01
世の中、ままならないことは意外と多いものだとアリーは強く思った。それは、今までなら婚約者であるジンを見ていてよく感じていたことでもあった。
ジンは何が彼をそうさせるのかアリーには全く分からないけれど、どうしようもなくネガティブなところがある。彼はよくままならないことで頭を悩ませている。
いつだったか初恋の話題になったことがある。
その時の二人は、婚約者である互いが初恋だと言い合って笑っていた。幼馴染であるし、多少互いの両親がそうなればいいと画策していた部分はあるけれど、本当にそうなるだなんて奇遇だと二人して喜んでいたのだ。
だがその数日後のジンはひどくふさぎ込んでいた。どうしたのかと心配したアリーが尋ねれば、アリーの初恋が自分であるのはアリーが気を利かせた嘘ではないかと疑っていたのだ。
「人生はままならないのが常と言うだろう。アリーの初恋が俺だなんて、そんなの俺に都合が良すぎる。それに女の子って、十も年上の男性に初恋を捧げることが多いらしいじゃないか。俺はアリーより一つしか上じゃない。俺が初恋だなんて有り得ない」
このジンの言葉には、さすがのアリーも呆れてしまった。現実主義で疑り深いにもほどがある。普段は秀才で名が通っているらしいくせに、随分バカみたいな論理で否定してくれるものだ、と。
ジンはよく自分に都合の良いことが起きると、勝手に『ままならない現実』の可能性を考える。それをジンの弟のスーイが、「僕らのネガティブはきっと生まれ持ってのものなんだよ。アリーの家とは人種が違うって言ってもいいくらいにさあ」と解説していた。
「いろんな可能性を考えられるっていうのは、良いことじゃないの?」
アリーと弟のレンリーは顔を見合わせてそう言ったけれど、その言葉にさえジンは「俺たちのような根暗にはそんな考えさえ浮かばないんだ。君たちは俺には眩しいよ、太陽の隠し子と言われたって納得できる」とうなだれた。それは隣で聞いていたスーイも、同意見だと頷くほどに納得のいく見解だったらしい。
当時のアリーにはジンの言う『ままならない現実』というものがいまいち理解できなかった。
だが数年を経てやっと、そのままならないことに悩まされることになろうとは思いもしなかったのである。
アリーは父から手渡された二通の手紙をまじまじと見る。一通はジンの父から、もう一通はアリーがジンの家宛に送った手紙のようだ。
「お父様。これって、つまりどういうことなのかな」
「見たままだよ……アリー、どうしてこんな手紙を? ジンと何かあったのかい」
「いいえ、まさか! この間だって、結婚式のスピーチはどうしようって話したところだもの」
「うん。それは早すぎるな!」
両手の中に居座る手紙の内、一通はアリーの筆跡と見られる文字で『婚約破棄の申し出』の旨が綴ってある。そうしてもう一通のジンの父から届いた手紙には、『こんなものが届いたのですけれど、冗談に決まっていますよね?』という旨が。その走り書きのような荒い文字と文面からは、まるで冗談とは思っていない焦燥が感じられる。
アリーは一度手紙を閉じて、そうしてもう一度見た。しかし内容は変わらない。どこからどう見ても自分の字で『ジンとの婚約を無かったことにしたい』と書いてある。
「わたし、こんな手紙書いた覚えがないの」
そう主張したアリーに父は困った顔を向ける。アリーはすかさず「本当よ?」と付け加えた。
「私だってそう信じたいさ……。いやだがね、字を見てごらんよ、どう見たってお前の字じゃないか」
父はアリーの手にある手紙を指さして、「ほら、ここの止めハネ方なんてアリーの癖がそのまま出ている」と指摘する。まじまじと見返すもやはりそこにはアリーの字がある。
「もしかして、これは事件じゃないかしら! 筆跡を真似する危ない職の人っているでしょ? その人に誰かがお金を積んで、そうしてこの手紙を出した……犯人はそう、わたしとジンが結婚したら不利益を被る人」
