07
弟のレンリーでさえ、アリーの泣き顔を見るのは数年ぶりだ。小さな頃は些細な喧嘩で互いに泣かしたり泣かされたりもあったけれど、さすがに思春期を前後すればそれも無くなる。
そうでなくてもアリーは昔から負けん気が強く、辛抱強かった。泣き顔を見せるくらいなら、馬鹿みたいに大声で歌ったりでたらめなステップのダンスで涙をごまかすほどに。
そんなアリーがこんなことで。ジンに嫌われるかも、なんて想像しただけなのに。
「ご、ごめん、アリー。泣かせるつもりはなくて……えっと」
「だだだ大丈夫だって! そんな、なあ。ほら、ジンもそんなすぐ別の女の子のところになんか行かないって……たぶん……」
両手で顔を覆って俯いたアリーは、〈わたしのことなんてすぐに忘れて、次の恋を探しちゃうかもしれない……〉と呟く。
レンリーとスーイは顔を見合わせる。どちらも困り果てた情けない顔だ。幼い頃からリーダーのように自分たちを引っ張ってきた存在が、こんなにも弱く揺らぐと下々は動揺して手も足も出せないらしい。
不意に、先ほどのアリーとレンリーが失恋した後で次があると騒いでいた光景がスーイの脳裏をよぎる。きっとレンリーはアリーやジンほど令嬢に対する想いは深くなかったのだろう。
そうでなくてもジンはレンリーのようにすぐに次へと気持ちの向きを変えられるほど、切り替えが早いわけじゃない。だがそんなことを言っても気休めにしかならない。スーイは零れかけた言葉を飲み込んだ。
アリーがなんとか涙を止めようと両手で目や頬を拭っていた、その時だった。
「何をやっているんだ」
振り返ったそこには、今までアリーに見せたこともないほど眉間に皺を寄せたジンの姿があった。開かずの間と思われた扉を開けて。
〈ジン……!〉
アリーは目を大きく開けてジンの名前を呼ぶ。その呼びかけに応えるようにジンがアリーを見る。二人の視線が交わる。
〈ジ、ジン。もしかして、見えてるの……?〉
目を開いたまま動かないアリーを見て、ジンは「うん。見えているよ」と苦笑した。
ジンはアリーの頬に指の這わせて涙を拭おうとする。だがジンの指はアリーの頬に触れることはなくすり抜けた。驚き掲げた指は動きを止める。そうしてジンはぎゅっと拳を握り、ゆっくりと下ろした。
〈わぁーっジン! 良かった! 本当に良かった!〉
アリーは自分の身体がどうなっているかも忘れ、両腕を大きく広げてジンにとびつく。当然のごとくアリーは勢いのままジンの身体を通り抜けてしまった。
「ええっマジで見えてるんだ! ジン、見えてる?!」
驚くレンリーの横で、スーイが「まったくさあ、遅いんだよね兄さんは」とジト目でぼやく。
「出てくるなら出てくるでさっさと出てくればいいのにさあ……。こっちの手を煩わせないでほしいよね」
「え、なに。スーイ、ジンを説得するのは諦めたんじゃなかったのか?」
「あれを本気にしてたわけ? 考えてみなよ、アリーの身体は兄さんの部屋にあるんだよ。兄さんをどうにかしなきゃ、進むに進められないだろ」
「……アリーもレンリーも、スーイに謀られたみたいだな」
「謀るってほどのことじゃないでしょ……はあ、二人とも察しが悪いんだよなあ」
アリーとレンリーは顔を見合わせる。驚きを通り越して、二人の間に乾いた笑いが静かに漏れた。
スーイの弁によると、ジンの霊的存在への不信感は筋金入りだ。ちょっとやそっとのことでは信じそうにない。それを部屋の外からどうこうと説明したところで、アリーの精神が追い出され幽体離脱してしまったなどと信じてくれそうにないと考えた。
だがそこに一つの閃きが起こった。アップルパイよりも何よりも、ジンを部屋から出すにはアリーを使えばいい。
