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僕がニートを卒業しようと決めた日

作者: 恩返し

僕がニートを卒業しようと決めた日。

                   恩返し


***

僕がニートを卒業しようと決めた日。

それは、○月○日。

○時○分と言う。決まった正確な日時ではない。


***

万年床。

寝転ぶ僕を見て、母親は言った。

その時には、その言葉の意味はよくわからなかったが、今になってみると、その言葉の意味がよくわかる。

1年中、床の上にひきっぱなしにされた布団。

1年中、布団に寝転んでいた僕。

そのような光景を毎日見て、そのような言葉が出たのだろう。

これは、そんな万年床から、僕が抜け出すまでの物語。


***

僕の家族は、6人家族。

田舎にそびえ立つ、なんてことない1件家だ。

そんな1件家で暮らし、育ってきた。

年上の兄は、高校を卒業するなり、東京の大学へと進学した。

この時点で、5人家族。

父親は、普通のサラリーマン。

母親は、パートの従業員。

祖父は、無職。

祖母も、無職だ。

昔は、祖父は鉄工所に。

祖母は、社員食堂のパート従業員だった。

そんな家族の中で、僕は中学校を卒業し、高校を半年で辞めて、しばらく非行の道に走った。

その後、病気をきっかけに、ニートになった。

なんてことない。

よくある家庭。

ただ1つ。

1つだけ違うと言えば。

祖父が暴力をふるう人。

今の時代で言う、DV男だと言うことくらいだ。

人は、嫌なことを記憶から消し去る生き物のようで、祖父が祖母に暴力をふるっているところを、見た記憶は、僕にはない。

母親に昔話を聞いてみると、殴られた顔が膨れ上がった祖母。

廊下でバケツを使って水をかけられた祖母。

肋骨にヒビが入った祖母。

色々と、あるらしいが、僕は覚えていないどころか、思い出すことすらできず、何の記憶もない。

ただ1つだけ。

今でも思い出せるのは。

畳の部屋で横たわる祖母の横に、白い鉄でできた円柱のような形のゴミ箱が、ベコッと。大きくへこんでいる。

このシーンだけは、何故だか写真が脳内に貼りついているかのように、思い出すことができる。

そんな家庭で育ち、無職の祖父に、無職の祖母。

無職の僕が暮らす。

それが、この家の、日中の家族構成だ。


***

今日も続く。

僕が布団に横になり、枕に左耳をつけ、くつろいでいると。

下から響く。

口喧嘩の声が。

口喧嘩が終わり、やっと静かになったかと思えば、じーの部屋の扉がバン!と、大きな音で閉まり、それから少しして、ばんっとばーの部屋の扉が閉まる。

僕は、ずっと家にいるが、僕が暮らす部屋の下では、ずっと喧嘩が繰り広げられる。

喧嘩が終わり、やっと静かになったかと思えば、少しの間をあけて、咳がはじまる。

 「ケホッ。ケホッ。ケホッ」

間質性肺炎。

何年か前から、咳がよく出るようになり、色々な病院に行った結果だ。

喧嘩の間、間でも、咳が出ている。

咳をしながら喧嘩をし、喧嘩が終わっても咳をする。

静かに暮らしたいと思う僕の耳に、今日も迷惑な騒音が響き渡る。

(咳するのに黙っておれや。)

(喋るけん咳が出るんだろーが。)

(はよ死ね。)

不満を抱えながら、抱き枕を抱える。

ある日には、いきなり食器が割れる音。

またある日には、怒鳴り合いのあとに食器が割れる音。

(年いってさすがに手は出んよーになったか。)

(ちゃんと掃除しとけよ危ない。)

僕は、布団の中で冷静に客観視しながら、ストレスを貯め込んでいく。


***

そんな毎日が急激に変化したのは、ばーの入院が決まった日のことだ。

3日ほど前から、いつにも増して咳き込むようになったばーを、さすがに心配して僕は父親に相談した。

 「あれ、ばー。最近、咳ひどーないか?」

 「おお?」

畳に寝転んだ父親が、体を反転させる。

 「あんだけ咳しよっていけるんか?あれちょっと病院に連れて行ったほうがいいんちゃん?」

 「いつもしよんで咳や」

 「なんか酸素ボンベみたいなんもらってこんでもいけるんか?」

 「しらーん」

体を反転させ、テレビの画面を見る父親。

(あれほんまにいけるんか。)

(あんだけ咳しよったらせこいだろーに。)

早く死ね。

と、思う日もある僕だが、あまりの咳に心配しながら階段を上がり、布団に入る。


***

(うるさいなぁ。もう。)

僕は咳の音で目を覚ます。

(なんや。まだよーけ咳しよるでないか。)

2度寝を決め込もうと布団を頭までかぶる僕の体を、咳き込む音が通過する。

2度寝をしようと決め込む意思に反して、静かな部屋に、下から響き渡る咳の音が、僕の眠気を吹き飛ばす。


***

何度も繰り返し咳き込む音で目を覚ました僕は、食前に飲む漢方薬を飲み、布団に戻り、30分後にヨーグルトを食べ、食後の薬を喉に流し込んだ。

いつも通り。

咳の音は聞こえるが、いつもより。

ひどいことが、2階にいてもわかる。

聞き耳を立てているわけじゃない。

聞き耳は、いつの間にか、勝手に立つようになった、僕の耳。

今日は、水曜日だ。

じーは、趣味のカラオケに出かけるためであろう。

1階の洗面所から、ドライヤーの音が聞こえてくる。

その間も、絶え間なく咳き込んでいる。

(あれあんだけ咳しよったらあかんだろ。)

(じーに病院連れて行ってもろたらいいのに。)

(どないかせな。家で死なれても困るしな。)

布団の中で、いつもなら、うるさいな。と、思うところだが、連日続く異常な咳に心配している間に、玄関の扉が開く音がし、車のエンジンが、かかる音がする。

車が車庫から走り去ったあとも、咳き込む音は続く。


***

(じーは行ったか。)

車が走り去る音で、僕はすぐに理解した。

今日は水曜日。

老人会でカラオケをする日だ。

毎週、水曜日は、カラオケの日。

どたばたと急いで用意をする音がなくなった家の中。

いつもなら、騒音の原因が1人いなくなり、静かになる喜びを噛みしめるところだが、今日は少し違う。

静かになった家の中に、ほんの少しの感覚をあけながら、咳をし続ける音が響き続ける。


***

 「ほれ、咳いけるんか」

布団の中で我慢しきれなくなった僕は、階段を下りてすぐ扉を開き話かける。

 「えぇ?エッホエホエホ」

 「ほれほんだけ咳しよっていけるんか?せこーないんかだ?」

 「ほらーエッホせこいわだー。ケホケホッ」

小さい体を畳の上にきょとんと座らせ、喋りながらも咳を続けるばー。

喋りながら咳をするのは、いつものことだが、今日は、何か、いつもと違う異常さを感じる。

 「バン」

ストーブで温められた空気が逃げないように体を部屋の中に入れ、扉を閉めた僕は続けて口を開く。

 「医者連れて行ったるわだ」

 「あたしーは、ケッホケホ。こんな病気やけんなぁ。ケホケホケホ」

 「こんな病気ったって、いつもよりよーけ咳しよんでないかだ。ほんだけ咳しよったらせこいだろーが!」

 「ほらほおやけんど」

咳をしながら、少しハニカミながら横になるばー。

 「医者連れてったるけん用意せーだ」

 「ちょっとこーやってケホッ。横になっとったらケッホケホ。あたしは楽になるけんなケッホケッホケッホ。あーせこ」

 「ほんだけ咳しよって寝とるだけで楽にやなるかだ!はよー用意せえ!」

 「楽になるんじゃ」

 「なるかだ!家で死なれたら困るんじゃわ!用意せえ!」

 「死ぬったっておまはん」

咳をしながら、ほほ笑むばー。

少し腹を立てながら言葉を飛ばす僕には、合間合間で言葉よりも咳がどんどん返ってくる。

 「今日はーほなけんど、ケホ。水曜日だろ。おじーさんカラオケ行たけん。ケッホケホ」

 「ほなけんどしたん?」

横になっていた体を起こし、テレビ台の下に置かれた紙のような物を手に取るばー。

 「あたし、ケホケッホケホッ。いつも見てもらいよるせんせケホッケホッ。金曜日やけんなぁ」

咳をしながら白い紙を広げ、何かを見はじめた。

 「ほんなん関係あるかだ。ほんだけ咳しよったらとりあえず医者行かなしゃーないでないかだ。先生なんて言う人なだ紙かしてみい」

僕は咳をするばーから白い紙を受け取り、広げる。

(なんや。どれや。)

紙を広げると、曜日の次に先生の名前であろう人達の名前が書かれていて、その横には、診察時間の午前午後であろう時間が書かれている。

 「なんて言う先生な?この金曜の新井や言う先生がほーか?」

 「う、ケホケホケホッ」

 「水曜の午前に名前書いてあるでないかだこれ。今日見てくれるんちゃうんか?」

僕は白い紙をばーの目の前にスッと差し出す。

 「えぇ。名前あるんかい」

分厚いレンズの眼鏡越しに、紙を見るあいだにも咳が出続ける。

 「ほんまやなぁ」

 「ほな行かんかほれ、用意せー」

 「ほなけんどほの先生、朝はよーに行かなエッホエホエホケホ。混んどるけん。ケホッ。今頃行ても。ケホ。見てくれるやどおや」

 「いま何時なだ?」

僕はテレビの画面を見る。

 「診察券どれなだ。電話して見てくれるか聞いてみるわだ」

 「しん……ケッホケホケホ」

 「ああ、もういいわちょっとじっとおれ。この紙に書いてある病院だろ?調べてかけるわ」

僕はスマートホンをポケットから出し、検索する。

 「プルルルル。プルルルル。プルル・・・はい。板野東病院でございます」

看護師さんであろう女性の声に、後ろで咳をするばーの声が重なる。

 「あっすいません。今から病院に行って新井先生に見てもらえるかどうか確認したいんですけども」

僕は喋りながら部屋から出て、扉を閉める。

 「ど、どうされましたかね?」

 「祖母が通院しているんですけど、体調が2~3日前からなんか悪くて、見てもらえるんだったら連れて行こうと思ってるんです」

 「えーと。祖母と言うことは、今お電話されているのわ?」

 「あ、孫です」

 「あっ。お孫さんなんですね。すいません。じゃぁ、おばあさんのお名前と、生年月日をお願いできますか?」

 「ちょっちょっと待ってくださいね」

僕は急いで扉を開く。

 「ばー!生年月日いつなー!?」

 「えぇ。ええと。ケッホケホ。昭和11年の、ケッホケホ。はー。1月11日」

 「もしもし」

 「はい」

 「昭和11年の1月11日です」

 「お名前よろしいですか?」

 「あっ、美空よしこです」

 「みそらよしこ様。少々お待ちくださいね。あっ、今現在は、どのような状態でしょうか?」

 「えーと。間質性肺炎で通院してるんですけど、咳が喋れんぐらいひどー出よんです」

 「それがー?2~3日前からと言うことですね?」

 「はい」

 「お熱はありますか?」

 「熱!?熱ですか?」

僕は慌てて聞き返す。

 「さんじゅうななどさんぶ」

(なんや、熱まであるんかい。)

 「あ、37.3らしいです!」

 「37.3℃ですね。わかりました。ちょっとお待ちくださいね」

 「♪♪♪♪~♪♪♪♪~」

アンパンマンのマーチが耳に流れはじめた。

 「熱もあるんか。ほなはよー病院行かなあっかだ」

 「ちょっと風邪ひいただけやけん、いけるわよ」

 「風邪ひいただけでほんな喋れんぐらい咳や出るかだ」

 「わたしはもうこんな」

 「もしもし」

 「あっ!はい!」

 「新井先生ですね。午前中はおられますので、午前中に来て頂ければ診察できます」

 「あっ、そうですか。ほな今から急いで行きますんで、よろしくお願いします」

 「あっ、はい。わかりました。それでは、お気をつけて来てくださいね」

 「あっ、わかりました。失礼しますー」

僕は通話終了のボタンを押しながら口を動かす。

 「ばー!見てくれるって言よるけん!」

 「えぇ。ほなまぁ」

 「用意せー!わいも上行って用意してくるけん」

 「わかったわよ。ケッホケホケホッ。しんだいケホッ。いきとーないのに。ケホケホケホ。」

僕は咳声を聞き入れながら階段を上る。


***

咳き込むばーを後部座席に乗せ、僕は車を走らせた。

昔、ばーが入院した時に1度だけ行ったことのある病院。

僕は過去の記憶を掘り返しながらハンドルを握り、口を開く。

 「ここの道を真っすぐなんはわかるけど、最後に曲がるとこがどこやわからんけん早いめに次の信号右とか言うてくれよ」

 「んーよっしゃ」

咳をしながら返事をしたばーは、ユニクロを通り過ぎたあたりでauショップが見えたらその信号を右に曲がるように僕に指示した。

僕は道路の左側に立つauショップを確認し、口を開く。

 「ばー。この信号を右か?」

 「ええ」

(よしの家を右のほうがわかりやすいやないか。)

自分なりに道を覚えながら右折をし、スピードをグッと落とす。

車の多い通りから急に田舎道のような場所に入って行き、不安になり、確認する。

 「ばー。この道を真っすぐで、橋の手前を左に曲がったらいいんやな?」

 「もうちょっと。ケホケホ」

 「あれか?あの信号左か!?」

 「えぇ」

僕は指示された通りに橋の手前の信号を左に曲がり、病院の敷地内を、ゆっくり走る。

(ほーいやこんなとこだったな。)

数年前の記憶を、掘り返しながら。


***

 「ばー。歩けるんか?」

病院の入り口近くには、車が所狭しと止まっていて、駐車スペースがない。

 「えぇ。歩ける」

僕は言葉を耳の中に聞き入れながら、空きスペースを見つけ、バックで駐車する。

 「ちょっと遠いけど、いけるんか?誰か呼んできたろか?」

エンジンキーを回し、後ろを向く。

 「いけるわよほんな。ケッホケホケホケホッ。大袈裟な。ケッホケホ」

 「ほんまか?息やせこーないんかだ?」

僕はトートバックを左肩にかけ、車を降りる。

 「えぇ」

ばーは車を降り、着いてこい。と、言わんばかりに先に歩きはじめる。

僕は、そんな背中を追いかけるように着いて歩く。


***

(なんや。歩くんは歩けるんやな。)

1人で歩き、1人で受け付けをするのであろう場所で診察券を出しているのであろう。

僕は空いている席に座り、トートバックの中からペットボトルの水を取り出す。

水を飲み、ペットボトルをトートバックの中につまえる頃に、ばーが僕の隣に座る。

(なんや息あらーないか?)

歩いただけ。に、しては、走ったあとのような呼吸をしている。

 「いけるんかほれ?」

 「なにがぁ」

 「ほれ、なんか息がはやーてせこそうでないかだ」

 「私は。ケホッ。歩いたら。はー。あー!せこ!いつもこんなんよ」

(まじかよ。)

 「おまん、水や自分の飲まいでもケホッケホッケホッ。ここ飲むもん置いとんじょ」

体温計を脇にはさみながら喋るばー。

 「え?ほーなん?」

(えらい息使いやなぁ。)

 「あそこに入れるとこあるだろお」

座ったまま後ろに上半身だけをひねり、指をさすばー。

 「あぁ、ほんまやな」

給水機?だろうか?ねずみ色の本体に、飲み物が出るのであろう細長いノズルが3本出ているのが見える。

 「あたしケホッ。はぁ。喉かわいたけんはぁ。お茶入れてくるわ」

 「いや。わいが入れてきたるわ。わいも水入れてくる」

僕は立ち上がろうとするばーを停止させる。

 「かんまんわよ」

 「いや、ほなって熱計いよるでないかだ」

僕は喋りながら立ち上がり、給水機であろう場所の前まで歩き、すぐにばーの背中まで戻り話かける。

 「ばー。お茶。温いんと冷たいんがあるわ。どっちがいいんな」

 「温いんくれるでぇ」

 「おお」

僕は体をもう1度反転させ、給水機であろうねずみ色の前に立ち、紙コップを持ってお茶。と、書かれた文字近くのボタンを押す。

こぼさないように、ゆっくり歩き、さっきまで座っていた席に座り、右手に持った紙コップをばーに差し出す。

 「うわ。よーけ入っとんでこんなよーけいらんのに」

(なんやねん。文句はいっちょ前かい。)

 「いらんかったら最後にあそこに捨てに行ったらいいでないかだ」

僕が喋っているあいだに、1口。

お茶を飲んだ、ばー。

(なんや手震えよるけどいけるんかこの人。)

お茶を飲むときに口にあてる紙コップが、少し震えているように見えた。

 「今はもうせこーないんか?」

 「ほらおまん。動いたけん、ちょっとケホッ。せこーいわよ」

(いけるんかこの人。)

紙コップを持つ手が、不自然に震えている。

 「ピピピピッ、ピピピピッ」

脇から体温計を抜き取るばー。

 「なんぼあるん?」

僕は気になって質問する。

 「37.8」

 「よーけあるでないかだ。ちょっと待っとけよ」

僕は言葉を残して、席を立つ。


***

ばーがさっき診察券を渡していた場所。

受付。と、壁に黒い文字で書かれている場所まで歩き、僕は話かける。

 「すいませーん」

 「はい?」

年期の入ったふくよかな中堅クラスであろう見た目の看護師さんが、疑問形で言葉を返してきたことを聞き入れ口を開く。

 「あのー。美空よしこなんですけどもー」

 「はい?どうされましたか?」

 「ちょっと体調が悪いみたいなんですけども、診察ってどれぐらいかかりますか?」

 「えーっと。みそらさん。みそらさん。さっき受付された方やね?」

 「あっ。はい」

 「30分ぐらいしたら呼ばれるとは思いますけど」

 「それって順番変えて早く見てもらうことはできますか?」

 「ええっと。えー。ちょっ、ちょっと待ってくださいね」

 「本人は大丈夫そうに言うんですけど、あれたぶんかなりしんどいと思うんですよ」

 「えーと。ほな、ちょっと先生に聞いてみますね」

 「はい。お願いします」


***

 「みそらさーん。みそら。よしこさーん」

呼ばれると、ばーはスッと立ち上がり歩き出した。

受付でお願いしたことが、通じたのだろう。

僕がさっき会話をしてから、10分も経っていないだろう。

僕は淡々と歩くばーの後ろを歩き、診察室に一緒に入る。

(おっ。女医や。)

診察室に入ってすぐ。

1人の男の先生の横に、白衣を着た女性がパソコンの前に座っているのが見えた僕は、ドキッとする。

 「そしたら、体温計もらおうか」

ばーは待っているあいだに渡されていた体温計を、男の先生に手渡した。

 「あー。熱があるんやねー。ええーと。美空さんねー。今日はちょっとほな、かなりしんどいんかいなぁ?」

僕の父親よりも年上とみられる、白髪まじりの先生が、ばーに質問する。

 「咳がまーよけ出るんケホケホッ。やけど。ケホッ。孫が病院行かんか行かんか言うけんケホッ。ケッホケホケホケッホッ。ほなけ」

 「あーほんまやねー。咳がだいぶ出よんねー。ちょっと酸素」

先生が、若い看護師さんに声をかけると、看護師さんは小指の大きさほどの白いプラスチックのような物を手渡した。

 「これーいつからえー?」

先生は喋りながら、ばーの中指に白いプラスチックのようなものを取り付けた。

 「あっ。2~3日前からです」

僕は白い機械を見ながら先生に言葉を返す。

 「君はお孫さん?」

先生が不思議そうな顔で見上げた。

 「あっ。はい」

 「ご家族の方は、はじめて見ましたねー」

(え?まじ?)

(親父や毎月連れて来よったのに1回も中に入ってないんか?)

 「あー92やね。これはちょっと悪いわよー。美空さん」

 「えぇ。ほんま。92で」

(92?)

(92が悪い?)

(高そうな点やのにな。高いほど悪いんか?)

