39 赤ん坊、舞踏会の話を聞く
この日は一日中、遠くから音楽や人の歓声が聞こえ続けていた。
昼前の二刻ほど、兄とベティーナはウィクトルに見てもらいながら玄関ホールで剣の稽古をした。
兄はいつもの日課。ベティーナは昨日言っていた「強くなりたい」という希望のためだ。
「ベティーナの場合、襲撃に遭ってもへたに抵抗しない方が助かる可能性が高いと思うぞ」
「ルート様を攫われて助かっても、意味ないです。少しでも抵抗できれば、ウィクトルさんたちが駆けつけるのに間に合うかもしれないですよね」
ウィクトルの忠告に、ベティーナは頑として言い返す。
兄も話に加わって、とりあえず体力をつけてそれらしい格好に見える程度に練習しよう、ということになったようだ。
ミリッツァを乗せたザムに掴まって、僕はホールの隅で歩く練習をしながらその稽古を見守る。
木刀の素振りを続ける小さな侍女の姿は、素人目にも危なっかしいことこの上ないという印象しかない。
昼過ぎには、父が戻ってきた。
日が傾き出した頃には、父と兄が舞踏会に向かう支度を始める。
着替えを手伝うベティーナとともに、僕は初めての兄の正装を鑑賞した。
「どうだ、ルート」
「ん。まるできぞくみたいにみえる」
「……いや、そりゃそうじゃなきゃ困るんだが」
「素敵ですよお、ウォルフ様。ご立派に見えますう」
「おう、ありがとう」
階下に降りると、父と護衛二人が準備を整えて待っていた。
どちらも二十代前半に見える二人の護衛騎士は、マティアスとハラルドという名だと、僕は初めて知った。
「では、行くぞ」
護衛を従えて、父と兄が出立する。
開場の王宮までは歩いてもそれほどの距離ではないが、馬車を仕立てて行くらしい。
御者はヘルフリートで、護衛たちは馬車の脇を歩くようだ。
それでなくとも祭り最中の通りは人が多く、馬車も徒歩以上の速度は出せないというのが現実なのだろう。
母とともにそれを見送って、僕はミリッツァとザムの背に乗って居間に戻る。
ヘルフリートが連れてきた傭兵二人が玄関ホールを警備し、テティスとウィクトルが居間の戸口に立っている。
そんな厳重に護られた室内で、僕はミリッツァとザムと遊んで過ごした。
日が落ちても、外の音楽と賑わいは絶えない。
さすがに王宮の舞踏会の音は聞こえないが、一度二階の窓から見た宮殿は煌びやかな照明を湛えていた。
宮殿内も外の広場も、このまま夜遅くまで喧噪が続くらしい。
それでも夕食が終わる頃、父と兄は戻ってきた。
舞踏会そのものはまだ続くが、成人前の兄が解放される頃合いに合わせて父も抜け出すことができたという。
兄は無事、最低限予定されていた貴族たちとの顔合わせを果たすことはできたらしい。
とりあえず簡単に母に報告をして、着替えのために二階に上がる。
身支度を手伝うベティーナに、ザムに乗った僕とミリッツァもついていった。
「とにかく緊張して疲れたよ」
「たいへんでしたねえ。王族の方々にもお目にかかったんですかあ」
「遠くから見ただけだ。ほとんど顔の区別も分からなかったな」
正装の上着を脱がせてもらいながら、兄は苦笑する。
王や王妃、王太子の挨拶はあったが、そちらへ向けていちばん前が貴族当主、続いて成人した子息、という並びが決まっていて、成人前の兄たちは最後列なのだそうだ。しかもそれぞれの集団の中でさらに序列順の並びになっていて、最底辺近い男爵家の息子はほとんど壁際になっていたらしい。
「すぐ近くで成人前の娘たちが『王太子様素敵』とかざわめいていたが、素敵も何も顔立ちさえ見えなかったぞ。きっと明日どこかですれ違っても、分からないと思う」
「それは残念でしたあ」
