道化師
彼が遅くに帰宅すると、彼女は消えていた。彼は最初、意味が分からなかった。いや、キッチンを見た時、瞬時に思いつきはしたが認めたくなかったのか。
寝室も浴室もトイレも確認したが、彼女はいなかった。
部屋は綺麗に整頓されていて夕食の用意もあらかた出来ていた。机上には可愛らしいデコレーションが施されたパンプキンタルトが置かれていて、今日は南瓜尽くしなのか、パンプキンカレーと、切りかけの野菜たちがまな板の上に放置され、包丁が床に転がっていた。
――どうして、どこにいった、サク
取り乱しそうになる彼は己に必死に言い聞かせる。冷静に考えろと。
――サクが出かける訳がない、特に今日は出ないでって言ったんだ。サクは俺に忠実だ。
ぐるぐると思考が駆け巡る。色んな顔が脳裏に浮かんでは消えていった。
――誰に連れて行かれた。誰だ。サクに知り合いなんて、いない。俺しかいない。……軍にあの夜のことがばれた……? 誰か目撃者がいたってことか? あんな夜中に? 落ち着け、あらゆる可能性を考えろ。
サクの能力を知っているのはレトリア家に、レトリア傘下のカンツィローネ、レトリアに雇われた孤児院の科学者たち。
もしかしたらエルディー家にも知られているかもしれない。
エルディー家はサクの居た孤児院を燃やした奴らだ。サクを拾った後、上手くあいつらの目を眩ませたつもりだったが、どこかでばれたのか?
軍を統括しているユグラス家に、レトリア家、エルディー家は三竦みの状態だ。
軍が能力者を見つけたなら、能力者は処刑される。
だが他の2家は、見つけたなら自分たちで能力者を使おうとするはずだ。
現状俺とサクはカンツィローネの元にいる。抗争に協力する代わりにサクの秘密を守るという条件だ。……そしてカンツィローネには近いうちにサクを貸し出す予定があった。サクが俺の命令しか聞かないのは知っているはず、今サクを攫ってなんになる。
……レトリア家にはサクを奪う理由はある。俺たちがカンツィローネに協力しているからと言って、レトリアにも協力しているわけじゃない。だから、攫ったのか?
しかし下部組織のカンツィローネの意向を無視して、攫ったりしないだろう。
イカれた奴らがレトリア家を無視して独断で攫ったのか? でもサクなら簡単に勝てるはず、何か力を使えない状況に追い込まれた? いやそれとも、カンツィローネの誰かが上を裏切ってサクの情報を……それはない、マフィアの裏切は死に値する。ならエルディー家か?
考えてはいるが一向にまとまらず、故に彼は立ち尽くしたまま足元から這い上がってくる絶望に全身を強ばらせていた。
――どうすれば、どうすればサクを取り戻せる、どうすれば、サクを攫ったのは誰だ、待て、どうして俺はサクを取り戻そうとしている?
彼は、立ち尽くす。
――……利用するだけ利用して、捨てるはずだった……危なくなったら身代りにしようと……嘘だ。
優しくしたのも特に意味なんてなくて、嘘だ。俺が危険を冒してまで取り戻す必要なんて
嘘だ!!
心が彼を責め立て、叫んだ。
――ああ……もう……嘘はつけないんだ――
彼は唇を噛みしめて、膝から崩れ落ちた。
――……、そうか。ああ、そうだよ。……ずっと前から分かってたんだ。俺は、サクのことが、好きで。だから……だから取り返すんだ。サクなしではもう、俺も生きていけないんだ。
彼は泣きそうな顔で諦めるように認めた。
――ずっと一人でいいと、思ってたのに、……君を知ってしまったから。もう前の俺には戻れない。
君のせいだ。君の隣が心地よくて。もう手離したくないんだ。
彼は両手で苦しげに顔を覆った。
しばらくそのままでいた彼だったが、やがてゆっくりと顔を覆っていた手を離し、両の手を握り締めた。自身の想いをようやく受け止められた彼の眼には、何かを決断したような強さがあった。
「もういいですか?」
誰もいないはずの背後から声をかけられ、彼は肩を揺らして振り向いた。
「驚きますよね。勝手に失礼していますよ。それにしても、ずいぶん整った部屋です。その南瓜のタルト、美味しそうですね。食べていいですか?」
「……誰だ。どこから入った」
「窓から?」
「……、俺が訊いているんだ。窓からだと? ここ2階だぞ、お前まさか」
「勝手に侵入したことは謝りますよ。ちょっと落ち着いてください、ね?」
ピエロのような恰好の男が、閉まっている窓の縁に腰かけ悪戯に微笑んだ。
彼はキッと睨みつける。
「まずは自己紹介。僕は道化師です」
そう言って自称道化師の男はかぶっていたハット帽を胸の前に置き、舞台上にいるかのようにきれいなお辞儀をした。肩よりやや下で切り揃えられた濃いオレンジと薄い紫の髪が、お辞儀に合わせて肩から流れるように滑り落ちる。
「自己紹介になってない、何者だ」
「教えてあげてもいいんですけどね? 君は僕の正体なんかより、もっと知りたいことがあるんじゃないですか?」
彼は訝しげに男を睨み据える。
「レトリア家は今、誰によって総べられているかは知っていますよね」
彼は眉をひそめた。
「そんなこと、誰でも知ってるさ」
「ふふ、そうでしたね。レトリア家はローグ帝の弟、ジーグ様によって統括されています。そのジーグ様が常日頃、ご自分の方が帝にふさわしいとおっしゃっているようで」
「なに? ならカンツィローネが武器を集めていたのは、レトリア家の命令だってのか? ……武力転覆なんて話、大げさすぎて信じられないな。嘘をつくならもっとましな嘘をつけ」
「ですが、レトリア家が武器を集めているのは事実です。あなたも協力したでしょう?」
「ああ、情報は流してやったさ。だがそれが、サクがいなくなった事となんの関係がある!」
「熱くならないでくださいよ。君は冷静そうに見えて案外単純ですね、それとも彼女が絡んでるから」
「うるさい! お前は何を知っている、答えろ、サクはどこだ!」
「僕が攫ったんじゃあ、ありませんよ。ロイアルが連れいていってしまいました」
「ロイアル……!? なぜロイアルが! 誰かがばらしたのか!? サクは生きてるのか!!」
男は呆れたとばかりに首を振り、小馬鹿にしたように額に手を当てた。
「まだ生きてるんじゃないですかー? 僕はそこまで知りません。僕があなたに伝えなければならないことは、伝えました。帰らせていただきます。……しかし、お互い利用されている者同士、ちょっと反抗してやりましょう。特別にヒントを1つだけ」
男は彼に耳打ちする。
「僕はレトリア家の駒です。これ内緒」
「レトリアだと?」
男は彼の見ている前で窓を開け、飛び降りた。
「え、おい!」
彼は慌てて窓から身を乗り出すが、下を見回しても仮装した連中だらけで、それに紛れてしまったのかハットの男は見つからない。念のため横も上も見回すが、誰もいない。
不法侵入者は現れた時と同じように忽然と消えていた。それとも何かしらの能力だろうか。
彼は緊張が緩んだのか、ため息を吐く。
――いったい何なんだ。武力転覆なんて、何を言い出す。……あの男の言ったことが本当かは分からないが、もし本当にサクが軍のロイアルに連れて行かれたんだとしたら。ロイアルは能力者専門の処刑機関。どこからばれたなんて考えている暇はない。
彼は不安によろめく心をなだめる様に深く深呼吸すると、すぐに電話を手に取った。