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バランスドール  作者: 冬野灯
3/12

コロシマシタ

「はーあー……」

 彼は高い空を眺めて、長い溜め息をついた。気だるく表通りを歩く。

 黄色く色づいた銀杏イチョウが道の脇に立ち並んで、風にさわさわと鳴っている。


――このまま行くと広場だ……朝は賑わってたけど、もう人もいくらか減ってるでしょ。憂さ晴らしになにか買って帰ろうか。


 広場に近づくにつれ多少は混雑してきた。彼はわざと剣呑ケンノンな空気をまき散らして、

――誰も俺にぶつかるな。ぶつかった奴は財布をる。財布を掏る。財布を掏る。

と念じながら歩く。


 人々は彼の目付きを見た瞬間、道を譲り彼を避ける。

おかげで邪魔されることなく市場を通り抜けることが出来た。いや、通り抜けてしまった。

――ああ、買うの忘れてた。

「ちっ」

のんびり歩いていた腰の曲がったお婆さんが、背筋を伸ばして若干走った。


 彼はもう機嫌の悪さを隠そうともしないようだ。

――全く嫌になる。今日はなんて厄日だ。女なんか死んじまえ! ……ああ、サクはいいよ。サクは例外だから。あれは便利な女だよねー。女だけど。夜誘ってこないし。俺なしじゃあ生きられないんだから、何でも言うことを聞いてくれる……あんな便利なものよく拾ったな。一生俺のだ。



 彼は家路を辿りながらそういえば、と思い出した。

――サク、何か知ってるみたいだったな。新聞屋に売れるかもしれないし、さっさと帰ってさっさと訊こう。



 黙々と歩いていると、朝に通り過ぎたパン屋が見えてきた。いたる所で開かれていた小会議はすでに解散したようで、街は落ち着きを取り戻したようだった。


――お昼はパン……サクは何がいいだろう。何を買っていっても全部喜んで食べるから、好き嫌いが未だに分からないんだよね。

考え耽りながら、足は勝手にパン屋へ進む。


――俺はもしかして、サクの好きなものがわからない? こんなに、5年も一緒に居るのに。でもいつも喜んでるからなんでも好きなんじゃ……あぁ、一回セロリ食べ辛そうにしてたな。それからはセロリ買わなくなったんだ。



 彼はパン屋の扉を開く。同時に扉に吊ってある鈴の音が可愛らしく鳴った。

 奥から熊のような大柄の男店主が出てきて目が合う。

「らっしゃい」

彼はにこやかに会釈する。

――何も決めずに入っちゃった。えーと、

「パネトーネ2つ、それからー……ロゼッタも2つ」

「はいよ」

彼はパンの包をぶら下げ店から出てきた。



――なんとなく察しはついてるけどね。サクは、ないんだ。何も。空っぽで……だから、なんでもいいんだよ、味は。……俺がいないとサクは生きていけないって言うけど。サクは俺を、この世界に留まるための理由にしてるんだ。……俺を通してこの世界を見てる。そんな気がする。


 彼はなんだか辛くなって、うつむいて歩いた。ふいに周りが暗くなって目線を上げる。いつの間にかトンネルをくぐっていたらしい。


――サクは……今のままでいい。俺なしで生きられないなら、俺から離れることもないじゃないか。都合の良い女でいいじゃないか。

 胸の痛みに気づかないフリをしてアパートを見上げる。サクがソファーの上で死んでいるような気がした。




 変な想像をしてしまったせいで階段を駆け上がってきた彼は、そのままの勢いで部屋へ駆け込む。すぐに彼女を見つけ、大きく息を吐いた。安堵が胸に広がり激しく脈打つ心臓を落ち着かせた。


 彼女は目を丸くして驚いている。

「ル、ルッツ? パン買ってきたんですか? ……そんなに急ぐほど食べたかったんですか?」

――え、いやいや、パン食べたいからって、っんなに、は、急ぐ訳、ないでしょ、はぁ、疲れた。

「あ! 水が欲しいんですか? ごめんなさい、気が付かなくて」

―あぁ、サクって、思い込みがっ、激しい、タイプだよね。




 ソファーに座り、買ってきたパンを2人とも食べ終わった後で、彼女は出し抜けに告白した。

「昨日、人を殺しました」

「へぇ…………え、え?」

彼は数秒ほど思考が止まる。

「え、え、ええ? え……ええええ?」


 『え』としか言わない彼に、黙する彼女。

――え、え? いや、いやいやいや! 黙らないで! そこで黙るの!?

「ちょっ……と、よく、分からないな、コロシマシタって、どんな意味があったかな!?」

――まってまってまって、え、ちょ、まって。


 彼女はソファーの前の机に指を滑らせた。どうやら文字を書いているらしい。

 彼は唾を飲み込み、目に力を入れてわずかな動きも見逃すまいと、その指を追いかける。

 彼女は4回ほど単語を書いた。


――書いてる、よね。確実に『KILL』って書いてるよね。

「殺人って意味で、あってるのかな」

彼の声がわずかに震えた。


――間違っていてくれ。俺の知らない言葉もあるはずだ。それとも何か、カカシでもずたぼろにしてしまったのか。それとも、人形をずたぼろに。今どきの人形はリアルだから、それとも、


 しかし彼女は彼の想いを否定するようにしっかり頷き、

「心臓にナタを刺しました」

淡々と告げた。

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