入院
”絶対に、貴方を許さない”
”もう、此処には来ないわよ”
”結局悪いのは、貴方じゃなかったのにね”
”今更一緒に居たいなんて、虫のいい話だけど”
”もっと、早く気が付けばよかった”
”――今まで、ごめんなさい”
◇
「……此処は、何処だ?」
眠りから覚めた俊樹は、直前まで見ていた夢の影響もあってか、多少意識の混濁した自分自身に言い聞かせるように呟いた。
知らないベッドの感触と、見慣れない天井の色を確認し、どうらや生きているらしいと思い至った俊樹。
飾り気無く清潔感と機能性だけを詰め込んだ様な部屋と、微かに鼻につく薬品の臭いで、どうやら病院の一室に居るようだと辺りを付ける。
寝ぼけた頭のまま目を擦ろうとして、腕に繋がれた点滴のチューブに気が付いた所で思いとどまる。
起き上がろうとしたが、どうも胸の辺りに違和感を感じ、そういえば自分は刺されたのだったと思い出した。
こういう場合はどうしたものか、幸い手を動かす位なら問題なさそうだ。
ナースコールでもすれば良いかと押しボタンを探して身じろぎすると、すぐ近くに人の気配を感じた。
「……華凛か」
顔を横に向ければ、イスに座った緋ノ宮華凛が、俊樹の寝るベットにもたれるように眠っている。
長い黒髪の一部が、俊樹の寝るベッドの上にまで広がっていた。
声を掛けようかと思った矢先、俊樹の動いた振動が伝わったのか、華凛も寝ぼけまなこを擦りながら目を覚ました。
「ふぁぁ……んーっ……あら。
俊樹さま、ようやく目が覚めましたのね」
「ああ、たった今目が覚めたばかりだ……」
背伸びをしながら俊樹と目が合った華凛は、まだ寝ぼけているのか一瞬ぽかんとした顔をした後に、安心した様子で微笑んだ。
思ったより近い距離に居る彼女の、黒い髪が肩からはらりと落ち、気を失う直前にも感じた甘い香りが、俊樹の鼻をくすぐる。
感じた香りを無意識のうちに確かめようと鼻を動かしていたのだろう、察した華凛が怪訝な顔で、自身の袖口の臭いを確かめ始めた。
「……私、汗の臭いでもしますの?」
「いや悪いな、少しその、髪の香りがしたのでな……。
よく覚えてないのだが、気を失う前に感じた香りと同じだと思ったのだ……嫌な物ではない、安心する良い香りだ」
「ふふ、何だか口説かれてるみたいですわね。
女性の髪から良い香りがするのは、皮脂の分泌が少ないのでシャンプーの香りが長く残る為、らしいですわよ」
「……何処かで聞いた事のある話だな」
「あら、ご存知でしたか」
そう言いながら立ち上がる華凛。
置かれていた水差しとコップを手に取ると、2人分の水を注いぐ。
起き上がろうとする俊樹の背中を支え、コップを持たせる。
寝起きの乾いた喉を揃って潤すと、改めて俊樹は華凛に向き直った。
「華凛が助けてくれたのだな、ありがとう」
「本当にギリギリでしたわ…俊樹さま、携帯は出れないと意味が無いのですからね」
「あ、ああ……すまん今後注意する」
やや非難する様な口調の華凛にあやまる俊樹。
そんなやりとりの後、安心した様に微笑んだ華凛は、俊樹が意識を回復するまでの出来事を語り始めるのだった。
◇
話を聞けば、俊樹が涼子の襲撃を受けてから、丸2日が経っているらしい。
幸い、多少血は流したものの、刺された傷自体は深く無く、腕などのその他のケガもかすり傷程度だと言う事だった。
「刃物自体が小さい上に、それほど鋭利な物では無かったのが幸いしましたわね」
「もし女性とケンカになった時に……投げられても刺さってケガをしにくい様に、と考えて、なるべく刃先の丸い物を選んだ」
その言葉に、またこの人はそんな事ばかり考えて…という感じで溜息をつく華凛。
もっとも、それが今回は俊樹の命を救ったのだから、彼女もそれ以上は言わないでいた。
もし、涼子が引き出しをもっと熱心に探して居れば、引っ越しの開梱に使った、大振りのカッターナイフが見つかっただろう。
それを使われていれば、俊樹も危なかったかもしれない。
