その2
エヌ氏は毎朝5時40分に起床する。布団から出たらすぐにテレビをつけて天気予報とニュースをながめつつ朝食をとり、出勤の支度をしてから6時54分のバスで2kmほど離れた私鉄駅に向かうのが彼の習慣だった。
しかし今日に限っては5時10分に目が覚めた。
やはり昨日の動揺がエヌ氏の体内時計を狂わせたのだろう。しぶしぶ起き上がったエヌ氏は昨晩あえて無視した鏡台と子供のおもちゃを調査することにした。
鏡台はそれほど大きなものではなく、年代物である。三面鏡はいずれも四隅が曇っており、木製の台はところどころ表面が剥げていた。
それにくらべて子供のおもちゃは一見して新品で、プラスチック製の網かごに納められていた。
男の子用のものばかりで、ミニカーや男の子向けキャラクターの絵がプリントされたカード等数種類のおもちゃがざっと数えて20品程入っている。
エヌ氏は寝室の他に物置に使っている部屋等も調べたが、異変があったのはどうも書き置きのあった居間と寝室のみであるようだった。
不思議な事件ではあるが、冷静に考えるならば単なる不法侵入及び不法投棄となるのだろう。
エヌ氏はこれは解決を急がねばならぬと決意し、上司へ電話で事情を説明し(ただしTwitterのことには触れなかった)2日程の休みをもらった。
朝食をとった後に深呼吸してから警察署に電話をして事情を説明すると、午後職員を寄越すので現場を
なるべく触らないでくれとのことであった。
刃物を振り回す女がいるわけではないから、緊急性はないのだろうが、いささか肩すかしであった。
しかし昼過ぎにエヌ氏はアパートの前に4台ものパトカーがきたことに驚いた。
暇を持て余した巡査が散歩がてら事情を確認に来るのだろう、くらいの気持ちでいたので、私服刑事と制服の警官8人に囲まれて根掘り葉掘り聞き取りされたエヌ氏はヘトヘトになってしまった。
1時間程で警察は調べにメドをつけた。
鏡台の引出から「S田K子」の名前の入った化粧品の類が出てきて、警官から心当たりはないか聞かれたのだが、いくら頭をひねっても心当たりはない。
おもちゃは市内の某大型店で購入したものらしいことがわかったが、この店もエヌ氏は行ったことがない。
刑事から書き置きを残した「多恵」さんに心当たりはないかと聞かれたエヌ氏はウンウンうなりながら悩んだ挙げ句、Twitterでのちょっとしたお遊びで…という、幾分オブラートにくるんだかたちで「設定」の説明をしておいた。
去り際、長らしき私服刑事から、迷惑でなければ鏡台とおもちゃはそのままにしていてくれと頼まれ、エヌ氏は少々気味は悪いが、確かに邪魔というほどのことはないので、しばらく置いておくことになった。
長らしき私服刑事はヤクザみたいな顔をほころばせてパトカーを4台連ねて帰っていった。やっと帰っていってくれたというべきか。
やれやれと一息ついたエヌ氏は上司に概略を電話で説明してから、気分転換に映画でも見に行くことにした。
駅前にある映画館へはバスで15分ほどである。
バスに揺られるうちにエヌ氏は昨晩の自分の「解決策」を思い出した。
Twitterを開き「妻の機嫌は直ったようで、子供を連れて帰ってきた。これから一緒に映画を見に行くことに。」という旨ツイートしておいた。
警察にあれこれと話すうちにエヌ氏は落ち着きを取り戻し、ファンタジー説は遠のいていたが、どこかにちょっと期待するところは残っていた。