第7話
数日後の夜、私は養父に呼ばれ、緊張しつつ書斎に向かった。
きょうだいたちはその理由を聞かされていないようで、アラスターは「僕は、君の学習に特に問題はないと思うけれど……」と不思議そうな顔をしていて、セリーナとシャノンも不思議そうに顔を見合わせていた。
……でも、多分私の勉強について何か忠言があるんだよね。与えられた課題は全部やっているし、予習や復習も欠かさずやっているけれど、何か足らないところがあったんだろうか……。
礼法に則って背筋を伸ばしつつも、内心では不安で押しつぶされそうになりながら、書斎を訪れる。
立派な革張りソファに座る養父の姿はまさに、「裏社会のドン」である。膝に長毛の猫でも乗っけて、指という指にジャラジャラと派手な指輪を嵌めれば完璧だろう。
「よく来たな。そこに座りなさい、キーリ」
「……はい」
びくびくしつつ、正面のソファに座る。普段この部屋には養父の右腕的存在である老年の執事がいるのだけれど、今日は彼も席を外しているようだ。
本当は気のいいおじさんだと分かっていても、閉鎖的な空間に強面の男性と二人っきりになると、胃はきりきり痛くなるしドレスの下では汗も噴き出してくる。
養父は吸っていた葉巻を灰皿に押しつけて火を消し、少し身を乗り出した。
「……君の淑女教育において、不十分な点があると思った」
「……」
「しかし、それは君が怠けているからとか、能力が足りないからとか、そういう理由ではない。それだけは断言できる」
養父の言葉に、地の底まで沈むごとく落ち込んでいた私は顔を上げた。
養父は頷き、とんとんとデスクを指で叩きながら言う。
「何度も言うが、君は近いうちに私が見つけた男性と婚姻を結んでもらう。相手の男は異世界人や魔力を持たない者にも偏見がなく、誠実で、裕福な者を選ぶ。そうすると君は結婚後、礼法などさえきちんとしていれば異世界人であると知られることなく、平穏な生活を送ることができる。……ここまではいいな?」
「はい」
今改めて聞いてみても、とんでもない好待遇だ。
養父が全ての条件を守ってくれるのなら、私はこれから先故郷には戻れなくても、飢えたり凍えたり暴力を受けたりといった目に遭うことなく、普通の女性と同じように結婚して生涯を幸せに過ごせるというのだから。
そこにはブラッドバーン家にとっても利益があるらしいから、私は勉強を頑張っているわけだけど……。
ごくっと唾を呑む私を見、養父は「キーリ」と私の名を呼んだ。
「簡単に言おう。今のままでは君はいくら座学やダンスの訓練を受けても、この世界の人間として馴染むのは不可能だ」
「……そ、それはなぜでしょうか……?」
「……先日、君はセリーナとシャノンと一緒に町に出かけたそうだな」
意を決して尋ねたのに、全然別の方角から質問をされてしまった。
拍子抜けつつも、私は頷く。
「……はい。せっかくだからこの国の様子を見てみようということで、変装をして城下町を歩きました」
それは、三日ほど前のことだ。
セリーナとシャノンに誘われ、私は初めて屋敷の外に出ることになった。
私の存在はまだ広まっていないから、三人とも町娘のような装いに着替え、帽子を深く被って顔が見えないようにし、屋敷の通用門を使って外の世界に飛び出したのだ。
散策は、普通に楽しかった。ヨーロッパのような町並みはにぎやかで、活気に満ちていて、刺激に溢れていた。
魔法の力で宙に浮いているという王城までは見られなかったけれど、市場を歩き、公園で休憩し、ちょっと買い物の練習なんかもしたりして、半日の散策でリフレッシュすることができた。
……そういえばその時、気になったことがある。
「やあ、可憐なお嬢さん。これからお茶でもどうかな?」
「ああ、すまないね。こんな雑踏に天使が舞い降りたのかと思ったよ」
「僕たちが出会ったのは、運命だと思わない?」