又、包丁も刃先は刺さりにくいが切れない訳では無い。
そのため俊樹も首の動脈だけは切られない様、必死に守っていたのが生死を分けた。
それでも、華凛がもう少し遅れていれば危なかったであろう。
本当に運が良かったのだった。
「刺傷自体は浅かったのですけれど、斬れない刃物で無理に刺されましたので…少し痕が残るかもしれませんわ」
「そうか…別にその程度の事は気にしないが」
その後、駆け付けた華凛の蹴りを喰らって倒れた涼子は、警察関連の病院に入院しているそうだ。
骨まではいかなかったが酷く首をやったので、暫くは動けないだろうという事だった。
「後遺症なども無さそうですわ、やはり力任せの攻撃では駄目ですわね、次は必ず……」
「……あまり物騒な事を言うな、もう終わった事だ」
いずれにしろ、涼子には今回の傷害事件も含めて、罪を償わせなければいけない。
その為にも生きていて貰わなければ、そう思う俊樹。
そして学校の事件の方も、問題なく解決に向かっているらしい。
涼子の逃亡を許した警察だが、それ以外の部分では優秀だった。
「いずれにしても、暫く学校はお休みですわ。
署名もほぼ全員分集まりましたので、概ねシナリオ通りにいきそうですわね。
それに、今回”被害”に遭った生徒たちも、希望者には転入先を用意させておりますわ。
ただ、悪質な行為を行っていた生徒達は……それなりの処分を」
今回の件で、宮内涼子と関係を持っていた事が明るみに出てしまった男子生徒。
そして、教師達相手に”援助交際”を行っていた女子生徒。
元々の恋人がいた者たちは、今回の件で学校に居づらくなった。
多くの生徒は転入を希望しているそうだ。
「それで、日下部咲良は、どうするのだろうな」
「彼女は…今日、新しい校長先生と面談している筈ですわ。
その時に、答えをだすと思いますわよ。
俊樹さまは……日下部さんの事、どうお考えですの?」
どう、と問われて少し考え込む俊樹。
遠回しだが、華凛が言いたいことを察している俊樹は、その問いに答える。
「……恐らく好意を向けられている、というのは分かる。
だが私はな、今は特定の女性と、特別な関係になるつもりは無い」
「……やはり気が付いてますのね」
「朴念仁では無いのだ…ああも、あからさまで気が付かない訳が無いだろう」
「そうですけれども、俊樹さまは割と鈍くて察しの悪い所はありましてよ?」
言われて、苦い顔をしながら唸る俊樹。
入学時の盛大な勘違いの事もあるので、あまり反論出来ないのだった。
「まあ、咲良も今は、色々有って情緒不安定になっている。
落ち着いて彼女らしさを取り戻せば、もっと自分に合った男を見つけるだろう」
「……そうであれば宜しいのですけれどねぇ」
含みのある言い方の華凛に、何やら言いたげな俊樹だったが、意識回復を知った医者と看護師達が様子を見に来た事も有り、会話は打ち切られたのだった。
◇
邪魔にならない様に病室を出た華凛。
時間を潰そうかと考えていると、ロビーに見知った顔を見つけて、その隣に座った。
「ご機嫌よう、日下部さん。
俊樹さまなら、先程目を覚ましましたわよ」
「緋ノ宮、華凛……そう、俊樹目を覚ましたのね。
教えてくれてありがとう……」
いつもより大人しい恰好の咲良は、寝不足の眼の下に出来た隈を隠そうともせず、疲れ切った表情で答えた。
「酷い顔してますわよ……心配で、碌に寝てないのでしょう?」
「う、うるさいわよ……」
華凛の視線から逃げるように、顔を反らす咲良。
俊樹が刺されたと聞いて以来、碌に寝れなかった彼女。
話をするのも億劫な様子の咲良だが、華凛は構わず話しかける。
「それで、新しい校長先生にはお会いになったのですわね。
今後どうするか、答えは出ましたの?
学校に残るのか、転入して新しい場所でやり直すか」
「うん、決めた……あたし、残る事にする」
「……本当にそれでよろしいのかしら?
そそのかされてやっていたとは言え、貴女は限りなく主犯の宮内涼子に近い位置にいましたのよ?
