Evangelium01-2:ガレキの楽園
イヴが連れてこられたのは、年季の入った娼館だった。娼婦はめいめいが派手な衣装を身にまとい、男に媚を売る。男は適当な相槌を打ちながら、ベッドの上でのことを考えている。有史以来、変わらない光景だった。
ハオたちに連れられて、イヴは裏のスタッフルームへと入っていく。
スタッフルームと称されてはいるが、そこにはベッドと露出度の高い衣装が用意されていた。ハオは投げるようにイヴをベッドに寝かせた。ハオも馬乗りになる形でベッドに飛び乗る。
「いい加減そのボロ切れ取れよ。まずは点検だ」
言われて、イヴは麻布をつかんでいた手を離す。麻布がはだけると、ハオの顔から笑みが消えた。
「……なんだ、お前」
麻布に包まれていたのは暗闇だった。ハオは一瞬、ベッドに穴が開いたのかと錯覚する。その穴の縁に、イヴの頭が転がっていた。周りで見ていた取り巻きたちも唖然とする。視界に突然亀裂が走ったように、そこには闇が横たわっていた。
ハオたちが言葉を失っていると、ホールの方から悲鳴が聞こえてきた。ハオはどうにかイヴから目を逸らし、取り巻きに様子を見てくるようにと顎で指示をする。
一人の取り巻きが頷いて出ていくと、すぐに鈍い音がした。いつの間にか騒がしかったホールも静まり返っている。立て続けに起こる異常事態に、ハオのさっきまでの余裕はとうに消えていた。額には脂汗がにじむ。
イヴを除いた全員が、スタッフルームの入り口を注視する。
突如長身の男が踏みこんできて、入り口のそばにいた男が投げ倒されるまでは一瞬だった。
その隣にいた男はナイフを取り出すと、ナイフを持った腕を取られてそのまま腹を刺され、倒れた。
最後の取り巻きは闖入者に殴りかかったが、相手の腕の方が長かった。下顎に掌底を喰らい、脳震盪を起こして倒れた。
残ったのはイヴと、イヴを押し倒した自称神様だけだった。
ハオはイヴの上から飛び退き、部屋の隅へと逃げる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんだお前、警察か?」
一瞬で取り巻きたちを倒した男は、乱れたスーツの襟を正す。髪は丁寧に撫でつけられ、耳にはインカムが入っていて、一見すれば警察にも見える。
男が何も答えずにただ立っていると、もう一人、ワイシャツの上にコートを羽織った男が、あくびをしながら部屋に入ってきた。スーツの男とは打って変わって線が細く、中性的な顔をしている。あどけないようで隙のない表情から、年齢の判断は難しかった。伸びている取り巻きを心配そうに見下ろしながら、スーツの男の隣までやってくる。
「間に合ったみたいだね。佐伯、ちょっとやりすぎだよ。殺したりしてない?」
「ええ。あとはあの男だけです」
「取り押さえて」
スーツの男、佐伯が足を踏み出して、ハオは身をすくませた。しかし意外なことに、イヴが立ち上がって佐伯の歩みを止めた。
「……ヴァンタブラックか」
佐伯はイヴの姿を見て、すぐにそれが何かを言い当てた。イヴのボディースーツは光をほぼ百パーセント吸収するヴァンタブラックという素材が使われており、皺すらも見えない。
「なぜ邪魔をする?」
「彼が神様だからです」
佐伯に合わせて、イヴは日本語で答える。
「その男は田舎の娼館のこずるい支配人だ。住む場所のない難民の女性を捕まえては客を取らせ、自分は欲を満たすことしか考えていない」
「しかし、私を助けてくれました」
佐伯は困って振り返り、上司の指示を求める。視線を受けて、男はイヴの前までやってきた。
「……やあ」
「こんばんは」
「こんばんは。僕は伏見ヒロト。君の名前は?」
「イヴと名づけられました」
