35 赤ん坊、王都を見る
「かのデスティンが個人的な恨みで、たまたま一人協力者を得て犯行に及んだ、ということも考えられなくはないのですが。もし一度ダンスクに逃亡したのが事実なら、戻ってくるのが早すぎる気がします。王都警備隊に目をつけられているのですから、せっかく国外逃亡に成功したのならしばらく隠れていようというのが人情でしょう」
「だろうな。そうすると、そのままダンスクでのんびりとしていられない理由があって、うちの子を狙いに来たことになるのか」
「ダンスクというのがどうも引っかかりますよね。リゲティのギンコムギの輸出が減っている原因がこちらで開発した天然酵母だということは、情報が出回っているようです。それに、我が領からセサミの出荷がされていることも、そろそろ知られていて不思議はありません。あちらにはっきりした損害は与えていないはずですが、関係者としたら面白くないでしょう。それにさらに、最近になって砂糖の製造が始まったことに気づいたとしたら、これはもう面白くないの騒ぎではないでしょう」
「ダンスクの国家や、そういう輸出で利を得ている貴族などに、恨みを買っていても不思議はないか」
「はい。さすがに国家単位とは思いたくありませんが、そんなダンスク側にデスティンが受け入れてもらうための条件がこのベルシュマン男爵家を潰すことだとしたら、こんなに早く戻ってきたのも納得がいきますね」
「うーむ」
腕組みをして考え込み、父は何度か首を頷かせた。
「とにかくまあ、こちらとしてすべきことは、最大限用心をしておくしかないな。護衛四人に気を張ってもらおう」
「はい」
元の予定でこの日は祭り前日の王都見物に出ることにしていたのだけど、用心して屋敷を出ないことにした。
その代わりに。僕は父に、ミリッツァは兄に抱かれて、屋敷の屋根の上に連れていかれた。二階の奥の部屋にあるバルコニーから梯子を使うと、瓦葺き切妻屋根の頂点に上がれるのだ。
「わあ、見晴らしがいいんですねえ」
ここは兄も初めてらしく、感嘆の声を上げている。
周りがすべてこちらと同じ二階建てか平屋なので、どちら向きも遮るものがなく、王都の街並みを見渡せる。僕にとっては生まれて初めて見る、どこまでも家建物が続く風景だ。
建物の多さも感動ものだけど、通りも含めて土の色が少ないのが不思議に見える。主な通りにはすべて、白っぽい石の板を敷き詰めてあるらしい。
見回してすぐ目につくのは、思いがけないほど近くにそびえ立つ王宮だ。
王都の中でここだけ三階建てだという白壁にさまざまな意匠が凝らされた外観は、遙か遠くからでも人々の目を引きつけるらしい。
建物だけでも大きいが当然庭も広く、こちらから見た裏手には小さな森一つが敷地に含まれているという。その全容がぐるりと高い塀で囲まれている。
ほとんど手が届きそうな近さに見えるが、この屋敷からは歩いて半刻ほどの距離だそうだ。父は毎日その中にある執務室に通っているという。
その他の王都内の建物も、ほとんど例外なく王宮に合わせたような白壁と赤茶の瓦屋根だ。
ここから王宮までの間の家屋はすべて貴族の屋敷だが、建物の広さはあってもほとんど庭はそれほどでもない。皆領地に本宅を持つ貴族の別宅扱いだし、王都内で無駄な土地を占有しないようにという告達があるらしい。
その中でかなりの広さの平地が見えているのは、明日からの祭りの舞台となる王宮前広場だ。中央にそこそこの大きさの池があり、場所によって土と草の色が入れ替わる土地に、今は屋台の準備らしい人の動きが見えている。
少しばかりではあるけれど、王都の街と祭り前の雰囲気を味わうことができた。
ちなみにこの間、四人の護衛は梯子の下と屋根が下る方向のバルコニーに控えて、主人たちが滑り落ちないかとはらはら見守っていたようだ。
その後日が暮れるまで、僕らは父の目が届く居間で時間を潰していた。
兄はあれこれと、父との相互報告。僕はミリッツァと床に座って、布紐の引っ張りっこ。
