第5話
お茶を終えて部屋に戻ってしばらくすると、ドアの向こうでコン、と音がした。
この世界では、「二回ノックがトイレ、入室時のノックは三回が望ましい」といったルールはない。玄関だろうと室内だろうと全てのドアの外側にノッカーが付いているから、それで音を立てて合図をすることになっている。
「お嬢様、失礼します。お呼びだと伺って参りました、ユーインです」
「あ、はい、どうぞ!」
涼やかな男性の声がしたので、私は片づけのために抱えていた本をテーブルに置いて、入室するよう言った。セリーナの言っていたとおり、カジノでの仕事を終えたユーインが帰宅したようだ。
森の中で出会った時は薄暗かったし、私は魔法で眠らされたそうだから、彼の人となりを知ることはなかった。
さてどんな人だろう、と思いながら待つこと、しばらく。
「……」
「……」
「……あの、入ってきていいですよ?」
「え? あ、はい、では失礼します」
なんで「どうぞ」と言ったのに入ってこないんだろう、と思ったけれど、改めて言うと向こうからドアを開けて入ってくれた。
後ろ手にドアを閉めたのは、背の高い男性だった。前回は足場が不安定な森の中だったからあまり身長は意識しなかったけれど、かなり高い。もしかしたら自動販売機くらいあるんじゃないか。
ただ似ているのは身長だけで、自動販売機のような寸胴ではなく脚も腕も細い。ブラッドバーン家のお仕着せだと思われる濃紺のジャケットとパンツの姿は、彼の優美な体のラインを魅力的に見せている。
髪はやっぱり濃い灰色で長く、首筋で一つに結わえて左の肩に垂らしている。目は――青紫、って言えばいいんだろうか。
濃いスミレのような虹彩は日本人では絶対に現れない色合いで、愛想がよさそうに少し垂れた目尻やくっきりした二重に彩られたそれを見ていると、なんだか無性に胸の奥がむず痒くなってきた。
どことなく中性的な雰囲気の漂う色男、といったところか。多分、微笑むだけで女性がわらわら集まってくるんじゃないかな。
そんな彼は左腕を腰に、右腕を腹部に当ててスクワットのような動作をする、この世界における男性の「おじぎ」をした。
「お久しぶりでございます。ブラッドバーン家の従僕であるユーイン・エディントンと申します。どうか、ユーインとお呼びください」
「あっ、はい。床次桐花改めて、キーリ・ブラッドバーンです。その……この前はお世話になりました。助けてくださり、ありがとうございました」
そう言って私は立ち上がり、日本風のおじぎ――の代わりにさっき侍女長に教えてもらった、右手を喉に、左手を右手首に添えてスクワットをする、女性のおじぎをした。
侍女長に教わり、セリーナとシャノンがお手本でするのを真似ただけなんだけど、ちゃんとできただろうか……?
ユーインは私を見ると、薄い唇を少しだけ緩めて微笑んだ。
「私ごときに礼を言うものではありませんよ。あなたはもう、ブラッドバーン家のご令嬢――私の方が礼を尽くすべき相手なのですから」
「それは分かっています。しかし、あの森で途方に暮れていた私を助けてくれたのは、あなたです。当時の私は令嬢ではなくて、ただの迷子でした。だからこれは、迷子だった私からのお礼だと思ってくれませんか」
言いながら、こんなの詭弁に過ぎないと自分でも分かっていた。ユーインの反応は使用人として大正解だと分かっているけど、「助けてもらって当然」という態度を取るのは私のポリシーに反していた。
ユーインは私の意志を汲み取ってくれたようで、肩をすくめた。
「そういうことなら、感謝の言葉を受け取りましょう。ただ、私は森で出会ったあなたを連れて帰っただけ。むしろ、いきなり背後から襲いかかって口を塞ぐなどという暴漢甚だしい行為をしてしまい、申し訳ありませんでした」
お礼を言いたいのはこっちなのに、逆に謝られてしまった。
……いや、確かにあの時は最後まで、彼が変質者である可能性を捨てきれなかった。でも今では、彼があんな行動を取ってでも私を黙らせようとした意図は分かる。
暴れて彼から逃げ出していれば、他の人に見つかったかもしれない。そうすれば国に連れて行かれ――魔法の能力を持たないから不当な扱いをされていた可能性があるのだ。
「いいえ、あの時あなたに見つけてもらえて本当によかったと思っています。私はなんやかんやでブラッドバーン家の養女となりましたが、礼法も知識も全く身に付いていません。これからも迷惑を掛けるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「……とても丁寧で謙虚な方ですね。私はいち従僕に過ぎないので、お嬢様と接する時間はほとんどないでしょう。しかし、あなたが淑女として成長される様を、陰ながら見守らせてもらいますね」
おっとりと優しく言われて、胸の奥がふわっと暖かくなった。
黙って微笑んでいるだけでフェロモンが出るような色っぽいお兄さんだと思っていたけれど、物腰が柔らかいし動作も洗練されている。
ちょっとでも、彼のことを女ったらしっぽいと思ってしまった自分が恥ずかしい。大商家の従僕というのなら、軽薄な人であるはずがないものね!