「残念だね名探偵。ここをご覧よ」
意気揚々と推理してみせたアリーを父は遮って、封筒をトントンと指先で軽く叩いた。そこを見やって、アリーは「ああもう、なんてこと」と大げさなほどにうなだれてみせた。
封筒に記されたアリーのサインの横に家紋を入れた印章が押されてある。その印影はアリーの家でしか押すことがかなわない代物だ。つまり、この手紙はアリーの家から出されたものという動かぬ証拠なのである。
「しかもだね、アリー。メイドが言っていたんだよ、この手紙を先方へ出すようにと頼まれたって」
「ええっ?」
「昨日の昼に」
「昨日!」
アリーは驚きのけぞった。物的証拠に証言まで揃っては、さすがのアリーも反論のしようが無い。
しかし昨日の記憶の中に、アリーがメイドに手紙を出すように頼んだ時間など無い。
「お父様。わたし、本当に覚えがないのよ? こんな手紙、書くはずないもの」
どうか信じてと言わんばかりにアリーは目で口で訴える。父も眉を下げて首を振る。どうにかしたいのはやまやまだが、どうにもならないのが現状だ。
「……これから先方へ謝って来よう。『婚約をなかったことに』というのを『なかったことに』できないか聞いてみよう。何もかもが『なかったことに』はならないけれど」
父は従僕に外出の準備をするよう伝えた。先に往訪の知らせを出さなければならない。そうして詫びの言葉と品物を。
慌ただし気に用意をしながら父は「お前も来なさい、アリー」と、アリーにも外出の支度を促した。
アリーもこれには大賛成だった。
どうしてあんな手紙がジンの元へ届いてしまったかは分からない。だが、今すべき第一事項は原因究明よりも先方からの誤解を解くことだ。
こんな時、アリーや父の気持ちの切り替えは早い。アリーはすぐにでも外出用の服に着替えようとした。だが、アリーの口から勢いよく出た言葉は全く別のものだった。
「嫌よ! あの人と結婚なんていたしませんわ!」
一瞬、アリーはそれがまさか自分の声だとは思わずに驚いた。そうしてハッとして両手で口を塞ぐ。目の前にある父の顔は、今まで見たことが無いほどに間抜けな表情をしている。
「アリー……? いま、なんて……」
口を塞いだまま、アリーは先ほどの自分の声を思い浮かべた。『結婚はしない』とはどういうことだ。どうしてそんな言葉を。まるで口が勝手に動いたかのように、アリーの意思とは関係の無い言葉を発してしまった。
アリーは父に向かってその窮状を訴えようとした。『結婚はしない』なんて嘘だ。そんなこと思ってもみない。口が勝手に言葉を紡いだのだ、と。
だがそれはかなわなかった。両手で隠された唇は、どれだけアリーが喋ろうとしても全く動こうとしないのだ。
「嫌ったら嫌! わたくし、結婚相手はもう決めておりますもの!」
慌ててもう一度塞ぎ直す。アリーは驚いた。口から飛び出た言葉に、今度こそ度肝を抜かれた。信じられないようなことだけれど、今度こそ、口が勝手に喋ったのだと確信した。
それに『わたくし』『決めておりますもの』とは。なんて古風な口調なの、もう決めておりますだなんて、その相手こそが先方の婚約者じゃない。アリーは驚きを通り越して呆れが出てきた。
また変なことを言わないようアリーは力強く両手で口を固めて、父の顔を見ながらふるふると顔を横に振った。さっきの言葉はアリー自身の意に反しているのだと伝えたかった。
それが父に伝わったかどうかアリーには分からない。
だが父はひどく困りきった顔で一度手で目を覆い、深い溜め息をついた。そうしてアリーの肩に手を置いて、「アリー……きっとお前は疲れているんだ。ここは一旦、部屋で寝ていなさい。取り急ぎ私だけで謝罪をしに行こう」とアリーを部屋へ誘導したのだった。