12 赤ん坊、貴族を見る
翌日。
いつものように午前の勉強時間に参加しながら、僕は何とか兄と二人になれる機会を窺っていた。
早いうちに兄と話を通しておきたいこと、確認したいことがたくさんあるのだ。
当然兄の方でもその必要は感じているはずで、少なくとも午後にはそういう時間を作ってくれるのではないかと期待していた。
しかし、昼食の直後、思いがけない出来事があった。
僕を抱いたベティーナが玄関ホールを歩き回っていると、外から駆け込んできたランセルが奥に向けて呼びかけていた。
「ヘンリックさん、大変だ!」
「どうしました?」
すぐに執事が出てきて、問い返す。
まだ食堂にいた兄も、何事かと顔を出してきた。
「何やら豪勢な馬車がここの前を通り過ぎて、村の手前で止まっています。何人か出てきて、村の中を観察してるみたいな」
「何ですって?」ヘンリックは、眉を寄せて唸った。「堂々とここを通っていく豪勢な馬車というなら、野盗の類いでもないでしょうが……」
「警戒する必要はないか?」
「自分が見て参ります。ウォルフ様はランセルを傍に置いてここを守っていていただけますか」
「分かった」
コートを羽織ってヘンリックが出ようとしているところへ、外を見ていたランセルがまた呼びかけてきた。
馬車が向きを変えて、この屋敷へ向かってきているという。
急ぎヘンリックが出ていくと、もう門に入ってきた馬車が、玄関前に止まった。
「これは、ディミタル男爵様」
「久しいな、ヘンリック」
降りてきた豪奢な身なりの太った男は、親しげに笑いかけてきた。
「本日こちらにお見えになるとは、伺っておりませんでしたが」
「領地に帰る途中で、寄り道して来ただけだ」
「主の留守中、連絡なしにお越しいただいても、おもてなしもできませぬ」
「ベルシュマン殿と私の仲だ、気にするな。茶でも馳走してくれぬか」
「は。とりあえずこちらへお願いいたします」
恰幅のいい主人と付き添いの二人を、奥の応接室に案内していく。
母が伏せっているため兄が当主代理で応対することになり、ヘンリックが傍につく。
イズベルガが茶の準備をして、ベティーナは僕と共に部屋に控えているように命じられた。
そのため、僕もその後のやりとりを聞くことはできない。
ベティーナも落ち着かないようで、僕を抱いて何度も廊下を歩いたり、階下を覗いたりしていた。
一刻あまりの滞在で、かの男爵は退出していった、
見送ったヘンリックと兄が戻ってくるところへ、ベティーナも降りていく。
「いったい何だったのだ、あれは? 貴族的上品な会話というのか、表現が遠回しすぎて俺にはさっぱり言いたいことが理解できなかったぞ」
「正直に申しますと、私もです。遠回しに表現されているというより、もともと中身のない話をされているとしか」
「何なんだ」
疲れたように兄が食堂の椅子に座り込み、執事は傍らに立つ。
何となくの流れで、料理人夫妻も子守りも、そこに遠巻きに居合わせる形になった。
「そもそも貴族同士で、こんな突然領地に押しかけるなど、無礼極まりない話じゃないのか? もしかしてうちは、あの男爵に舐められているのか?」
「不本意ながら、そう考えてそれほどまちがいではないのではないかと」
「何だというのだ、本当に」
「あの様子からしまして、この屋敷を訪問するのが目的ではなかったのではないかと思います。領地内を観察するとか、調べたい目的があったのかもしれません」
「その……」と、ランセルが声を入れた。
「村の方に訊きに行ったのすが、あちらについて来た何人かが、村の中を歩き回ったり、様子を訊いてきたりしていたよう、す。どうも、畑や防護柵の様子を見たり、今年の収獲や野ウサギ被害のことを訊いてきた、と」
「それが目的か?」兄が顔をしかめた。「しかしそんな調査活動っての、ふつうはもっとこっそりと、当家には知られないように行うものじゃないのか? その意味でももしかして、舐められているということか」
