05
静かにそんな分析をしていたからだろうか。
〈ラッキーだわ。やっぱり天はわたしに味方しているのね! ジンがわたしのこと見えているって分かっているならこっちのものよ〉
「そうだね。幽霊はさておき、こっちの姉さんが本物って分かってもらえれば、婚約破棄の危機は乗り越えられたも同然ってわけだ」
〈ふふふ。こっちの味方はこれで四人。わたしの身体を使って何を企んでいるのか知らないけど、早いところ返してもらわなきゃ!〉
「身体を返してもらったら親たちの誤解も解いて」
〈何もかも元通り!〉
流れるように勝利のヴィジョンを描いて会話を続ける二人の勢いに、スーイは圧倒されて息を飲んだ。こんなふうに考えるだなんて、スーイやジンには絶対にできないだろう。もしこの場にスーイとジンの二人だけだったなら、考え得る限りの最悪のシナリオのお披露目会になっていたはずだ。
何もかもが安直すぎると指摘されればその通りだが、最悪の想定をなぞるだけでは何も解決しないことも確かだ。進まなければ何をも変えることはできない。アリーとレンリーにはそれが生まれついて身についているのだ。
〈ほらスーイ、ジンの部屋へ急ぐわよ! ジンの説得にはスーイの力が不可欠なんだから〉
「例のハチャメチャなプリンセスになっちゃった姉さんと二人きりにされて、ジン、頭がおかしくなっていないといいけど」
とぼけるレンリーの頭をアリーがはたく。案の定、アリーの手のひらはレンリーの頭をすり抜けてしまったけれど。
そんな二人を眺めながらスーイはクククと笑った。
「……うん。そうか。そうだね、それじゃあ行こうか。兄さんを説得しに」
〈ここから反撃よ、レッツゴー!〉
調子よくかけられた号令を前に、スーイの頭の中に浮かんでいた最悪のシナリオもいつしか消え去っていた。
◇
ジンの部屋を前にして、三人は横並びになって佇む。
「そういえば、部屋の中に防音魔法やってるんだっけ。廊下側からのノックとか声は聞こえるかな」
〈さっきは聞こえたわよ。メイドが来たもの〉
「ただ、僕たちの声に兄さんが応答するかどうかは別なんだよなあ。どうせ邪険にされるだろうし」
だが何もしない内は事態を好転させるチャンスすら無い。三人は頷き合い、代表してスーイがドアをノックした。
予想通り、ジンの返答は無い。待ちきれずドアに耳をあてたレンリーが首を横に振った。
「いやいや……。防音魔法をかけているんだから聞こえなくて当たり前でしょ。何やってんの」
「気持ちが急いちゃうんだよ!」
スーイの呆れたツッコミに、レンリーが負けじと言い返す。ぼそぼそと呟くスーイに対してレンリーの声はいつも大音声だ。
〈ううーん。でもこれだけ部屋の前で騒いでいたら、わたしたちの話し声も聞こえているはずよね?〉
「騒いだだけで出てくるほど殊勝な性格してたらさあ、監禁まがいのことなんてしないでしょ」
スーイが試しにドアノブを回してみるも、やはり扉の開く気配はない。
それから三人は、かわるがわる呼びかけノックし時にはドアを殴る蹴るとしてみるも、部屋の主はうんともすんとも言いやしない。しだいに疲れて三人は一旦休憩をはさむことにした。
アリーはまず自分が扉をすり抜けて部屋に入ってみるのはどうだろうと考えた。だがジンはアリーの姿を認識していても、幽霊の存在を信じてはいない。最初にアリーがジンに呼びかけた時でさえそうだったのだ。
ここはどうにかしてジンに自ら扉を開けてもらい、それから三人でジンに説明するのが得策だろう。
「ジンにドアを開けてなんて言ったって無駄なわけだ。ということはだよ、ジンが思わず開けたくなっちゃうことをすれば良いっていうことか」
レンリーが不貞腐れたように言いながら、ハッと閃きを披露した。
