小説と”ぼやき”は永遠不滅か?(ジャンル再編に寄せて)
最近、「なろう」で作品ジャンルの再編成があった。
予想していたことだが再編成について様々な”ぼやき”が散見する。
だが”ぼやき”は再編成前からあった。
テンプレ是非論や異世界もの是非論など、”ぼやき”の方向性は様々だが、現状をぼやいている点は共通している。
私はどの意見が正しいのかわからないが、ただ「今どきの小説はつまらない」といった小説に関する”ぼやき”なるものは、私にとってある種の郷愁を喚起する。
というのは、大昔から小説には”ぼやき”がつきものだったからだ。
ネットでは出版不況のせいで小説が売れないといった”ぼやき”が目につくが、実は90年代末から始まったとされる出版不況の前の時代から、つまり出版業界自体が比較的潤っている時代から、小説が売れない、または小説がつまらないといった、小説にまつわる”ぼやき”はいくらでもあったのだ。
1.大昔からある小説オワコン説
70年代、80年代から小説オワコン説は盛んだった。もっともオワコンなる俗語は当時はなかった。
特に純文学の分野で小説オワコン説は恒例だったと言ってよい。
今どきの小説はつまらないし、くだらない。このままでは文学は滅びてしまう......。
そんな悲観論を権威ある評論家が唱える一方で、ときどきベストセラーが登場しては、この業界を延命あるいは発展させてきた。
そしてそのようなベストセラーの中には今でこそ文学史に残る傑作もあるが、発表当時はあらゆる評論家から絶賛されたわけではなく、2ちゃんねるの書込みのような酷評を少なからず浴びてきた。
今どきの小説はすばらしく、文学の未来は明るい、といった文学全体を肯定的に評価したコメントを、特に純文学の分野では、私は見たことがない。
2.”ぼやき”の原因は?
なぜ小説には”ぼやき”がつきものなのか。
作家は自分の作品が売れない、評価されない、原稿を買ってもらえないから、”ぼやく”。
読者や評論家は、自分が読んだ小説がつまらないから、”ぼやく”のであり、編集者は自分が担当した作品が売れない、評価されないから、”ぼやく”のである。
文学全体を”ぼやい”ているようで、実は自分に関係した作品に関する”ぼやき”なのだ。
これを「なろう」に当てはめれば、自分が書いた小説に誰もアクセスしない、あるいは誰もブックマークしないから”ぼやき”、自分が読んだ小説がつまらなかったから”ぼやく”、ということか。
その原因をジャンル再編のせいにしても、仕方がない。
いずれにせよ、これだけ長期間、オワコン説が唱えられながら、結果的に小説は生きながらえている。小説というジャンルは、これからもしぶとく生き続けるかもしれない。
そして小説にまつわる”ぼやき”もまた、寄生虫のように、小説とともに末永く存続しづづけるのだ。
3.小説家とマーケティングについて
最後に私自身の”ぼやき”にお付き合い願いたい。
「なろう」の作者は出版社に原稿を買ってもらうために、自分の書きたいものでなく、売れ筋の小説を書くべきだ、という主張を、最近「なろう」で目にした。
つまり作者が自らマーケティングをせよ、ということだ。
私の考えでは、マーケティングは編集者の仕事であり、作者の仕事ではないと思う。
程度にもよるが、基本的に作者は自分の個性を完全に捨ててまで、売れ筋の作風に迎合すべきではない。そうでないと結局、作者は駄作しか書けなくなる。
もし作者にマーケティングの才能があるなら、むしろ自分で出版社を起業することを私は提案したい。
「なろう」ではたくさんの作品が書籍化されているようだが、それでも書籍化されない作品、原稿をまったく買ってもらえない作者の方が、圧倒的な多数派ではないだろうか。
また、たとえ1作だけ書籍化されても、その後、定期的に出版社に自分の原稿が買ってもらえるという保証はない。むしろ長期間、小説家として勝ち組であり続ける作者の方が少数派だろう。
そう考えると、なおさら「なろう」では出版社に原稿を買ってもらうことを目標に作品を書くことの意味が小さくなる。
まずは誰か一人でもいいから、他人に自分の小説を読んでもらうこと。
そのためには、マーケティングは無視して、自分が面白いと信じる小説を書くべきではないか。
そしてそれこそが、他人が読むに堪える小説を書けるようになるための、”最短距離”に他ならない。
以上が底辺作者の私の”ぼやき”である。
しかしながら......”ぼやき”とは所詮、負け犬の口から洩れる、たわごとの集積でしかないかもしれないが......。
(完)