その名前を聞いて、伏見は驚いた様子を見せる。それから小さく笑った。
「良い名前だね」
「ありがとうございます」
「ううん、お礼を言うのはこっちだよ。君をずっと探していたんだ。そこのあなたも、ありがとう」
伏見はイヴの体越しに、壁際で小さくなっているハオを見た。
「なにもない! 女返す!」
ハオは片言の日本語でわめいた。その言葉に、イヴは振り返る。
「……私を幸せにしてくれるのではないのですか?」
「知らねえよ! 誰なんだよこいつら!」
中国語の怒号。ほとんど半狂乱のハオに、イヴは飛びかかった。伏見と佐伯があっけにとられる中、ハオは腕をひねられ、地面に組み伏せられる。情けない声が響いた。
「いてえ、折れる! 折れるって!」
「あなたは神様ではないのですか?」
「は、はあ? あれは例え話で――」
小気味良い破裂音と共に、ハオの腕が折れた。
「っがああああ」
「偽りの神を騙ることは許されません」
淡々と言いながら、イヴはもう片方の腕を取ろうとする。その腕を、佐伯がつかんで止めた。
「それ以上やると、我々も君を擁護できなくなる」
「しかし、教えには従わなければいけません」
伏見が歩み寄ってきて、イヴの前にしゃがみこんだ。
「もう君は自由だよ。教えに従わなくてもいいんだ」
「でも、教えに従わなければ幸せにはなれません」
「イヴ。君は幸せになりたいのかい?」
伏見に声をかけられ、イヴは頷く。
「……はい。善行を重ね、信仰を深めれば、いつか神のもとで幸せに暮らすことができると、教えられてきました」
「君の幸せって、どんなこと?」
「……私の、幸せ?」
それまで無表情だったイヴの眉間に、皺が寄る。
「美味しいご飯を食べた時? 柔らかいベッドで寝ている時? それとも、誰かに抱きしめられた時?」
イヴは何かを言おうと口を開くが、言葉は出てこなかった。
「君は幸せがどんなものかすら、知らないんだね」
「私は……私の、幸せは……」
イヴの体から力が抜け、床にぺたりと座りこんだ。伏見はイヴの後ろに回り込み、コートを脱いで肩にかけてあげた。そして、頭にそっと手を置く。
「イヴ。僕は君を幸せにしてあげるなんて大それたことは言えないけど、幸せを提案することくらいはできるかもしれない。一緒に来てくれるかい?」
イヴは半ば放心状態だったが、ゆっくりと首を縦に振った。
「よし、急ごう」
伏見も手伝って、イヴは佐伯に背負われる。
「怪我させてしまってすいませんでした。できればこのことは秘密にしてくださいね」
伏見は内ポケットから財布を取り出すと紙幣を数枚抜いて、横たわるハオの眼前に置いた。それを見て、ハオのうめき声が止まる。折れていない方の腕を使って体を起こし、紙幣をつかんでポケットへ押し込んだ。よだれと汗を垂らしながら、歪んだ笑顔を浮かべる。
「それじゃ、お大事に」
そう言うと、伏見たち三人はスタッフルームを出ていった。姿が見えなくなったのを確認して、ハオはまた苦痛に顔をしかめる。
「くそっ、なんなんだあいつら……」
悪態をつきながら、壁に背を預けつつ立ち上がる。倒れていた子分のところに行こうとして一歩を踏み出した時、沢山の足音がホールから聞こえてきた。ハオの表情が再度凍りつく。
ほどなくして、沢山の闇がスタッフルームに滑り込んできた。それはイヴのボディスーツと良く似ていたが、新たに現れた軍勢は頭まで黒に覆われていた。それぞれが奇妙な形のサブマシンガンを脇に抱え、銃口はハオたち全員に向けられている。
ああ、今日は厄日か。ハオは冷静にそう思った。
この作品はシェアード・ワールド小説企画“コロンシリーズ”の一つです。
http://colonseries.jp/