「きっと俺は、君と知り合うために生まれてきたんだ。これからもっと君のことを知りたいから、一緒に遊びに行かないかな?」
そんな感じの男性の声が、あちこちから聞こえてくる。
見れば、大通りでも店の前でも公園でも、男性が女性を口説きまくっていた。人通りの多い場所となれば、あっちを見てもこっちを見ても、女性にアプローチをしている男性の姿がある。
最初はぽかんとして見ていた私だけど、数名はなんと私の方にもやってきた。
すぐにセリーナとシャノンが追い払ってくれたけれど、「こんにちは、恥ずかしがり屋のお嬢様。僕とお茶でもどう?」といきなり誘われた私はあまりのことに、何も言えずに硬直してしまったのだ。
「……口説かれるなんて、初めてだわ」
「あら……ひょっとしてお姉様のいらっしゃった場所では、こういう習慣がないのですか?」
公園で休憩中に私がぼやくと、セリーナが驚いたように目を丸くした。
「さっきもしどろもどろしていたから、もしやとは思っていたのですが……」
「えっ、もしかしてこういうの、この国では当たり前なの?」
それってなんて情熱の国なんだ、と思って問うと、当たり前だとばかりに二人は頷いた。
「若い男の人は、女性を見たらまず褒めちぎって口説くのが当たり前なのですよ」
「男の子が生まれたら、最初に覚える言葉は『ママ、かわいい』だ、って言われているくらいだからねー」
セリーナが当然のように、シャノンがほんわかと言うけれど……。
そういえば、私たちが三人で談笑している時、兄のアラスターは私とセリーナには「やあ、僕の可愛い妹たち」と言うけれど、シャノンに対しては「僕の天使、可愛いお姫様、花の精霊」とべったべたに甘い言葉を吐いている。
その時は、アラスターはおっとりしているけれど妻に対しては情熱的な人なのかな、とぼんやり思っていたけれど、もしかしてこれってお国柄なのか……?
「で、でも屋敷の人たちはあんなこと言わないわよ!」
「それはそうでしょう。使用人の立場で自分が仕える家の令嬢を口説けるわけないですもの」
「屋敷のお坊ちゃんが侍女を口説くのはよくても、男性使用人が令嬢を口説くのはいけないのよー。せいぜい、ちょっと褒め言葉を言うくらいかしらねー」
他にも、「つばを前に倒すようにして帽子を被っている女性は気分が優れないので、口説いてはいけない」とか、
「喪に服している女性は黒い花のコサージュを胸に付けるので、口説いてはいけない」とか、
「既婚女性はたとえ口説かれても、浮気せずに軽く流さなければならない」とか、
「既婚男性が口説いていいのは妻だけ」という風に、口説くにしても色々なルールがあるそうだ。
礼法の授業ではそこまで進んでいなかったから、知らなかった……!
「えっと……それじゃあ口説かれた女性は、特に気分が悪いわけでも、喪に服しているわけでも、既婚でもなければ、口説きに応じればいいの?」
「そうですね、特に決まった相手がいないのなら、誘いに乗って一緒に遊ぶくらいしますね」
「わたくしもアラスター様と結婚するまでは、たくさん遊んだわねー。もちろん、口説かれてもその気になれない時もあるから、そういう場合はそつなく受け答えをしてさらっと逃げるものなのよー」
純真で一途そうなシャノンまでそう言う。「遊ぶ」がどの程度のことを指すのかは怖くて聞けなかったけれど、この国では若い男女が相手を見つけるまでの間に遊び回るのはごく普通のことみたいだ。
なるほど、と思って公園を歩く人々を観察してみたけれど確かに、口説かれた女性はうきうきして誘いに応じる時もあれば、「とても嬉しいけれど、忙しいの」とさらっとかわす場合もあった。
でもどの女性にしても、口説かれたからといって赤面したりどもったりはしない。笑顔で「ありがとう」と礼を言い、誘いに乗るか断るかを決める。彼女らにとってそれは日常茶飯事であり、いちいち恥じらうほどのことでもないみたいだった。