プロローグ:無能な式神
あたりを包み込むのは、漆黒の闇と重々しい静寂。立ち込める紫色の霧。
僕は口元を覆っているマフラーを引っ張り上げ、右太ももに取り付けられたホルスターから右手で鋭いナイフを取り出した。
対象はこの港湾区画の4番倉庫に潜んでいる『怪異』。見た目はのっぺりとした大きなカエルの粘土細工のような黒っぽい塊。
そのカエルは光を吸い込む特殊な霧を発し、迷い込んだ生物を喰らう。
音で獲物を見つけているため、迂闊に近づくことが出来ない。
……だから、僕がこの任務に選ばれたのだ。
「(よし、行くよ、風奏)」
『分かりました』
僕の握るなナイフから返事が返ってくる。
このナイフが僕の式神……ではなく、これに憑依している風奏が僕の式神だ。
風奏の霊力はかなり弱い。だが、空気の流れを操ることで、匂いや音、気配を遮断できるのだ。
僕は脳内に暗記した地図を頼りに、真っ直ぐに4番倉庫へ駆け抜けていく。
カエルもどきが実体化しているのは日が沈んでいる時間帯のみ。少しでも日光が顔を出してしまえば、触れることはおろか、視認すら不可能となる。
現在の時刻は午前4時50分。日の出ギリギリの時刻を選んだのは、カエルの活動が最も弱まる時間帯を狙うためだ。
4番倉庫へたどり着く。
弱々しい3日目の月明かりが照らし出す、少し古びたコンクリの壁面。サビが目立つ鉄扉は、半分ほど開いており、霧がそこから流れ出してくる。
扉のすぐ側までやってきてしゃがみ込んだ僕は、腰につけたウエストポーチから茶色い物体を取り出し電源を入れると、扉の開いているあたりの前方へと放り出した。
それはゆったりとした弧を描き、ガシャっと音を立てて着地する。そして、それは地面をひとりでに転がり回り始めた。そう、僕が投げたのは、観光地のお土産屋でよく見るような猫のおもちゃだ。
ごろごろごろごろ。
すぐに反応があった。
胸を締め付けるような、圧倒的な不穏な気配。
霧の流れを切り裂いて現れる大きな影。
そいつが倉庫から体を出した瞬間。
右足で全力で跳躍しカエルもどきの頭部へ飛び乗る。
右手のナイフを瞬時に逆手に持ち替えると一気に振り下ろし、突き立てる。
奇襲で深手を与え、有利に戦闘を進めることが目的だ。
振り下ろしたナイフの刃先が表皮に触れ──弾かれる。
「なっ……!」
『そんな……』
ナイフには風奏が憑依しているため、怪異にも傷を負わせることが可能なはずだった。
なら何故弾かれたのか。
──風奏の霊力が足りなかったのか……
違う。
僕の力が足りなかったんだ。風奏のせいじゃない。
僕に気がついたカエルは体を捩り、降り落とそうとする。
すぐに飛び降りると、担いでいる忍刀を鞘から抜く。
ナイフよりも長いリーチを持ち、なおかつ隠密の邪魔にならない武器、ということで僕はこの忍刀を使っている。
「風奏!」
『はい!』
ナイフに憑依していた風奏を、今度は刀に憑依させる。
仄かに光る刀身。
霊力を帯びた証。
金属には霊力の通りやすいものが存在する。例えば、この刀に用いられているのは霊鉄という金属。精錬する際に霊力を流し込んで行くことで、霊力を通しやすくなったものだ。
この刀ならば、僕の技術と彼女の霊力で怪異を斬ることが出来る。
カエルが後ろ足を伸ばし跳躍。こちらへ突っ込んでくる。
僕は左右に避けるのではなく、前方へ飛び込み、宙を舞うカエルとすれ違う。
飛び込んだ勢いを利用し、すれ違いざまに刀を立てて、腹を切り裂く。
予想通り、腹は柔らかいようで、ゴムを貫いたような感覚が伝わってくる。
「グォォーー!!」
腹を切り裂かれたせいか、上手く着地出来なかったカエルは地響きを響かせながらのたうち回る。