ひとまず挨拶とお礼は言えたので用事は済んだのだけれど、ふと、ユーインはドアの方を振り返り見た後、私を見て微かに笑った。
「そういえば……お嬢様はまだ、こちらの作法に不慣れでいらっしゃるのですよね? もしよろしければ僭越ながらこの私が、作法の一つをお教えしますが、いかがですか?」
「えっ、いいんですか? お願いします!」
ユーインの提案に、私はすぐに乗った。
明日から礼法、ダンス、文学の家庭教師を付けてもらって勉強することになっていたけれど、事前に知識を得られるのならそれに乗らない手はない。家庭教師たちは私がずぶの素人だと分かっていて来てくれるはずだけど、少しでも予習しておくと自分のためにもなるはずだ。
そう思ってソファから身を乗り出したけれど――あれ? なんだかユーイン、意味深な笑みを浮かべていない?
さっきまでみたいな柔らかくて人のいい感じじゃなくて、どことなく妖しい雰囲気が漂っているような……。
「……では、お嬢様。よーく聞いてください」
私の側まで歩いてきたユーインは、ソファの背もたれに片腕を乗せ、ぐっと顔を近づけてきた。くっきり二重の目元が、きれいな形を作る鼻が、薄く笑みを浮かべる妖艶な唇が、間近に迫ってくる。
異性にこれほどまで接近されたことのない私がぎょっとしていると、彼はククッと喉で笑って私の左耳に唇を寄せた。
「先ほど、あなたは廊下に立っている私に対し、『どうぞ』と言いましたね?」
「い、言いましたね……」
美男子の顔面攻撃、凄まじい! そしてわざとなのか甘ったるく囁くイケメンボイス、心臓に悪い!
耐えようにも耐えきれず、かっと顔が熱くなる。私は色が白い方で、酒を飲んでも恥ずかしくなってもすぐに顔が赤くなってしまう質だ。
きっとユーインは、私が耳まで真っ赤になっていることに気づいているだろう……!
「あのような場合は本来なら、あなたが手ずからドアを開けるべきなのです。もし相手が不審者だとしてもすぐに閉めて追い出せる、というのが大きな理由の一つなのですよ」
「えっ」
「それなのに、あなたは私に対して『どうぞ』と言い、私がドアを開けることを許した――それはリベリア王国において、女性が『いつでもあなたに抱かれる用意ができているから、すぐにこっちに来て』と男性に訴えるという意味になるのです」
「……」
すみません、ちょっと脳の処理能力が追いつきません。
私の脳みそはアップデートを必要としているようです。
えーっと、つまり……私は何気なく「どうぞ」と言って入室を許可したけれど、それをこの国の作法に当てはめると、私はいつでもユーインに抱――
……もし私の体温が上昇する際に効果音が付くなら、まさしく「ぼんっ!」といったところだろう。既にじわじわと熱を放っていた顔が、今ではホッカイロかってくらい火照っている。
「あ、い、いえ! あの、私、そんなつもりじゃっ……!」
「ええ、分かっております。きっとあなたが生まれ育った場所では、何らおかしくない行為だったのでしょう」
言い訳するので精一杯で頭をぐらぐらさせる私とは対照的に、ユーインはさもありなんとばかりにけろっと答える。
そんな彼の落ち着いた態度にほっとしたのも、つかの間。彼の空いている手が私の耳の下に触れ、顎骨のラインを辿るようにつつ、と指先が滑り、骨張った親指が唇の下のくぼみに沿うように触れた。
……え? これ、何?
いきなりのスキンシップに声も出せない私をしげしげと見つめ、ユーインはくすりと艶っぽく笑った。
「これくらいで赤くなって……可愛い人ですね」
「ひんっ!?」
変な声が出たけど、許してほしい。ここですかさず「きゃっ」とか言えるほど、私は手慣れていないのだ。
「今回は作法について勉強する前ですし、大目に見ましょう。しかし……私以外の男に対して同じことをすれば、優しく見逃してはあげませんからね?」
「ひっ……!?」
「分かりましたか、お嬢様?」
いや、正直何が「分かりましたか?」なのかちっとも分からないけど、ここでボケるわけにはいかないと本能が警鐘を鳴らしている。
私が梅干しを食べた後のように口をすぼめてこくこく頷くと、それを見たユーインは満足そうに微笑んで手を離してくれた。ソファの背もたれにのっけていた腕も外され、えも言えない圧迫感からやっと逃れることができる。
「では、私はここで。もし何か私にできることがございましたら、遠慮なくこのユーインをお呼びください」
「……あ、はい……了解です……」
優雅に一礼して去っていったユーイン。彼のローファーが立てる音が完全に遠のいてから……私はぐったりとテーブルに伸びた。
な、何だったんだ、さっきのは!?
私は一応お嬢様で、ユーインは従僕で。最初に私を助けてくれた人で、恩人で――?
いや、私の不注意を指摘してくれたことは本当にありがたい。「どうぞ」にそんな意味があると知らず他の人に同じことをしていれば、怪訝な顔をされたり困らせたりしていただろうから、大恥をかく前に教えてくれた彼の気遣いには感謝している。
……感謝している、けど。
「私以外の男に対して、って……どういうこと?」
それってまるで、「自分に対してはオッケーだけど、他の男にしたら許さん」って言っているようなものじゃないか。えっ、それってどうなの? ユーイン相手ならオッケーなの? おかしくない?
テーブルに伸びながらうんうん唸って考えた結果、「多分、ユーインの言い間違いだ」という結論に達した。
うん、それが精神衛生上一番いいからね!