 「ちょっとこれわー。入院してもらわないかんかもしれんねー。ちょっと胸の音聞かせてよ」

僕は反射的に体を反転させる。

 「あー胸の音もちょっとあんまりよーないなー」

 「入院ったって先生。あたし嫌ケホッケッホケホッ。嫌でよ」

 「まぁ、ねー。ほら誰やって嫌でねー。ちょっとCT撮ってもらおうか」

先生が言葉を発すると、看護師さんと女医さんが、理解しました。と言う雰囲気の顔をした。

 「すいません」

 「はい?」

 「CTまでって遠いですか?」

 「はい?」

 「本人かなりせこそうなんで、車椅子って貸してもらえませんか?」

 「ああ。ほんまやね。ほな1つ」

 「車いケッホケホケホッ。すってで。ほんなんいらん」

笑いながら、咳をしながら、嫌がるばー。

 「いいでないかだ。座っとったら歩かんでいいんやけん」

 「ほなよろしくね」

 「はい」

 「あたし歩け」

 「言うこと聞いとけ。ばー」

 「美空さーん」

背中から、はじめて聞く女性の声がして僕は振り向く。

(おお。車椅子や。)

 「ほなねー。ここ座ってくれるでー」

 「ほんな。大袈裟な。歩けるのに」

 「まぁまぁ。せっかく持って来てくれたんやし。ね。今日だけでも座ってみてください」

先生が、ばーをなだめるかのように優しい物腰で言葉を発した。

 「もおー。恥ずかしいこんなん」

嫌そうな顔をしながらも、車椅子に座り、進んで行く車椅子の後ろをついて行こうと足を踏み出す。

 「あっ、ちょっとお孫さんだけ残ってくれるで」

僕は、足を止める。


***

 「美空さんねぇ。あれはちょっと入院ですね」

 「え?もう今すぐにですか?」

僕は驚き聞き返す。

 「ほーやねー。今CT行ってもろたけど、ちょっと入院やねー」

 「あの、なんの準備もできてないんですけど!?」

 「ああ。準備はね、またあとでいいんでね。とりあえず受付に行って入院の手続きだけしてもらえますか?」

 「あ、はい。あのー。手続きってー何をすれば?」

先生が顔を横に向けると、看護師さんが口を開く。

 「そしたらね、受付で入院の手続きしてもらうんでね。こちらへどうぞ」

 「はい」

僕は診察室から外来のスペースを看護師さんの後ろをついて歩き、受付の前で立ち止まる。

 「入院のあの、紙くれるでー?」

看護師さんが受付の女性に話しかけると白い紙のような物を受け取り、僕に手渡した。

 「そしたらね。ここにボールペンあるんでね。ここで書いて、書けたらあっちの受付の人に渡してもらえますか?」

 「あっ、わかりました」

僕は戸惑いながらも、返事をする。


***

(えぇ……。生年月日って……。)

(えーーー。くっそ。)

(いつだったっけなー。)

(忘れたわもー。)

僕は生年月日の欄を飛ばし、名前を書く欄に目を向ける。

(ここってわいの名前か?)

(いやー?)

(入院するんはばーやけんばーの名前ぞなー?)

僕はゆっくりと、ボールペンを動かす。

(えー。よしこよしこ。)

(えー。)

(よしこって漢字どんな漢字なだ。)

(えーー。)

生年月日もわからず、下の名前の漢字もわからない僕は、自分だけじゃ無理だと思いトートバックに手を入れる。

(いま電話出るんかいなぁ……。)

不安に思いながら、父親に電話をかける。


***

 「プルルルルルル。プルルルルルル。プルルルルルル。プル・・・はい」

 「あっ。いま電話できるん?」

 「おお。なんなだ」

 「詳しいことはあとで話すんやけど、ばーが入院することになってよ」

 「えー?どしたん?どこの病院なだ」

 「いつも通いよる病院。最近よー咳しよったでー。ほんでいま手続きしよんやけど、ばーの生年月日わかるん?」

 「えええええ……。ほれお前、とーはんもわからんぞー」

 「えーっと。ほなばーの下の名前の漢字わかるん?」

 「漢字……あのいいって漢字あるだろ。普通の。あれにこどものこじょ」

 「えーっと。いいってあれやなぁ?頭が良いとかの?」

 「おお」

 「ほれに子なー」

僕はボールペンを紙の上に走らせる。

 「なんかほんでよ。身元引き受け人や言う欄と連帯保証人や言う欄があるんじょ。こことーはんの名前でいいか?」

 「おー。かんまん」

 「続柄って子か?子でいいんやなぁ?」

 「えー。ほんでいいんちゃうん」

 「とーはんの生年月日いつよ?」

 「えーっと。いつやっけな。しょうわー。えー。31年の3月23日じょ」

 「ちょっ。待ってよー。書っきょるけん」

僕は急ぎつつボールペンを走らせる。

 「会社の電話番号わ?」

 「えーーーー。ほんなんまで書かないかんのん。ちょっと待てよー」

少しの空白のあいだに、僕は2つの欄に父親の名前を書く。

 「もしもし?」

 「はいはい」

 「088」

 「088」

 「854の」

 「えー854の」

 「9356じょ」

 「えー9356。088-854-9356やな?」

 「おお。おーとる」

 「ほな会社の住所わ?」

 「板野郡藍住町」

 「えーっと。漢字わからんけん全部ひらがなでもいいよな」

 「あったま悪いなーお前わー」

電話口で小馬鹿にされつつ、父親の会社の住所をひらがなで書き進む。


***

 「ほなまぁ。あとはわかるとこだけやけん、またなんかあったら電話するわ。電話いつでも出れるん?」

 「おー持っとくようにするわ」

 「あっ。あと印鑑押すとこがあるんじょ。いまはとりあえず持ってないって言うわな」

 「おお」

 「ほなまーまた」

 「はい」

スマホを用紙の横に置き、残りの空白の部分を埋めていく。


***

 「すいません」

 「はい」

事務員のような服を着た女性が振り向いた。

 「すいません。いま印鑑持ってないんですけどもー」

 「あっ、印鑑ですか。またこちらに来られますかね?」

 「たぶん今日中に親が来るとは思うんですけど、印鑑ってその時でも大丈夫ですか?」

 「ああ。ええ。かまいませんよ」

 「あとここのー」

 「はい?」

顔を覗きこませる事務員のような女性。

 「祖母の生年月日が僕ちょっとわからないんですけどー」

 「あー。えーっと。ほな。どないしよーか」

 「またあとで本人に聞いてから書くって言うんで大丈夫ですか?」

 「あっ、美空さんね。もう入院するって決まったんやね?」

 「はい」

 「あっ、ちょっと待ってねー。診察券と一緒に預かっとる保険証に書いとるんちゃうかな」

事務員のような人が、後ろを向いて何かを探しはじめた。

 「あっ、これやね。これ」

事務員のような人が、僕に2枚のカードを差し出す。

 「美空さん。美空良子さんこれやね?」

僕は差し出された2枚のカードの1つを見つめる。

 「あっ、これですこれです。ちょっと、ボールペン」

 「どーぞ」

僕はボールペンを受け取り、生年月日の欄に記入する。

(あー。ほーいや1ばっかりだったなー。)

 「あっ、ありがとうございます」

 「あっ、はい」

僕は2枚のカードをスッと差し出しながら、口を開く。

 「あの、ここって昼休みは閉まっとるとか夜は閉まっとるとかって言うのはー?」

 「あ。ここは受付なんでねー。基本的には何時でも、誰かは1人おるんでね」

 「あっ、わかりました」

 「ほなこれ、いったん受け取っとくわね」

 「あっ、お願いしますー」

僕は体を左に向け、開いている席を探す。

(おお。なんやばーもー終わったんか。)

遠くのほうの廊下から、看護師さんに車椅子を押され、ゆっくりと進んでくるのが見えた。

 「あっ、美空さん。美空さん」

僕は慌てて体の向きを変える。

 「これ、入院のしおりなんでね。また読んどいてくださいね」

 「あっ、わかりました」

僕は薄い冊子のような物を受け取り、ばーのほうへと歩く。


***

 「美空さん。美空さーん」

看護師さんに呼ばれた僕は立ち上がり、車椅子のハンドルを握る。

(なんや。あんがい進むんやな。)

思っていた力より、軽い力でばーが動く。

診察室に入ると、レントゲンを貼りつける白いボードのような部分にフィルムのような物が貼り付けられているのが目に入る。

(さっきのCTのやつか。)

目で見てすぐに理解した僕は、ハンドルを離す。

 「パチッ」

白いボードに明かりが点いた。

 「これね。さっき撮ったCTの画像なんやけどね。ここのこれ。白いとこあるでしょ」

先生が、肺であろう部分の白い部分を指差す。

 「ええ」

 「これねーだいぶ悪いんでねー。さっきお孫さんにも言うたんですけどね。ちょっと入院してもらいます」

 「えーーー。先生。わたしほんなん聞いてないじょ」

驚いたような声が車椅子の上から飛び出した。

 「あれ?お孫さんから聞いてないですか?」

先生が不思議そうに声を出した。

 「入院って言うたらまた嫌がると思って言ってないです」

僕は苦笑いをしながら口を開く。

 「せんせほんな。ケッホケホッ。入院や言うても。ケッホ。わたし孫に無理やりひっぱってこられたけんお金も。ケッホケホッ。持ってないで」

 「ああ。お金やわね。またあとで良いからね。ほなまーとりあえずー。どんなご飯食べるで?」

 「えっ。ちょっとまー。いっぺん家にもんてわたしーケホッ。服や持ってこなんだら」

 「ほんなんかんまんわだ。ほんだけ咳しよんやけん。わいがまた家もんているもんまとめて持ってくるけん」

 「かんまんたっておまん。とーさんやほんなん急に知ったらびっくりするで」

 「ああ。とーはんにはさっき電話して言うたけん」

 「えぇ。もう言うたんで」

びっくりしながら咳をした。

 「ほなどうするでー?とりあえずちょっと柔らかめのご飯にしとくでー?よー咳出よるしねー」

 「いや。ケッホケホわたし普通のご飯が良い。おじーさんがもう。ケホッ。日に日にべちゃこーいご飯食べよん見て。ケホケホケホッ。わたしあんなご飯嫌じょ」

 「あ。ははー。ほなまー。普通のご飯で良いでー?」

先生が、マウスカーソルでピンポイントにパソコンの画面をクリックしている。

 「ほんだけ調子悪そうなんやけん柔らかめのご飯にしとけだ」

 「そうよ。お孫さんの言うとおりでねー。ご飯だけ柔らかめーとか。おかずだけ柔らかめとかもできるんやけど」

 「いーや。わたしは普通のんが良い」

 「先生の言うこと聞いとけだー」

 「いや。ケホケホッケッホケホッ普通のが良いでよ。せんせ」

 「ああ。そうですか。ほなまぁ。とりあえず普通のんにしときますね。また途中で変更もできるんでね。またいつでも言うてください」

先生は少し呆れたような笑顔で、マウスで何かを決定していった。

僕からは画面の中は、はっきりとは見えない。


***

看護師さんと3人で、病室まで歩いた。

ばーは車椅子に座ったままで、看護師の女性は、ばーをずっと押して移動させてくれた。

僕は一緒について歩き、エレベーターを降り、病室まで歩いた。

外観は古そうな病院だが、中は意外と綺麗で、歩いていても、病室に着いてからも驚いた。

僕は迷子になると困るから、何階の、何号室で、どこを右折左折してきたのかを記憶しながら呼吸した。

病室に到着すると、看護師さんはテレビと冷蔵庫の使い方を説明したあとに、ナースコールの使い方を説明し、どこかへ行った。

僕はメモ帳を取り出し、ばーに印鑑の置き場所や、必要な衣類など、必要な物の場所や枚数を聞いてメモした。

大きな病院には、めったに来ることなどない。

歩きながら何度か、ドキッとした。

若そうな看護師さんと何度かすれ違ったからだ。

月に1度。

診察に行っている精神科にも看護師さんはいるが、若い人はいない。

ここにはすれ違っただけで、数人の若い看護師さんがいて、僕は驚いた。

 「ほな。また来るわな」

 「ええ。ほなゆーや。頼んだじょ」

 「おお。たぶんまたわいが来ると思うけど、もしかしたらとーはんが持ってくるかもしれんけど別に急ぐもんないなぁ?」

 「ええ」

 「ほなまあぁ。またな」

僕は言葉だけを残し、来た道を迷わないように足を進める。


***

 「おかえりー。あんたどこ行っとったん?」

玄関を開けると、いま仕事から帰ってきたのであろう母親の声が台所から飛んできた。

買い物をしたものを、冷蔵庫に入れているのであろう。

 「ああ。ばーを病院に連れて行っとってな」

 「ええ?どしたんばーさんなんかあったん!?」

驚いた顔で近づいてくる母親。

 「入院することになってよ。ほんでなんかいるもん用意してまた持って行かなあかんのよ」

 「えー!?入院!?どしたん、どこが悪いん?」

驚いた顔で聞き返す。

 「ああ。なんや最近、咳よーしよったでー」

 「うん」

 「ほれがもう今日の朝もあんまりやけん病院に連れて行ったんよ」

 「えーーーーー。ほたらすぐに入院なん!?」

 「ほーよ。なんか薬でも出るんかとおもたら入院や言われてわいもびっくりしてな」

 「えーええー。ほれはまぁ。おつかれさん。あんたほなご飯まだ食べてないんちゃうん?」

 「腹減ったけんカップ麺でも食べるわ」

 「ほーで?ほなわたしも今もんたとこやけん自分のして食べていいんで?」

 「おお、適当に食べる。食べたあと用意だけてつどーてー。なんか服とか持って行かなあかんもんメモって帰ってきたけん」

 「たっ、食べたあとって、ほな急いで食べたほうがいいんで!?」

焦るように聞き返す母親。

 「いや、普通に食べてくれたら。ほれからでいいよ別に急いでないけん」

 「ふーん。ほんでほれって、とーはんに連絡しとん?」

 「あーいちお入院するって言うんは連絡したけん、また食べたら詳しいこと連絡するわ」

 「まー。ほーやなー」

 「ちょっとまーほなとりあえず荷物置いて食べるわ。腹減った」

僕は言葉だけを1階に置いて、階段を上る。


***

カップうどんにお湯を入れた僕は、5分後にふたを開けてうどんをすすった。

その後、父親に電話をし、いますぐ死ぬような状態じゃないこと。

着替えなど荷物を持って行かなければならないことを説明した。

電話を切り、少しの時間休憩し、僕は母親の部屋に行き、母親にもだいたいのことを伝えて2人で階段を下りた。

 「とりあえず先に印鑑と財布」

 「えー。ほんなんどこにあるか知らんじょわたし」

 「ああ。ばーに聞いてきた」

 「あらそう」

僕はテレビ台の下を捜索する。


***

現金と着替え。

タオルなど。

持って来てくれと言われた物を2人で用意した。

最初は紙袋にでも入れて持って行く予定だったが、服をギュッと詰め込むと、なんだか頼りなく見えた紙袋。

透明の衣装ケースごと運んだほうが良いな。と、2人で意見を合わせて詰め込みなおした。

出来上がった荷物を玄関に運んでいると、扉が開く。


***

不思議そうに透明のプラスチックケースを見ながら、横を通り過ぎるじー。

ビシッとした背広を脱いで、Yシャツ姿になったじーに、母親が話しかける。

 「おばーさん、入院することになったけんな」

 「ええ!?」

声を大きくして、聞き返すじー。

 「おばーさん、入院することになったけんな」

声を大きくして、同じことを言う母親。

 「ええ!?入院て、どしたんなだー」

 「よー咳しよるけん、裕也が朝に病院に連れて行ったんやと。ほたらすぐに入院て言われたらしいいわ」

 「えー」

 「ほなけんあたしや今これ用意しよるけんな」

 「用意って、なんのな?」

不思議そうに床に置かれた物を見るじー。

 「服とか、入院にいるもんよ」

 「用意って、ほな今から持って行くんか?ほれ」

 「いや、持って行くんは、とーはんもんてからじゃ」

 「ほーいやぁ、朝もよーせっきょったなぁ。せいてせいて。わしや夜、寝れんのんじゃ。とーはんもんてから持って行くって、何時ぞ?」

 「えー。仕事終わってからやけん18時とか。ほれかもっとおそーにちゃうん」

 「わしもーほな乗って行こかぁ」

 「いやおじーさんはまぁ、いいでわ」

 「なんでな」

 「おじーさん仲悪いんやけん、行ったっておばーさん煙たがるだけじゃわよ」

 「ほーじょ。ばーがじーにはこんでいいって言うといてくれよって言よったわ」

 「こんでいいったってお前、おばーはんが入院して行かんやて、ほんなんあっかだ」

じーが不機嫌そうに声を出した。

 「ばーがこんでいいって言よんやけんいいでないかだ」

 「おばーさんやて、見られとーないんだろぉ。しんだそーにしとるとこ」

 「病院どこなだ!?」

 「いつも行っきょるとこじょだ」

 「あのー。あのー。あそこか。昔から名前が変わった。あのー」

(あんだけ毎日喧嘩しよってしんだい時に来られてもうっとーしーだろーに。)

 「そうそう。いつも通いよるとこじゃわよ」

(おとなしーに家でおれコラッ。)

(朝もせっきょんわかっとってカラオケ行ったくせにこんなときだけ旦那面かい。)

 「わしーほな今から1人でいてこーかー」

 「ほんなん事故したら危ないんやけんまたとーさんが帰って来てからにしな行くんだったら」

 「ほおかぁ?」

 「おお。ってか来るなって言よったぞ。ばーわ」

 「来るなったってほんなん!」

じーは怒ったように反発する。

(こいつほんまに人の言うこと聞かんやっちゃな。)

 「ほなまーとーさん帰ってきたら行ってもいいか聞いてみ。まぁ一応すぐ出れるようにだけしときなだ」

 「おお」


***

父親は、仕事が終わるなり急いで帰ってきたのかいつもより早く家に帰ってきた。

様子を見に行くと言うじーに対し、じーはこんでいいわ。と、父親に言われたじーは、自分もなんとか病院に行こうとするも、願いは叶わなかった。

父親の軽乗用車には、透明のプラスチックケースを2つ乗せた。

狭い車内は助手席に母親が乗ると、じーが乗るスペースなどなく。

 「急いで行かんでもまたわいが行くときがあるけん、ほんとき一緒に連れて行ったるわだ」

と、言う父親の言葉ですべてが決まり、車はじーを取り残して発進した。

(いつもあんだけ喧嘩しよって行ってどないするんなだ。)

僕は1人不満を抱えながら抱き枕を抱えたあとに、お風呂に入る。


***

 「トントントントン」

父親が、階段を上ってくる音だ。

家に帰ってきたのは、玄関で音がしたから気がついている。

 「おばーはんどんなんな」

 「どんなんったって、元気なわだ。普通じょ」

帰ってきてすぐに交わされた、じーと父親の会話。

僕は疑問に思いながら耳の中に聞き入れている。

(元気?あんだけしんだそうだったのに?)

と、思っていると、父親のあとに母親も続いて階段を上がってきている音がする。

 「ばーどんなん?」

布団から起き上がり、状況を聞く。

 「どんなんったってお前、全然普通でないかだ」

笑いながら喋る父親。

 「え!?」

僕は驚き聞き返す。

 「お前がなんや、喋れんぐらい咳してひどそーに言うけんどんなんかとおもーたら、なんや普通に喋るでないかだ」

 「え!?まじ!?」

 「おお。むしろいつもより元気なぐらいじゃわだ」

 「うそー!?うそでー!!あんだけせこそうにしとったのに、ほな息苦しそうにもしてないん?酸素かなんかしてないん?」

 「あんな、酸素はなー。鼻になんや管よーなんがしてあったわよ」

母親が口を開く。

 「へー。やっぱり酸素はしとんじゃ」

 「ほーよ。ほなけんどあれ、ほんまにいつもより元気なぐらいだったじょ」

 「えー。まじー。朝や死にかけとったのに」

 「大袈裟なやっちゃなー。お前わー」

父親が笑いながら背を向け、足を進める。

 「おかしいなー。ほなだいぶキツイ薬いったんちゃうかなー。でなかったらあんなせこそーな人間が夜には元気っておかしいでーなー」

 「んー。なんか、点滴よーなんはしとったけどなー。いつもよりよー喋るんはほなまたあれ、躁が出とんかえ?」

 「んー。わからんけど、ステロイドいったんだったらテンション上がっとんかもしれんなー。まーまた調べてみるわ」

 「うん。あたし取りあえずとーはんにご飯して、自分も食べるわな」

 「ああ、わかった」


***

僕は携帯電話を片手に、布団の中でゴロゴロした。

病院の先生には、

 「これが急性増悪ってやつですか?」

と、聞いたら、

 「そうやねー。そうかもしれんねー」

と、言われている。

僕は間質性肺炎については、ネットで調べている。

家の中で年がら年中、口が止まらないのは内服薬のステロイドの副作用だと突き止めたときには、薬で躁鬱状態になっているのかと自分なりに理解した。

今回も。

よく喋る。

とのこと。

僕は携帯片手に自分なりに理解できるまで調べ、ステロイドの点滴をしているのであろうと、なんとなく予想した。

ステロイドの点滴をしている場合、長くても3日ほどの集中治療になるらしく、僕は階段を下りて父親に話しかけた。

 「なー」

 「おー?」

テレビを見ている父親が振り向く。

 「なんやいま元気でよー喋るって言よったでー」

 「おお」

 「もしかしてステロイドの点滴しよんだったら、点滴きれたらまた調子わるーなるかもよ」

 「えー?あんだけ元気やのにー?家でおるときよりピンピンしとんぞ」

 「んー。よーわからんけど、ステロイドパルスや言う治療だったら、3日後に終わると思うけん、ほれ終わったら体調が良くなるか、薬がきれてまたわるーなるかもなー」

 「えーーーー。ほんまかほれーーーー」

 「まぁ医者でないけんよーわからんけど急性増悪おこしとるかもって医者が言よったけん、ほーだったら、ばー死ぬかもなぁ」

 「ほんまかほれ?」

半信半疑で、笑いながら聞き返す父親。

 「急性増悪おこしたら70%ぐらいの確立で死ぬらしいよ」

 「えー。まぁでもほらぁしゃぁないわなぁ。みんな順番じょな。死ぬんわ」

 「まー。今は元気でも急にわるーになるかもしれんて一応思っといたら」

 「おー」


***

僕は自分なりに吸収した知識を、父親に説明して、また布団に戻った。

(あんな死にかけの人間がピンピンしとるや絶対おかしいわ。)

(またステロイドよーけいったら、もし退院してもまたじーとひどーに喧嘩するんちゃん。)

(嫌やなぁー。)

(テンション高いんもこっちとしては困るけんなぁ。)

(もうスッと楽に死んだらいいのに。)

煩わしい存在に、スッと誰にも迷惑をかけずに死ねばいいのにと思いながら、目を閉じる。


***

次の日。

僕は目を覚ました瞬間に気分が晴れ渡った。

いつもなら、まだ起きたくない時間に、枕の下から聞こえてくる話し声や、痴話喧嘩の声で目が覚める。

でも今日は、いつもよりよく眠れた気がする。

目を覚ましてからも、家の中は、ずっと静かで、僕の理想の時間がゆっくりと流れていく。

ずっと。

この平和がほしかった。

目を覚ます前からはじまっている喧嘩の声で目を覚ます朝。

起きた瞬間は静かでも、5分、10分と、時間の経過とともにはじまる話し声。

(あー。1人おらんけん静かでいいわ。)

シーンとした自分の部屋の中で。

布団を頭までかぶり。

目を閉じる。


***

(ん、んもおおおおお!)