加えて、今回の俊樹さまを襲った傷害事件。
この事件の事まで知れ渡れば、あの女の傍にいた貴女の風当たりは、より強くなります。
学校で孤立して後ろ盾の無くなった貴女は……ほぼ確実に、手酷い報復に遭うと思いますわ、卒業までずっと」
表情を消し、淡々とした口調で語る華凛。
そこには、咲良に何があろうと自分が助けることは無い、という意思が感じられる。
下唇を噛み締めながら、それでも意を決して話し始める咲良。
「……分かってる。それでも残るって決めたし」
「……そこまで、俊樹さまの事をお慕いしてますの?
あの人は多分、これから校内のガタガタになった人間関係や組織、その復旧や支援に動こうとする筈です。
ああいった性格ですから、自分から騒動の中心に首を突っ込んで、おせっかいを焼こうとしますわ。
でも、そこに今回の件で敵対していた日下部さん…貴女の居場所はありませんわよ?」
突き放す様に、はっきりと事実を告げる華凛。
その言葉に咲良は怒るでもなく、情けなく自嘲の笑みを浮かべる。
「あはは、やっぱそうだよね……でも、それでいいの。
あたしさ、別に俊樹と付き合えなくてもいいし。
ていうか、多分もうアイツには近づかないよ……迷惑になるから」
「日下部さん、何を考えてますの?」
「あたしみたいな女がさ、俊樹の傍にいたら評判悪くなるじゃない。
だからさ、想いを伝えたいなんて贅沢は言わない。
遠くからたまに…見守る事が出来れば、それで十分なの」
出会いは最悪だった、いきなりケンカを吹っ掛けた様なものだ。
その後は机を校庭に放り出すという嫌がらせまで行い、挙句に少し前まで恩師だと思って居た女の、今回の凶行。
もう合わせる顔が無い、そう咲良は思って居たのだった。
「それに、あたしみたいなのでも…居れば何か、アイツの役に立てるかもしれないし。
例えば、わざと悪い意味で注目集めて、俊樹が仕事し易くしてもいいし。
もし、アイツに反抗的な連中が多かったら、そいつら纏め上げて、一緒に自爆するつもりで、道連れで学校辞めてやれば……」
泣き出しそうな顔で悲壮な覚悟を語る咲良。
あまりにも重たい発言に、顔をしかめながら盛大にため息をつく華凛。
やや諦めたように、なげやりにその言葉を遮る。
「あーハイハイもう、分かりましたわ……。
日下部さん、貴女も俊樹さまが、そんな事をされて喜ぶとは思わないでしょう?
大体、俊樹さまが校内の人間関係や組織に、首を突っ込むのですから、あのお人好しが校内でのイジメや何やら、放って置く訳ございませんでしょうに。
そうやって意識されても逆にやり難いだけですから、もう貴女は気にせず普通に接すれば宜しいのですわよ。
大体、俊樹さまは天然ですけど、朴念仁では無いのですから、日下部さんの気持ちにだって察しは付いてますわよ。
もっとも、あの”拗らせ”を矯正しなければ、女性とお付き合いするなど無理ですけど」
突然態度を変えて捲し立てる様に話し出す華凛。
俊樹が咲良の気持ちに気が付いていると言われた事も、咲良の混乱に拍車をかけた。
慌てふためき頬を赤らめた後、ふと疑問に思い咲良は華凛に問いかける。
「……あのさ、華凛はその…俊樹の事、好きなんじゃないの?」
「…私は俊樹さまに対して、貴女のような恋愛感情はありませんわよ」
「え、そうなの……じゃあ何なのアンタ……?」
何と無くではあるが、華凛が俊樹を気にかけている事に気が付いていた咲良。
もしや恋愛感情から来る行動なのではと、内心焦っていたのだが、その嘘偽りを感じない華凛の返答に、拍子抜けしてしまう。
「とにかく、そろそろお医者様も引き上げてる頃ですわ。
今でしたら面会するのに邪魔も居ないでしょうから、さっさと俊樹さまの所に行ってらっしゃいな」
「え? わ、わかったわよ……?」
余り詮索されたくないのか、半ば強引に話題を切り替える華凛。
そのまま咲良を俊樹のいる病室に送り出そうとした所で、思い出したように口を開く。
「咲良さん、最後に一つ確認したいのですけれど。
新しい校長先生は、貴女の学校への在学を、間違いなく認めたのですわよね?」