鳴き声はカエルのものとは程遠く、まるで獣のようだ。
日の出まであと3分。
時間がない。
再び刀を構え……
衝撃。
周りの景色が高速で視界を駆け抜けていく。
ーーカエルの攻撃で吹き飛ばされているのだ。
そのまま背後の倉庫の壁へと激突。
「がはっ……!」
全身を強くうちつけ意識が遠のく。
掠れる視界の中に見えたのは、長い舌を伸ばしたカエル。
どうやら僕はその舌で攻撃されたようだ。
だんだんと空が紫から明るい緑、白へとグラデーションを描きはじめた。
カエルの姿がぼやけ始める。
「……クソ……!」
刀を地に立てて立ち上がろうとするが、膝が崩れ立ち上がることが出来ない。
……このままじゃ……また人が……
「切り刻め、閃羅……!」
どこからともなく聞こえてきた凛とした女性の声。
視界に飛び込んでくる大きなケモノの影……それは狼のような、熊のような……紅い大きなケモノは右脚の爪をカエルに突き立て、切り裂く。そのままの勢いで地面に叩きつけられた脚の衝撃で辺りに轟音が響く。
再び目を開くと、跡形もなくカエルは消えており、後には衝撃でできたのか小さなクレーターのみが残されていた。
水平線の向こうから、朝日の眩しい光が差し込む。
海は、見たものの心を奪うほどに輝いている。残酷な程に。
「大丈夫か」
気がつくと先程の声の主がすぐ側まで来て、僕に手を差し出す。
橙の光をキラキラと反射して輝く銀髪。
切れ長の目に浮かぶ銀色の瞳には、感情の色が見えない。
なんだよ。
僕を哀れんでいるのか。
「……大丈夫だ」
手を払い除け、立ち上がる。
体の節々が小さな悲鳴を上げるが、意識して顔に出さないようにする。
彼女は顔色1つ変えずにこちらに背を向け、歩き出した。
しかし、すぐに立ち止まると
「お前は何故その式神にこだわる?」
背を向けたまま尋ねてくる。
無色透明な声。
納刀した忍刀がかすかに震える。
「その式神がいかに無力か、お前もわかっているはずだ。式神の力不足を使い手が補っていては……死ぬぞ」
「……彼女は無力なんかじゃない。現に僕の隠密の役に立ってくれている」
空気の流れを操る力をもっている彼女が無能なわけがないだろう。力でねじふせることしか考えていない、お前達にはわからないかもしれないけれど。
突然振り返り、それまでの無表情が僅かに歪み、怪訝そうな表情を浮かべる。
「そう言ってお前は何度死にかけた?何度我々の同胞達が助けに入った?」
「……」
なにか言い返したかった。
でも、それは否定のしようがない、事実だった。
「いいか?お前自身の能力は誰もが認めている。だがな、式神の無能さがお前の足を引っ張ているんだ」
無意味な執着は必要ない。切り捨てろ。
そう言って彼女は朝焼けの霧の中に姿を消した。
「……ごめんなさい」
気がつくと、隣に風奏が立っていた。
俯いた顔は長い黒髪にかくされ、表情が見えない。
「なんで謝るの」
「……私が、あなたにいつも迷惑をかけてしまうから……私が、無能だから」
なんでそんなことを言うんだ。
「違う」
君は無能じゃない。絶対に。
「僕が必ず証明してみせる。君が無能なんかじゃないってこと」
ギリ、手にはめた革のグローブが音を立てる。
「でも私には霊力が……!」
風奏の霊力はお世辞にも多いとはいえない。でも、式神の能力はそこが全てじゃないはずだ。
「僕が……必ず」
そう、あの日。君が僕を救ってくれたんだ。
だから僕は、君を絶対に見捨てない。
被っていたワークキャップを外して前髪を掻きあげる。
はらりと落ちてきた髪が左目を覆うと、もう一度帽子を被って歩き出した。
やっぱり、この方が落ち着くな。
「ほら、帰るぞ」
そうして、何も知らない平和な街は、今日も回り出す。