ベティーナは厨房で、夕食の支度を手伝っているようだ。
そろそろ夕食かと思われる頃、侍女のヒルデが足早に入ってきた。
「旦那様、奥様がお着きです」
「何、イレーネが?」
「母上が?」
父と兄が顔を見合わせている。
一同が立ち上がる暇もなく、戸口から水色の外套姿が駆け込んできた。
他に目をくれる素振りもなく、見る見る近づき。
あっという間に僕は、柔らかな胸元にに抱きすくめられていた。
「ああよかった、ルートルフ、無事でよかった」
「かあちゃ……?」
息が詰まるほどに抱きしめられ。ようやくの一息に至高の懐かしい香りで胸を充たされ。
我ながら気恥ずかしいほどに目と鼻の奥が煮え滾って、僕は必死にその胸に縋りついていた。
「かあちゃ、かあちゃ――」
「よかった、よかった、ルートルフ」
ぎゅうぎゅう締めつけられ、押しつけられた頬に熱い雫が伝い落ちてくる。
僕の目からも同じ雫が、密着した外套に染み込んでいく。
そうしてひとしきり、抱きつき、抱きしめられ。
少し頭が落ち着き、気がつくと。すぐ隣に「きゃうきゃう」という喜声が生まれていた。
ぱたぱた手足を振り、身をよじらせるミリッツァが、僕と密着して母の抱擁の中に収まっているのだ。
つい今しがたまで僕と床の上で取っ組み合いをしていたので、引き離す余裕もなく母は一緒にまとめて抱き寄せたものか。
とにかくもミリッツァはこの状況が楽しいらしく、ご機嫌に身をよじっているのだ。
顔を上げると、父の横にヘンリックとイズベルガが立っている。当然母が一人で来るはずもなく、付き添ってきたのだろう。
ヘンリックが説明しているところでは、昨日夕方僕の受難の報せを受けるや、三人で出立してきたらしい。
馬車ではふつう一日以上かかるし、そもそもその車体がこちらで使われていて領地には残っていなかったわけだが、急遽馬をかき集めてそれぞれ乗馬してきたという。
そんな印象はまるでなかったが、母も貴族の嗜みとして乗馬技術は身に着けていたようだ。
夜中じゅう駆け続け、途中の町で馬の交換と短い休憩をとっただけで、王都まで直行してきたという。まったく、日頃の母の様子からは想像もつかない強行軍だ。
なおヘンリックはここまで母を送り届けるだけが目的なので、明日には領地へ戻るという。
最初の興奮をようやく収めて、母はソファに落ち着いた。僕を膝に乗せ、脇からミリッツァがへばりついてくるのをそのままに。
そうしてようやく父と挨拶を交わし、兄とヘルフリートから一連の顛末を聞く。
実行犯二名が原因不明の死亡と聞いて、傍らののイズベルガと冷たい視線を見交わしている。
「天罰ですね」
「ルートルフ様を拐かすなど、万死に値します」
二人の氷のような言い交わしに、父や兄も口を挟めないでいるようだ。
それでも父は、肝腎な点だけは伝えている。
「その二人は死体で見つかったが、裏にどんな者がついていたかいないか、今のところまったく不明だ。ルートルフとミリッツァは、当分外に出さないことにする」
「分かりました。ことが落ち着くまで、ルートルフはわたしの傍から離さないようにします」
「そうしてくれ。テティスとウィクトルを必ず身近に置くようにな」
「はい」
というわけで、嬉しいことに僕は、今までになく母の温もりを感じられる環境に置かれることになった。
成り行きというか、母が傍に寄せないと宣言したミリッツァも基本的に一緒だ。僕を膝に乗せるときも二人まとめてということにはならないが、脇からミリッツァがまとわりつくのは容認している。
この事態に、母もかなり妥協するに至ったということか。
「ウォルフも外出を控えることにして、明日の舞踏会の参加だけにする。さすがに王宮で暴漢に襲われることはないだろう。むしろ私とウォルフの留守中、この屋敷の警備を配慮したいと思う」
「分かりました」
護衛四人のうち、王宮には一人だけを連れていく。残り三人で屋敷の警護をしっかり固めよう、という話になっている。