「否定できませぬな」
その後ヘンリックは母に報告に行き、兄は不機嫌な顔のまま外に出ていった。
執事に言い含められて、ベティーナは僕と部屋に籠もることになった。
この余波で落ち着かないまま、その日は兄と話をする機会も持てず、就寝することになった。
さらに翌日。
いつものように朝食の後、ベティーナの腕を掴むと。
思いがけず、きょとんとした目を返された。
「えと……あ、そうか。今日はお兄様の勉強、ないないですよ。土の日ですから」
意味が分からず、こちらもきょとんと見返してしまう。
まあもちろん、もともとそんな説明が赤ん坊に理解されるはずもないのだから、何であれきょとんで違和感ないはずなのだけれど。
「ここのところずっと、午前中はお勉強でしたものねえ。今日はどうしましょうね。お勉強ごっこだけでもします?」
笑いながら僕を抱き上げ、歌うように問いかけてくる。
もちろんそんな問い、応えられるはずもなく、ベティーナも答えを求めてはいないだろうけど。
鼻歌を奏でてぽんぽん背中を叩きながら、ひとしきりベティーナは部屋の中を歩いて回った。
そうしているうち、いきなりドアが開いた。
「いるか?」
「あ、え? ウォルフ様? どうされました?」
「今日は俺がルートの相手をする。ベティーナは休んでていいぞ」
「え、え?」
「俺の部屋で遊ぶ。お前は来るな」
そう言って、半ば強引にベティーナの腕から僕を取り上げてしまう。
目をまん丸にしながらも、ベティーナは当然逆らうことはしなかった。
まあ、休みの日に兄が弟の相手をするということ、おそらく貴族の家でも別に異常なわけではないのだろう。
ただ、数日前までと比べて兄の態度が変わりすぎ、というだけだ。
「えーとじゃあ、わたしはずっとこの部屋にいますので、何かあったら呼んでくださいね」
「休んで勝手しててもいいぞ。土の日は王都なんかでも勤め人が一斉に休む日だ」
「でも、そういうわけにもいきませんよお。だってたとえば、ウォルフ様、ルート様のおむつ換えなんかできませんよね」
「む……」
「最近はルート様、お漏らしの前に教えてくれるので、そこのオマルでしていただいているんです。その気配が見えたら、早めに連れてきていただければ」
「む、分かった」
ちら、と兄に顔を覗かれて、僕は小さく頷きを返した。
今となってはそういう場合、ベティーナ以上に兄の方が意志を伝えやすい。
兄に抱かれて部屋を出る。
振り返ると、さっそくベティーナは定位置の椅子で編み物道具を取り上げていた。
いつもだいたい僕をベッドに寝せて、傍で縫い物や編み物をしているのだから、この日の予定もほとんど変わらないということになるのだろう。
兄の部屋に入り、ベッドの上に座って、ようやく僕は自分に口を開くことを許した。
「ツチノヒ……なに?」
「お前……」きょとんと、兄は目を丸くした。「すごく賢いみたいで、そんな常識ないわけか?」
「ない」
もともと次に兄と二人になったときの予定、こういう常識のすりあわせが最優先、と思っていた。
まず僕という存在がどういうものであるか、兄に理解してもらってからでないと、話が進まないと思うのだ。
相変わらず赤ん坊の口はうまく回らない。それに加えて、僕のこの世界での言語知識も、まだまだ不十分なのだ。
かなり苦労しながら、たどたどしく説明を試みた。
兄の方も少なからずいらいらするところはあっただろうが、辛抱強く聞いてくれた。
二十日ほど前に、突然今のような意識を持っていることに気づいた、ということ。
判断力、理解力は赤ん坊離れしているらしい。
使用人たちの会話を聞いて、ある程度聞く話すができるようになった。
昨日のクロアオソウに関することのように、何か突然ぽやんとした知識のようなものが頭に浮かぶことがある。
それ以外はまったく無知。この世の常識などの知識はそのまま赤ん坊並みと思ってほしい。
聞いて、「なるほどな」と兄は重々しく頷いた。