Epilogue:いつか帰るところ
そこは美しい印象に満ちていた。
水彩画のように淡い色彩が溢れ、あるものはみな完全な形をしている。
しかしそのすべては印象でしかなかった。
大きな樹があった。よく見るとそれは無数の木が絡み合って一本になったものだった。世界を覆い尽くすように葉が生いしげり、国を囲う城壁のようにたくましい幹を持っている。
その大きな樹の根本。根と根の間にはさまるようにして、一人の少女が横たわっていた。白いワンピースを着たその少女は、胸の上に手を置いて、静かな寝息をたてている。
不意に強い風が吹いて、撫でるように少女の黒髪を揺らした。
少女は薄く目を開く。深く呼吸をしてまた目を閉じ、心地良いまどろみに戻ろうとする。すると、頬にひんやりとした柔らかいものが触れた。驚いて、今度ははっきりと目を開く。灰色の虹彩を持つ目に、黒猫の顔が映っていた。黒猫は少し高い位置にある樹の根に伏せ、前足を伸ばして少女の顔をぺたぺたと触ろうとする。
少女は近くにあった根につかまり、体を起こした。それから黒猫の顎をくすぐってあげた。黒猫はごろごろと喉を鳴らし、喜びを露わにする。お礼に少女の手のひらを舐めてから、
“ついてきな”
黒猫は心地良いテノールで鳴いた。
尻尾をぴんと立て、黒猫は少女をエスコートする。
森の中の川沿いを歩きながら、少女は不思議な懐かしさを感じていた。素足が感じる土の冷たさや、甘い風の匂い。木々のさざめき。記憶にはないはずなのに、どこかで体験したことがある。
夢で見たのだろうか。そんなことを考えていると、少し先に水車のある家が見えてくる。その脇には花畑が。少女は色とりどりの美しい花に惹かれ、猫を追い越していった。
花畑には存在しうるすべての色が溢れていた。にも関わらず、一つとして互いを貶め合うことなく、そのどれもが美しくあった。
少女は花畑に造られた小道を歩いていく。風に乗って漂ってきた甘い香りが、さらに強く鼻腔をくすぐる。これほどまでに美しい光景を見たことがなかったので、やはりここに来たのは初めてなんだと思うことにした。
花に見惚れながら歩いていると、いつの間にか水車のある家の前まで来ていたことに気がついた。
そこには一人の男がいた。白いシャツを着た柔和な顔の男は、家の前にある若い木から、赤い実を収穫しているところだった。
「おはようございます。すいません、急だったので何も用意できていなくて」
少女は男が何について謝っているのかわからなかったが、なんとなく首を横に振って応えた。
「ご苦労さま、クローディアス」
いつの間にか黒猫も追いついてきていて、男の足に体をこすりつけ始めた。黒猫の名はクローディアスというらしい。少女は呼びにくそうな名前だと思った。
ぼうっと立っていると、鼻先に何か冷たいものが落ちてきた。見上げると、白い空から落ちてきた雨粒が少女の頬を伝う。
「降ってきましたね。入ってください、お茶を淹れますので」
男は抱えていた赤い実をキッチンに置く。その際一つが床に転がり落ちて、それはクローディアスのおもちゃになった。
少女は戸口に立ったまま家の中を観察する。
その古びた小さな家はレンガ造りで、窓を流れる雨の雫が、部屋に不思議な模様を作り出していた。手作りらしい木のテーブルの上は、紙や本や食器で散らかっている。しかし不快な感じはしない。散らかるべくして散らかっているような、妙な安心感があった。
「座ってお待ちください」
男に言われて、少女はこれまた手作りらしい木の椅子に腰かける。視線の先では男がせわしなく動いて、ティーカップを用意しながらお湯を沸かしていた。
少女の足に何かが当たる。テーブルの下を覗きこむと、クローディアスが転がして遊んでいた赤い実が、つま先あたりに転がっていた。少女はそれを拾うと、クローディアスから少し離れたところに転がした。
クローディアスは姿勢を低くしたままじっと赤い実を見つめる。獲物が油断して動かなくなったことを確認すると、振り子のように腰を振って勢いをつけ、テーブルの下から飛び出した。
クローディアスは赤い実に一撃を見舞うと、勢いそのままに壁に激突した。その後我に返ったのか、何事もなかったかのように優雅に歩いて、部屋の隅にある木箱に入って丸まった。
それまで無表情だった少女が、口元をほころばせる。
「お待たせしました」
声をかけられて、少女は姿勢を正した。
男はテーブルの上のものを端に寄せてスペースを作り、トレイからカップとソーサー二客とポットを置いた。片方のカップを少女の前にやると、そこに湯気の立つ紅茶を注ぐ。果物の甘酸っぱい香りが部屋に満ちていった。
「どうぞ」
男は少女の正面に座ると、人懐っこい笑顔で紅茶を勧める。
「あの、ここはどこですか? 私は誰なんでしょう?」
「きっと頭の中は疑問だらけでしょうけれど、とりあえず一口飲んで落ち着いてください」
少女はわずかなもどかしさを感じながらも、カップを持って紅茶に口をつけた。
「ゆっくり思い出していきましょう」
この作品はシェアード・ワールド小説企画“コロンシリーズ”の一つです。
http://colonseries.jp/




