02
「……そうか。ということはやはり、キミの父君から頂いた手紙にキミの意思は無いのか」
「何と書いてあって?」
「婚約破棄は誤りであると」
「とんでもないことですわ! 誰が貴方と結婚するものですか」
高飛車なプリンセスの言い草に、ジンはひどく落ち着いた声で「そう」とだけ返した。
〈待って待って! 滅多なこと言わないでよ、本当にジンと結婚できなくなっちゃうじゃない! というかその言い方、失礼にもほどがあるわよ?!〉
慌てているのはアリーひとりだ。ジンもアリーの身体の操り主もアリーの声が届いていないように、何の反応も示さない。それでもアリーは言葉を重ねた。
〈ジン、お願い信じないで。傷つけていること謝るわ。でもわたしじゃないの。あなたと結婚しないだなんてそんなこと思うはずないもの!〉
アリーの奮闘もむなしく、二人は階段を上り終えて廊下を進んでいく。
そのままジンの部屋にたどり着き、二人がドアの向こうに消える前にアリーは半透明の身体をさっと滑り込ませた。
ジンのエスコートに従うまま、アリーの身体は一人掛けのソファに腰を下ろす。
ここでまたアリーは小首を傾げた。いつもならすぐ傍にある二人掛けのソファに、ジンと肩を並べて座っているのだ。そう不思議に思ってすぐに考えを改めた。今ジンはアリーが婚約破棄の意思を抱いていると勘違いしている。だから距離をとるのだろうと。
ジンはアリーの身体が座るソファの足元に膝をつけて、アリーの身体を見上げる。それを身体の操り主はどこまでも上から見下ろしている。
部屋を包む緊迫した空気にアリーは半透明の身体をよじらせた。とてつもなく落ち着かない雰囲気だ。
そもそも、ジンとの間でこんなにも静かなまま過ごす時間というものをアリーは知らなかった。いつもならあの階段を上がる途中でさえも途切れることなく会話が続き、楽しさに弾みがつくと変なステップを踏んでジンに「おっと。さすがに階段は危ないぞ」と背中を支えられることだってあるくらいだ。
たとえ婚約破棄の疑いをかけられているからといって、こんなにも沈黙を続けている二人の空気がアリーには不気味に思えて仕方なかった。幼い頃から互いを知り尽くしているアリーとジンは何度も喧嘩をしたことがあったけれど、大喧嘩の最中であっても今のジンと身体の操り主よりもずっと会話をしていた記憶がある。
普段のジンは全くの無口というわけではない。だが、いつもよく喋り通しているのはアリーだった。それで会話が続かないのだろうかとアリーは分析していたけれど、よくよく観察するとアリーの身体を操る主にも問題があるようだ。
アリーが考察するに、身体の操り主はどこか受動的であるように思える。行動や態度は突飛で高飛車でアリーの想定をことごとく上回ったことをしてくれるが、どこか相手の出方を待っている節があるように見えた。まるで誰かが自分の都合よい方向へ進ませてくれるのが当然で、それを待っているかのような。
ジンはソファの前にひざまずいたまま、あくまで落ち着いた声でアリーの身体に問いかける。
「アリー、理由を聞いても? この間まで俺たちの結婚に積極的だったじゃないか」
その言葉に操り主はひくりと片眉を上げる。
「わたくし、何度も言うようですけれど、貴方と結婚したいだなんて思っておりませんの」
〈もー! 人の身体で勝手なこと言わないでよ!?〉
すかさずアリーが抗議するが、ジンや操り主にはまるで届いていない。
口元に手を当てたジンはアリーの身体を見上げたまま何かを思案しているようだ。半透明のままのアリーから見ても、少し前のアリーよりもずっと名探偵に思える。
「……結婚をしたくないというのは、ずっと前から思っていたこと?」
「ええ、そうと言っているではありませんの。貴方の耳はきちんとお掃除できていて? 何度も同じことを言わせないでいただきたいわ」
〈いいかげん口が過ぎるわ! なんでそう煽るのよ! 余計事態が悪化しちゃうじゃない〉
アリーは半透明な手で身体をぐいぐい揺らして怒鳴ってやろうと思ったが、肩を掴もうとした手は身体をすり抜けてしまう。これは早く身体を返してもらわないと。アリーは半透明のまま顔を青ざめさせた。
「それはいつから思っていたこと? キミは……家のためになくなく俺と婚約をしていたのかい」
〈わーっもう! ジンも簡単に信じないで! この間だって結婚式のスピーチだとか、ドレスだとかそんなこと相談してたじゃないっ。家のために人生捧げるほど、わたし献身的な性格していないわ!〉
今度はジンに抱きつこうとしたアリーだったが、半透明の身体は呆気なくジンの身体もすり抜ける。人体を身体がすり抜けるというよりも貫通してしまった事実に驚き、アリーはおずおずとジンに人差し指を伸ばす。指先はジンの肩にぶつかることなく向こう側に透けた。
「いつからも何も、最初からですわ」
「『最初』?」
アリーが半透明の身体になってしまった現実に打ちひしがれている間にも、二人の会話は不穏な方向へと進んでいく。
「ええ最初から。わたくしは初めてお会いしたあの瞬間から、あの方にこの心を捧げているのです!」
身体の操り主がそう言った瞬間、部屋の空気がひたりと冷え込み、部屋中の家具がガタッと振動した。驚いたアリーが周囲を見渡すが何もおかしなところはない。今のはいったいなんだったのだろうと思っていると、「へえ」と部屋の空気よりも冷えきったジンの声がした。
〈ジン……?〉
アリーは聞こえていないと分かっていながらジンに話しかける。
先ほどのジンの声は、アリーが今まで聞いたことのないような低い冷たい声だった。喧嘩をした時だってあんな声でアリーに相槌をうったことはなかったのだ。アリーは部屋を包む冷えた空気よりも、一瞬だけ打ち震えた家具たちよりもそのことが気になった。
さすがの高飛車なプリンセスも、ジンの様子に驚いたのか少しだけ怯んだかのように身を震わせる。しかしそんな怯えを振り切るように身体の操り主は声を張る。
「そうですとも、わたくしの心はあの方の物なのですわ!」
〈いやだから『あの方』って誰よ〉
「『あの方』っていうのは?」
奇しくもアリーとジンは同時に聞き返す。アリーの声は二人に届いていないようであるけれど。
しかし操り主は冷えきったジンの眼差しを物ともせず、『あの方』についてうっとりとした表情で語り始める。
「あの方を一目見た瞬間、わたくしの世界はまるで彩を取り戻したかのように思えました……。今でも鮮明と思い出されるのは艶やかな濡羽色の髪に、澄み渡る新緑のような常盤色の瞳。遠くから眺めるしかできないわたくしを、いつ振り返ってその瞳に映してくださることかと思い悩むも淡い乙女心というものでしょう」
〈いやいや、乙女心って。見てただけじゃない、何かアクション起こしなさいよ〉
そこまで言ってアリーははたと思い返した。
〈あ、待って。ダメ、今のナシ! わたしの身体でそんなこと勝手にされちゃたまんないわ!〉
操り主に声が届いているわけでもないのにアリーは慌てて言い直す。