目を覚ます前から、はじまっていたのだろう。

お決まりの効果音に、歌声。

 「チャッチャーチャチャー」

ドスのきいた演歌の前奏が、寝起きの耳に突き刺さる。

(なんやねん。1人おらんけん静かと思ったら、やっぱりこれかい。)

マイクを使わない、家の中でのカラオケ練習。

それでもあのじーの喉ぼとけには、天然のマイクが仕込まれている。

(うっとーしーなー。)

僕はイライラしながら、布団から出る。


***

僕は、ニートになって何年目だろうか?

はっきりとは、覚えていない。

病気をきっかけに、アルバイトを辞めてから、いつの間にか布団の中で毎日を暮らすようになった。

うちの家族は、所々。

仲が悪い。

じーとばーは、犬猿の仲。なんて可愛い言葉じゃ収まりきらないほどの仲の悪さだ。

嫁。

姑。

ここも。

問題だ。

仲が悪い。

僕自身が10代でイケイケだった頃は、特には気にしていなかった。

あの頃は、自分が地球上で最強な人間だと思っていた。

だから、家の中のちっぽけな問題なんて気にもしていなかった。

それが、1日の99%を家の中で暮らすようになり、1日の60%を布団の中で暮らすようになった頃には、家の中のことをいろいろと気にするようになった。

でも、1人いないだけで、やっぱり、ずいぶん平和だ。

今日は、良い日だ。

じーがうるさいのはカラオケくらいで、気の済むまで歌い終わると、静かになった。

イライラした母親が、コップをバン!と、置くこともなければ。

フライパンがバン!と、威嚇することもない。

じーは1人で喧嘩することもなく、1人で歌う程度。

母親も姑がいないから、ピリピリ、イライラしていない。

何よりもいつもより気が抜けたのは、夜ご飯の時間だ。

1階の台所でご飯を食べる僕は、毎日、周りの気配や顔色を窺いながら逃げるように速めに食べて自分の部屋に避難する。

とばっちりを、喰らいたくないからだ。

でも今日は、食器もソフトに置かれ、周りをウロチョロする人間もじーだけだった。

警戒心を解き放つことはなかったが、火の粉をあびずにご飯を食べることができた。

それから先のお風呂もだ。

誰が、何時に入る。

我が家では、暗黙のルールが決まっているが、人が1人いないぶんいつもより少しだけゆっくりと休憩し、おっとりとした気分で入ることができた。

僕は、19時~19時30分の間が持ち時間だが、19時50分過ぎにお風呂から出てきた。

そもそも。

1つのお風呂。

1つの台所で。

3世代が暮らすなんて。

無理に等しい。

前から思っている不満も今日は感じることなく、いつもより遅めに帰ってきた父親の車のエンジン音が、静かに響き渡る。


***

下で、父親と母親が何か話をしている。

声が聞こえる。

何やら今日は熱がある。

そんな感じの内容は聞き取ることができた。

穏やかそうな会話から、炊事をする音に切り替わったことに気がつき、

(あぁ。ご飯作りだしたな。)

僕は布団の中で理解する。

 「トントントントン」

(あぁ。親父か。)

足音で、わかる。

この重量感のある足音は、父親だ。

 「ゆーやー」

 「ん?」

僕は仰向けになりながら返事をする。

 「なんやお前、昨日はピンピンしとったのに今日はなんやしんどそーだったわ」

 「あー、そうなん」

 「なんや熱が出とんやとー」

 「なんぼあるん?」

 「37℃ちょっとって言よるけん微熱だろうけどなー」

 「ああ。なんやよーわからんけんど今しよる点滴がステロイドパルスや言うやつだったら明日か明後日にもっと体調崩すと思うぞ」

 「なんなほれ?何って?」

不思議そうに、上から僕の顔を覗き込む父親。

 「もし今回の入院が急性増悪だったら点滴はステロイドしよるかもしれん。んでほのステロイドパルスって言うんだったら薬がきついけんかしらんけど3日間しか治療できんのやって」

 「おー。ほなけんどないなるんな?」

不思議そうに笑いながら聞き返す父親。

 「もし急性増悪だったら生存率も低いしパルス終わったらまたぶり返すんちゃうかなーと思ってよ。ってかこの前言うたやん!」

 「えーーーーーー。なんでお前にほんなんわかるんなだ」

 「とーはーーーーん!ご飯できるじょー!」

下から母親の大きな声が部屋に突き刺さる。

 「あー。ちょっとネットで調べてみた」

 「ふーん。ほなほのパルスって言うんしよったら昨日から点滴しよるけん、明日できれるっちゅーことか」

 「んーわいも医者でないけんよーわからんけどな。今度病院に行ったら急性増悪かどーか医者に聞いてみー」

 「できたじょー!!降りてきなよー!!!!」

 「えーーーー。ほんなん聞かんでもいいんちゃーん。別にー」

面倒くさそうに返事をした。

 「いやいや。聞いたほうがいつ死ぬかわかるやん」

 「ほないすぐには死ねへんだろー。昨日あんな調子やったしよー」

 「とーはーんー!冷えるじょー!降りてきなよー!聞こえよんー!?」

 「ほれもうかーはん呼んびょるけん飯食ってこい」

 「おお。うるさーいけんなーあいつわー」

 「今度医者行ったら先生に聞いてきなよ。急性増悪かどーか」

 「えーーーーー。ほんなんどーでもいいんちゃーん」

面倒くさそうな言葉を残しながら、背中を向けた。


***

僕は父親が部屋からいなくなったあと、また携帯電話を握った。

検索すれば、出てくる言葉。

急性増悪をおこせば高確率で死ぬと言う情報を、理解しては次のページに移動し、真実なのかどうかを自分の脳内で整理整頓する。

(んー。50%とか70%とかいろいろ書いとんなー。)

(ほんまに死ぬんかいな。)

(意外とまたケロッと帰ってくるんちゃうんかー。)

(まさかなー。)

(ほないすぐには死ねへんだろー。)

(家の中が静かで気持ちがいいわ。)

(話し声が聞こえんかったら気持ちいい。)

(このまま死んでくれたほうが静かになっていいのに。)

(しばらくもんてこんでいいわー。)

静かになった室内で、静寂を味わいながら目を閉じる。


***

僕は、じーとばーの喧嘩に、何年も前からうんざり。しまくっている。

話し声にストレスを感じ、扉が強く大きく閉まる音に驚き、時折上がる大声に驚かされる毎日に、何度も1人で願っていた。

(はよ死ね。)

その願いが、叶う日が来るなんて、想像もしていなかった。

でも。

もっと。

想像もしていない現象が起きることを、この時の僕は、知るはずもない。


***

ばーが入院して、4日目の夜。

いつもより遅くに帰宅した父親の車のエンジン音に、静かな室内で理解する。

(あー。病院行っとったんか。)

夜ご飯を食べ終わり、面倒だけどお風呂に入ろうかと思っていたタイミング。

1階で、父親と母親の話し声が聞こえる。

聞き耳を立てたつもりはないが、自然と立ってしまう聞き耳に情報が差し込む。

どうやら今日は、あまり体調が良くないらしい。

(あー。やっぱり。ほな点滴がきれたけんやな。)

耳に入った情報を処理していると、耳に新しい情報が入る。

 「トントントン」

父親が、階段を上がってくる音だ。


***

 「ゆーやー」

部屋の扉が開く。

 「んー?」

扉の方向を見ると、仕事着のままの父親が立っている。

 「なんやお前、今日も熱があるや言よるわ」

(さっき聞こえたよー。ほれ。)

 「あー。そうなん」

 「ほんでお前、あんだけピンピンしとったのに今日やよー咳しよんぞ」

(聞いた聞いた。)

 「ふーん。喋れんぐらい?」

 「おー。喋れんぐらいではないけど、なんやまー喋ったらせこそーなわ」

 「ほれよ!ほれほれ!わいが医者つんで行ったときもほんな感じだったんよ!」

 「おー」

 「ほんで医者にわ?聞いたん?」

 「何がなだー?」

父親が不思議そうな顔で聞き返す。

 「え!?聞いてないん!?」

僕は驚きながら聞き返す。

 「ほなけん何がなだ」

黒く大きな顔を、赤黒くしながら聞き返す父親。

 「急性増悪かどーかよ」

僕は布団に仰向けに寝転んだまま質問する。

 「ほんなんいちいち聞いてないわ」

 「ほれ聞かんでどないするんよ。あんた何のために病院行ってきたんよ」

 「ほんなんいちいち聞かんでいいだろ。医者にまかせとったらいいでないかだ」

不満そうな顔で、不機嫌そうに言葉を発する父親。

 「ほらまーほーやけど。急性増悪かどーかわかったらどないなるかだいたいわかるやん」

 「ほんなんわかったところでどーしょーもないだろ医者にまかせとかな」

 「まーほーやけど」

 「とーはーん!とーはーーーーん!」

 「今んとこは熱と咳がひどいっちゅーことじょ」

 「熱わ?何度あるん?」

 「37℃ちょっとじょ。微熱って言よったわ」

 「降りてきなよー!ご飯できたじょー!」

階段の下から母親の声が響く。

 「ふーん。あんたかーはん呼んびょるけんはよ下行って食べてきなよ」

 「おー。うるさーいけんなあいつわ」


***

(やっぱりか。)

僕は1人になった自分の部屋で、1人で納得した。

ステロイドパルスなら、3日間しか継続して治療できない。

ステロイドパルスなら、4日後くらいにまた体調を崩すだろうと、予測を立てていた。

予測通りに体調を崩した、ばーの体。

(急性増悪やな。)

(パルスやってぶり返したってことは、あんまりよーないってことちゃうんか。)

いつもより静かな家の中で、いつもよりゆっくりと流れる時間。

僕は脱衣所で服を脱いで、お風呂に入る。


***

(んー。なんや。いまなんじやこれ。)

暗い部屋の中で、バタバタと下の廊下を歩く足音がして、車にエンジンがかかる音がして、走っていくような音がした。

 「ゆーや」

 「ゆーや!」

 「えぇぇ。もう。なに」

 「朝、病院から電話がかかってきてよ」

 「えぇ。なにいまなんじなん」

僕は枕元に置いた黒縁眼鏡を手に取る。

 「なんや、ばー。個室になっとったわだ」

 「えー。なんでー」

 「なんや朝、せこーなって動けんようなったんやと」

 「えー。なんで。えー!?」

驚いて起き上がると、仕事着の父親が立っている。

 「なんや朝、自分の部屋のトイレに自分で行ったんやと」

 「ほんで?」

布団の横に置いたペットボトルを持ち、ごくりと水を飲みこむ。

 「ほんでなんや、トイレでせこーなってほのまま動けんようになったらしいわ」

 「えー!ほんで今はほれ、どないなっとん!」

 「今はなんや、あの、酸素つけとったで、あのー鼻に管ようなん」

 「うん」

 「あれが口につける酸素に変わっとるわだ」

 「えー、あのドラマやでよー見るやつ?」

 「ほーじゃわだ。ほんでなんや、喋るんも喋りにくいような、元気やないわだ」

 「えー」

 「とーはんもー仕事行かなあかんけん、もう行くけどよ、ゆーやお前、用事ないんだったらちょっと昼頃にでも様子見に行ってくれんのん?」

 「えーー。様子見たって、何したらいいんよほれ」

 「まー。付き添いだけでいいけん。ちょっとほなもう仕事行くけんな」

 「えー。ちょっ、ん、」

戸惑うように発する僕の返事を背中に浴びながら、父親は部屋の扉を閉めて行った。

(付き添いたってなあ。)

何をすればいいのかよくわからないまま、もう1度布団をかぶる。


***

僕は目が覚めて、自分なりに考えた。

何か必要な物は、あるのか?

持っていかなければいけない物は、あるのか?

(ポカリ?いやいや、点滴しよったらいらんのだろか?)

(手ぶらで行くって言うんもなー。)

(えっ。ちょっと待てよ。個室になったってことは、部屋が変わったってことか?え?何号室に行ったらいいんやし。)

色んなことを、色々考えながら用意をして、僕は車を走らせた。

外は相変わらず寒くて、嫌気がさす。


***

 「すいません」

病院についてすぐ、受付の女性に僕は話しかけた。

 「美空良子の孫なんですけども」

 「あ、はいー」

不思議そうな顔をする事務員さんに、お見舞いに来たこと、何号室にいるのかわからないことを説明すると、病室の番号を教えてくれた。

エレベーターに乗り、4の数字を押し、扉が開くのを待つ。

待っている間も、看護師さんであろう人達がうろうろと歩いていて、なんだか格好良く見える。

(病院には看護師がよーけおるんやなぁ。)

見慣れない環境を、物珍しく観察する。


***

403号室。美空良子。

僕は扉の右側のプレートを、よくよく観察してから扉を開けた。

(ん?)

扉を開けると、カーテンがすぐに目に入った僕は、様子を窺うようにカーテンに手を当て、中を見る。

(お。え……。)

カーテンの内側には、大きなベットの中心で、横になっているばーがいる。

僕の存在に、気がついていないのか、寝ているのかよくわからないが、窓際に置かれた簡易のソファのような物を目指して、僕はゆっくりと足を進めた。

物音を立ててしまうと、起こしてしまうかもしれない。

そう、思ったからだ。

部屋の中には、病院もののテレビドラマでよく見る、脈を計る機械のような物が置かれていて、機械の上には、点滴の袋のような物が、2つぶら下がっている。

ばーの口元には、病院もののテレビドラマでよく見る、カラスのくちばしのような形の、透明のマスクが取り付けられていて、頭の上に取り付けられた機械の中では、何故か水のようなものが沸騰している。

入院している様子は、はじめて見た僕だが、素人ながらに、なんとなく理解した。

(あんまりよーないんやなぁ。)

4人部屋から個室に移動し、心臓の鼓動とともに、ピコンピコンと動いている機械の画面を観察しながら、悟る。


***

数字が、いくつか並んでいる。

はじめて見る機械を、僕は静かに、興味津々で見た。

緑色の線は、どうやら心拍数らしいことは、緑色の数字を見て、なんとなくわかった。

(これはたぶん心臓やんなぁ。)

(ほなこれは血圧か?)

なんとなく、そんな気がする。2つ並んだ数字。

96。

68。

(んー?血圧にしては低いか?)

92。

(これはほな酸素のあれか?)

さらに観察するも、脈拍らしい数字以外は、なんの数字なのかはっきりとわからない僕は、点滴がぶら下げられた機械の観察をするのをやめて、ばーの頭の上の機械に向いて足をゆっくり静かに移動させる。

(これはなんやろか?)

水のような物が、沸騰している。

機械の横には、同じサイズの中身が空っぽの機械が壁に取り付けられている。

透明の容器に、緑色のふたのような部分。

そこから伸びる、ホースのような部分。

(これは今は使われてないんだろうなぁ。)

隣で沸騰する機械と比べて、自分なりに納得する。


***

隣で水のような物が沸騰している機械は、透明の容器に、水のような物が入っていて、その中の水のような物が、ぶくぶくとなっている。

銀色のふたのような部分には、数字がついたレバー。

ダイヤル式?のような回す部分が取り付けられていて、ホースの先をたどって行くと、どうやら口に取り付けられた酸素マスクにつながっている。

(この水がぶくぶくで酸素作いよんか?)

不思議に思いながら観察していると、

 「コンコン」

と、ドアがノックされる音のあとに、扉が開く音がした。


***

 「あ、お世話になりますぅ」

僕は小声で挨拶をした。

30代くらいの看護師さんが、部屋に入ってきたからだ。

 「点滴の交換の時間なんでね」

そう言うと、看護師さんは、寝ているばーの右側の、脈拍が映し出された機械の上にぶら下がっている点滴の袋を、何やらいじくりだし、何やら作業が完了したかと思うと、僕に何か変わったことがなかったかと質問し、確認すると、部屋から出て行った。

僕は、通常の音量で声を出す看護師さんに、

(いやいや、ほんな声で喋ったらばーが起きるって。)

と、思いながら、パイプベットのような簡易のソファのような椅子に座って静かに待っていた。

僕の予想は的中し、目を閉じていたばーが目を開き、咳をしはじめたのは、少し前からの出来事。

 「いけるんか?」

看護師さんのいなくなった部屋で僕は、ばーに話しかける。

はぁはぁ。と、荒い息遣いに、喋ると苦しそうに見えるばー。

僕が病院に連れて来たあの日よりも、さらに体調が悪そうだ。

声を出そうとはするが、少し声を出すと咳をして、苦しそうなばーに、僕は話しかけた。

 「しばらくここでおるけん。なんかあったら言えよ」

そう、話しかけた僕の声には、声は返ってこず、枕の上の顔が、下にコクンと面倒くさそうに動いた。


***

ずっと部屋にいても、なんだか暇。

しばらくは、靴を脱いで、パイプベットのような椅子のような、少し固い小さめのベットに横になって、ツイッターやらグーグルプラスやらをチェックしていた。

一通りチェックして、それでも暇だから寝ようと試みたものの、なんだか寝れない。

トイレを探しに廊下をうろついて、ようやく見つけて用を足したものの、ばーの部屋の扉を開けてすぐ右側にトイレがあることに気がついたときには、なんだか少しだけがっかりした。

それでも、滅多にこんな所に来ない僕には、新鮮な空間で、廊下を歩けば色々な部屋があって、人の気配がして、すれ違う人は看護師さんであったり、介護士さん?少し服装の違う人であったりと、なんだかウキウキした。

病室で目を閉じていると、もう1度部屋に看護師さんが入って来た時には、驚いた。

男の、看護師さんだったからだ。

しかも、イケメン。

凛とした濃い顔立ちで、イケメンという文字が、顔に張り付いていた。

(すごいな。あんな男の人もおるんやな。)

看護師は、女の人しかいないと思っていた。

(あんなチャラそうな奴もおるもんなんやなぁ。)

茶色に染められた髪の毛を、やんわりと靡かせながら、部屋を出て行ったからだ。


***

異世界。

僕の人生には、今までなかった世界。

心身症だの、パニック障害だの、持病はあるものの、たいして大きな病気になることもなく、大きな怪我をしたこともない僕には、新しい世界で、異世界だった。

けっきょく、夕方の17時過ぎ。

道路が帰宅ラッシュになる寸前まで病室にはいたものの、物珍しさと、退屈さが、個室の中で絡み合った。

点滴が吊るされた機械。

画面に映し出された数字。

口には酸素マスク。

ベットの右隣にはおしっこを溜める袋。

ばーの右手人差し指には、酸素数値?を計るクリップのような小さな器具。

体の周りには色々な管があって、はじめて見る病人の、病人らしい姿には驚いた。

大きな病院には医者がたくさんいたり、看護師がたくさんいたり、イケメンの看護師がいたり。

驚くことはたくさんあった。

けど。

1番驚いたのは、ばーが、病人のようになっていること。

ずっと前から病人で、家にはいたが、毎日、毎日、じーと喧嘩をして、いがり声を飛ばしていた人が、色々な管に繋がれて。

まるで、虫の息。

と、言う言葉が当てはまるかのような生命力のない雰囲気に、1番驚いた。

毎日、喧嘩をして、うるさくて、毎日、咳をして、うるさくて、イライラして、うっとーしく感じていたはずなのに、僕は何故だか、かわいそうに思った。

ぼーっとしながらアクセルを踏み、ぼーっとしながら車庫に車を止めた。


***

家に帰って、病室での状況をある程度、母親に話した。

面倒だけど、じーにも状況を話した。

聞かれたからだ。

父親は、帰ってこないようだ。

母親の携帯電話に、病院に寄ってから帰ってくるように連絡があったらしい。

僕は台所でご飯を食べ、お風呂に入り、布団に入る。

寝る前に、少しだけ検索した。

人差し指に取り付けられた、小さなクリップ状の物は、酸素の数値を計る機械。

健常者では、97くらいが健康らしい。

僕はてっきり、100が健康だと思っていたが、そうではないことに少し驚き、92という数字にも、驚いた。

今日のばーの数字は、92。

それは、人が全速力で走ったあとくらいの数値らしい。

(酸素マスクしてほれなん?)

(いやいや、あの人いけるん?)

(ずっと走ったあとの苦しさって、ほれ苦しいないん?)