ジンが思わずドアを開けたくなることといったら何だろう。アリーは頭を悩ませる。ふと思いついたことを言ってみる。
〈アップルパイを焼いてみるのはどう? ジンと出かけるといつもアップルパイを食べるの〉
「へえ、ジンってアップルパイ好きだったんだ。姉さんと一緒だね」
至極真面目な顔でいるアリーとレンリーを、スーイは心底呆れた目で見つめる。
「アップルパイを焼いたって、ドアを挟んじゃ匂いもなんにも分かんないじゃん。しかも兄さん、アップルパイにそんな執念持ってないしさあ」
〈えっそうだったの……?! 昔からそうだから、てっきり好きなんだと思ってた〉
アリーが聞き返すと、スーイは一瞬だけ顔を反らし、そうしてアリーに向き直って静かに呟く。
「そんなの、アップルパイを食べるアリーが見たいからに決まってんじゃんさあ……。アップルパイが昔から好きなのはアリーでしょ。あの人、そういう人だよ」
アリーはふっと顔を淡い赤色に染めて視線を反らした。そんなアリーを横目で見たレンリーがにやにやと笑って、「ふうん。確かにジンは姉さんほど食い意地張ってないもんな」と言いながら肘でつんつんとアリーの横腹をつつくような仕草をしてみせた。やはりレンリーの肘はアリーの身体をすり抜けてしまったが。
レンリーの冷やかしには慣れているアリーが、ゴホンとわざとらしく咳をして甘ったるい空気を吹き飛ばす。
〈アップルパイは無いとして。どうやってジンに出て来てもらう?〉
「何か秘策とか無いの?」
〈あったらもう言ってるわよ……!〉
依然と目をにやつかせながらアリーをからかう姿勢でいるレンリーの横で、スーイはひとり腕を組んで考えこんでいた。
黙り込むスーイにアリーとレンリーも気づき、顔を見合わせる。そうして期待を込めてスーイに向き直った。
「なになに? なんか思いついたのか?」
目を輝かせてレンリーが尋ねる。視線だけ動かして一瞥し、スーイは「そういうわけじゃないけど」と言いながらふと顔を反らしてアリーを見つめた。
「ねえ、アリー。兄さんを説得するのは時間の無駄ってかんじしない?」
〈どういうこと?〉
「現状はだよ、アリーの身体は兄さんの部屋。父さんたちはアリーが婚約破棄を申し立てたって勘違いをしている。今は両家の間で話は済んでいるけれど、いつどう大きくなるかは分からない」
アリーは肩をびくつかせた。
確かに今は両家だけの問題にとどまっている。アリーの父を含め、アリーが婚約破棄の手紙を出したことになっているという事実を知っている人間は多い。早く解決しなければ、事は大きくなるばかりだ。そうなれば、取り返しのつかないことになってしまう。
「誤解を早く解かなきゃ、両家が仲違い……てこともあるわけか」
レンリーの顎に冷や汗がつたった。スーイはひとつ頷く。
アリーは意識的に自分を奮い立たせた。
〈だ、だからこそ! 早く解決しちゃいましょ! そのためにジンに協力してもらって……〉
スーイは首を振る。そうしてアリーの言葉を遮って言う。
「あのさあ、アリーの身体が乗っ取られたのは魔法の仕業だ。他人の精神に介入する魔法は、アリーが想像しているよりも簡単じゃないんだよなあ……。そもそも学院でも扱わないしね。習ったところで生半可な魔力量じゃ何も出来はしない。それこそ、一人の平均魔力量の数倍は必要なんだよ。とても人間一人が生み出せる魔力量じゃないんだよなあ。かといって複数の魔力が混じっているような感じもしないし」
「え、そうなの?」
スーイのぼやくような説明にレンリーが口をはさんだ。学院ではそういった概要も習わなかったのだろうかとアリーがレンリーの顔を見ると、レンリーはふるふると首を左右に振った。