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バランスドール  作者: 冬野灯
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窒息

 彼女は彼の心情を否定するようにしっかり頷き、

「心臓にナタを刺しました」

 淡々と告げた。

――今朝の被害者は全員、鉈で殺されたらしい。え、え、え? ほんとに?



 全ての説明を聞き終えた彼は、彫刻のように完璧な無表情をたたえ、数分間、瞬きと呼吸しかしなかった。

 彼女もうつむいて大人しく対面にしている。しかしあまりにも動かない彼に不安をあおられたのだろうか、彼の袖を指先でつまみ引っ張った。だが彼は動かない。彼女は悲しそうに目を伏せた。



 唐突に彼が深呼吸をした。彼女は顔を上げ、何故か期待をたたえた目で彼を見つめる。

――それにしては、朝はいつも通りだった。というか俺は……何か期待されてるのかな。何を期待してるんだ君は。んん、そういえば。昨日腕が震えていたのはそのせい? ……いや、最初に聞くべき質問がそれでいいのか。ちょっと待て。そんなに期待するな。俺に何を求めてるんだ。最初の一言が、物凄く重要な気がしてきただろ……俺の一言次第で、君は、牢屋にだって簡単に入ってしまうんだ……


 彼は彼女から目を逸らす。

――5年間一緒だった居候がいなくなるんだ。少しくらい寂しいのは当たり前で……、嫌だ、君が俺から離れるなんて嫌だ。絶対に許さない。だって、君は便利な女なんだから。まだまだずっと利用するんだから。


「ねぇ、サク」

彼女はいつのまにか目に涙をためている。

――泣きそうになってる。ねぇ君は、一体何を考えているんだい。思考回路がぶっ飛んでるね?


「……俺と、っ」

――おい待て、まてまてまて、ずっと一緒に居てくれだって? まるで恋人じゃないか。何か他の言葉は、えーと、えーっと、


「俺は」

――君が好きだ。あっあっあぶあぶあぶねえええ。


 言葉を飲んだ彼に、彼女は首をかしげる。その拍子に涙が一粒、零れ落ちた。

 彼は、とっさに彼女を引き寄せ抱きしめてしまった。


――あ、あれ、勝手に体が。

勝手に彼女を抱きしめる力も強くなる。彼女の涙をなんとかしたいと思って、でもやり方が分からない。ひとまず彼女の頭を撫でて安心するように顔をすり寄せてみる。


――なんだか俺の方が、泣きそうだ。どうして、俺が泣くんだろう。

「大丈夫、大丈夫だよ。誰もいなかったんでしょ?」

 彼が彼女を包み込み優しく言うと、彼女の瞳から、今まで堪えていたのだろう涙がとめどなく溢れては零れ落ちていった。

 彼は彼女の双眸から溢れだす涙を指ですくう。


「トンネルの中で影を出したなら、誰にも見られていないよ。大丈夫。君は捕まらないよ」

彼女と目をあわせる。

 彼は、彼女の綺麗な水分が、彼女の一部が、零れ落ちていってしまうような気がした。泣く時でさえ彼女の顔が人形のように動かないのを、初めて知った。

――綺麗。

 心臓が痛いほどに彼に何かを訴えた。けれども彼は、なぜ心臓が痛むのか分からない。


「君は俺のでしょう。俺から離れるなんて、許さないから」

心臓が痛くて、彼女の涙を止めさせたくて、額にキスをして、彼女をぎゅっと抱きしめる。

――俺は、サクのことを愛してない。愛してなんかない。愛は嫌いだ。サクのことは大好きだ。けど、だからこそ愛なんかじゃない。愛なんてもんじゃないんだ。




 彼女は泣き疲れて眠ってしまった。彼は彼女を横抱きにして寝室へ運ぶ。ベッドに寝かせてさてどうしたものかと悩み始めた。彼女が彼の服を掴んだままだからだ。

――なんとなく、一人で寝かせるのは気が退けるな。そもそもサクの手を払えない。いつもなら簡単に手を放せるのに。今日はどうしてか、泣かれた後だからかな。俺も不安定になってるのかもしれない。


 しばし逡巡し、彼は諦めたように彼女の隣に寝転んだ。

――眠ってしまおう。昼だけど、やることもないしいいさ。昨日打ち込んだ原稿は、また空いてる日に。


 しかし寝ようと思ってすぐに寝れるわけではない。まだ太陽は真上にあり眠気なんてどこを探してもないのだ。


 彼は彼女の寝顔を見つめる。その顔に残る涙の跡を手で優しくなぞれば、何故泣いたのか理由が気になった。怖かったのだろうか。一体、何が。殺人鬼? 

――いや、刃物なんて見慣れているはずだ。殺されそうになるのも幾度となく経験しているはずだけど。死の恐怖というのは何度経験しても慣れないものなのかな。……そもそもサクに死の恐怖なんてものがあるのか。銃を突き付けられたって表情が変わらない女なのに? ああ、考えてもわからない。俺はサクじゃないからね。


 彼は目を閉じて、徐々に思考が鈍重になってくるのを感じた。

――というか、サクは、どうして昨日のうちに、話さなかったんだろ……俺が忙しそうに、してたから? 俺が、冷たかったから。……ねぇ、サク……たまにね、君と一緒にいると、反吐ヘドが出そうになるんだ。どうしようも、なくて。サク、お願いだから俺から、離れていかないでよ。




 彼が起きると、窓の外も部屋も真っ暗で隣に彼女はいなかった。

 しかしキッチンから音がしている。

――なんか、作ってる?……あ、何時。

力の入りきらない手でベッドの上に置いてあるはずの置時計を探す。

――ああ、腕時計したままだ……6時。過ぎ……秋って、暗くなるの早いな、冬か。

 思考がまとまらないままに、とりあえず布団を剥いだ。体を起こし、壁に背を預ける。大きな欠伸をして、彼はまだぼんやりしている。

――サク、泣いてたけど、もう大丈夫かな。



 彼がリビングへ行くと、キッチンに居た彼女が振り向き、寝起きの彼と見つめあった。

 彼女の目は赤いが腫れてはいない。擦らなかったからだろうか。


 彼のぼやけた頭には次々と言葉が飛び出してくるが、どれを選べばいいか判断がつかない。口を開けたり閉じたりしてから、無難な言葉を吐き出した。

「ごはん、なに?」

彼は彼女に近づき軽く抱きしめる。

「もう、だいじょうぶなのかい」


 選ばれなかった言葉たちが頭の中で渦のようにまわるのが、寝起きの頭にはかなり辛い。彼はいっそ全部言ってしまえば楽になるだろうか、と思う。しかし脈絡のない質面攻めや心配事を言い散らすと彼女が仰天するだろう。それでも彼女は律儀に、1つ1つ丁寧な言葉を彼に届けるだろうか。


「はい、大丈夫です。ルッツが、」

彼女は彼の背中に腕を回す。

「俺が、なに?」

「ルッツがいるなら、私はいつでも大丈夫なんです」

「俺がいたら、大丈夫、なの?」

――やっぱり、君は、どうでもいいんだね。

「はい。私はルッツがいてくれるなら、他はどうなってもいいので」

――君は俺じゃないんだよ。

彼は息苦しくなって、彼女の肩に顔をうずめた。


 ――君は、『心』があるってことも、もう思い出したくないのかい。


 彼女は彼の頭を撫でる。慰めるように。目の前の人生から目をそらし続けて、1人分の人生の重さを、丸ごと大切な人に背をわせてしまっていることに気づかずに。

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