疑問に思いながらも、布団をかぶった。


***

目が覚めた朝。

今日は何もせず、だらだらと、いつも通りの1日を過ごした。

喧嘩のない静かな家の中は、平和で。

平和で。

それでもなにか、スッキリとはしない気持ちで、携帯電話を握りしめる時もあった。

そのまた次の日も。

特になにもしていない。

父親の仕事が、休みの今日。

朝から父親が、病院に行ったからだ。

帰ってきた父親の話を聞くには、トイレで倒れた日よりは元気になっているが、それでも、そこまで元気ではないらしい。

 「あれ、もうながーないぞ」

僕の部屋の中で発せられた言葉に、僕は声を返した。

 「あんた喪服あうん!?」

 「ええ!?」

 「あんたほんだけ太っとったらスーツ入らんのとちゃうん?」

大きく膨らんだお腹を見上げながら布団から声を飛ばす。

喪服など、母親のひいじいちゃんの法事以来、何年も来ていないだろう。

 「えーーーーー、入るわだ入るんちゃうんー」

父親が、お腹をさすりながら返事する。

 「入らんだろ!ほれあんた何キロ太っとるでだ!ってか、わいほなスーツ買いに行かなあかんのんか!?」

 「えー!?お前スーツ持ってないんかだ!?」

 「持ってないよスーツや!」

 「まぁほらほない急いで買わんでもいいだろうけど」

 「とーはーん!!ご飯できたよー!」

 「あんたスーツ入るかちょっと1回ズボン履いてみなよ」

 「えーーーーーーー」

 「ごはんー!冷めるじょー!」

 「ほれあんた返事するか降りて行くかしなよ」

 「おー」

僕は、スーツなど持っていない。

ひいじいちゃんの法事の時は、学校の制服を着ていたからだ。

成人式には出たが、その時は兄にスーツを借りた。

縦ストライプが入った、スーツをだ。

長くないと聞いて、1番にひらめいたのは、スーツを用意しないといけないということ。


***

夜ご飯を食べ終わった父親が、1万円札を5枚持って、部屋に入ってきた。

黒いズボンを履いて。

 「これー!どーゆーことー!?」

 「えー?なにがぁ?」

 「これ、フォックが閉まらんでーこれー」

 「はっはっはっ」

僕は父親のお腹を見て笑う。

夜ご飯をたくさん食べて、パンパンに膨れ上がったお腹は、かろうじでチャックが上まで上がっているが、肝心の1番上の止め具が止まっていない。

 「まーでもいいか。こんで」

 「いやいやいや。ほれはあかんだろ」

 「えー。どーせベルトするし、上着も着とるけんここ閉めてなかってもわかれへんだろー?」

 「いやいやいや」

僕は立ち上がり、父親のお腹とズボンの隙間に手を差し込む。

 「パンッパンでこれ!」

笑いながらわずかに入った指を抜く。

 「ほれわー。あれちゃうんー。今ご飯食べたとこやけんちゃうん」

 「いやいや、そーゆー問題でないだろこのキツさわ」

 「えー。金もったいないこれでいいわまぁ。ほれよりお前じょだ。ないんだったら買わなしゃーないでないかだ。急いで買わんでもいいけど、またちょっとどっか見てこいよ」

そう言って、父親がお金を部屋に置いていったのが、僕がお風呂に入る少し前のことだ。

(青木行ってみよーかー。)

(はるやまかなぁ。)

(青木とはるやまってどっちが良いんだろうか。)

なんて、考えながら、眠りについた夜。


***

あれから、3日。

僕は2度、病院に行った。

1度は、自分が行くために。

もう1度は、母親を送って行くために。

僕の母親は、免許証を持っていない。

もちろん、車もだ。

この車社会の田舎で、自転車で病院まで行くには、あまりに遠く、バスで行くにも不便な交通事情。

父親に、母親を送って行ってくれと頼まれたからだ。

半日。

半日、病院にいると、見たことのない親戚のような、親戚が、噂を聞きつけてか、様子を見に来た。

母方の祖母とは、よく付き合いをしていて、誰が誰なのかは、よくわかるけど、父方の祖母。

ばーの親戚とは付き合いがないから、はじめて見る顔ぶりばかりで。

(誰?これ?)

と、不思議に思いながら、

 「ああ、はじめまして。孫のぉ……」

なんて、ぎこちなく返事をした。

酸素マスクをつけて、目を開いてはいるものの、会話をしたそうに見えて、会話をすることのできない祖母の様子を見ると、なんだか心苦しかった。

喋ろうとすると咳が出て、見たことのない親戚が話しかけて、また喋ろうとすると、言葉にならず咳だけをして、

 「コンコンコン」

と、音が鳴ったら、僕はパイプベットから起き上がる。


***

 「コンコンコン」

この音は、サインだ。

父親が、そう決めた。

声が出ずらい祖母が、僕たち付き添いを呼ぶ、合図。

ある時は、

「コンコンコン」

の音で、電動ベットを起こす。

ある時は電動ベットを下げて、平にする。

僕は音で呼ばれ近づき、

 「ベット下げるんかー?」

と、質問すると、顔がコクンとうなずいたから、電動リクライニングの上半身の部分を、下方向に動かすボタンを押し込んだ。


***

 「コンコンコン」

パイプベットに横になっていると、音がした。

僕は反射的に起き上がる。

 「どしたんなー?」

話しかけながら、ベットの隣に立つ。

 「おまはんっケホッケホッ」

 「なんなー?ベット起こすんか?」

 「おまはん。ケホケホケホ。おまケッホケホ」

 「起こそうか?」

僕が聞くと、首がコクンとうなづいた。

電動ベットのリモコンを押し込むと、ばーの上半身が、ゆっくりと、起き上がる。

 「よっしゃ」

言葉を聞き入れ、反射的に指をはなしリモコンをベットの上に置く。

 「おまんも、すぐには無理だろうけどケッホケホ。どないかせななぁ。はぁはぁ。」

荒い息遣いで、よくわからないことを言うばー。

 「何をな?」

僕は不思議に感じ、聞き返す。

 「しーごと」

 「え!?」

 「仕事。はぁはぁ」

 「え!?仕事!?」

 「んーはぁ。ケホッケホッ。しーごと。はぁ。おまんは、体はどんなん?」

 「体!?わいの!?」

僕は驚き、聞き返す。

 「えぇ」

 「ほらまぁ、薬はよーけ飲んみょるけども」

 「えぇ。よーけ飲んみょんでおまんも。はぁはぁはぁあー。せこ」

顔を強くしかめ、両目を閉じるばー。

 「せこいんだったら寝とけだ。下げようか?」

 「いつかは、嫁さんももらわなんだらケホケホケホ。おまんケッホ。兄ちゃんもとーきょーケッホケホ。ケホッケッホいてもーて。はーはー。こっちにおるんは、はぁ。・・・おまんだけやけん」

(なんやこの人。こんな時にこんな心配しとんかい。)

 「よーないよんで?病気わ?」

目を閉じたまま、声を弱々しく出したばー。

 「んー。まぁ。よーないよるけん、ばーもはよ治せよ。せこそーなけんもー倒すぞ?」

 「えっとなんもしてないケホッケッホケホケホ。けん、はぁはぁはぁ。いきなりはケッホ。できんだろけんケッホケホケホケホちょっとずつなぁ」

(自分が死にかけとるのにわいの心配しよんかい。)

 「おぉー」

 「おまんもまぁはぁ。がんばりよ」

 「おおー。ベット倒すぞ?」

 「ええ」

言葉と共に、首がコクンと下に下がり、僕はベットを平にする。


***

僕はパイプベットに横になり、しばらく天井を見つめた。

(こんな時に、わいの心配かい。)

(自分死にそうやのに。自分の心配せーよ。)

(急に変なこと言うなー。)

思わぬ質問に、天井を見つめていると、何故か両目に熱いような感覚がした。

が、僕は本能的にグッと何かをこらえた。

グッと体のどこかに力が入っている間も、部屋の中には咳をする音だけが流れた。

久しぶりに味わう不思議な感情を、僕はグッとこらえながら、寝がえりを打つ。


***

夕方の帰宅ラッシュの前に僕は車を走らせる。

父親は、仕事が終わると病院に向いて車を走らせる。

しばらく、そんな生活が続いた。

僕は、そんな生活の中で、ばーの主治医に質問をしたことがある。

眼鏡をかけた、優しそうな顔の白髪の先生は、僕が質問すると、驚いた表情で言葉を切り返したのだ。

 「先生、あれって、薬で殺せんのですか?」

僕が、こう、質問したからだ。

間質性肺炎。

特発性間質性肺炎の、急性増悪。

原因不明の間質性肺炎で、急性増悪を起こすと、死ぬ確率が高い。

断片的な知識をネットから収集した僕は、息苦しそうに呼吸するばーに、このまま苦しみながら死んでいくくらいなら、薬で眠るように死んだほうが楽なんじゃないかと思ったからだ。

 「なっ!?今、えっ!?なんて!?」

よぼついた二重まぶたの目を、メガネのレンズごしに大きく見開いた。

 「安楽死?みたいなんてできんのですか?息がせこそーで、あれやったら薬で殺してあげたほうがいいような気がして」

 「あ、安楽死はね、今の日本ではできんのですわ。えーっとねー。美空さんの場合わー」

 「無理なんですか?」

 「薬でね。そういうことするんはね。僕らの中ではセデーションて言うんです」

 「セデーション?」

 「そう。でもこれわー。治療をしてほれでも治る見込みがない人にしかできんのですわー」

 「ばーは、あれ治るんですか?急性増悪ですよねこれって?」

 「んー。僕もそうやと思うけど、人間の命っていうんは、僕ら医者でもわからないものでねー」

(なんのための医者やねん。)

 「はい」

 「とりあえず今、点滴して治療しよるけん、これでも効果が出んかったらー。できるかなぁ。どうかなぁ。」

(なんやねん。)

 「起きとっても息しよるだけやし、水飲んでもむせて逆にせこそーにしよるし。あの酸素の数字って全速で走ったくらいの呼吸を、ずっとばーはしよるってことでしょ?」

 「んー。そうやねー。酸素数値ね、ほなけど、まだ治療が効かんってわかったわけではないけんねー。今わー。無理ですわ美空さん」

 「そうなんですか」

こんな会話を、病室の前の廊下で、中にいるばーに聞こえないように、少し小声でしたのだ。


***

入院してすぐは、比較的元気だったばー。

トイレで倒れてからは、別人のようになった。

最初の数日は、なんとか会話もでき、自分でご飯も食べていた。

 「もーちょっとお粥とかやりこいご飯にしたら?」

と、2人きりの時に聞いたが、へんこつなばーの前には、通常の人間が食べるご飯が、お昼になると運びこまれてきた。

 「はぁはぁはぁ」

座っているだけなのに、走ったあとのような呼吸をしながら、白いお米をなんとか食べる日もあれば、デザートの青りんごゼリーだけをすするように弱々しく食べる手が、震えている日もある。

自分で歩くことのできないばーは、管が股間に通っているのか、おしっこをするとベットの右側の袋に液体が流れてくる。

1日に何度か、オムツの交換にも来る。

オムツだ。

数日前まで、じーと派手に喧嘩をしていた人が、オムツにうんこをしている。

看護師さんなのか、介護士さんなのかよくわからない人が、ビニールエプロンをして、ビニール手袋は履いて、ばーのオムツをはがし、汚物を捨て、お尻拭きでばーのお尻を拭く。

また、新しいオムツを履かせてもらうと、ズボンも履かずに布団をかぶせてもらい、咳をする。

(こんなん人間でない。)

はじめて見る光景に、我慢ができなかった。

できなくなったから、僕は主治医に相談をしたのだ。


***

父親が病院から帰ってきた夜。

夜ご飯を食べ終わった父親に僕は、話をしに行った。

 「なーなーとーはーん」

畳の部屋に寝転んでいる父親。

 「なんなー?」

 「今日医者になー。ばーを薬で殺せんかって聞いたんよー」

 「なんて!?」

 「いや、ばーをな。安楽死できんか聞いたんよ。医者に」

 「おお」

寝転がっている父親が、畳の上に座った。

 「なんかせこーてかわいそーなでー。ずっとあんなん」

 「・・・・・・」

 「んで医者に聞いたらな、セデーションっていうんがあるんやって」

 「なんなほれ?」

 「セデーションって言うんやって。安楽死させることを」

 「セデーション?」

 「そうそう。薬で殺すことをほーやって言うんやって。ほんでほれをばーにできんか聞いたんやけど、今のばーにはできんのやって」

 「おお。・・・・・・できんって言うんは、なんでな?」

 「なんかセデーションって言うんは、治療しても、もう治ることがないって人にしかできんのやって。ほんで、ばーは今治療中で、ほれでも治りそうになかったら、ほん時にできるんやって」

 「ふーん。ほんで、どないするんな?」

 「いや、わいはあのまませこそうに苦しみながら死んでいくよりかは、眠るように死んだほうがばーも見よるほうも楽なんでないかとおもーてな」

 「見よるほーって言うんは、とーはんやか?」

 「うん。仕事もあるし、お金やってほない金持ちなことないんやけん入院が長引いたって、困るでー。よーけいったら」

 「・・・・・・・・・・・・」

 「ほんで息ができんで今もせこそーにしよんのに、今からもっと苦しそうになっていくん見よるほうもつらいでー」

 「・・・・・・」

 「ばーやって、せこいまま死ぬよりは、楽に死ねたほうがいいんちゃうかとおもーて」

 「んー。。。。。。」

 「ほなけんいちおほんな方法もあるよって教えとこーと思って」

 「おお」

 「まーほんだけ」

 「おお」

黒く大きな顔を、眉間にしわ寄せ険しい顔をする父親に、僕は背を向ける。


***

父親に、セデーションについて話した次の日。

僕はまた病院に行った。

病院に行くと、カラスのくちばしのような酸素マスクが、なんだかごつい物に取り換えられていて僕は驚いた。

アメリカの映画で見る、戦闘機のパイロットがしているようなマスクを口につけている。

大きなマスクの先には、細い掃除機のパイプのような物が繋がっていて、頭の横に置かれた台の上には、見慣れない黒い小さな機械が置かれている。

(なんやこれ?)

ノートパソコンくらいの大きさの機械には、また、丸いダイヤルが取り付けられていて、数字が書かれている。

(あー。これでまた強さ変えるんか。)

頭の上に取り付けられていた、水のような物が沸騰している機械は、止まっていて、ダイヤルの数字が0になっていることに気がついた僕は、酸素マスクが、なんらかの事情で交換されたのだと悟った。

そして、わかったことがもう1つある。

(これは、わるーないよんなぁ。)

素人なりに、そう、判断した。


***

今日は、お昼ご飯は、運ばれてこなかった。

病室で何をするでもなく。

誰が来るでもなく。

たまに、看護師さんが点滴の交換に来たり、様子を見に来たり。

介護士さんであろう人がオムツの交換に来たりした。

 「この点滴の液がなくなったら、また教えてもらってもいいですか?」

頼まれた僕は、

 「はい」

と、30代くらいの看護師さんに返事をして。

1滴。

1滴。

ポタッ。

ポタッ。

と、マイペースに落ちていく点滴を観察しながらパイプベットに転がった。

点滴の袋から水分がなくなると、ばーの頭の上にある、ナースコールのボタンを押し、

 「点滴なくなりました」

と、伝える。

そんな行為も、もう何度か経験したから、慣れたものだ。

いつになく、覇気のないばー。

僕は、なんだか耐えられない独特の空気に、早めに病室を出た。


***

夜ご飯を食べ終わり、自分の部屋で転がっていると、机の上に置いた携帯電話が鳴る。

父親だ。

(なんの用事や?)

僕は不思議に思いながら電話に出る。

 「はい」

 「あっ、もしもしー」

 「なにー?」

 「あのー、あのなー。こないだ言よったやつしよーかと思うんやけど、いいなぁ?」

 「え?なに?こないだ言よったやつって?」

 「セデーションや言うやつよ」

 「え!?セデーションするん!?いつ!?」

思わず大きな声で聞き返す。

 「さっき先生と話しして、しよーかと思うんやけど、お前ばーに喋りたいことやとくにないだろぉ?」

 「んー。まぁ。とくにないけど。先生できるって言よったん?」

 「あのー今しよる点滴がステロイドパルスや言う点滴の治療らしいけど、今日の昼でほの点滴はもー終わったんやと」

 「うん。ほんでー?」

 「ほんでほれしてもよーないよらんけん、できるらしいわ」

 「なんでまた急にしようと思ったん?」

 「なにがー?」

 「セデーションよ」

 「ああ。ばーもせこいんや知らんけんど、もう殺してくれって。ちいさーい声でとーはんに言うたんよ。2人でおる時に」

(えーーーーー!?)

 「ほーなん。ほな本人がほない言うんだったらほないしたらいいんちゃうん」

 「ほなもうするぞ?いいなぁ?」

 「えっ、ちょっ、ちょっと待って」

 「なんなだぁ?」

 「ほれって薬入れたらすぐに死ぬん?」

 「いや、なんやばーは、たぶんすぐには死なんよーに言よったわ」

 「え?ほれはなんでなん?」

 「ばーの場合は肺が悪いだけで心臓や他の部分が悪いわけではないけん、すぐには死なんだろーって言うたわ」

 「ほれほないつ死ぬん?」

 「ほれは医者でもわからんのやって」

 「ほーなん」

 「とーはん今日はとりあえず病院に泊まるけん、ほーやってかーはんに言うといてくれだ」

 「え!?もんてこんの!?」

 「おー。まぁちょっとおってみるわ」

 「あぁ。わかったー」

 「かーはんにも今言うたこと言うといてくれよ」

 「うん」

 「じーには言わんでいいけん」

 「なんで?」

 「アホやけんまためんどくさーいこと言うたりしたらめんどうなけん」

 「あぁ。わかったわかった」

 「かーはんに黒、用意しとくよーに言うといてくれよ」

 「うん」

 「お前わ?もうこーたんか?黒」

 「あぁ。こないだはるやまでこーたよ。部屋に吊ってある」

 「ほーか。ほなまぁまたなんかあったら電話するわ」

 「うん」


***

歯磨きをし、布団に入ろうかとしていると、携帯電話がまた鳴りはじめる。

(もう死んだん!?)

僕は急いで携帯電話を握る。

 「どしたん!?」

 「いやぁ。あんなー。お前明日かーはん病院につんでくるだろ?」

 「うん」

 「明日は別に来てもこんでもどっちでもいいぞ」

 「なんで?」

不思議に思い聞き返す。

 「なんや、薬入れたらすぐに寝てしもてよ」

 「おお。うん」

 「寝てしもーたら、ほんまに寝っぱなしじゃわだ」

 「えー?」

 「看護師が入ってきても別に起きーへんし、今やってこれ病室で電話しよんぞこれ」

 「えー!?ほんで起きーへんの!?」

思わず布団の上で体勢を変える。

 「おー。なんやたまーに目開けるよーにも見えるけど、こんなん一緒におってもしゃーないわだ」

 「へぇーーーー。えーーー」

 「ほなけん明日かーはん連れて来るんだったらなぁ」

 「うん」

 「様子だけ見てちょっとしたらお前ほのままかーはんつんで帰れだ。ほたらとーはん仕事終わったらそのまま病院来るけん」

 「え!?あんた明日も泊まる気!?」

 「おお」

 「今より死んでからのほうが忙しーなるんやけん、家で寝たらわ?」

 「いーや、かんまん別に」

 「ほんなとこで寝れるで?」

 「寝れるわだー別に。とーはんどこでも寝れるけん」

 「えーーーー」

「なんなだ」

「薬入れるって言うんは、どーやって入れたん?点滴?」

 「いやなんや看護師が注射器よーなん持って来てな」

 「注射器!?」

 「おー。ほんでなんか機械よーなとこに注射器はめ込んだらだんだんこー。注射するように注射器が縮んでいってなぁ」

 「おぉ」

 「ほったらお前、気がついたらもー寝とんぞ。ばー。あっちゅーまでびっくりしたわだ」

 「ほーなん」

 「ほんまに寝たきりの人よーなわ」

 「えー」

 「ほなけんまぁお前や朝来たら昼には帰れよ」

 「うん。ほんで兄ちゃんはどないするん?」

 「どないするって何がなだ?」

 「兄ちゃんには、ばーが入院しとることも言うてないでー。死んでも言えへんの?」

 「あいつわー。なんや忙しそうにしとるし言わんでいいんちゃうんー」

 「あー。ほーなん」

 「ほなけんまぁ、今はほんなところ」

 「あぁ、わかった」

 「今もこんだけ喋いよるのにまったく起きーへんのぞ」

 「へえーえー」

 「まーほなかーはんにほー言うといてくれよ」

 「わかった、ほな」


***

 「かーはーん」

電話を切ってすぐに僕は母親の部屋に行き、話しかけた。

 「なに?」

不思議そうに体を向ける母親。

 「明日病院行くでー」

 「うん」

 「とーはんが明日はちょっと様子見るだけですぐに帰ってもいいって言よるわ」

 「な、なんで?」

 「薬で眠らしたんよー。ばーを」

 「え!?薬!?ほれって何!?」

丸く大きな目をさらに大きくさせながら聞き返す母親。

 「セデーションや言うてな。薬で眠らせることをほない言うんやけど」

 「うん。薬で眠らせるって言うんわ?今晩だけの話?」

 「いや、ずっとよ」

 「ずっと!?」

驚いた顔で言葉を返す。

 「そうそう。息ができんでせこそーなでー」

 「うん」

 「ほなけん意識失わせたほうが楽に死ねるんちゃうかって、相談しよったんよ」

 「ちょっ、ちょっと待って!ほれって安楽死ってこと!?」

 「まぁ、ほんな感じ」

 「え!?ほなもうばーさん死ぬん!?」

 「いやー。ほれはわからんのよー」

 「え!?」

驚いた顔が不思議そうな顔に変わる。

 「薬で眠らすことをセデーションて言うんやけどな、ほれを今日の夜にしたんやけど、ほれはしたけんてすぐに死ぬわけではないんよな」

 「ほんで?」

 「いつ死ぬかって言うんは、ほれは医者にもわからんのやって。ほなけどまぁ、安楽死させようとしとんは、まぁ、ほんなとこ」

 「ほんで!?今ばーさんは寝とるっちゅーこと!?」

 「そうそう。なんやさっきとーはんから電話あったんやけど、とーはんが真横で電話しよっても起きーへんらしいわ」

 「えーーーーー。ほなほれ、植物人間よーになっとるってゆーこと?」

 「いやー?どーなんだろ?わいも見てないけんちょっとよーわからんのやけど」

 「植物人間や言うたらほれ、死んだひいじいちゃんがえっとほれで入院しとったじょー」

 「えー。ほーなん」

 「ほなけどひいじいちゃんは、何年も生きとったけど、ばーさんもで?」

 「いや?何年もは、生きーへんのとちゃうん?ちょっとわかれへんけど」

 「えー。ほーなんー?植物人間でえっと生きられても、世話に困るでーなー今度。かぁちゃんが何年も世話しよって大変そーだったん覚えとるじょーわたしー」

 「いや、わいの予定ではすぐに死ぬはずなんやけどー。なんや医者に聞いたらすぐ死ぬわけではないけど、安楽死できんかって聞いたら、セデーションや言う方法があるや言よって、ほれを今日したってことしかまだわいもわかれへんのやけど」

