04
ふと背後でカタカタと響く硬質な音の群れに気づいてアリーは振り返る。机や椅子、クローゼットや鏡など家具たちがまた打ち震えている。カタカタと軽い音はだんだんと部屋中を取り囲んでいく。
魔力暴走だ。アリーは今度こそ家具を揺さぶる力の正体に気づいた。
魔法適正のある者──特に大きな魔力をもつ者は時に魔力を暴走させることがある。それは負の感情が大きく振り切ったときに起こりやすいのだという。魔法適正のある者は、魔力暴走を起こしやすい幼少期に感情が揺さぶられた際に魔力を上手く逃がす訓練をする。そうして魔力のコントロールを覚えるのだ。
それでも大人になってから魔力暴走が起こってしまう場合がある。それは幼少期から魔力コントロールが不得意だった者か、あるいはコントロールしきれないほどの激しい感情の揺らぎが起こったケースだ。
魔法適正の無いアリーではあるけれど、ある程度の知識はもっている。家族や、将来家族になる人のために覚えておきなさいと基礎学院で習ったのだ。
きっと今がその時なのだ。考えるよりも先に、アリーは心でそう感じとった。
アリーの知るジンはいつも冷静だった。幼い頃を含めて、大きな喧嘩をした時でさえアリーに暴力を振ったことなど一度としてない。魔力のコントロールも小さな頃から得意だったのだ。
そのジンが今初めて魔力を暴走させている。それほどまでにこの婚約破棄騒動がジンの心を傷つけたのだ。さらには、喧嘩にまで発展したほど確認し合った『互いが初恋』という事実を裏切るような誤解まで起こしてしまっている。
アリーは半透明の身体でしゃがみこみ、ジンの肩と触れ合いそうな位置で顔をのぞきこむ。そうして膝の上で握りしめられているジンの拳に手を重ねた。決して触れることはできないが、形だけでもそうしたかった。
〈ジン。そんな子の言葉なんかで傷つかないで〉
ジンからの返答が無いままにアリーは続ける。
〈貴方が大好きよ。傷つけてごめんね。でもその子の言うことなんて信じないで。わたしの初恋はいつでもジンの物だわ。わたし、誰に何て言われても、この初恋だけは譲りたくないの〉
ジンがアリーの顔を見ることはなかった。
しかしアリーが言葉を重ねるにつれ、部屋中を支配していた振動は弱まっていく。そうして落ち着きを取り戻したかのようにジンがゆっくりと目を閉じると、あんなにも激しく揺れていた家具たちも鎮まり、部屋に静寂が戻った。
部屋をぐるりと見渡したアリーはホッと息をついた。そうして胸に喜びが溢れた。きっとジンにアリーの言葉が通じたのだ。そう思うと嬉しくて仕方なかった。
なぜ透明人間のような存在になってしまったアリーの声がジンに届いたのか分からないが、おそらく愛の力というやつなのだろう。アリーはそう自信満々に頷いた。
だがアリーは忘れていた。今まで名探偵を気取ってしてきた推理ほど当たったためしは無いことに。
「ま、魔力で脅そうとしても無駄でしてよ。わたくし、貴方には屈しませんわ!」
平穏を取り戻した部屋の状態にアリーの身体を操る主もやっと気持ちを落ち着けたのか、それとも形だけの威勢かアリーには分からないが、半ば怒鳴るようにしてそう叫んだ。
「驚かせてすまない。だが、脅すなんてことできるはずがない。キミを傷つけたいわけじゃないんだ」
ジンはアリーの身体に向けてそう言う。
「それなら早くこの拘束魔法も解きなさいな」
「それはできない」
「なぜ?」
身体の操り主が放った問いにまたアリーは嫌な予感がした。おずおずとジンの表情をうかがうが、ジンが何を考えているのかアリーに推し量ることはできない。
「俺はまだキミの心を奪ったとかいう男の存在を許せているわけではないからさ」
〈ほらやっぱり! ジン、さっきの聞こえていなかったんだわ! まだその身体が本物のわたしだって勘違いしてるもの!〉
アリーは半透明の顔を手で覆って大げさなほど嘆いてみせた。推理は当たらないくせに嫌な予感だけはしっかりと当たるのだからいけない。
「キミがいつもと様子が違うのもそいつのせいなのか? 自分を変えるほどにそいつが好き?」
〈どうしてそうなるの! そこは様子が違うから偽物って思ってよ!〉
「ええ、あの方はわたくしの人生の全てですわ」
〈バカ! もう本当にバカ! 滅多なこと言わないでったら! 『あの方』が誰かなんて知らないけど自分の身体で勝手に結婚なり何なりすればいいじゃない!〉
アリーがどれだけ叫ぼうと二人にはまるで届かない。『あの方』に心酔する身体の操り主と、『あの方』の正体にばかり固執するジンとの話は平行線をたどるばかりだ。
ここはもう自ら動かねばなるまいとアリーは立ち上がった。半透明の身体はやはり床に足がつくことなく、少しだけ浮いてしまっているが。
アリーは自分の本当の身体にずんずんと近寄った。
〈貴方! わたしはジンと結婚するの。何が目的かなんて知らないけれど、わたしの身体で勝手なことしないでよ。偽物!〉
そう言いきった瞬間、アリーはふと違和感を抱いた。
一瞬だけだったけれど、身体の操り主はちらりとアリーの半透明の姿を目に映さなかっただろうか。気のせいでなければ瞳が動いたように見えたのだ。
アリーは半透明の手のひらを操られている身体に向かって伸ばす。そうして顔のあたりでひらひらと振ってみる。しかし反応はみられない。
〈……気のせい? それとも願望?〉
もう一度手を振ってみる。だが操られた身体は瞳も顔も何もかも、変化はなかった。
アリーが首を傾げていると、ジンの部屋に三人が入って初めて外からノックの音がした。ジンが返事をするとメイドが話しかける。
「スーイ様がお帰りになりました」
「そうか。アリーが来ているから俺の部屋に来ないよう伝えてくれ」
「レンリー様もご一緒ですが、いかがなさいますか」
〈レンリー?!〉
メイドの返答に、ドアを見つめていたジンは一瞬考えるように目を反らした。しかしすぐに「構わない。同じように伝えてくれ」と返した。メイドも特に何も感じさせない声で「かしこまりました」と言って、遠ざかる足音がドアから響いた。
アリーはこれ以上無い幸運に胸を弾ませた。
スーイとレンリーに助けを求めてはどうだろうか。あの二人ならこの窮地を救う名案が浮かぶはず。自分が今、透明で普通の人間からは見られない状態であることも忘れてアリーは喜んだ。
善は急げとアリーはドアへ飛ぶようにして近寄る。手を伸ばすと半透明の手のひらがドアの向こうに消えた。ドアに触れられず開けることもできないアリーは、多少の気持ち悪さを飲み込んでドアに飛び込んだ。
そうして部屋を飛び出たその勢いのまま、まだ玄関ホールに居るだろうレンリーとスーイを探して階段を下っていった。