02
「生身じゃない? 魔法で見えなくなってるんじゃなくて?」
レンリーは振り返ってスーイに問いかける。思いがけない言葉にスーイは「ああなるほど。そっちを考えたわけね」と呟いた。
〈どういうこと?〉
「つまり、レンリーはアリーが誰かの魔法によって『感知されない』状態にされたと思ったわけだよ、身体ごとね。だからさ、もしそうだったなら、今レンリーの腕は確実にアリーにチョップなりラリアットなりを食らわせてたってことなんだよなあ……。やっぱりもっと考えて行動した方が賢明だと思うんだけどさあ」
それを聞いたアリーは大げさなほど肩をびくつかせた。
なんということだろう。もし身体ごと見えなくされていたなら、今頃アリーは痣だらけだ。
アリーは決して触ることができないと分かっていながらも、レンリーに向かって〈レンリーの馬鹿! 中身だけだったから良かったもののッ〉と言いつつお返しとばかりに腕を振り上げる。しかし悲しくもアリーの見えない腕はレンリーの身体をすり抜けた。
「ええ? っていうことは魔法じゃないってこと? そんなこと有り得るの」
「そこじゃないんだよなあ……。おそらくだけど、原因というか、アリーがそうなってしまった力の源は魔法だと思う。精神だけがそうなってしまっているんだよ。アリー、もしかして自分の身体と離されたところを見たんじゃないの? ちょうど幽体離脱みたいに」
アリーはジンの部屋を抜け出すまでのことを思い返した。
始まりは口が勝手に動いたことだった。いつの間にかアリーが出したことになっていた婚約破棄の手紙について父と話していた際に、アリーの意図せぬことを喋ったのだ。
ジンの家については父に任せ一人だけ自室に戻りベッドに寝転がった。そうして起き上がろうとした、その瞬間に身体が操られているようにアリーの意思から離れた感覚を覚えた。
身体は勝手に単独で馬車に乗り込み、今アリーの居るジンの屋敷へと向かった。そこで対峙したジンとの話し合いの途中、アリーは身体に向かって叫んだのだ。
〈本当、幽体離脱みたいだわ。わたし、気がついたら誰かに身体を乗っ取られていたの。勝手に身体が動いたり喋ったりしたのよ? その誰かがあまりに勝手なことをするから怒って叫んで、そうしたら今みたいに精神だけ離れてしまったみたい……。ジンに結婚しないなんて言うから……〉
「ええっ……、ちょっと待ってアリー。キミ、今なんて?」
思い出しながら言葉を紡ぐアリーを遮り、スーイは目を丸くして尋ねる。外野ではアリーの声の聞こえないままのレンリーが「なになに? どうしたの」と言って、スーイとアリーの座る椅子を交互に見た。
〈突然誰かに身体を乗っ取られたの。それもとんでもなく高慢ちきなプリンセスみたいな口調の子に。その子がわたしの身体を使って、ジンに向かって他に想い人がいるから結婚しないって……〉
「最悪だ!」
スーイは声を張り上げた。こんなに大声を出して物を言うスーイは滅多に見られるものではなく、アリーは驚いてスーイを見つめた。スーイもスーイで、普段にない大音声を上げたものだから思わずむせてしまいゲホゲホと咳をした。
この場で一番何が起こっているのか、わけも分からないでいるのはレンリーだ。
いきなり空席の椅子に向かっていつになく大声で「最悪だ!」と叫んだスーイを訝し気な表情でじろじろと眺めながら、「きゅ、急に大きな声なんか出しちゃってどうしたんだよー」と少し怯えた声を出した。
しかしこの上なくうろたえたスーイにそんなレンリーを構ってやれる余裕など無い。椅子の周りをツカツカと靴音を立ててぐるぐると周り、「最悪だ、最悪だ」とブツブツとぼやき始める。
