牙月区の住民を犯罪から守るのは誰なのか
神奈川県 横須賀市 牙月区。
人間と吸血鬼が共存している唯一の特別行政区である。東京湾に突き出た出島のような人工島に、赤レンガを使ったレトロな建築物がひしめいている。
その中に、朽ちて白い粉を噴いている、ひときわ年季の入った建物――牙月区特別犯罪課の署がある。
「九十九さん、九十九さん!」
トレンチコートを羽織った長身の男――須藤が、臙脂色の木製扉をノックする。中から返事がないと悟ると、深いため息をつき、「まあ、寝てるよなあ」と漏らした。
重たい上に蝶番が錆びついた扉が、大きく軋んで開かれる。――が、部屋の主である九十九刑事はというと、皮張りのソファーで気持ちよさそうに眠ったまま。
九十九結衣と須藤英司。この二人が、治安の悪い牙月区の住民を守るコンビだ。二人の捜査活動はきまって、須藤が九十九刑事を如何にして無理くり起こすのか、というところから始まる。
須藤が、毛布にくるまってすうすうと寝息を立てている彼女の肩を揺さぶる。
「ちょっと、九十九さん。起きてください!」
「んんー、あと五時間寝かせて」
「日が暮れますよ! まったく!」
「もうー、ヴァンパイアは夜行性なんだから、大目に見てよー」
なんてぶつぶつ言うのを背中越しにあしらいながら、遮光カーテンの下ろされた窓際に立つ。そして、ばさぁああっと思いっきりカーテンを開けて、真昼の陽射しを事務所に迎え入れた。
「ぐああああっ!! 早く閉めて閉めてぇええっっ! 寿命が縮むぅうう!」
「既に三百年以上生きているんだから充分でしょ? だいたいヴァンパイアに寿命とかあるんですか」
「あるわよ! 千年くらいある寿命が今ので三秒も縮んだ! 貴重な三秒だよ!」
「スケールがデカすぎてピンと来ないです」
須藤がカーテンを閉めたところで、ようやく九十九刑事は渋々身体を起こすのだった。
「手荒な起こし方はやめてって言ってるじゃん」
「いや、ああでもしないと起きないですよね」
「だからって、手加減というものがあるでしょ……」
ぶつくさと文句を言いながら彼女は、冷蔵庫から「沖縄県直送ヤギの血」の紙パックを取り出して、一思いに飲み干す。
次に鏡台に向かい、乱れた深紅の髪に櫛を通して、身支度を整え始めた。青白い唇には、血のような赤いリップが塗られ、不健康なほど白い肌は、漆黒のカーディガンとスラックスに包まれた。さらにつばの広い帽子まで被って、全身黒づくめといった具合だ。
「で、現場は?」
それまでとは打って変わって、妖艶な低い声を出す。その瞬間に、事務所の空気が、ピンと張りつめた。
「はい。現場は、飲食店が軒を連ねる通りの近くに位置する廃ビル。非常用階段の二階から三階に上るまでの階段のど真ん中。背中に袈裟斬りにしたような大きな傷がある男性の死体が見つかったそうです。現場は、おびただしい量の血痕があり、一目見たその瞬間で出血多量が死因と分かるほどの凄惨さだそうです」
「惨殺死体ねえ、出血がひどいと情報が減っちゃうのよねえ。にしても随分と中途半端な場所ね」
廃ビルは、すぐ近くに穴の開いた金網フェンスがあり、侵入は容易だった。けれど、それを考慮しても、わざわざその場所で事件が起きる必然性が薄い。これは、通り魔的な犯行か。被害者が逃げ延びた先が、廃ビルということか。
などと、須藤の言葉から推理を巡らせる。
「まあ、刑事であるからには、何よりも、現場の味見から始めないとね。須藤、運転をお願い。なるべく優しくね」
***
警察署から現場までの道のりは距離にして約十五キロ。それをスピード狂である須藤は、緊急車両の権利を最大限に活用して僅か八分で走り抜けた。
「うぇーい、今日は飛ばせたぞー♪」
なんて上機嫌で降りる須藤の背中を睨みつけながら、九十九は車に寄りかかって千鳥足で車から降りてくる。
「す、須藤おおおおっ。や、優しくって、言ったじゃないのぉお、うぇえ」
「九十九さんいつも言ってますよね? “事件は鮮度が命”って」
「そうだけど、私のことも大事にして!!」
「九十九さんの詳しい捜査内容は、公には秘密ってことにしたいんでしょ。現場には俺が行って来ますから、九十九さんは日陰で休んでおいてください」
ぽん、と肩に手を置く須藤を睨みつけたところで、彼女はやはり吐き気を催してしゃがみ込んでしまう。
「あっ! ちょっと、須藤!」
と呼びかけるも、吐き気を堪えているうちに、彼の姿は消えてしまっていた。どうやら、一足先に現場に向かったらしい。