「今から王太子の顔を覚えても、何の役にも立たないだろうけどな。挨拶に立たず後ろに座っていた成人前の王子や王女などなおさら、背格好さえ分からない」
「ああ確か、今の王太子の上のご兄弟はすでに亡くなって、下は成人前の方ばかりということでしたねえ」
「らしいな」
「きぞく、あいさつ、した?」
「ああ」
僕の問いには、大きく頷きを返す。
部屋着に着替え、深々と溜息をつきながら椅子に腰かけて。
「予定通り、ベルネット公爵とロルツィング侯爵とは父上に紹介されて顔合わせをした。野菜栽培技術とかの件で礼を言われて、これからもお互いよろしくって感じだな。それからすでに知っている相手としては、騎士団長のアドラー侯爵と挨拶した。それと、エルツベルガー侯爵は欠席ということだったが、代理のテオドール様と話すことができた。ニワトリのお礼と、元気に育っている報告をしておいたよ」
「ん」
「大人との面談はそれだけだな。あとは父上がブロックしてくれていたようだ。だから、残りの時間は同年代の知り合いと喋って飲み食いをしていた、という感じだ――と、思い出したら、ひどく喉が乾いてきたな。なかなか豪華でうまかったけど、王都の食い物はだいたい揃って塩味と辛みが強いからさ」
「しおにふじゆうしていないから、かな」
「かもな」
「そうですよねえ。わたしも、このお屋敷のお食事でさえちょっとしょっぱすぎると思いますから」
「他の貴族の食事は、うちの比じゃないらしいぞ。ああ、本当に喉渇いた。下で水をもらうか」
「ちょっとでよければ、今出しますか?」
「ああ悪い、助かる」
「お安いご用ですよお」
言って、ベティーナは少し離れた机に置かれた木のコップに向けて、手を伸ばした。
見た目、何の変化もないが。無造作に手を伸ばして、兄はそれを口に運ぶ。
確かに少量らしいが、水が喉に下ったようだ。
もちろん、ベティーナの加護の『水』だ。
ベッドの上でミリッツァに『おんま』をしながら、僕は思わず目を丸くしていた。
気がついたらしく、兄が声をかけてきた。
「どうした、ルート? 加護の『水』が珍しかったか」
「んん……」
首を振って、考えを巡らせる。今覚えた違和感は、何だったか。
とりあえず、尋ねる相手はベティーナが手っ取り早いだろうか。
こういう会話に遠慮がいらなくなったのは、大助かりの進歩だ。
「みず、あんなはなれて、だせる?」
「はい。これくらい離れてなら、簡単ですよお」
今『水』を出すのに、ベティーナの指先とコップは数歩分程度離れていたはずだ。
考え込む僕に、兄が不思議そうな目を向けてきた。
「離れて出せても不思議ないだろう。『光』だって頭の上の方に出すことができる。『風』や『火』だって、少し離れて出せるものだぞ」
「ん……そだね」
『光』は何となくそれが当然に思って、他の加護については特に考えないでいた。
テティスやウィクトルに戦闘での『水』の使い方を示唆して稽古を見ていたときも、特に指先から離れて出していた印象はない。
考えてみるとあれは、指先から少し距離を置いた先に勢いをつけて叩きつけるという目的があったからだろう。
たまたま戸口のところに立っていた護衛たちに、問いを向けてみる。
「ててすたちも、できる?」
「離れたところへ『水』を、ですか? 出すだけなら、ここからそのコップ付近まででもできると思いますよ。ちゃんとコップの中に入るように狙いをつけられるかは、また別ですが」
テティスの返答に、ウィクトルも頷いている。
つまり、その程度常識らしい。知らなかった。
「しかしルート、それがどうかしたのか」
「ん――」
兄の問いに、首を振る。
何か引っかかっているのだけど、考えが明瞭な形を結ばないのだ。