33 赤ん坊、起床する
ぐすぐすと鼻をすすって。涙を擦りつけて。
やがてミリッツァは顔を上げた。
へら、と。涙まみれで、真っ赤な鼻で、それでも嬉しそうな笑い顔。
「るーた……」
「みりっちゃ!」
端から見たら馬鹿みたいな、赤ん坊同士のじゃれ合いだろうけど。
抑えきれない衝動に駆られて、僕は妹を全力で抱きしめていた。
笑いたければ、笑え。
この子は、あの死地で僕が何としても護ろうとした大切な宝なのだ。
同時に、あの陰惨な地獄から共に逃れてきた、同志なのだ。
「だいじょぶ、みりっちゃ」
改めて、その頭を撫でてやる。
へら、と笑い。涙を擦りつけ。何度も何度も妹は、僕の顔を見直してきた。
もう一度、その身体をぎゅっと抱きしめる。
「うれしなき……」
「ん、どうした?」
「みりっちゃ、うれしなき、はじめて」
「そうか、嬉し泣きを見せるのは、初めてだったか」
今まで、泣いた直後に笑ったことはあっても、笑いながら泣いていたことはなかったと思う。
ミリッツァの感情が豊かになってきた証拠かもしれない。
一騒動を収めて、兄妹三人ともベッドの上に起き上がっていた。
すぐ脇の床に寝ていたザムも、嬉しそうに顔を上げている。
そこへ、扉にノックの音がした。
「お早うございまーす」
最大限に声をひそめて、忍び足でベティーナが入ってくる。
しかしベッドの上を見て、その目が丸くなった。
「ルート様!」
少し前の忍びようを忘れたように声を上げ、ばたばたと駆け寄ってくる。
「ルート様、よかったーー」
そのままこちらに抱きついてくるかに見えたが。
部屋の中央でその足が止まった。
そして、いきなり両膝をつき、大きく頭を下げていた。
「ルート様、申し訳ございませんでした!」
「へ?」
ほとんど土下座になって、その場を動かない。
困惑極まって、僕は兄を振り返った。
その兄は、大きく溜息をついていた。
「ベティーナ、昨日の件はお前のせいじゃない。そう言っただろう」
「でも、でも……」
「みんなそれぞれ油断があって責任を感じるべきだが、お前はその中でもいちばん責任はない。むしろ被害者だ。俺が二人を抱いて下がっていろと命じて、お前はそれに従っただけだろうが」
「でも……わたしがお二人を守れれば、あんなことにはならなかったです」
「お前に守りは求めない。二人と一緒に危険にさらした、他の者の責任だ。後悔するのはいいが、もう終わりにしろ。昨夜みんなで父上に謝罪しただろう。それ以上お前がそんなだと、護衛の二人など首をくくりたくなってしまうぞ」
「……はい」
べったり伏せていた顔が、ようやく上がる。
そこへ、ザムを踏み台にして降りていた僕は、ひょこひょこ近づいた。
そのまま届く高さの頭を、さわさわと撫でてやる。
「べてぃな、いいこいいこ」
「ルート様……」
「べてぃなはいいこ」
「うわーん――ルート様!」
いきなり、力一杯抱きしめられた。
その勢いで息が止まり、死にそうな思いをしたのは、秘密だ。
そうしていると、背中からべたりとへばりつくものがあった。兄が抱き下ろしたらしい、ミリッツァだ。
そのまま横に並んでくる、その感触に気がつくと、ベティーナは改めて二人一緒に腕の中に収めた。
「ルート様、ミリッツァ様、ほんとご無事でよかったですう」
「べてぃ、いいこ」
僕の真似をして、ミリッツァもその頭を撫でる。
ますます感激して、ベティーナはしばらくそのまま泣き続けていた。
さっきのミリッツァよりもさらに感情豊かに、涙と笑いを混ぜて。
この笑い顔に、また会えた。それだけで、あの死にそうな目から脱出してきてよかった、と思ってしまう。
ややあって、兄が声をかけてきた。
「二人の着替えを頼む、ベティーナ」
「……はいい」
のろのろと立ち上がり、ぐすぐすしゃくり上げながら、なんとかベティーナは務めを果たしてくれた。
今も兄が言っていたけれど。
昨日の件、全員で父に謝罪して、一応叱責で済んだ、らしい。
責任をいえば確かに、ミリッツァ以外の全員だ。
護衛二人は護衛対象から離れることがあり得ない。
兄とヘルフリートはそれぞれに全体を統括する務めがあったはずで、護衛が離れるのを見過ごすことが許されない。
昨日は、あの事態と農民たちの芝居が自然すぎて、思わずそれに応じた行動をとってしまったのだ。
ちなみに僕も、後悔というか自責の念はある。何故あのとき、不自然さに気がつかなかったのか。
あの商人を装った賊たち、あそこにただ立っているのはおかしいのだ。彼らは単騎に乗っていて、荷車の脇を抜けて通り過ぎることができるのだから。
よほどはた迷惑な野次馬か、別の目的があるのでなければ、手伝いもせずにあの場に立っている理由はないのだ。
そんなことを考えている僕を着替えさせ、ベティーナはミリッツァのおむつ替えに移っていた。
作業をしながら、その口からぽつりと声が漏れた。
「ウォルフ様……」
「何だ、どうした」
「わたし、強くなりたいです。少しでも、ルート様とミリッツァ様を守れるように」
「そんな必要はない、と言いたいところだけどな。それで気が済むなら訓練につき合うぞ」
「ありがとうございます」
僕たちの支度を終わらせると、「ルート様が起きたと、旦那様にお知らせします」と、ベティーナは駆け出していった。
イズベルガに見られたら大目玉を食いそうな、ドタバタぶりだ。
笑って、兄は大きく溜息をついた。
僕は床にしゃがんで、ザムの首に手を回す。
「ざむ、きのう、ありがと」
わしわしと首を撫で、頬に頬を寄せ。
「ざむ、だいすき」
全身で抱きついてやっていると、隣に物真似娘が寄ってきた。
「ざむ、ざむ、だーすき」
白銀の背中にのしかかり、わしゃわしゃ毛皮を撫で回す。
乱暴な仕打ちだけど、ザムの尻尾が大きく振られているのを見ると、大丈夫なのだろうと思う。
ひとしきりそうして戯れていると、兄が寄ってきて僕は抱き上げられた。
改めてミリッツァと二人、ザムの背中に落ち着けられる。
「行くぞ。父上が待ちかねている」
「ん」
王都の男爵邸も領地のものと似た作りのようだ。部屋を出ると絨毯の敷かれた廊下で、その先に下り階段が見えている。
降りた景色は、領地の屋敷よりわずかに狭いかという印象だ。
ソファの置かれた大きな部屋に入ると、慌ただしく父が立ってきた。