 「ふーーん」

 「かーはん喪服。えっと着てないだろ?また暇な時に出しとったほうがいいよ」

 「え!?ほんなすぐ死ぬん!?」

納得していた顔がまた驚いた顔に変わる。

 「いや、わからんけど。わいこないだスーツ買いに行ってきたよ」

 「えーーーーーー。なんぼしたん?あんたお金持っとったん?」

 「とーはんに金もーたんよ。6万のスーツが3万になっとってな。ほれにした」

 「へぇえー。どこでな?」

 「はるやまで買ったよ」

 「ほーなん。私、黒あうかなー?ちょっと太ったけんなぁ。ほれ。ひいじいちゃんの法事から先、着てないでぇ」

 「んー。またほな明日にでも出して着てみなだ」

 「ちょっとほんでほれ、じーさんにわ?説明せんでもいいん?」

 「えーーーー。いいだろー。アホやけん説明しても理解できんだろー」

 「ほーなん」

 「セデーションがなんやかんや言うても理解するはずないでー。明日の朝起きたらほない体調よーないとだけ言うとったらいいんとちゃうん」

 「ほーでぇ。ほなほないするでぇ?」

 「ほんで兄ちゃんには、ばーが死んでも言えへんってとーはんが言よったわ」

 「ほーなん!?ほなあいつは、死んでももんてこささんのやな?」

 「んー。とーはんがほない言よるけんほんで良いんちゃうん?」

 「ふーん」

 「ほなまぁ明日予定通り9時に家は出るけど、まぁ、どんなんか様子見てほんで帰ってこーだ」

 「うん。わかった」


***

予定通り、9時に家を出た僕たちは、9時30分には病院に着いた。

予定通りにいかなかったことと言えば、じーにばーの容態が良くないと伝えた時に、

 「わしも行く」

と、言いだしたことだ。

自分の、車でだ。

我が家のじーは、よく事故を起こす。

もう80歳も過ぎているし、危ないだろうと思い、僕は必至に自分の車で病院まで行くことを止めた。が、朝に何か用事のあるじーは、昼から自分で行くらしい。

 「運転するな」

 「危ない」

言葉が通じなかった。

予定通りにいかなかったのはそのことであって、今は予定通りにエレベーターに乗って、母親と2人で廊下を歩き、少しドキドキしながら、ゆっくりと扉を開く。

ばーを起こしたら、悪いから。


***

いつものお見舞いのように、寝ているかもしれないばーを、起こさないようにゆっくり扉を開いて、物静かに歩くものの、本当によく寝ているのか目を開かない。

 「ばーさんよー寝とんなー」

小声で僕に話しかける母親。

 「ほーやな。ほんまに起きんな」

反射的に僕も小声で返す。

閉まっているカーテンを開け、カバンをパイプベットの上に置こうとすると、視界に入る。

(あー?これが注射器か?)

おもちゃの注射器のような、太い注射器が、横方向になり装置のような物にはめ込まれている。

 「マスク変わったんやなぁ」

 「ああ。そうそう。ってかこれ、普通に喋ってもいけるんちゃうかな?」

 「ほーでー?」

小声だった母親が、地声に近いボリュームで声を出す。

 「ほんまに寝とんやなーこれ」

 「なー。ほんまに寝とるなこれ」

2人で、はじめて見る光景に、驚き戸惑う。


***

パイプベットに、2人で座った。

父親が、寝ていた形跡がある。

毛布がパイプベットのすみに置かれている。

どこかで買ったのだろう。

母親と2人、何をするでもなくパイプベットに座っていると、液体が流れる。

 「ちょっとかーはん」

 「なにー?」

 「寝とってもおしっこはするんやなー」

ベットの右側に吊るされた袋めがけて、管の中を黄色い液体が流れていく。

 「ほんまやなぁ」

驚き、食い入るように見る母親が、僕の左肩を叩く。

 「ちょっとゆーや!ばーさん血が出よるわよ」

 「え!?」

驚いて声を返す。

 「ばーさん血が出たわよ。いけるんこれ」

 「え?どこから?」

 「血尿よ。ほれここ」

母親が、おしっこを溜める袋を指さす。

 「ほんまやな」

黄色い液体に、赤が少し混じっている。

 「まだ出よるわよ!ほれ!」

 「ほんまやな」

管の中を、赤い液体が流れる。

 「これって看護婦に言わんでもいいんで?」

 「んー?どうなんだろ?一応言うた方が良いんかな?」

 「言うた方が良いんちゃうん血尿やー」

心配そうに母親が言った。

 「ほなどうしよう?ナースコール?ほれか直接言うてこよか?」

 「詰所に言いに行くってことでー?」

 「そうそう」

 「まぁー。ちょっとほこのボタン押してみーだ」

 「ほなまぁ」

僕は立ち上がり、寝ているばーを起こさないように気配を消しながらナースコールのボタンを押す。

 「・・・・・・はい。どうされましたか?」

(大きい声やな。)

ばーの頭の上のスピーカーから、看護師さんの声がした。

 「あのー、すいません。血尿が出たみたいなんですけども」

 「血尿ですか?」

 「はい」

 「わかりました。ほなちょっと見に行きますね」

雑音とともに、会話が途切れると、少しの時間の経過のあとに扉がノックされる音がして、看護師さんが部屋に入ってきた。

 「どうされましたかー?」

 「これ、血尿がさっき出たみたいなんですけども」

僕はおしっこが入った袋を指さす。

 「あー。ほんまやねぇ」

看護師さんは、体を前かがみにして確認しながら声を出し、ばーの股間に繋がっているであろう管をスッと引っ張った。

(雑に引っ張るな。ほんだけ雑に引っ張っていけるもんなんかこれ?)

管を真上に引っ張ると、重力に従って、また少し赤い液体が流れる。

 「ああー。ほんまやね。これやね。たぶん薬の副作用と思います」

(なんや軽いノリやなぁ。)

僕は、はじめて見る血尿に驚いていたが、看護師さんは、日常会話を楽しんでいるかのような明るいトーンで声を出した。

 「一応先生に報告しときますねー。また何かあったらね、いつでも呼んでください」

管の位置を少しいじって背を向けた。

 「これって寝とっても出るもんなんですね」

母親が看護師さんの背中に向いて話しかけた。

 「はい?」

 「今ってこれ寝とんでしょ?」

 「そうですね。薬で寝てるような状態になりますねー」

 「寝とってもおしっこは出るんですね」

 「そうですね。またなんか異常があったら、またボタン押してくださいね」

スッと体の向きを変えて扉に向いて足を進める。


***

特に何をするでもなく、本当に寝ているのか、何の反応もないばーを前に、

 「そろそろ帰るか」

なんて話をしていた時、

 「コンコン」

と、ノックの音のあとに、介護士さんであろう人が2人病室に入ってきた。

ビニール手袋に、ビニールエプロン。

またオムツの交換に来たのかと悟った僕は、できるだけ見ないように携帯電話の画面を見る。

 「すごいなぁ。薬って。あんだけ体触られても起きーへんのやなぁ」

 「んー?んー」

1人の人に、体を持ち上げられている。

 「ちょっと、ちょっと」

少し小声で、母親が僕を呼ぶ。

 「ばーさんうんこしとるわよ」

 「えぇ!?」

驚いて、思わず目線をベットに向ける。

 「ほんまやな」

白いオムツの上に、茶色い物体が見える。

 「寝とるのにうんこも出るんやなぁ。人間の体って、不思議やなー」

 「ほんまやな。出るんやな」

見ちゃいけないと思い、目線をスッとそらす。

 「私も、あないなったら終わりやなぁ」

 「何がぁ?」

 「私もあないなったらもうあかんなぁ」

 「え?」

 「人間、飲み食いできて、歩けてってできなんだら。あないなったら死んだほうがいいな」

 「うーーん」

 「あたしがあないなったら世話やせんでいいけんな」

 「え!?」

 「生きとっても迷惑かけるだろーけん殺してよ」

 「うーん」

 「息しよるだけやもんなぁ」

 「うーん」

 「ほんでまた、この人やもすごい仕事やなぁ」

 「うん」

 「ちゃんとお尻も拭いてくれて、すごいなーこんな人」

 「うん。ほんまに、これだけはわいもよー真似せんと思う」

 「こんな人やは、良い死に方できるんだろうなぁ。人の世話する仕事は、すごいわ」

 「ほんまなぁー」

2人きりになった病室で、いつもよりちょっと、小声で話す。


***

帰り道。

少し早い時間だったけど、2人で来来亭のラーメンをすすった。

醤油ベースのスープは、体にじんわりと染み込んでいき、旨みを感じながら咀嚼した。

昼からはいつものように帰って昼寝をし、目が覚めたら夜ご飯を食べる。

今日も父親は、病院に泊まると母親に電話があったらしい。

いつもよりさらに静かな家で、いつものように過ごす時間。

ただ、いつもと少し違ったのは、容体があまり良くないことを理解したじーが、病院まで1人で車を運転して行ったことに腹を立てたことくらいだ。

あれだけ毎日喧嘩をしていて、若いころには殴る蹴るの暴力をしていたやつが、何が心配なんだと。不思議にさえ思った。

都合の良い時だけ。都合の良い奴だと。腹を立てた。

そんな感情も一瞬だけ湧き上がったけど、すぐにどこかへいった。

静かな布団の中で、喧嘩のない平和さを噛みしめる。

僕は、今日も。


***

朝起きて、ご飯を食べて薬を飲む。

いつもと変わらぬ日常に、声が差し込む。

 「おー!ゆーやよー!」

階段の下から大きな声が差し込んできた。

 「なにー!?」

僕は大きく返事する。

 「ばーはあれ、どないなっとんぞー!?」

 「なにがよー!?ちょっと降りていくけん待って!」

大きな声を出していると疲れる。

朝からじーの大きな声を聞いていると疲れる。

僕は急ぎ足で階段を下りる。

 「なんなだ?」

イラッとしながら言葉を発する。

 「おお。昨日なぁ。わしーずっーと、背中さすってやったんじょ」

(またこいつ。いらんことして。)

 「ほたらお前、ずっーーーっと寝とんぞ」

(当たり前だろ薬で寝かせとんやけん。)

 「ああ。ばーはずっと肺の病気だっただろ?」

 「おお」

 「ほんでよー咳しよっただろ?息苦しそうに」

 「おお。わしやもー。隣の部屋で毎晩せいてせいてされて夜や寝れへんわだ」

(んなこと聞いてないわほんまこいつ。)

 「意識があったら息がせこーて苦しいけん薬で眠らせとんじょ」

 「薬って、お前、あのー、睡眠薬よーな寝るやつか?わしも飲んみょるー」

(ほんな軽い薬ちゃうわボケ。)

 「あぁ、まぁほーじょ」

 「あんなごついやつ口につけてなぁ」

 「うん」

 「せこいんかえなとおもーてわしー最初に話しかけよったけんどお前、返事せんでぇ」

(ほらせーへんわなぁ。)

 「んで、おかしーなーと思って詰所に行たんじょ。ほたら今寝とるけんねーやて看護婦が言い腐るんじょ。背中さすっても起きーへんのぞ」

 「本人はもう意識ないけんなぁ。ほら起きへんと思うよ」

 「こやーってなぁ。いけるかーちゅーて。さすったんじょ」

(何がいけるかなあんだけ喧嘩しよって。)

 「おー。ほなけどばーも寝とるけん今度は見るだけにしときよ」

 「いつ起きるんなだ。ばーわ」

 「んー、たぶんもう起きんとは思うけどー」

 「もう起きーへんのか?おばーはん」

 「ほらまぁちょっとよーなったらまた起きるけどな。今のとこは寝かせとるほうが本人も楽やけんな」

 「わしーがあの日カラオケがあるけんあさー出ていたんじょ」

(知っとるがな。)

 「うん」

 「ほでお前が病院つんで行ただろー?」

 「うん」

 「あの前の日からよー咳しよったんにもっとはよー病院にわしがつんでいといたらよかった」

 「まーなー」

 「もう治れへんのか?」

 「元々が難病やけん治る病気ではないでーな。ばーわ」

 「ほなけどわしーやってぇ、腸にカメラ入れたらヨーグルトようなんがお前、ついとんぞー。飯が食えんで痩せて困った」

(ほなけんお前のはたいした病気でないだろが。)

(もう何回も聞いたわ。)

 「じーのんは治るやつやけど、ばーのんはまだ今の医学でも原因がわかってない治らん病気やけんな」

 「ほなけどわしやってぇーこのヨーグルトよーなんはもうとれましぇんて、先生が言よったわ」

(やぶ医者がアホに適当なこと言いやがって。)

 「おお。ほなまぁじーも気つけてなー」

 「おお」

 「ほんで車の運転あんまりせられんよ」

 「車の運転するなったってお前、車がなかったらなーんじゃーどこや行けんわだ」

 「まぁほーやけど。町内ぐらいにして、またばーの病院に行きたい時は、わいかとーはんに言いなよ」

 「ほないとおーないでないかだ」

 「ほなけど車よーけ走って危ないけんな。じーはよー事故するだろ」

 「ほない、事故やせーへんわだ」

(こいつほんま。)

 「まー気つけてくれよ。ばーが入院しとんのに今じーになんかあったらとーはんやかーはんがもっと大変なけんな」

 「おお」


***

 「ゆーや!ちょっと!」

(なにもう!)

 「ちょっとゆーや!起きて!」

 「何よもぉ。いま何時よー」

僕は部屋の電気をリモコンで点ける。

 「今とーはんから電話あってばーさんが危ないって!」

 「うそお!?」

布団を振りほどく。

(まだ2時かよぉ。)

枕元の時計が、2時5分を示している。

 「先生が家族の人来れるんだったら呼んでくださいって言うたらしいわ!」

 「うっそ。ほなはよーいかな」

体を無理やり起こし急いで立ち上がる。

 「あぁぁぁ、立ちくらみぃ」

 「じーさんわ!?どないするん!?」

 「いやほれは言うてきたら。わいちょっと着替えるわ」

 「いやいや私やって着替えなパジャマやし」

 「えっ、急いで行ったほうが良いんよなぁ!?」

 「急がんとゆっくりこいよってとーはんは言よったけど」

 「ほなちょっととりあえずじーに言うてきてだわいちょっと体を起こすわ」

 「わかった」

母親は急ぎ足で階段を下りて行くと、下でじーを起こす声がして、じーが起きたのか、話し声がする。

 「ちょっとー!!」

 「なにーもー!」

僕は座椅子の上から大きな声を出す。

 「じーさん自分の車で行くって言よるんやけどー!!」

 「えー」

(なんじゃほれ。)

 「とーはんは3人で来いよって言よったんやけどー!!」

(くそじじいほんま。)

 「勝手に行かしだー!!」

 「かんまんのん!?とーはん怒るじょ!?」

急ぎ足で階段を上ってくる母親。

 「言うこと聞かん奴はしゃーないわ。ほんなことよりかーはん着替えて」

 「ちょっ、ちょっ、待ってよ私」

 「わいもーいつでも出れるけん」

 「ちょっと待ってよ着替えるけん」

母親にかかってきた父親からの電話から、家の中が騒々しく動きはじめる。

油断していた時間。

予想していなかった内容。

バタバタと、それぞれが用意する。


***

 「バタン」

玄関の扉が開く音がして、閉まる音がした。

(なんやじーもー行っきょんか。)

母親の準備を待っていると、僕達よりも早い動きのじーにびっくりしながら水を飲んでいると、

 「ちょっとあたし化粧わ!?」

と、廊下から声がした。

 「ほんなん車の中でパッーっとしいだもう行けるん!?」

 「化粧せんのだったらもう」

 「ほなわい外に出とくけん玄関の鍵閉めてよ」

 「はいはい」

僕は階段を下り、車の鍵を開けてエンジンをかける。

(真っ暗やないか。)

車のライトを点けて、運転席でボッーっとする。

 「はい、おまたせ」

 「バン」

母親が急いで車に乗り込み扉を閉める。

 「玄関閉めたん?」

 「うん」

 「ほなもう行くぞー」

 「ちょっと待って!化粧するったってくらーてなんちゃ見えんわよこんなん!」

僕はハンドルから手を放し、車の真ん中に取り付けられたルームライトに手を伸ばす。

 「これでいけるなぁ!?行くよ!?」

 「はい、どーも」

の、声と共にギアをDに入れ、サイドブレーキを左足で解除する。

車庫を出て、左折。

直進して、右折。

左折。

右折。

道なりに直進。

auショップを右折。

橋の手前を左折。

僕は法定速度など無視して神経を尖らせながらハンドルを握りアクセルを踏んだ。

赤黄青の信号の多くは、夜中だから点滅の黄色の信号になっていて、僕はとにかく急いだ。

急ぐ僕を歓迎するかのように、赤くなった信号がタイミング良く青になる。

まるで何かが僕を歓迎しているような、僕達を早く病院に到着させようとしているかのように、信号が青に、黄色の点滅にと、病院の駐車場まで僕はノンストップで車を走らせ続けた。

 「なんや信号がみな青に変わるわよ」

 「ほーえー。ほーいやー1回もまだ止まってないなぁ」

運転をしながら会話をしたのは1度だけ。

僕はギアをPに入れ、左足でサイドブレーキを踏みしめる。


***

(じーもう着いとるな。)

駐車場を歩いていると、じーの車を見つけた。

夜中の病院の駐車場は、なんだか不気味で薄暗い。

薄明りの点いた廊下を2人で小走りに進み、エレベーターに乗り込み4の数字を押す。

4階に到着するとエレベーターの扉が開き、僕は急いでばーの病室の扉を開くと、いつもは鳴っていない音が鳴っている。

(これわ。)

僕ははじめて生で聞く音に戸惑う。

ばーの左側に置かれた、血圧やら心拍数やらが表示されている機械が赤いランプを点滅させながら、鳴っている。

 「ばーわ?」

 「まだ生きとる」

父親が、小さな声でボソッと言った。

ベットを見ると、いつものように寝ていて、いつもと変化のない、いつものばーのように見える。

 「何や夜中寝とったら急に看護師やが入ってきてよ。ほんで先生も来て家族呼んでくれや言うけんよ」

父親が、僕の隣まで寄って来て、ボソッと話す。

じーは、ばーのベットの横に呆然と立ち尽くし、白い顔のほっぺたを真っ赤にしている。

鬼の目にも涙なのか。

犬猿の仲の嫁姑関係を続けてきた母親の顔を見て、見ちゃいけないと思い僕はスッと目線をそらす。

 「とーはんこれ死んだらどないするん?」

 「え!?」

 「これって死んだらどないするん?お寺に電話?葬儀屋に電話?」

 「いーやー。とーはんもこんなん初めてやけんわからんぞー」

困ったような顔で頭の後ろで手を組む父親。

 「あんた寝たん?」

 「おお。看護師が入ってきて目が覚めたわだ。葬儀屋ったってお前、ばーやなんかどっか入っとんか?わい知らんぞー」

 「ばーはたぶんセレモニーホールじゃわ。何ヵ月か前に営業が来てなんやしよったもん」

 「ほなー。お前。番号わかるん?」

 「ええ!?ほんなんすぐに言われても調べなわからんがな」

僕は携帯電話に手を差し伸べる。

 「まぁ。まぁ今はまだいいわだ。死んでからでいいわだとりあえず」

部屋の中には、独特の張りつめた空気が漂い、機械がエラーを示すような音が規則的に鳴り響く。

僕は重たい空気に耐え切れず、トイレに向いて足を進める。


***

病室に戻ると、看護師さんがいて、何かを調べていたのか、僕とすれ違いになるように病室から出て行った。

深夜の病院は、思っていたほど怖くなく、電気が明るい。

規則的に鳴り、規則的に赤く光る機械。

ただ。

心拍数であろう緑色の部分が。

規則的には動いていない。

機械の音に鼻水をすする音がまじり、僕は涙が感染しそうになり、泣いちゃいけないと必死に体のどこかに力を入れた。

40。

30。

20。

と、だんだん減っていく、心拍数であろう数字の部分。

脈打つ線が、一直線になると、聞きなれない音に変わる。

 「ピーーーーーーーーーーー」


***

看護師さんが病室に呼んで来たのか、白衣を着た、見たことのない医者が来て、胸ポケットから何かを取り出したかと思えば、ばーの目を左手で開き、ペンライトで目を照らして何かを確認していた。

僕は、ドラマで見たことあるシーンだと思いながら客観視した。

 「ご臨終です」

医者がそう言いながら僕たちに手を合わせ頭を下げると、

 「ピーーーーーーーーーーー」

と、いう音を、看護師さんが止めに行った。

病院に到着してから、ばーが死ぬまでは、ほんの少しの時間のことで、

 「ピーーーーーーーーーーー」

の、なくなった部屋は、嫌に静かに感じる。

 「そしたら、マスク外しますね」

看護師さんが声を出す頃には、見たことのない医者は部屋から出て行き、変わりに看護師さんがもう1人来た。

(たぶん夜勤の医者なんやな。)

(大変な仕事やなぁ。)

なんて思っていると、看護師さんがばーの口から大きな酸素マスクを取り外した。

(え。)

僕は驚く。

ばーの顔が。

ばーの顔じゃなくなっている。

まるで、テレビで見る宇宙人。

宇宙人のような顔になっている。

(なんやあれ。)

(どないなっとんな。)

(酸素マスクのせいか?)