「婚約破棄だのなんだのってこんなことになったんだからさあ、もしも僕がアリーに婚約の話を持ち掛けたら……さすがの兄さんでも動揺くらいするでしょ。まあ僕の提案がハッタリだって兄さんにはバレバレで、逆にアリーとレンリーが引っ掛かったわけだけど」
〈え……?〉
「はったり……? え、え、じゃあなんでジンは出て来てくれたんだ?」
揃って聞き返すアリーとレンリーは、スーイを見て、そうしてジンを見る。ジンは「アリーを泣かせたいわけじゃないから」と言って肩をすくめる。結局のところ、一番に気づいてハッタリに協力してほしかったアリーとレンリーには気づかれず、一番気づかれたくなかったジンにはお見通しの散々の結果だったということだ。
二人の頭の中で浮かんでいるだろう『結果オーライ』の文字を想像して、ジンは眉を下げて微笑む。そんなジンをジト目で睨みつけたスーイは、「本気なわけないでしょ。兄さんに何されるか分からないじゃん。僕は細く長く生きる主義なんだよね」と吐き捨てる。
〈でもジンが出てきてくれたってことで、結果オーライよね!〉
「そーそ! 終わり良ければすべて良しって言うしな」
「何も終わってないんだけど。はあ、お気楽だよなあ、この姉弟……」
予想通りの様子にジンは思わず噴き出して笑う。
「そうだな。早くアリーの身体を取り戻さないと」
ジンは振り返ってドアを開け、皆を部屋へ誘導する。まずはアリーが、次にレンリー、そうしてスーイがジンの部屋に入る。
「それで? 兄さんはやっと幽霊を信じたわけ?」
部屋に踏み入ったスーイが、ドアを閉めて部屋全体に防音魔法をかける。
「いいや。信じるには値しないな」
〈えっ?! わたしのこと、見えてるのに?〉
レンリーがこそこそとスーイに近づき、「まさか愛の力だなんて言わないよな?」と囁く。スーイはこれ以上ないというほど顔を歪めて舌を出した。
「そもそもなんで信じなかったんだ。ジンもスーイみたいに昔から見えていたんだろ?」
ジンはレンリーを一瞥し、顎に手を当てる。
「百年以上昔は、幽霊を信じるのが当たり前だっただろう?」
今よりも約百年前までは、この国のほとんどの人間が幽霊の存在を信じていた。だが、魔法科学の発展によりその文化は次第に薄れていった。
人間の身体の中に魔法回路が存在するという概念ができたのは歴史の中でも新しい。
生まれてくる人間の中に、魔法を使えるものと使えないものがいる。それは先天的なもので、のちにどれだけ努力しようと才能の無いものが魔法を使えるようになった例はひとつとして存在しない。それゆえに、魔法を使える者による使えない者への差別が横行していた。
その差別を問題として取り上げたのが魔法回路の発見だ。赤子が魔法回路を所持しているか否かを判別することが可能になり、それによって新たな発見があった。それこそが魔力暴走だ。
それまで幽霊の仕業であると信じられていたものが、魔力暴走であると証明されたのが今から百年ほど前のことであり、魔法回路の研究の発展がもたらした最大の功績でもあった。
魔力暴走は魔法適正のある者が起こす、感情の激しい揺れや魔力のコントロール不足に伴う超常現象である。
今でこそ魔法適正のある全ての人間に起こり得る事象として対策が行われているが、昔は魔法適正のある者が魔力を制御できない可能性自体が信じられていなかった。それは、魔法適正のない、生まれつき魔法を使えない者との差別意識が関係している。魔法適正のある者は、完全なる者、魔法適正のない者は不完全な者という意識があったのだ。
生まれる時代が異なっていたなら、アリーは周囲から魔法適正のない者として差別され、ジンとの婚約はおろか、まともな教育など受けさせてもらえなかったことだろう。その可能性を改めて感じ、アリーは身を震わせる。