「ん、そうだけど……新校長って、あの”お坊さん”の事で良いのよね?」
「そうですの……なら申し上げることは、何もありませんわ。
私も少し疲れましたので、一度帰宅して休ませて頂きますわね」
そう言いながら咲良を送り出すと、華凛は病院の出入口に向けて歩き出した。
◇
華凛が病院を出ると、よく知る小さな少女が歩いてくるのが見えた。
いつもと同じニコニコとした笑みを浮かべるその少女、星野芽々は、パタパタと華凛の前へ小走りに駆け寄る。
「どーもかりんさん! としきさんのお見舞いに来たんですけど、何処にいくんですか?」
「ご機嫌よう星野さん。
私少し疲れましたので、これから自宅でお風呂に入ってから少し休ませていただきますわ…汗の臭いも気になりますし」
言いながら、疲れたように溜息をつく華凛。
「かりんさん”ずーっと”、としきさんに付きっ切りでしたもんね。
もう目は覚めたんですよね? 今いっても大丈夫ですか?」
「ええと…丁度さっき日下部さんがお見舞いにきましたので、もう少し時間を置いて伺った方がいいかもしれませんわね」
「ああーなるほど。でもかりんさん、そういう方向で気を使う訳ですね。
……しかし、としきさんの事になると過保護ですよね。
なんでなんですかねー?」
「……あの人には、これから校内を纏める為に…色々と動いて頂かないといけませんから。
私は今回の件で、経営者側という立場になってしまいましたし、学校の清浄化のための旗印は、あの方にやって頂かないといけませんもの。
本人も恐らく、そのつもりでしょうし。
まあ……大切な友人として、ですわ」
「はーそうなんですね、それもそうですねー。
じゃあボク少し喫茶店で時間潰してから行きますね!」
言いながら引き返す芽々を見送ると、迎えの車に乗り込む華凛。
走り去る黒塗りの高級車を振り返り眺める芽々には、先程まで浮かべていた笑顔は無く、どことなく硬い。
「かりんさん、最初会った時からなんですよ、どうもボクの勘が…貴女を信用できないって言ってるんです」
誰も居ない道端で、独り呟く芽々。
「かりんさんが入学する前から、アナタの事は調べてたんですよ。
”緋ノ宮のご令嬢”なんて大物が入学すると聞いて、ボクが何も調べない訳ないじゃないですか。
かりんさんや、あなたのお母さんの情報は見つかりませんでしたが、お父さんとお兄さんの写真は、少ないながら見つけられましたよ」
富豪や上流階級などは、防犯上余りメディアに露出しない事も多い。
それでもネット上を探せば、遠巻きながらもその姿を確認する画像を発見できた。
「あの日、ふざけたフリをして、髪の毛に触らせてもらいましたが……間違いなく地毛でしたよね。染めた形跡も、ウィッグでもない。綺麗な”濡羽色の黒髪”」
思い出していたのは、俊樹たち4人が初めて顔をそろえた日の事だった。
『あら、わかります? 自慢の髪ですのよ、オホホホ。
何でしたら、触ってみても宜しいですわよ』
『あ、そうですか? じゃあ折角なので遠慮なく。
うわっ、マジでさらっさらじゃないですかー!』
「緋ノ宮家には、外国の方の血が入ってるんでしょうか……お父さんとお兄さんは、どちらも赤毛でしたよ。
本当か嘘か、その緋色の髪が”緋”ノ宮の名前の由来になってる、なんて話もあるみたいですけど」
あるいは、母親は同じような黒髪かもしれない。
偶然、華凛だけが黒髪に生まれたという可能性もある。
「飛びぬけた学力、高校生離れした武力、良い所のお嬢様って言っても限度がありますよね。
その歳で、どこまでストイックな人生を送れば、そこまでスペックを高められるんです?
それに、取って付けた様なお嬢様言葉。何かあなたは…全体的に嘘くさいんですよ」
確信は無い。殆ど芽々の勘のようなものだ。
だが彼女は、その嗅覚に頼り今まで生きてきた。
「かりんさん、あなた本当に”緋ノ宮”家の人間なんですか?
それとも――あなた、”本当は誰なのかしら?”」
聞く者の居ない星野芽々の問いは、風に流されて消えていった。