人間である人の顔が、まるで人間ではないような表情になってしまっていて、驚きと悲しみと戸惑い。

味わったことのない感情が絡み合う。


***

父親は、無表情。

じーは、顔を真っ赤にしている。

母親は、少し冷静になったようだ。

僕は、冷静を装って立っている。

 「ほれってあれですか?」

僕は重たい空気を切り裂く。

 「はい?」

看護師さんが、点滴の管を外そうとしながら返事した。

 「ずっと酸素マスクしとったら、ほないなってしまうんですか?」

ばーの顔をもう1度確認してから、看護師さんに質問する。

 「そうですねぇ……圧迫してしまうんでねぇ」

僕は頭の中で現実を理解して、重たい空気から逃げ出すように病室を出る。


***

どこに行きたいわけでもなく、廊下を歩いて、突き当りまで行ってUターンすると、父親達が病室の前にいる。

どうして廊下にいるのかと聞くと、何やら着替えをさせるから部屋から出るようにと言われたらしい。

僕は、身近な人の死と言うものを実感しつつも、いまいちピンときていないような、不思議な状態である。

葬儀屋の電話番号を調べて父親に教えると、

 「こんな夜中に電話して誰か出るんかぁ!?」

と、疑問を飛ばしながら父親が携帯電話を耳に当てたものの、誰かと会話をしているから、誰かが電話に出たのだろう。

 「着替え、終わりましたので」

看護師さんの声とともに、僕達は部屋に入る。

 「すいません」

僕は看護師さんに話しかけ、足を止め、体の向きを変えて足を進める。

 「これからどうしたらいいんですか?」

 「こ、これからとわ?」

看護師さんが不思議そうな顔で聞き返した。

 「死んだじゃないですか。これから葬式までは、どないしたらいいんですか?ばーは、どーやって運ぶんですか?」

 「あの、葬儀会社さんって、どこか入られてますか?」

 「あっ、たぶん父親が今電話しよると思うんですけど」

 「じゃぁ、そっちは大丈夫ですね。たぶん今先生が、死亡診断書作ってると思うから、待っといてもらえますか?」

 「あの、荷物とかは、僕やが帰る時に全部持って帰ったほうが良いんですかね?」

 「そーう。ですねぇ。はい。持って帰られたほうがー。はい」

 「あ、わかりました。お世話になりました」


***

父親が病室に帰ってきて状況を話した。

どうやら葬儀屋が、今から病院に来て、葬儀屋までばーを運んでくれるらしい。

静かな病室で、4人がシーンとなっていると、見慣れない先生が父親を呼んで、父親はどこかへと消えて行った。

僕は今、荷物の整理をしている。

母親と。

ばーの着替えや、オムツ。

お尻拭きや、コップ。

病室の棚には、色々と必要な物を持って来て、棚の中に入れていた。

その全てを、棚から出し、車に向いて足を進めている。

(なんや。あっけないなぁ。)

悲しみに深く浸る間もなく、やらなきゃいけないことが次々に現れる。

入院が決まった時は、着替えだのタオルだのを透明のプラスチックケースに入れて用意するのが大変で。

ドララッグストアで大人用のオムツを初めて選ぶのが大変で。

100円均一で穴あきの蓋つきのストローをさせるコップを探すのが大変で。

テレビを見るために片耳のイヤホンを買って来てくれと言われ探すのが大変で。

色々な苦労を。

いくつかにまとめて。

車のトランクに雑に乗せていく。

撤収。

撤収と言う言葉がまさに当てはまる行動に、人の死を、あっけなく感じてしまう。

見たことのない黒服の2人組が来たかと思うと、葬儀屋ですと挨拶をして、ばーをストレッチャーのような物に乗せる。

片付けを終えた僕達は、ばーと見たことのない黒服の2人組とエレベーターに乗り、通ったことのない廊下を歩いて、病院の正面ではない入口?出口?のような場所で、黒い車にばーが乗り込むのを見て。

じーが黒い車の助手席に乗り込んで。

僕は夜明け前の薄暗い道路を、荷物と母親をつんで運転する。

経験したことのないことが、次々と経験したことのないスピードで進んでいく。

陽気な気分で話す人は誰1人としておらず、独特な空気で時間が過ぎていく。


***

家に帰って、これからどうすればいいのか父親に確認の電話をした。

母親と父親は、仕事を休んだらしい。

今夜が通夜なるもので、明日が告別式なるものらしいと言うことを聞いて、僕は少しの間眠った。

目が覚めるとお昼過ぎで、家にいたはずの母親はいなくなっていて、携帯電話にメッセージが入っていた。

 「葬儀屋に行ってくるけんな。洗濯物よろしく」

と。

お昼ご飯を食べて洗濯物を入れる、畳む。

いつも通りのような、いつもと少し違うような。

嫌いだったはずの人が死んで、せいせいするはずだった僕の心は、予定通りせいせいはしておらず、極上に静かな家の中で、何とも言えない感情が、込み上げてくるような、胸にポッカリと穴が開いたような。

よくわからない自分と葛藤しながら、買ったばかりのスーツを出して、ワイシャツを袋から出して、ベルトを袋から出す。

静かなはずなのに、時間の経過をすごく早く感じる。


***

家族葬。

なるもので。

永代供養。

なるものだと、ラインで母親に聞いた僕は、支持された時間に間に合うように新品のスーツを着て車を走らせた。

葬儀屋に着くと、我が家の名前が書かれた看板が立てられていて、受付の人にどこに行けば良いのか聞くと、どこに部屋があるのか教えてくれた。

スーツを着ると、なんだか背筋がビシッと伸びる。

張りつめている気が、余計に引き締まるような気がする。

部屋に行くと、葬式!!と言うイメージ通りに祭壇が組み立てられていて、父親、母親、じーが黒服を着て畳の上に座っていた。

祭壇の前には布団が敷かれていて、布団の中には、ばーが眠っている。

通夜を経験したことのない僕には、何もかもが新鮮で、辺りを見渡してから座布団の上にお尻を置いた。

 「とーはんあれから寝たん?」

 「いやー。寝てないけどどしたん?」

 「体もつん?いけるん?」

 「別に1日2日寝てないぐらいいけるわだ」

 「通夜って誰か来るんだろ?」

 「おおー。まぁ親戚は、連絡したわだ」

 「ねーちゃんとかーちゃんも、もーちょっとしたら来るよーに言よったわ」

 「ああ。ほーなん。かーはんわ?寝たん?」

 「寝てないわよー」

 「とーはんスーツきつーないん?」

 「きつーないわだー。ほれ」

父親がベルトの下を僕に見せびらかす。

 「締まってないでーやっぱりほれ。あんたちょっとダイエットしなよ」

僕は笑いながら言葉を返す。

そんな会話を、聞いているのかいないのか。

ばーは寝ている。

少し前まで生きていて。

少し前に死にかけて。

今はもう死んでいる。

はじめて見る死人は、顔色が悪く。

肌の白いばーのほっぺたは、真っ白になっている。

ばーの横には、長い蚊取り線香のような物が置かれていて、煙が上がっている。

 「これなに?」

と、僕が質問すると、

 「線香じょ」

と、父親が当たり前のように切り返した。

 「線香!?」

僕は驚いて聞き返した。

 「おお。なんや今晩は1晩中火が消えんようにするんやって」

 「ほなけんこんだけグルグル巻いとん?」

蚊取り線香のような形をした線香を眺めながら聞き返す。

 「ほーだろーな」

 「なんやひいじいちゃん時もお線香消えんようにしたけど、昔はこんなんでなかったわよ」

 「へえー」

 「これ1つで10時間ぐらいいけるんやって。用意しよる人が言よったわ」

 「なんで一晩中点けとくん?」

 「なんかなぁー。死んだ人が迷子にならんようにとか、ほんなんがあったはずじゃわよ。ひいじいちゃんの時はほない聞いた気がするわ」

 「へえー」

 「写真やどないしたんとーはん?」

祭壇の中央には、大きなばーの写真が飾られている。

 「ほれよお前、ばーの写真やないけん探しまわってよ。ほんでまたこれあれぞ。カラーにするんだったら追加料金がいるやゆーけん、ほなけんもう白黒にしたわだ」

 「えーーーー。なんやばー。会員に入いよったのにまだお金かかるん!?」

 「ほーじょだお前。この部屋やってばーがなんや入っとんは、告別式だけの部屋借りる料金しか入ってないけん、今日部屋借りとんは別料金やって。うまいことできとんなーほんま」

 「えーーーーーーーーー。なんや営業に来とるおばはんは、これに入っとったら大丈夫ですやて言よったのに。ぼったくりやなぁ」

 「この写真の枠やってお前、ばーの入っとんだったらもっとちゃっちい枠だったんぞー。あんまりやけんて枠変えたらまた金じょだ」

 「えーーー。お金あるん家?ほないないのにいけるんほれ?」

 「ないったっているもんしゃーないでーなー」

父親が、チラッと母親の顔を見た。

 「できるだけ使わんよーにしーよ。葬式にや金使う時代でないんやけん」

 「ばーがもともと入っとんが家族葬や言うて、ほない人呼ばんよーなんにしとるけん、昔みたいに何百万もはいらんみたいなけどなぁ。ほなけどお前、次から次に金がいるわだ」

父親が、呆れたように笑いながら話していると、母親の姉と、母親の母親が部屋の隅から顔を覗かせた。


***

僕は、見ちゃいけないと思いとっさにトイレに立ち上がった。

はじめて見る光景に、動揺した。

母親の、母親。

ばあちゃんが、父親に言葉をかけた時だ。

 「晃君お疲れ様。しんどかったなぁ」

と、声をかけたその次の時間の経過からだ。

元々黒い顔を、赤黒くして、父親の目元に。

光。

流れ落ちる物質を確認した。

はじめて見る、父親の涙だった。

母親の涙は、はじめて病室で見た。

父親の涙は、はじめてさっき見た。

見たことのない光景に、戸惑うしかない。

親の涙は、何故だか見たくない。

何故だか複雑な気持ちにさせる。

トイレで立ちながら股間から流していると、何故か目と鼻からも流れそうになる自分に、クッと力を入れて水で顔を洗う。

(はよ死ね。)

毎日思っていたはずなのに、体からは矛盾した物質が出ようとする。

僕の体は、一体どうしてしまったのだろうか。


***

僕は、泣かない。

泣いたことがない。

子供の頃は年中泣いていたが、中学生になってからは、2度しか泣いたことがない。

彼女をフッた時と、彼女にフられた時だけだ。

成長してから泣いたことがあるのわ。

元々感情を表に出すタイプじゃないから、喜怒哀楽をそんなに表現しない。

だからそんな僕が、涙を流すなんて、よっぽどのことだ。

それなのに、死んでほしかった人が死んだはずなのに、何故だか出そうになる矛盾した涙。

落ち着いてから畳の部屋に戻ると、1度しか見たことのない顔の親戚が黒い服を着て畳の部屋にいた。

父親とじーは、今日はこの部屋で寝るらしい。

僕は母親を連れて家まで戻り、次の日の朝に母親を連れて葬儀屋まで車を走らせた。

広くはない部屋に10数人の身内が集まり、お坊さんがお経を読む。

涙を出しながらすすり泣く人が1人発生すると、周りに感染する。

僕は必至に感染しないように黒い数珠を握りしめた。

急いで買った100円均一の数珠は、ちゃっちくて、糸が切れてしまわないかとドキドキした。

棺に横になるばーの枕元に花を置くときには、ほぼ全員が涙を流した。

最後のお別れ。

と、言う独特な空気感は、はじめて味わう空気だった。

とてもじゃないけど、快適な空気だとは感じなかった。

僕はお別れの花をばーの左耳の横に1輪置いて、手を合わせて目を閉じた。

 「プーーーーーーーーー」

また黒い車に乗り込んだばーは、長いクラクションとともに出発した。

ばーを追いかけるようにマイクロバスに乗り込んだ僕達は進み続け、バスに乗って焼き場に到着すると、見慣れない光景がまた広がり。

棺に入った、もう苦しそうな顔をしていないばーに皆で最後のお別れをする。

人が焼かれているのを待つのは、はじめてで。

焼きあがると、さっきまでのばーが、骨になっている。

人の骨を見るのははじめてで、黒い灰に混じって、白い骨がある。

白い骨を皆で箸渡しをして、骨壺に骨を入れる。

僕が慣れない環境に圧倒されている間も、慣れない体験は次々に襲い掛かってきて、慣れない感情が何度も込み上げた。

死んでほしい人が死んだはずなのに、悲しみすら、込み上げた。


***

1月1日。

世間はお正月。

テレビを点けるとお正月番組の特番をしている。

めでたいめでたいと正月の挨拶をしているが、我が家は昨日、告別式を終えたばかりだ。

朝からそんなにめでたい気分にもならない。

土日祝日の関係ない仕事をしている父親と母親は、1月1日だと言うのに、仕事に行っている。

いつもなら2人の喧嘩をする声で目が覚める日常だが、目が覚めても物静かな空気感に、少しだけ心がスッキリする朝。

やるべき行事を無事終えて、僕はばーの部屋に行く。

遺品整理だ。

と、言うよりは、通帳探しだ。

ばーの部屋にはまだ誰も手をつけておらず、ばーが生きていたままの状態になっている。

いくら貯めて死んだのか気になった僕は、こそっと棚を開けたり閉めたりする。

 「おばーはんのもん、片付けよんか」

 「ん?んー」

トイレにでも行くのか、じーが廊下から話しかけてきた。

 「おばーはん、よーけ持っとるか?」

 「何をー?」

僕はテレビの下の引き出しを引っ張りながら振り返る。

 「金じょ。金」

(なんや。考えること一緒かい。)

 「いやー。わからーん」

 「葬式でよーけいたんだろ?」

 「んーなんや80万かほこらって言よったぞとーはん」

 「わしーさっき母屋いとってなー」

 「んー」

 「あんたは子がおるけん死ぬ時、気つけよーやて言うんぞ」

 「どーゆー意味?」

 「わしー子がおるんじょ」

 「あー?とーはんだろー?」

開けた引き出しを閉めながら聞き返す。

 「わしーよそに子がおるんじょ」

 「はぁ!?」

 「わしも昔のことやけんわせとったわだ」

 「はぁ!?」

僕はもう1度聞き返す。

 「母屋のねーさんがなんやー。わしが死んだら晃とはぶんずつになるけん晃君困るでよやて言うんぞ」

 「いやいやどーゆーこと!?どこに子供おるん!?」

 「わしーばーと結婚する前に結婚しとんがおったんじょ」

 「はー!?」

思わず立ち上がる。

 「ほで、腹の中に子がおるあいだにー離婚しとんやけど。ほれがわしの子になるっちゅーてなーねーさんが」

 「どこにおるん!?」

 「ねーさんか?」

 「違うわ子供じょ!」

 「ほんなん、わしー知らんわだー」

 「知らんって、ほんなんとーはん知っとん!?」

 「ほらぁー言うてないけん知らんだろぉ」

 「ほなとーはんには顔も知らん兄弟がおるってこと!?」

 「えーと」

 「はぁ!?ほんなんばーやって知っとったん!?」

 「ほらぁ知らんだろぉ。言うてないんやけん」

(なんやこいつ。)

 「ほな隠し子がおるってこと!?」

(なんちゅータイミングで言よんな。)

 「隠し子でやないわだ。ただよそに子がおるってだけじゃ」

(ばーもとーはんも知らんてどないなっとん。)

 「家族に隠しとる子供がおることを隠し子って言うんだろ!?」

(暴力だけでなしにバツ1子持ちかい。)

 「隠してやないわだ。わっせとっただけじょ」

 「隠しとったんだろ!?ばーと結婚するとき!?」

 「ほらぁ。お前、結婚する前に結婚しとるやバレたらかっこ悪いで」

 「何考えとんな!!隠し子がおるってどーゆーことかわかっとんか!?」

強い口調で声を出す。

 「何を急に、ほんな大きい声で言よんな」

 「ばーやほんなん知らんまま、ほら遺産は半分するけん困るわ!!」

 「ほない大きい声」

 「とーはんやかわいそうでないかだ!!なんなだほれ!!我が親が死んだとおもーたら我が親に子供がおって顔も知らん兄弟がおるやてほんなことがあるか!?」

 「ほない、別にかわいそーでやないでないかだ」

 「人の気持ち考えれんのか!!」

僕が大きな声を出すと、廊下をトイレの方向に向いて足を進める。

 「自分が何しとるかちょっとよー考えろよ!!!!」

僕はじーの背中に向いてさらに大きな声を出す。


***

僕はばーの部屋を出て、急いで自分の部屋に戻りパソコンの前に座った。

ネットを開き遺産の振り分け方を検索すると、やはり兄弟で半分になっている。

(ばーの遺産どころでない。)

(じーの遺産どないかせな。)

僕は1人で焦った。

我が家の土地は、じーの名義だからだ。

(金がないのに家がなくなってまう。)

ネットから情報を収集しながらどんどん焦った。

(土地や半分に分けるったって、土地の上に家が建っとるけん無理やし。)

(ってことは土地の半分の金額を現金で払えってか。)

(ほんなん金ないけん無理やし。)

年中、事故をするじー。

80を超えている年齢。

明日事故を起こして死ぬかもしれないし。

明日車に轢かれて死ぬかもしれない。

(今死なれたら困る。)

僕は遺産相続について、暗くなるまでネットの中を徘徊した。

相続税。

生前贈与。

遺言書。

弁護士。

税理士。

司法書士。

はじめて見る情報を、自分なりに理解して、自分なりに吸収した。

じーに今貯金がいくらあるのかとか、そんなことを聞きに行こうとも思ったが、腹が立ってそんな気分にならなかった僕は、晩御飯を食べたあとに、またパソコンの前に戻った。

今は、父親とじーの話声が真下から聞こえてくる。

何の話をしているのかは、想像がつく。

時折聞こえる大きな声が、何の会話をしているのか、僕にわかるように確実なものとしてくる。

(家と金どないかせな。)

強い気持ちで画面を見つめる。


***

 「トントントントン」

足音でわかる。

何を話しに来たのかもわかる。

父親が、階段を上ってきている。

 「お前、聞いたんだろー!?」

パソコンの画面を見つめる僕の背中に父親の声が突き刺さる。

 「聞いたよ。じーだろ?」

 「こんなっ。ドラマみたいなことあるかー!?」

振り向くと、父親が笑っている。

 「ほんまなー」

僕は複雑な気持ちで返事をする。

 「ドラマでーなーこんなん」

 「ほーやなー。ドラマでよーあるパターンやなー」

 「顔も見たことない兄弟がおるんぞ」

 「ほんまなー。昼ドラみたいなな」

「ほんまじょだ」

笑いながら声を出す父親の顔は、面白いから笑っているようには見えない。

「ところでとーはん」

 「なにー?」

 「この家の土地ってまだじーの名義なんだろ?」

 「ほーちゃん。ほーだろ」

 「今じーに死なれたら困るでよ」

 「なんでー?」

 「ばーが死んで今から遺産相続するだろ?」

 「おー」

 「じーが死んだときもするやん?」

 「おー。ほんでなんなだー」

 「ばーの遺産はじーととーはんが半分するんやけど、じーが死んだら、とーはんとほの兄弟で遺産を半分せなあかんみたいなんよな」

 「えーーーーーー。何ほれーーーーーーー」

頭を掻きながら声を発する父親。

 「んでまぁ通帳になんぼ持っとるかは知らんけど、土地を半分にせーやて言われたってできんでー」

 「この家の敷地をってことか?」

 「そうそう」

 「おー」

 「ほたらこの家の土地の価値の半分の現金をほの兄弟に払わなあかんよーになるみたいなんよな」

 「えーーーーーー。何ほれーーーーーーー。ほんなんじーが死んだときに黙っとったらバレーへんのんでないんー」

 「いやなんかほれが黙っとってもバレるらしいんよ」

 「ほんまかほれ!?なんでなだ」

 「なんやじーが死んだら、死にましたよって通知が行くんやって」

 「ほんまかほれ!?」

 「なんか調べたらほない出て来たんよ」

 「マジかほれー」

呆れたように笑う父親。

 「じーやってもう80超えとんやしいつ死ぬかわからんでー」

 「ほないすぐに死ねへんだろー」

 「ほなけど明日事故にあって死ぬかもしれんで?」

 「ほない、ほんなお前、ほれこそドラマでないか」

 「何があるかわからんやん。この家ほない金ないのに払えったって払えんでよ!?」

 「ほないー。まー。ほらないけど」

 「なんか今日ネットで調べよったんやけど、もしかしたらじーの遺産をほの兄弟にやらんでいいかもしれんのよ」

 「ほんなんネットで調べるったってお前、どないするんなだ」

父親が、不思議そうな顔で僕を見た。

 「いや、わいもまだわからんけど、あの近所の税理士事務所に行ってみよーと思って」

 「えーーーーーー。お前ほれ、難儀なでぇ」

 「ばーの遺産とか手続き色々せなあかんみたいなけん、隠し子についてはわいが動いていい!?」

 「ほらかんまんけんど、お前にほんなんできるか?」

 「これはほんまにどないかせな急ぐでー!」

 「ばーのんが済んでからでいいんと違うんー」

 「何があるかわからんやん!」

 「ほーかー?」

 「まぁとりあえず調べて行ってみるけん。でなかったらわいも困る。土地がなくなるとか、顔も知らん奴に金持っていかれるとか!」

 「・・・・・・」

 「まーやれるだけやってみるわ」

僕は椅子から立ち上がる。


***

朝起きて、ご飯を食べて、時間が経過するのを待っていた。

税理士事務所は、9時かららしい。

ネットに書いていた。

僕は車を走らせ駐車場に車を止めた。

家が事務所になっているのか、見た目は家だが、木村税理士事務所。

と、看板が取り付けられている駐車場。

 「ピーンポーン」

玄関扉の隣のボタンを押すと、チャイムが鳴った。

 「はい」

(女の人なん?)

