01
馬車に乗りこんでからも、身体を勝手に操るご令嬢らしき人格の振る舞いにアリーは呆気にとられ辟易した。いったい何なんだこのプリンセスは。怒りを通り越して呆れて物も言えない──どちらにせよ声も出せないままではあるけれど。
最新の魔術を駆使したこの馬車ならあっという間にジンの屋敷に着くというのに、速度を上げようとする御者に向かってこともあろうことかこのプリンセスは「なんて乱暴なの! 外の景色がまるで見えないじゃない!」と怒鳴り散らした。飛ばせと言ったのは自分であるというのに。
おかげさまで大昔の馬車のようにゆっくりゆっくりと進み、アリーはいくらか平常心を取り戻すことができた。ジンの屋敷へ一生辿り着かなければ良いのにと思うほど心は疲弊していたが。
それでも安全運転で駆けた馬車は、事故を起こすこともなく無事にジンの屋敷へ到着してしまう。
門をくぐり階段の前で馬車は止まる。御者がドアを開けてアリーの身体をエスコートしようと手を差し出した。その手に乗せるプリンセスの手の出し方にまたアリーは心の中で頭を抱えた。
腕をまっすぐに伸ばし、手首を斜め四十五度に曲げ下ろして指先はぴんと張り、御者の手のひらにちょこんとかぶせるように乗せていた。
いったいどこの童話のプリンセスなの。まるで時代錯誤な仕草にアリーは寒気がするような気さえした。
アリーの身体を乗っ取ったプリンセスがしてみせたような動作は、とても古臭く、ありきたりなシンデレラストーリーのヒロインがするようなものだった。アリーの同世代ではまず見ることはかなわないだろう。あるいは自分が物語のプリンセスと思い込んでいるご令嬢でなければ、することなど決してないだろうと思わされる仕草だった。
アリーは別人格のせいとはいえ、自分の身体でそんなことをされるとは思わず、恥ずかしさで身が悶えるような気持ちになった。身体がアリーの言うことを聞いていたなら身を震わせていたことだろう。
しずしずと地面に足を降ろし、何もかもを見下すように背中を反らして歩くのも童話のお姫様然としてアリーには恥ずかしくてたまらない。
得も言われぬ恥ずかしい苦痛にさいなまれながら、ふとアリーが前方に気を向けると、そこにはジンの姿があった。
きっと出迎えてくれたのだ。アリーは嬉しさに胸を弾ませるが、はたと思い直す。誰かに身体を乗っ取られているこの現状を。
アリーの身体を操る人物だってジンの存在に気づいているはずなのに、あくまでしずしずとゆっくりゆっくり歩みを進めている。この窮地をどうやって打開しようかと、アリーは必死に考えを巡らせる。
普段のアリーならばジンを見かければすぐに声をかけて大きく手を振るというのに、まったくそんな素振りを見せないアリーの身体を訝しんだのだろうか。ジンがいつもより速足で歩み寄る。
「やあ、アリー。一人で来たのかい」
おそらくアリーの父が出した手紙をジンも読んでいたのだろう。ジンは言いながらアリーに手を差し出した。
お願い、お願いよ、滅多なことはしないで。
アリーは心の中で何度も祈ったが、アリーの身体の操り主がアリーの思惑通りに行動するはずもない。身体は勝手に差し出されたジンの手のひらにまたも古めかしい仕草で指先を乗せて、「随分なご挨拶ですこと」と言った。
何が『随分なご挨拶』だ、あなたの方が『随分なご挨拶』じゃない。アリーはそう思ったけれど身体は言うことをきかない。
ジンも何か思うところがあったのだろう。訝しむように片眉をあげて一度手を見て、そうしてアリーを見つめる。小首を傾げて黒い前髪が揺れる。
「顔色がすぐれないようだな。前から体調が良くないと言っていたけれど、まだ治らない?」
そう言ってジンはもう一方の手をアリーの頬に添えた。その言葉にアリーは浮かれきった。手紙で少しだけ書いていた最近の体調不良を、ジンが覚えてくれていたのだと気づいて嬉しかった。
だが身体の主はそれを「まあ! 淑女の頬に勝手に触れるだなんて、不躾だわ!」と騒ぎ立てる。これにはアリーもがっかりした。
身体の操り主に全くこれっぽっちも期待はしていなかったけれど、こんなのあんまりだ。今のご時世、いったいどこに結婚間近の婚約者の頬に触れて「不躾だわ!」と怒鳴るご令嬢がいるというのだろう。確かにこの『誰か』のせいで婚約破棄の危機に陥っているけれど。
ジンはそれをどう受け取ったのかアリーには推しはかることができない。ただ「そうか、すまなかった」と手を遠ざけて、想定していたよりもずっとおとなしく引き下がったのだった。
身体はジンのエスコートを手助けに、どこまでもしずしずといつもアリーがジンの屋敷でするよりも数倍もの時間を掛けて進んでいった。そうして玄関ホールを抜けて階段を上り、ジンの部屋へと向かっていることに気づいた。
てっきりアリーは客間にでも通されるのかと思っていた。
いつもの他愛無い用事でジンの元に遊びに来たというなら何ら問題は無いけれど、今回はそうではない。婚約破棄未遂の謝罪に来たのだ──きっと身体の操り主は違うだろうが。
だがアリーの父の手紙を読んだのだろうジンはアリーが謝罪に来ていると考えていることだろう。すぐさま客間に通され、ジンの父である当主をまじえて話し合いが行われると思っていたのだ。
ジンの足は迷いなくジンの部屋へと向かっている。少しだけ広く設けられた踊り場にさしかかり、ジンは「最初の手紙のことだけれど」と話し始める。
「婚約破棄をしたいと書いてあったね。あれはキミの本心?」
ジンはアリーを見ないまま前を向き言った。その言葉にアリーの胸はツキンと痛む。
おそらくジンは、アリーの父から届いた詫び状を『アリーの父の独断』と受け取っているのだろう。アリー自身としては全くの勘違いだが、身体を乗っ取っている誰かにしてみればその通りでしかない。
できることなら外れてほしかったアリーの不安は的中し、身体の操り主はプリンセス然として答えた。
「ええそうよ。わたくし、貴方とは結婚いたしませんわ」
〈バカバカ! なんてこと言うの!〉
アリーは驚いた。今『わたし』は何と言っただろうか。驚くべきことに、たった今アリーは声を出すことができたのだ。
しかしどこか違和感がある。前を向き、またアリーは驚いた。目の前にはジンと、そうしてアリーの姿が見える。なぜ自分の姿が見えるのだろう。
ハッとしてアリーは両手を広げてみる。そうして顔、喉、胸、腹と触りちゃんと身体があることを確かめる。そうして足を見下ろして再度驚いた。宙に浮いている。臙脂のカーペットからわずか十センチも無いほどであるけれど、空中に浮かんでいることに気づいた。
慌てて輝くほど磨かれた窓ガラスに顔を向けてみる。反射して映った姿はジンとジンに手を引かれるアリーの身体しか見えない。混乱した頭で腕を太陽に透かしてみると、半透明になって腕を通して向こう側を見ることができた。
〈うそ……もしかしてわたし、透明人間ってやつじゃないの……?〉
アリーはたまらず小さく呟いた。
だが落ち込んでいる暇も混乱している暇さえも無い。そうこうしている内に、ジンとアリーの身体は勝手に歩みを進めている。きっと半透明のアリーが見えていないのだ。アリーは宙に浮いたまま急いで二人を追いかけた。