目で見て調べたい?」
「ん」
「しかしなあ、許可出るかなあ。母上は絶対反対すると思うぞ」
「そとでる、だけいう」
「外に出る許可だけ、か。うーむ――まあ今日は、最近にしちゃ天気がいいが……」
しばらく考えて、兄は何とか頷いてくれた。
あとは重い話題をやめにして、この世の常識の説明をいくつか受けた。
この部屋に来て最初の質問に戻って、曜日の確認から。
曜日の呼び方は、順に『風』『火』『水』『光』『空』『土』で、六日で一週間、五週で一月となっている。
あとは『一の月』から『十二の月』までで一年。一年が三百六十日ということになる。
季節はやはり地域によって多少異なるが、この領地ではおよそ、十一の月から三の月までが冬、四の月から五の月が春、六の月から八の月が夏、九の月から十の月が秋、という見当になる。
今日は『十の月の四の土の日』ということになるようだ。四回目の週の終わりだから、月の最初から数えて二十四日目、ということだ。
一日は四十八刻に分けられる。朝(午前)の一刻から始まって二刻、三刻、と数え、十二刻の次が昼(午後)の一刻で、太陽がいちばん高くなる時刻を指す。あとは同様に、昼の十二刻の次が夜の一刻、夜の十二刻の次が夜中の一刻、この瞬間日が変わるわけだ。
王都など教会のある地域では朝昼夜の一刻に鐘が鳴らされるが、この領地にはないので、領主邸の玄関前の日時計で時刻を見る。
今はだいたい、朝の十一刻を過ぎた見当だ。
毎日十二刻頃から昼食だ、と兄が説明しているところへ、ちょうどその報せらしく「ウォルフ様」とドア越しにウェスタの呼びかけ声が聞こえてきた。
「おう」と応えて、兄は僕を抱き上げ、廊下に顔を出した。
「ちょっとだけ待ってくれ。こいつを部屋に返してくる」
「かしこまりました」
頷いて、ウェスタは階段を降りていく。
すぐに兄は、僕の部屋のドアを開いた。
「午後からはこいつと外に遊びに行くぞ」
「え、え?」
「ヘンリックにも断りを入れておくから。こいつの支度、しておけ」
「そんな、いきなりい。村に行くんですか?」
「おう」
「ルート様を抱いてえ? 危ないですよお」
「大丈夫だ」
「何があるか分からないんだから、せめて絶対ルート様を落とさないように、おんぶにしてください」
「おんぶう?」
「はい」
言ってベティーナは、僕を抱きとって兄の背中に掴まらせた。
それから足元の籠から取り出した妙な布の固まりを僕のお尻に当て、ついている紐を兄の肩と腹に回して結んでいく。
どうも、おんぶ専用の道具らしい。
「妙に、準備がよすぎないか、お前?」
「そのうちわたしがルート様をおぶって外出することを考えて、用意していたんです」
「なるほど、な」
兄の顔がこれ以上なくしかめられているのは、見た目がまったく子守りの格好になっているせいだろう。
それに対して、僕は「きゃいきゃい」と小さな手で肩を叩いて、ご機嫌の様子を示した。
ますます、兄の顔はしかめられていた。
しかし、納得してもらうしかない。
もし森に行くとしたら、この装備が最善なのは、明らかなのだ。
昼食を終えて、僕は完全装備の厚着をさせられた。
例のおんぶ道具を手にしたベティーナに抱かれて階段を降りると、玄関先で待っていた兄は、毛皮の短いコート姿、腰と手に弓矢と剣を装備している。
「ずいぶん物騒な格好ですねえ」
「ディモと野ウサギ狩りの要領を相談するから、狩り道具を持っていく必要があるんだ」
「くれぐれも、ルート様に気をつけてくださいよお」
「分かっている。当然だ」
改めて、兄におんぶされる。
こうしていると、すぐ目の前に兄の耳が来る。こっそり内緒話には最高の格好ではないか。
ベティーナに見送られて門を出るや、兄は押し殺した呪詛を漏らした。
「みんな、お前のせいだ」
「はは……」
子守りスタイルは、どうにも気に入らないらしい。
それでも拒否しないのは、どうしてもこの道行きに必要なものを感じているからだろう。
「ディモとアヒムが森の入口に待っていることになっている」
「りょうかい」
会話はその程度で、すぐ村の家並みに入るとそこここに人の姿が見えて、僕の声を聞かせるわけにはいかなくなっていた。
村人は皆、領主の息子兄弟とすぐ気がついて、会釈をしてくれる。
小さな子どもが手を振ったり親しく話しかけてくるところ、兄が好かれていることがよく分かる。
「ウォルフ様、弟様?」
「おお、弟のルートルフだ。よろしく頼む」
「可愛いーー」
きゃきゃと僕が手を振ってみせると、小さな女の子に狂喜された。
人生で数少ない、貴重なモテ期間かもしれない。
村里を縦断して、やがて右手に木の柵が見えてくる。
兄の説明によると、春に立てたという野ウサギの防護柵だ。
その柵の切れ目になっている地点に、男が二人立っていた。
見覚えのあるアヒムは手に斧を、父親のディモらしい中年男は弓矢を装備している。
予想していなかったらしく、ディモとアヒムは僕を見て目を丸くした。
「社会勉強のために連れてきた」と、兄は苦しい説明をする。
考える間を置かず、兄がオオカミについて質問すると、ディモは腕組みで首を傾げた。
「オオカミですかあ。言われてみれば、あまり見かけなくなったかも。いやしかし、ここしばらくあまりに野ウサギが憎たらしく増えてるんで、そっちばかり気になってましたねえ」
「減っている可能性はあるってことだな」
「いやしかし、オオカミが減る理由はない気がしますさねえ」
「ただそのままじゃ、野ウサギが増える理由もないからなあ」
「そうさねえ」
やはり、実際見てみないと何とも言えない。
少し中に入ってみよう、と兄は森の方に向き直った。
木々の間を縫う山道に入ると、たちまち辺りは明るさを減らしていた。
「親父い、オオカミが出ても、大丈夫なもんか?」
「おう。ウサギより的が大きいさ。弓の餌食だ」
「ルートルフ様をさ、危ない目に遭わせるわけにいかねえぞ」
「当たり前だ」
信用して、いいのだろうか。
親子の会話を聞きながら、とにかく僕は周囲の気配への注意を忘れないようにしよう、と思った。
周りの木々はすっかり葉を枯らし、進む足元に赤や茶の堆積物を敷き詰めている。
進むうち、
「わあ!」
悲鳴を上げるアヒムを振り返ると、すぐ横の茂みにがさ、と飛び込む小さな残影があった。
「野ウサギだ。図々しくこんな目の前を横切りやがって」
「数が増えて、本当に図々しくなりやがったさなあ」
息子の苦り顔に、父親も吐き捨てた。
気を取り直して進軍を再開。
やがて道は、二股に分かれていた。