 「あのーすいません。税金のことでお聞きしたいことがあるんですけども」

 「はい。あのー。ご予約とか、お約束している方でしょうか?」

(ん。予約とかせなあかんの?)

 「あの、してないです」

僕は少し焦りながら答えた。

 「ちょっとお待ちくださいね」

 「はい」

(え。)

(事前に予約とかせなあかんのか?)

(美容院みたいに電話してから来る感じなんか?)

(女の人が税理士なんか?)

(急に来たらあかんかったんかなー。)

 「どーぞー!」

(おっ。)

 「あ、あの」

扉を開けると、スーツのズボンのようなズボンに、ワイシャツを着た男の人が立っている。

 「すいません。ちょっと今起きたんで」

ワイシャツのボタンを留めている。

 「あの、すいません。税金の相談をしたいんですけども」

 「あぁ。はい。まぁとりあえずお入りください」

 「お邪魔しますぅ」

真っ白の玄関に足を踏み入れる。

 「こっちになりますんで、どーぞ」

僕はスリッパを履いて、体格の良い男の人の後ろをついて歩く。

(おお。)

真っ白い部屋に、真っ白い大きな机のある部屋に案内された僕は、周りを見渡す。

(なんや高そうな椅子やな。)

(うおっ、本棚辞書いっぱいやん。)

 「どーぞ、お座りください」

 「あ、はい」

高そうな椅子に座ると、体がゆっくりと下に沈んだ。

 「えーっと、すぐお茶持って来てもらうんでね」

 「あぁ。はい」

 「えーっと。で。何の相談ですかね?」

ワイシャツの袖を腕まくりすると、濃い腕毛が姿を見せた。

(なんやくまさんみたいな人やな。)

 「あ、これってー。どこまで話しても大丈夫なんですか?」

 「え?それはどう言う意味で?」

 「あの、人にあんまり知られたら困ることなんですけども」

 「ああっ、大丈夫ですよ。守秘義務がありますんで」

温厚そうな顔が、優しい笑顔になった。

 「あのー、じーはんに隠し子がおるんですけど、家の土地がじーはん名義なんですよね」

 「え!?ちょっ、ちょっと待ってくださいね」

慌てて紙にメモを取りはじめた。

 「おじーさんに、隠し子?」

 「はい」

 「で、家の土地って言うのは、1軒家かな?普通の?」

 「はい」

 「おじーさんて言うのは現在もご健在なんですか?」

 「あ、生きてます」

僕が返事をするたびに、税理士さんは何かをメモしている。

 「おじーさんに隠し子がいて、家の土地が、おじいさん名義ね。それで?」

 「じーはんが死んだときに隠し子が急に土地くれや言いに来たら困るけん、どないかしたいんですけど」

 「えーっと」

 「コンコン」

 「はい」

(誰やし。)

お盆を持った、女の人が部屋の扉を開けた。

 「日本茶です」

左手の少し向こうに、日本茶が置かれると、もう1つ湯のみを置いて、部屋から出て行った。

 「あ、どーぞ飲んでくださいね」

 「はい」

 「えーと、おじーさんに隠し子がおるって言うのは、確かなことなんですか?」

 「はい。この前に聞いたんです」

 「え、聞いた?」

 「はい」

 「聞いただけですか?」

 「はい」

 「それは確実なんですか?誰かが会われたことがあるとか?」

 「いや、どこに住んどるとかわからんし、じーも1回も会ったことないみたいです」

 「え!?」

驚いたような表情で税理士さんが声を出した。

 「でもおるんはおると思います」

税理士さんが、湯のみを置いた。

 「えーっとねー。とりあえずねー」

 「はい」

僕も湯のみを置く。

 「おじーさんの改製原戸籍って言うのをもらってください」

 「か、かいせい?げんこせき?」

 「改製原戸籍。です」

 「かいせいげんこせき?」

 「そうです」

 「それって、役場でもらえるんですか?」

 「えーっと。同じ町内の方ですか?」

 「そうです」

 「そしたら役場でもらえるんでね」

驚いたような表情はなくなり、真剣な表情をしているように見える。

 「それって僕だけが行ってもらえるんですか?本人が行かなもらえんやつですか?」

 「えーーっとねー。たぶん本人じゃなくても貰えるけどー。本人でなかったら代理人てなって手続きがちょっと面倒になるかもしれません」

 「はぁ」

 「改製原戸籍って言うのにね、もしほんとに子供がいたら、その子供さんの名前が書いてあるはずなんです」

 「名前ですか!?」

 「そうそう。見たことのない人の名前がもし改製原戸籍にあったら確実におるって言う証拠みたいなものになるんです」

 「なるほど」

 「まぁ隠し子がほんとにいるかどーか、確認することが大切ですね」

温厚そうな顔で、温厚に喋る税理士さん。

 「なるほどー」

僕は納得して返事をする。

 「それから土地がおじーさんの名前って言うことで、それをー。誰の名前に変えたいのかな?」

 「父親の名前で大丈夫なんですか?」

 「大丈夫ですけど、お父さんにもおるんですかね?」

 「何がですか?」

 「隠し子です」

 「ああ、それはいません」

思わず笑いながら声が出た。

 「そしたらおじーさんの名前からお父さんの名前にー」

 「父親の名前に変えたら、父親が死んだときに隠し子が出てきてや言うことにはなりませんか?」

 「あっ、それは大丈夫なんでね。ご兄弟わ?」

 「僕にですか?」

 「はい」

 「兄がいます」

 「お父さんの名前に変えられたら、法定相続人は、お兄さんとえーっと、すいません、お名前わー?」

 「裕也です」

 「ゆうやさんになります」

 「なるほど」

少しぬるくなった日本茶を、クイッと飲む。

 「とりあえずほな、改製原戸籍で確認してもらえますか?」

 「わかりました。あの、今日って料金とかわー?」

警戒しながら質問する。

 「今日はご相談なんでね、無料でかまいません」

(よかったー。)

 「それとねー」

机の下の引き出しを開けて、何かを探している。

 「あの、遅くなったんですけども」

名刺をスッと差し出した。

 「木村と言います。私」

 「あ、どーも。あの、僕名刺とか持ってないんですけども」

 「えーっと。お名前よろしいですか?」

 「美空です。美空裕也です」

 「えーっと、漢字わ?」

A4サイズの紙をスッと差し出された。

 「すいません。こちらにお名前書いてもらっていいですか?」

 「はい」

 「えーっとね。それとこれ、司法書士さんの名刺になるんやけどねー」

 「え!?」

ボールペンを滑らせながら聞き返す。

 「これ、司法書士さんの事務所の名刺なんやけどね」

 「はいー」

僕は名刺を眺める。

 「土地とか、不動産のことやったらたぶんこっちで相談したほうが良いと思うんでねー。隠し子がもし本当におったらこっちに電話してもらっても良いですか?」

 「え、あの、ここではできんことなんですか?」

 「いやいや、そんなことはないんですけどね、土地とか建物の専門家は一応司法書士さんの専門になるんでね。これ僕の知り合いの事務所なんでね」

 「はい」

僕は名前を書き終わった紙をスッと差し出す。

 「あぁ。どうも。そしたら一応僕から連絡しとくんでね。もし隠し子がいたらこっちに電話してみてください」

 「あの、生前贈与したら税金って高いんですよね!?」

 「え?あのー一般的にはそうですけど」

 「その場合の税金対策はここでしてもらえるんですか?」

 「家の土地って、けっこーな広さですか?」

 「いえ、あのー。普通の一軒家のサイズです」

 「普通によくある分譲地くらいの?」

 「はい」

 「それやったらたぶんこっちの司法書士さんの事務所で全部済ませれると思うんでね」

 「え!?そうなんですか!?」

 「はい。また何か聞きたいことあったら今度はすいませんけど、電話だけ先にもらってもいいですか?」

温厚そうな顔が、ニコッと笑った。

 「あああ。すいません今日わ。いきなり」

 「いやいや、たまたま休みでね。寝とったんですよ。すいませんこちらこそ」

 「それじゃとりあえず役場に行ってみます」

 「はい、また何かお金のことでなんかあったらまたこの事務所にも電話してください」

 「あ、わかりました」

 「そしたら今日はこれで、大丈夫ですか?」

 「あ、大丈夫です。お世話になりました」

 「最初来た時、僕、何かお店かなんか開かれるんかと思いましたよ」

税理士さんが笑って喋る。

 「え?」

僕は意味がわからず聞き返す。

 「まだお若いんでね、美容院かなんか開かれて、その税金のお話しがしたいのかと思ってね」

 「いやいや、そんな」

 「それがけっこうディープな話だったんで僕も目が覚めましたよ」

 「僕もはじめじーはんに聞いたときびっくりしましたよ」

高そうな椅子からお尻を上げると、自分の体の重みを感じる。

 「大変そうですけど、とりあえず調べてみてくださいね」

税理士さんも立ち上がり、部屋の扉を開けた。

 「わかりました」

僕は後ろをついて歩く。

 「司法書士さんには、電話である程度内容は伝えておいたほうが良いですか?」

 「あ、はい」

 「ほなおじーさんに隠し子がおるかもしれんって言うことと、土地の名義変更したいって伝えときますね」

 「あ、ありがとうございます」

僕は真っ白い玄関で靴を履く。

 「そしたら、どーも」

 「お世話になりました」

僕は玄関の扉をゆっくり開き、ゆっくりと閉める。


***

僕は家に戻ってすぐじーの部屋の扉を開けた。

 「じー」

 「おおおー」

椅子に座ったじーが、ゆっくり振り向く。

 「じーちょっと役場行こう!」

 「なんでぞぉ!?」

 「ばーの手続きするんにじーの戸籍がいるけんちょっとついて来て」

 「お、おお、ちょっと待てーよ用意するけん」

(よっしゃ。)

隠し子の存在を確認するために、改製原戸籍が必要だと、わざわざ説明することが面倒だった僕は嘘をついた。

その嘘にまんまとはまったじーは、役場に行って紙に名前を書き、印鑑を押した。

(よっしゃ!)

受け取った紙をなくさないようにしっかりと握り車まで戻り、僕は家に向かって車を走らせる。

 「ほんなん、何に使うんぞぉ?」

後部座席から疑問が飛んできたが、

 「遺産のあれするんにいるかもしれんけん」

と、嘘をつきながらアクセルを踏んだ。


***

部屋に戻り小さな文字で細かく書かれた改製原戸籍と僕は見つめ合う。

(んー。)

(あー。)

(これやな。)

斉藤初江。

妻。

の、欄に、見たことのない人の名前が書かれている。

(これか。)

文子。

長女。

と、書かれているスペースの横に、女の名前が書かれている。

(ってことはとーはんには姉ちゃんがおるってことか。)

父。美空半蔵。

母。斉藤初江。

長女。文子。

僕はもう1度しっかりと確認をし、確信する。

(ほんまに隠し子おるやんけ。)

体にキュッと、力が入る。

僕は慌ててカバンから財布を取り出し、税理士事務所で貰った司法書士さんの名刺を取り出す。

携帯電話を握りしめ、電話番号を押すと、発信音がはじまる。

 「はい。篠原司法書士事務所です」

 「あの、すいません。美空と言うものですけども」

 「あー。あの、すいませんけどフルネームよろしいですか?」

 「あ、美空裕也です」

 「あ、はいはい。木村さんからお話し聞いてますんで」

 「あっ、そうですか」

 「どうでしたか?」

 「あの、司法書士さんも守秘義務がある人ですか?」

 「はい、大丈夫ですよ。お話しして頂いて」

 「あの、改製原戸籍や言うのを取りに行ったんですよ」

 「はい。それで、どうでしたか?」

 「いました!なんか父親の上に長女がおるみたいなんです!」

 「あ~。わっかりました」

 「あの、これからどうしたらいいでしょうか?」

 「ちょっとー。今日わね。僕予定パンパンなんですわー。明日とかって時間大丈夫ですか?」

 「はい、何時でも」

 「あのーそしたらね、土地の権利書。お持ち頂いてもいいですか?」

 「土地の権利書ですか?」

 「はい。ご自宅にあると思うんでね」

 「そうなんですか」

(権利書ってなんや。)

 「とりあえずほな明日会ってみてね、どうしたいか聞いてから決めましょう」

 「あ、あのー時間わ?」

 「15時でどうでしょうか?」

 「あ、大丈夫です」

 「ほな明日15時に、事務所でお待ちしてますんでよろしくお願いします」

 「あ、はいー。はい、失礼しますー」


***

土地の権利書は、母親が持っていた。

 「あんた何するん?こんなん持って」

と、聞かれたが、事情を説明すると母親は理解した。

念のため、改製原戸籍をファイルに入れて僕は車に乗り込んだ。

駐車場に車を止めて引くタイプの扉を開けると、ヤクザのようなシュッとした怖そうな人が、こっちを見ている。

(なんや。)

僕は緊張しながら声を出す。

 「あの、15時に約束した美空ですー」

 「あ、はいはい。どーぞこっちにお座りください」

(この人が司法書士なんか?)

パリッとした白のワイシャツにスーツのズボン。

黒髪をビシッとオールバックに決めている。

 「どーぞ。座ってくださいね」

見た目に反して物腰が柔らかい。

 「あ、はい」

僕は椅子に座る。

 「えーっと、確認しますね。まず」

 「はい」

 「おじーさん名義の土地を、お父さん名義に変えたいんですね?」

 「はい、あの、それとー」

 「はい?」

 「じーの遺産?貯金とかを死んだときに隠し子にいかんよーにしたいんです」

 「ふんふん。なるほどねー」

 「あのーおじーさんって今いくらぐらいお持ちか、わかりますか?」

 「いや、わからないです」

 「なるほど」

 「あの、これが改製原戸籍なんですけど」

僕はカバンからファイルを取り出し紙を広げる。

 「えーっと。この斉藤初江って言う人がー」

 「ほれが最初に結婚した人みたいで、文子って言うんが隠し子です」

 「はいはい。それでこの良子さんが裕也さんのおばあちゃんになるのかな?」

 「はい。そうなんですけど、最近死にました」

 「え!?いつお亡くなりに!?」

 「去年の12月30日です」

 「なるほどー。それでこの晃さんと真由美さんが、裕也さんのご両親で、裕樹さんが、裕也さんのお兄さんになるんやね」

 「そうです」

 「ほんでー。半蔵さん名義の土地を、晃さん名義に変えたいと」

 「そうです」

 「わっかりました。土地の権利書見せてもろていいですか?」

 「はい」

僕がノートのような形をした土地の権利書を差し出すと、パリッとした司法書士の人は、何やら食い入るように権利書を見はじめた。


***

 「あの、贈与税が1番税金が高いんですよね?」

ノートのような物を閉じた司法書士さんに質問する。

 「そうですね。生前贈与が税金わね」

 「ほな土地はやっぱり名義変えたら税金けっこうとられるんですか?」

 「いや、いま見たんですけどこれぐらいやったら相続時精算課税制度使ったら税金かからんと思いますよ」

(なんやほれ。)

 「そうぞくじせい?」

聞き取れなかった僕は聞き返す。

 「相続時精算課税制度です」

 「そうぞくじせいさんかぜいせいど?」

 「2500万円までは税金かからんような制度があるんでねー。来年申告行ってもろたら大丈夫ですよ」

 「え!?そうなんですか!?」

 「うん。土地はこれ。名義変えれますね。ただ」

 「なんかあるんですか?」

 「ご本人様に来てもらってね。実印押してもらわんと裕也さん1人だけではちょっとねー」

 「本人って、じーと父親両方ですか?」

 「そうですね」

 「ほたらまたどこかにはんこ押しに行ったり書きに行ったりせなあかんのですか?」

 「いや、それはね、ここの事務所でやってもろたら出しに行くのは僕が出しに行くんでね」

 「あ、そうなんですか」

 「あとそれと、遺産ですね?」

 「あ、はい」

 「遺産となると、法定相続人が晃さんと文子さんになるんやねー。えーっとそれをー」

 「全部父親に行くようにしてもらいたいんです」

 「ちょっとねー。全部わ。遺留分減殺請求権とかあるんで無理かもしれませんが」

 「え?いりゅうぶん?」

もう1度聞き返す。

 「遺留分減殺請求権って言うのがあるんですわ。法律で決められたこの人には最低何%は、遺産渡さないとダメですよって言う」

 「え!?ほなお金取られるんですか!?」

 「いや、まーねー。そこを何とかしようとは思うんですけど。公証役場ってご存知ですか?」

 「え、えーっと。ほれネットでは見たんですけど、普通の役場と何が違う場所なんですか?」

 「公証役場って言うところがあってねー。そこでおじーさんに、公正証書遺言って言うのを書いてもらうと、遺言書としては1番効力が強いんです」

 「あーーーー。なんかネットで見ました!公正証書遺言って言うのはそこで書くもんなんですか!」

 「はい。でもそれもねー。裕也さんでわ……」

 「え!?」

僕は驚き聞き返す。

 「それもおじーさんとお父さんに行ってもらわないとねー。できないんですわー」

 「え。そうなんですか」

 「いったんね、家に帰ってお父さんとおじいさんと話して、また連絡もらえますか?」

 「はい」

 「ほんで、土地のほうは2人が揃ったらいつでもここでできるんでね。またお2人にもここに来てもらうように言ってもらえますか?」

 「はい」

 「そしたらその時にまた公正証書遺言のお話もしますんでね」

 「あー。はい」

 「ほしたら一応、権利書と 改製原戸籍返しときますね今日わ」

 「あ、わかりました」

僕はカバンからファイルを取り出す。

 「今度来るときは 改製原戸籍はもう必要ないんでね」

 「はい」

 「若いのに、ずいぶんとしっかりされてますね」

 「いやいやほんなことないですよ」

僕は笑いながら言葉を返した。

 「失礼ですけど今お仕事って何されてらっしゃるんですか?」

 「いやっ、今は何もしてないんです」

後ろめたさを感じながら、苦笑いで言葉を返す。

 「あっ、そーなんですか。なんかきっちりしとるから、こんな仕事向いとるかもしれませんね」

ヤクザのようなパリッとした顔が、今日1番の笑顔を見せた。

 「いやいや、僕頭悪いんで無理ですよ」

僕は照れを隠しながら冷静に答える。

 「そしたらまた電話もらっても良いですか?」

 「そうですね、帰って父親に話して、来れそうな日が決まったら電話します」

 「ほしたらまた、連絡お待ちしてますんで」

 「あ、はい、お世話になりました」

僕はカバンを持って立ち上がる。


***

家に帰ってすぐにじーの部屋の扉を開けた。

 「じー」

 「おおう?」

椅子から振り向いた。

 「あの隠し子のなー」

 「何?なにしご?」

 「隠し子のな」

 「何?なにしごって?」

お菓子をポリポリと噛みながら何度も聞き返す。

 「隠し子!」

僕は、大きくゆっくりと言葉を出す。

 「あれわー隠し子ちゃうって言よるだろお」

(こいつほんま。)

 「家の土地じーの名義でー」

 「家って、この家のか?」

 「そうそうこの家の土地の名義よ」

 「おお、まだ晃に変えてないけんわしのまんまじょ」

 「ほの名義をとーはんの名義に変えたいんよ」

 「なんでな?」

(あーめんどくさ。)

