その1
エヌ氏は某県中核市の市役所職員である。彼は独身で、毎日バスと電車を乗り継いで出勤しているが、その通勤時間に唯一の趣味であるツイッターをしている。ツイッターの上で彼は妻と一人の子供を持っており、毎日妻とこういう話をした、子供とこう遊んだ、などと書き連ねるのだった。
ある日彼は何か変化をつけたくなり、妻と言い争いをして離婚寸前だ、子供の親権は妻が持っていきそうだ・・・という書き込みをする。もちろん彼の自由な脳内世界での出来事である。しかしDMが来た。開いてみると以前からちょっと気になっていた女性アカウントからの夫婦仲を心配する内容だった。
「以前からあなたのツイートを拝見し、心を安らげておりました。なんとか夫婦仲をもどし、平和な家庭になってください。」とある。エヌ氏は悩んだ。自分の欺瞞だらけのツイートに心を揺さぶられている女性がいる。自分のフォロワーは15人ほど。いったいなぜ彼女は私をフォローしているのだろうか。
エヌ氏の心は千々に乱れる。率直に言うとDMを送付してきた女性アカウントに会ってみたくなったのだ。「妻子は私の妄想で、ただの冗談です。」と打ち明けるか。いや、そう打ち明けるにはエヌ氏はあまりにもリアルな家庭生活を過去にツイートしてしまっていた。打ち明けた途端に狂人扱いされるのではないか。
ここでエヌ氏はある決意をする。「不倫」
もちろん妻子のないエヌ氏が女性アカウントに言い寄ろうとしたところで不倫ではない(相手が独身であればだが)。しかしいきさつ上、この決意は不倫である。
平の吏員であるエヌ氏は今まで平々凡々に暮らしてきた。そこそこの地元高校を出て、県立大学に通い、成績は人並み、サークル活動も人並み、就職は手堅い市役所職員、そして38歳の今、独身である。彼は自分の人生に満足していたのだが、今、その満足が虚像であることを知った。
通勤時間、エヌ氏はツイッターで女性とDMを交わしていた。一文字一文字、一文節一文節ごと推敲し「妻」への不貞を勘づかれないよう、女性に興味をもっていることを伝えた。しかし、エヌ氏は次第に不思議な気持になってくる。自分の妻子は妄想の中の存在であるはずなのに心が苦しくなってくるのだ。
エヌ氏は昔から設定にはこだわる方であった。幼稚園の頃は友達とのごっこ遊び、小学校に入ってからのスポーツ、中学高校で知った歴史趣味等、全てに妄想の世界を広げていたが、その世界の設定は微に入り細にわたり決められていた。
鬼ごっこであればこうだ。鬼は彼の中では身長190cmの巨漢で、角は一本、肌は赤、播磨の言葉を喋る。鬼は近くの村から奪った財宝を取り返しに来た一行(これが逃げ回る方である)を追いかけ回すのだ。追いかける鬼は鬼一族の中でローテーションでついている警備役で、その勤務時間は3時間
見張りをしている最中にやってきた一行を見つけて「なんでよりによって俺の時に現れた。面倒な!」と怠惰な怒りを持って追いかけてくる。彼に触れられると人間はたちまちしなくずれてしまい、鬼の魔力によってその触れられた者が今度は鬼になってしまう・・・
・・・といった風にエヌ氏は子供の頃から鬼ごっこであってもこのような設定を必ず毎回していた。もちろん彼の想像の中にとどまるものであり、友人にこれを話すことはない。
そんなエヌ氏であるから、妻子の設定は自身が騙されるのではないかという凝りようであった。その凝りようが裏目に出たか。女性へ思いを寄せるDMを書く度に妻子を裏切る自分に嫌悪感が募るのである。次第に心が苦しくなる。もう駄目だ、私は、言い争いはしたものの妻子を裏切ることは出来ない。
バスから転げるように降りたエヌ氏は誰もいない自宅へ駆け込んだ。家の鍵を開ける。誰もいないのだから当然自分で開ける。居間の電気をつける。誰もいないのだから当然自分でつける。エヌ氏の心はこの一連の作業で落ち着きを取り戻しつつあった。
しかし、ちゃぶ台の上に置き手紙があった。
「翔光は連れて行きます。多恵」
翔光と書いて「ひかる」と読むこのキラキラネームは彼の設定上の一人息子の名前である。ツイッターの上では「ぴっかり君」と呼んでおり、この名前を知るものは彼以外存在しない。多恵は同様に自分の設定上の妻である。もちろんツイッターの上でその名を使ったことはない。個人情報の管理のためである。
しばし息を呑んだ。良く見ると置き手紙の筆跡は左利きの者の特徴がある。エヌ氏は多恵は左利きであることを思い出した。彼女は両親の教育方針から左利きの矯正は受けずに育った。だから我が家や左利き用の道具があちこちにある(設定である)。
もしかしたら妻が左利きであることはツイッターの上で明かしたかも知れない。しかし置き手紙はどうしても解せない。エヌ氏は置き手紙を見つめた。時間を忘れて見つめた。
エヌ氏は書き置きを見つめ続けること数時間、考えを巡らせていた。この書き置きは誰がしたものなのか。私をストーキングする女性(男性かも知れない)が私のツイートを分析してやった犯行、であればDMの女性が怪しい。しかしいったい私を誰がストーキングするというのだろうか。
あり得ないことではないが、どうにも信じられないことである。そうだ、実は私は狂っていて、実際に妻子を持っている。そして妄想をたくましくするあまり設定であると思いこんでいたことが実は現実で、私が現実だと思っていた事が設定であった、これならばどうだろうか。
これならば全てのつじつまが合う。いや、あわない。妻子がいるのであれば私のこのアパートには私の他の人間の生活の痕跡があるはずだ。エヌ氏は部屋を見渡した。居間には一見してそのようなものはない。無いのだが、ふと疑問に思った。このアパートは2LDKである。一人暮らしには広すぎる
ファンタジーな荒唐無稽さで解釈するならば、現実が私の設定世界を浸食しつつある。いや、逆か。設定世界が私の現実世界を浸食している。まあ、よく考えたらどちらでもよい。これならばどうだろうか。なにせファンタジーであるからつじつまなどいくらでもあう。
夜も11時を回った頃エヌ氏は一つの解決法を見つけた。事の発端は妻との口げんかを設定してツイートしたことなのだから、妻の機嫌が戻って妻が帰宅したとツイートすればいいのではないだろうか。
自分の設定世界はツイートが全てではなく、ツイートはそのごく一部に過ぎないので問題なかろうと思うようにした。このアクションでどうなるだろうか。現実的解釈であればストーカーはなんらかの動きを見せるだろうし、自分が実は狂人であるという仮説であれば実際にいるかも知れない妻がなにかの反応を示すかも知れない。
ファンタジー解釈が万一正しければ、妻と仲直りをしたという設定が現実と折り合いをつけてくれるかも知れない。エヌ氏はいまだスーツ姿であったことに気付き、今夜はもう風呂も飯も気分が乗らないため、寝間着に着替えて寝ることにした。
寝室の布団は敷きっぱなしの筈だったのだが、きちんとたたまれていた。そして片付けられた子供のおもちゃと女性用の鏡台も部屋の片隅にある。
エヌ氏はもう考えまいと決意して寝るのであった。