「最悪だよ……兄さんに『結婚しない』って? しかも『他に好きな人がいるから』って? 最悪じゃないか。何を考えているんだ……いいや、身体を乗っ取られたのが先っていうのもおかしい。そのプリンセスとやらに身体を支配され、そうして精神が離れて……いや、それよりも兄さんに『結婚しない』って……。本当にもう、最悪だ。何てことをしてくれたんだよ、そのプリンセスはさあ……!」
「待って、全然話が見えてこない」
いつもなら何かが起こった際に慌てるのがレンリー、冷静に状況判断するのがスーイであるというのに今日はおかしい。驚きつつもスーイのあまりのうろたえようを前に、なぜだか気の落ち着いてきたレンリーは「いったいどうしたんだよ。プリンセスってなに?」と問いただした。
あの落ち着きのないレンリーに諭されたスーイは何度か椅子の前で足踏みをして、そうして「はあ……最悪の事態だ」という言葉を大きなため息と一緒に吐き出した。
「つまりだよ、アリーは今日何者かに身体を乗っ取られた。そいつは高慢ちきなプリンセスって感じみたいだね。そいつのせいでアリーの精神は身体から追い出されて、今は僕たちの目の前に居て椅子に座ってる。そうだよ、この椅子にだよ。しかもここからが最悪。何を考えたのか知らないけどさ、そのプリンセスはアリーの身体を使って、兄さんに『結婚しない』と言った。事もあろうか兄さんに……! 最悪だよ、この世の終わりだ」
〈そうよ、その通りなのスーイ! 自分の身体を好き勝手に使われるなんて、本当に最悪だわ。ジンも傷つけてしまったし……〉
アリーはジンの部屋から抜け出した時のことを思い返した。
ジンはまだアリーが何者かに身体を乗っ取られているとは知らないまま、あの部屋で二人きりでいる。プリンセスにまたありもしない事実をまるで真実のように突き立てられ、心に傷を負っているかもしれない。
心配だ、心配だとアリーが思いめぐらせていると、悲壮な顔つきでスーイは言う。
「他人が言ったでたらめで兄さんが傷つこうとさあ、そういうのは後で何とでもなるんだよ。問題はそこじゃないんだ……。一番問題なのは、こっちがなんとかする前に兄さんが早まってしまうことだよ。有り得るから怖いんだよなあ……。最悪だ……」
どういう意味だとアリーが聞き返そうとした。だがアリーが口を開けて声を発するよりも前にレンリーが割り込んだ。
「ええ? ていうことはだよ、姉さんは身体と精神を引き離されて、そうして今俺たちの目の前にいるの? なんでスーイには見えて、俺には見えないんだ?」
そもそも人の精神というものは人間に見えるものなのだろうか。レンリーは頭を抱えて考えこむ。
スーイは一度レンリーを見て、そうしてふいっと顔を反らし俯いた。
これは何か言いたいけれど言いにくい内容のときの表情だと、アリーはピンときた。いったい何を言おうとしているのだろうか。アリーには不安になった。
「レンリー。キミ、本当はまだ信じきっているわけじゃないだろ?」
「なにが?」
「アリーがここに居るって」
〈え? そうなの?〉
アリーがレンリーを見やると、レンリーは眉を下げて「ううーん」と唸っている。
「スーイのことが信じられないってわけじゃないんだけどさ。何て言うかなー? 触れないし、見えないし、聞こえないし。話を聞くかぎり本当かも……とは思っているんだけど。ううーん。でもそれが俺だけ見えない理由?」
レンリーはスーイに聞き返す。
アリーも一緒になって小首を傾げた。確かにレンリーの言うことももっともだ。
自分の目や耳は『何も居ない』と訴えているのに、そこには誰かが居るのだと信じろと言われてすぐに信じきれるほど心は単純にできていない。
もしここにアリーが居ると信じれば見えるというなら、どうしてスーイは最初からアリーの存在に気づくことができたのだろう。スーイはアリーから事情を聞くまで、どういう経緯でアリーが身体を乗っ取られ、そうして精神を追い出されてしまったか知らなかったはずだ。