 「よそに子供がおるだろ?ほの子供にここの土地取られんために変えたいんよ」

 「ほんなん、取りにや来るかだ」

 「いやいや、ほれがじーが死んだときにここの土地の半分をくれって言いに来るんよたぶん」

 「なんでほんなんここにや来るぞ?ふぉっふぉっふぉっ」

食べかけのお菓子を机の上に置きながら笑うじー。

(ほんま腹立つ。)

 「じーが死んだらじーの遺産は、とーはんとよそにおる子供で半分することになるんよ」

 「なーんじゃぁほんなんわしが死んだって黙っとったらわかれへんわだ」

 「いや、ほれがもう嘘やつけん時代やけんな今」

 「なーんじゃー黙って晃の名前に変えたら良いんでないかだ。なんでバレるかだ」

また笑うじー。

 「いやいやほなけん、死ぬ前にちゃんとしとかなじーが死んだときにわいやとーはんが困るけんな」

 「なんで困るんなだ。わしやほない金持っとれへんわだ。ほのまま晃がもろたらほんで済むわだ」

 「ほなけん、じーが死んだらよそに腹違いの子がおるけんほんな簡単にはいかんの」

 「いけるわだぁ。ほんなん黙っとったらぁ」

面倒くさそうに返事する。

 「ほなけんいけんて言よるだろ。とりあえず土地の名義を変えたいんじょ」

 「ほんなん変えるや言うたってどないして変えるんなだ」

 「なんか司法書士に頼んだらいけるみたい」

 「ほんなんお前、ほんなとこに頼んだら金がよーけいるんちゃうんかだ」

 「なんぼいるかわからんけどじーが死んだときに何百万も払えって言われるよりマシじゃわだ」

 「ほんなん、誰が何百万も払えや言うぞ?」

 「ほなけん!よそに子がおったらほーなるんよ!さっき司法書士の事務所行って聞いて来たん!」

腹立ちまぎれに少し大きな声が出る。

 「ほんなんお前、事務所行てきたら金いったんか?」

 「今日は金いってない。とりあえずじーの土地の名義とーはんに変えるけん」

 「ほんなん勝手にするったって、晃はかんまんて言よんかだ」

 「とーはんにはまた帰って来たら説明する」

 「ほない、ここの土地や価値ないぞ」

 「あるんじゃって!!」

 「ほーかぁ?こんな田舎の」

 「とりあえず土地の名義変えてよ!」

 「晃がかんまんて言うんだったらわしはかんまんわだ。ほなけどお前、税金やかかれへんのかだ?」

 「多少かかってもあとから隠し子と揉めるよりマシ」

 「ほなけんあれは隠し子でなしに」

 「よそに子供がおったら遺産で揉めるんやけんな」

 「なーんじゃーほんなん揉めへんわだぁ」

 「じーはほんときもー死んでおらんだろ!あとから裁判になったりするかもしれんのやけん」

 「裁判にやなるかだぁ。ほない金持ちでもないのに」

 「金がないけん裁判になるんじゃわよ」

 「なるかだぁ」

 「とりあえず土地の名義変えるけん。ほんでじー。今貯金なんぼ持っとんな?」

 「わしかぁ?」

 「うん」

 「ほないないぞわし!使うけん」

 「なんぼあるかわかるん今?」

 「カラオケやー行たらーコーヒーのチケットや買うしなぁ」

喋りながら立ち上がり、タンスを開けた。

 「じーのほの通帳に入っとる金もよそにおる子と、とーはんが半分するよーになるんでよ」

 「ほんなん黙って晃が全部引き出したらいいんでないかだ」

通帳を開きながら立って喋るじー。

 「いまあーこれー。なんぼって書いとんぞ。これ」

通帳を開いたページを僕に向ける。

 「2056310円じょ」

 「ほーじょ。これが全部じょ」

通帳の数字の部分を指さしながら喋る。

 「ほなこれを100万ずつとーはんとよその子が分けるようになるんよ」

 「黙って全部下ろしたらほんなんわかるかだぁ」

呆れたように開き直るじー。

 「バレるんやって腹違いの子やおったら揉めるんやけん」

 「ほんなんなんで200万ばーの金で揉めるかだ」

 「ただで味噌汁くばいよったら並んででも飲むだろ!?」

 「おお」

数秒たったあとに、返事が飛んだ。

 「ただで100万くれるや言うたら、ほら来るだろ!?」

 「おおぉ」

 「ワイは顔も見たことないよーな奴に金持って行かれるんが嫌なん!」

 「いけるわだほんなん」

 「いけんのん!!昔の時代と今は違うんやけん!!」

 「いけるわだー。考えすぎじょお前わ」

 「とにかくじーのもんは1円も隠し子に行かんよーにするけんな!」

 「ほんなんせいでいけるわだぁ」

また面倒くさそうに言葉を発した。

 「とりあえずするけんな!よそに子や作っとんが悪いんぞ」

僕は攻めるように言葉を飛ばす。

 「ほんなん、わせとったもんはしゃーないでないかだ。母屋のねーさんが気つけとけよや言よったんは、こーゆーことを言よんか?」

 「たぶんほーちゃん」

 「こんなん。嘘ついて黙っとったらどないっちゃなれへんのに」

 「どないかなるん!今のご時世!みんな金持ってないんやけん!」

 「まぁ。晃に聞いてみーだ」

 「うん」


***

僕は立った腹を寝かしつけるように布団に横になり昼寝をした。

目が覚めると外は暗くなっていて、起きてしばらくしてからご飯を食べてタイミングを見計らった。

面倒な話をするときは、タイミングが大切だからだ。

お風呂上り。

まだ髪の毛が半乾きの父親に僕は話しかける。

 「なーなー」

 「お?」

 「今日司法書士のとこ行ってきてなー」

 「え?お前なんや税理士事務所行くや言よれへんかったか?」

驚いたように聞き返す父親。

 「あ、そうそう、税理士事務所行ってから司法書士の事務所も行ってきたんよ」

 「おー。ほんで?」

 「今度じーと、とーはんで3人で来てって」

 「えーーーーーー。ほれ面倒くさいでー」

 「土地の名義や変えるんに本人がおらなできんらしいんよ」

 「えーーーーーー」

面倒くさそうに返事をする父親。

 「ほんで名義変更は書類出したりするんは司法書士がやってくれるけんとーはんやは事務所で手続きするだけで良いんやって」

 「ほんなんお前プロに頼んだら金よーけいるんちゃうんか?」

 「いやー。まだ聞いてないけど隠し子がおるけんこれはなんぼかかっても名義は変えとかな」

 「えーーーーーー。面倒くさいなぁ。ほんなん黙っとったらバレへんのちゃうん。じーが死んだときに言わんかったらいけるだろー?」

 「いやほなけどもしもなんかあったときに困るやん」

 「ほーかー?」

僕の横を通り過ぎ、洗濯機にタオルを放り投げた。

 「贈与税はなんやいらんらしいんよ。生前贈与でも相続時精算課税制度や言うん使ったら贈与税は取られんらしい」

 「なんなほのそうぞくじせいさんかぜいせいどって」

コップにお茶を入れながら聞き返した。

 「いやー、わいもよーわからんけどこれを使ったら税金取られんのやって」

 「ふーん」

 「ほんでじーの貯金よ。ほれもどないかしよーと思ってな」

 「じーやほないよーけ持ってないだろー?年中事故してこないだも車買い替えとったでな」

(あー。)

(ほなけんあんだけしか持ってなかったんか。)

 「そーよ。今日通帳見せてもろたら200万くらいしか持ってなかったわ」

 「ほの金はもーどないもせんで良いんと違うん?」

入れたばかりの冷たいウーロン茶を、グイッと喉に流し込んでいる。

 「え?」

 「ほんなんじーが死んだらスッと全部下ろしてしもたら良いんと違うん?」

父親が笑いながら喋る。

 「いやいやいや。もしなんかあったら困るけんじーに遺言書を書かせようと思って」

 「遺言書?」

 「うん」

 「ほんなんどこで書くんな?」

 「なんやよーわからんけど公証役場とか言うとこがあるんやって。ほこで書くんが1番良いらしい」

 「こうしょうやくばぁ?」

 「またネットでどこにあるか調べとくわ」

 「ほれも3人で行かなあかんのか?」

 「いや、ほれはわい行かんでいいんちゃうかな。わからん」

 「えーーーーーー。ほれまたとーはんは行かなあかんってことでーーーーーーー」

父親が不満そうに言葉を発した。

 「あんたの親なんやけんほらしゃーないんちゃん」

僕は少し笑いながら言葉を返す。

 「ほんま。よそに子供作っといてどないなっとんなこの家わ」

呆れながら笑う父親。

 「知らんがな。あんたの親の話だろーよ」

僕は客観的な意見を飛ばす。

 「もーーーーー」

 「ほんでばーのほうわ?手続きなんかしたん?」

 「いやー。今日や仕事行っとるけんなんもしてないわだ」

 「あっ。ほうじゃ」

 「なんなだー」

 「とりあえず司法書士のところいつ行ける?」

 「えーー。とーはん今度の休みいつって書いとるぞ?ちょっとカレンダー見てくれ」

タンスの横に吊るしたカレンダーを指さす父親。

僕はカレンダーを見て、赤い○の印が付けられた場所を探す。

 「水曜やな」

 「水曜かー。ほなほの日やなぁ」

 「司法書士に行ける日わかったら電話するって言うとるけんまた電話して水曜行けるか聞いてみるわ」

 「おお。んもーーーーー。面倒くさいなーーーー。もー。ばーのこともせないかんのにほんまにー」

 「でもじーのんも急ぐけんちょっと頑張ってな」

 「おー」


***

次の日の朝。

僕は司法書士に電話をして水曜日に会う約束をした。

それからネットを見たり、昼寝をしたり、いつも通りの1日を過ごした。

 「お2人の実印だけ忘れないように」

そう言われた僕は、父親とじーに、実印を用意するようにだけ伝えた。

他にも。

印鑑証明。

住民票。

戸籍謄本。

固定資産評価証明書。

を、忘れずに持ってくるように釘をさされた僕は、メモ帳に必要な物をまとめて、父親には司法書士事務所に行く前に役場に寄って必要な書類を集めなければいけないことを僕は、伝えた。

必要な書類の名前と、役場に寄らなければ行けないことを父親に伝えたときには、父親はまた面倒くさそうな返事を僕に返してきた。

固定資産評価証明書については、母親が持っていた。

何故こんな物が必要なのかと聞かれたが、土地の名義変更に必要だと伝えるとすぐに僕に手渡してくれた。

パソコンの画面を見つめながら、検索欄に相続時精算課税制度と入力し検索すると、それらしいページがたくさん出てきて、難しそうな文章を僕は面倒くささを感じながら読み進んだ。

遺産相続。

生前贈与。

隠し子。

法定相続人。

公証役場。

公正証書遺言。

検索すればするほど知識の奥の方には行けるが、脳みそがパンクしそうになる。

(あんな仕事しよる人はすごいんだろうなぁ。)

僕は画面の前で何度も思った。


***

引くタイプの扉を開くと、今日もパリッとしたワイシャツを着て髪の毛をビシッとオールバックに決めた司法書士さんが入口に立つ僕を見た。

 「ああ、どうも」

と、言う軽い返事のあとに、

 「こんにちは」

と、父親の声がし、

 「お世話になります」

と、じーの声が重なった。

 「どうぞ、お座りください」

 「あ、これは誰がどこでも?」

僕は誰がどこに座っても良いのか確認する。

 「あ、どこでも良いですよ」

長方形の四角い机に、自分の目の前の椅子に腰かける僕達家族。

 「どうも、はじめまして」

司法書士さんは父親とじーに名刺を1枚ずつ差し出した。

 「ああ。どうも」

低姿勢に名刺を受け取る父親。

 「あぁ」

じーも続いて受け取り、名刺を見ている。

 「えーと、裕也さんからお話し聞いてます。えー。僕の正面の方が晃さんやね?」

僕の父親を見て、司法書士さんが確認する。

 「はい、そうです」

父親は、少し堅そうに返事をした。

 「ほんでその隣の方が半蔵さんで間違いないですか?」

 「えぇ」

家の中では偉そうなじーも、外面モードの返事をした。

 「はい、それで今日はね、とりあえず土地のほうから、よろしいですか?」

 「せんせ、すんません」

 「はい?」

 「よそに子がおったらほない困るんで?」

スムーズに話を進めようとする司法書士さんの声に横やりが入る。

 「え、まぁ。そうですね。色々と。晃さんや裕也さんがあとから困ることには、まぁ、だいたいは、なると思います」

 「わしーわせとってなー」

 「何をですか?」

 「子がおることをーよ」

 「じー。もう世間話せんでいいわ。この人やって忙しいんやけんな」

僕はじーの口を止めに横やりを入れる。

 「おお」

外面モードの控えめな態度のじー。

 「ほなとりあえず土地の名義を変えるって言うことでね、こちらとこちらにお名前と印鑑お願いできますか?お2人とも今日は実印お持ちですよね?」

 「あ、はい」

 「えぇ」

2人が同じような動作をしてカバンから実印を取り出す姿を、僕は横から眺める。


***

 「これ、言われとった書類です」

僕はファイルを司法書士さんに手渡す。

会う約束をしたときに、電話で必要な書類があることを聞いていた僕は、司法書士事務所に来る前に役場で3人で必要な書類を集めてきた。

印鑑証明。

住民票。

戸籍謄本。

固定資産評価証明書。

土地の権利書をまとめたファイルを司法書士さんに渡すと、父親達が名前を書いている間に司法書士さんが書類を確認しはじめた。

 「はい、これで書類は大丈夫ですね」

確認を終えた司法書士さんが、笑顔で僕を見る。

 「せんせこれ」

 「はい?」

 「わしー印鑑押すん苦手でなぁ」

 「あぁ、それなら僕が押しましょうか?」

 「ええ。お願いします」

 「そしたら晃さんのぶんもまとめて僕が押しましょうか?」

「あ、はい、ほなお願いします」

「ほなちょっと、実印お借りしてもよろしいですか?」

「お願いします」

外面モードのじーが、優しい偽りの声で実印の入ったケースを司法書士さんに差し出した。

 「お願いします」

父親は、まだ少し緊張しているのか、堅苦しそうな声で実印を司法書士さんに差し出した。

 「ほなちょっと、お借りしますねー」

司法書士さんは、受け取った実印が、どっちが誰の物かわからなくならないように、体の左右に実印のケースを配置した。

 「そしたら、この書類は手続きに必要なんでね。手続き終わるまでお借りしますね」

書類をパンパン、と、まとめて僕を見る。

 「はい」

僕は返事をする。

 「だいたい1週間くらいでは、できると思うんでね」

言葉を発しながら実印のケースを開けて、書類にバンッ。と、力強くハンをついていく司法書士さん。

 「そしたらね、土地の方はもうこれでやっときますんでね」

(なんやえらいすぐ終わるんやなぁ。)

何もすることのない僕は、横から観察だけをする。


***

「遺産は、全ての財産を晃さんにと言うことでよろしいんですかね?」

司法書士さんが、じーに話しかけた。

 「えぇ。かまいましぇん」

 「晃さんもそれで構いませんか?」

じーの顔を見たあとに、父親の顔を確認した。

 「はい」

父親は、返事をする。

 「そしたら、公正証書遺言のほうもね、詳しい割合とか決めへんのやったら簡単にできるんでね」

 「せんせ、ほれは、普通の遺言とは何が違うんで?」

 「普通の遺言書は、書いた人がお亡くなりになられたときに裁判所で開けるようになるんです。公正証書遺言だったら、裁判所で法定相続人が集まって開かなくても良いんですよ」

 「えぇ!?裁判所!?」

驚いたのか、じーが少し大きな声を出した。

 「そうです」

 「裁判なるんで!?」

大きな声で聞き返すじー。

 「いや、それはあとでどれくらいトラブルになるかで……」

 「裁判にやなったら困る」

(困るったって自分がしたことやないか。)

 「ほんなん言うたって子がおるけんしゃーないでないかだ」

(ほんまじょ。)

父親が横やりを入れると、じーがおとなしくなる。

 「そしたら、必要な書類は全部集まってるんでね。あと、証人が2人必要なんです」

 「証人?」

僕は質問する。

 「えぇ。公正証書遺言を作成するには証人が2人必要になるんです」

 「それって僕と父親がなっても良いんですか?」

 「いや、家族の人はなれないんですわー」

 「えー!ほな誰を?」

 「もし誰もいないんやったら、僕がなれますけどね」

 「ほれってね。証人になってもらう人を例えば連れて来て、あとでほの証人と揉めたりとかはないんですか?」

父親が質問した。

 「揉めるや言うことはほぼないと思いますけどねー。けっこう。知り合いの方連れて来たりする方もいらっしゃいますけど」

 「借金の保証人みたいなそんな迷惑かけるような奴とはまた別ですか?」

 「ああ。全然そんなんではないです」

ビシッとした顔がハニカム。

 「もし何年後とかに裁判とかになったら、証人に来てもらわなあかんや言うことにはなれへんのですか?」

 「あー。と。完全にないと言うことは、言えませんね……」

ハニカんだ顔が、真顔に戻った。

 「ほなもう司法書士の先生に証人になってもろたらどーなん?」

父親が、僕を見る。

 「うん。ほれで良いんちゃん。でもあと1人どないするよ?」

 「えーーーー」

頭を掻く父親。

 「もしよろしかったら、僕の知り合いに行政書士がおるんで、その人を証人にされますか?」

 「ほしたらもしなんかあったときに先生とかが来てくれるってことですか?」

 「はい。まぁ、証人なんで」

 「ほれが安全やなぁー?」

 「うん」

僕は父親の意見に賛同して返事をする。

 「ほな、証人は僕と行政書士でよろしいですか?」

 「うん。ほれでお願いします」

 「そしたら書類はありますんでね。場所、わかります?」

 「なんとなーくやけど」

 「ほな地図。一応渡しておきます」

立ち上がって引き出しを開ける司法書士さん。

 「これ、どうぞ。1枚でいけますか?」

 「はい」

 「そしたら通帳の銀行名義とか、口座番号だけ控えるんでちょっとお待ちくださいね」

そう言うと、司法書士さんは僕が渡したじーの通帳を持って奥の部屋に移動した。


***

はじめに渡した書類の中から、通帳だけを返してもらって僕はカバンにつまえた。

実印を大切そうにつまえた2人を車に乗せて僕はアクセルを踏む。

土地の名義変更。

公正証書遺言。

に、ついては、またしばらくすると僕か父親の携帯電話に電話があるらしい。

お金については、全ての問題が解決してから支払えば良いとのことで、僕達は1円の金も払わずに司法書士事務所から出てきた。

帰りの車内。

後部座席に座ったじーが、ボソッと言った。

 「過去があったら、消しぇんもんなんやなぁ」

その言葉に言葉を返す人はおらず。

(当たり前だろボケ。)

と、思いながら僕は運転を続けた。


***

あれからしばらくして、仕事中の父親の携帯電話に司法書士さんから電話があったらしい。

父親は僕に、

 「仕事の帰りに事務所寄ってくるわ」

と、電話で伝え、真新しくなった土地の権利書を持って家に帰ってきた。

そこにはたしかに美空晃と権利者の欄に名前が書かれており、事が無事に済んだことに僕はホッとした。

それから、公証役場には、僕は行かなかった。

と、言うよりは、行っても意味がないと司法書士さんに言われたからだ。

父親が仕事の帰りに聞いた説明では、公証役場と言う場所には、公正証書遺言を作る本人しか立ち入ることができないらしい。とのこと。

だから僕は、父親とじーが朝早くに家を出るときにまだ布団の中にいた。

土地の権利書のような冊子のような、できあがった公正証書遺言を見たときには、珍しい物を見る子供のような目をしていただろう。

長いこと。

布団を中心に生活していたが。

ばーの入院から、慌ただしく毎日が動いた。

僕はとにかく必死に動いた。

【僕がニートを卒業しようと決めた日】

それは。

12月30日に祖母が死んだから。

と、言う。それだけの理由だけではなく、色々な出来事がきっかけで、色々な出来事に少しづつお尻を叩かれて布団から起き上がった。

もちろん。

人の死。

は、大きなケツバットにはなったが、それだけじゃない。

死にかけのばーに。

 「しーごと。はぁ。おまんは、体はどんなん?」

と、言われたことも、大きく心を揺さぶられたし。

隠し子がいることがわかって。

 「バレるかだ」

と、呑気に構えるじーにまかせていたら、この家が大変なことになる。

と、思ったことが大きな起爆剤にもなった。

1人布団の中で眠る夜。

幼馴染に昔言われた言葉をふと、布団の中で思い出した夜もある。

 「人間、自分のケツを自分で叩きながら動かなあかんときがくるもんよ」

笑いながら、酒を飲みながら言われた言葉。

(今か。)

僕がニートを卒業しようと決めた日。

この小説はここで終わるが、僕の人生は、ここからはじまる物語になるだろう。

どのような人生が待っているのかは。

誰にもわからない物語になるはずだ。

人には人それぞれのペースがある。

いつか。

自分の人生は、これで良かったんだ。

と、思える日が来ることを願いたい。



終わり。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 自薦いただきましたので小説作法云々は置いておいて、実話とのことで興味深く読ませていただきました。 まずはおばあさまのご冥福をお祈りいたします。 「僕がニートを卒業しようと決め」て良かっ…
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