コロシマシタ
「はーあー……」
彼は高い空を眺めて、長い溜め息をついた。気だるく表通りを歩く。
黄色く色づいた銀杏が道の脇に立ち並んで、風にさわさわと鳴っている。
――このまま行くと広場だ……朝は賑わってたけど、もう人もいくらか減ってるでしょ。憂さ晴らしになにか買って帰ろうか。
広場に近づくにつれ多少は混雑してきた。彼はわざと剣呑な空気をまき散らして、
――誰も俺にぶつかるな。ぶつかった奴は財布を掏る。財布を掏る。財布を掏る。
と念じながら歩く。
人々は彼の目付きを見た瞬間、道を譲り彼を避ける。
おかげで邪魔されることなく市場を通り抜けることが出来た。いや、通り抜けてしまった。
――ああ、買うの忘れてた。
「ちっ」
のんびり歩いていた腰の曲がったお婆さんが、背筋を伸ばして若干走った。
彼はもう機嫌の悪さを隠そうともしないようだ。
――全く嫌になる。今日はなんて厄日だ。女なんか死んじまえ! ……ああ、サクはいいよ。サクは例外だから。あれは便利な女だよねー。女だけど。夜誘ってこないし。俺なしじゃあ生きられないんだから、何でも言うことを聞いてくれる……あんな便利なものよく拾ったな。一生俺のだ。
彼は家路を辿りながらそういえば、と思い出した。
――サク、何か知ってるみたいだったな。新聞屋に売れるかもしれないし、さっさと帰ってさっさと訊こう。
黙々と歩いていると、朝に通り過ぎたパン屋が見えてきた。いたる所で開かれていた小会議はすでに解散したようで、街は落ち着きを取り戻したようだった。
――お昼はパン……サクは何がいいだろう。何を買っていっても全部喜んで食べるから、好き嫌いが未だに分からないんだよね。
考え耽りながら、足は勝手にパン屋へ進む。
――俺はもしかして、サクの好きなものがわからない? こんなに、5年も一緒に居るのに。でもいつも喜んでるからなんでも好きなんじゃ……あぁ、一回セロリ食べ辛そうにしてたな。それからはセロリ買わなくなったんだ。
彼はパン屋の扉を開く。同時に扉に吊ってある鈴の音が可愛らしく鳴った。
奥から熊のような大柄の男店主が出てきて目が合う。
「らっしゃい」
彼はにこやかに会釈する。
――何も決めずに入っちゃった。えーと、
「パネトーネ2つ、それからー……ロゼッタも2つ」
「はいよ」
彼はパンの包をぶら下げ店から出てきた。
――なんとなく察しはついてるけどね。サクは、ないんだ。何も。空っぽで……だから、なんでもいいんだよ、味は。……俺がいないとサクは生きていけないって言うけど。サクは俺を、この世界に留まるための理由にしてるんだ。……俺を通してこの世界を見てる。そんな気がする。
彼はなんだか辛くなって、うつむいて歩いた。ふいに周りが暗くなって目線を上げる。いつの間にかトンネルをくぐっていたらしい。
――サクは……今のままでいい。俺なしで生きられないなら、俺から離れることもないじゃないか。都合の良い女でいいじゃないか。
胸の痛みに気づかないフリをしてアパートを見上げる。サクがソファーの上で死んでいるような気がした。
変な想像をしてしまったせいで階段を駆け上がってきた彼は、そのままの勢いで部屋へ駆け込む。すぐに彼女を見つけ、大きく息を吐いた。安堵が胸に広がり激しく脈打つ心臓を落ち着かせた。
彼女は目を丸くして驚いている。
「ル、ルッツ? パン買ってきたんですか? ……そんなに急ぐほど食べたかったんですか?」
――え、いやいや、パン食べたいからって、っんなに、は、急ぐ訳、ないでしょ、はぁ、疲れた。
「あ! 水が欲しいんですか? ごめんなさい、気が付かなくて」
―あぁ、サクって、思い込みがっ、激しい、タイプだよね。
ソファーに座り、買ってきたパンを2人とも食べ終わった後で、彼女は出し抜けに告白した。
「昨日、人を殺しました」
「へぇ…………え、え?」
彼は数秒ほど思考が止まる。
「え、え、ええ? え……ええええ?」
『え』としか言わない彼に、黙する彼女。
――え、え? いや、いやいやいや! 黙らないで! そこで黙るの!?
「ちょっ……と、よく、分からないな、コロシマシタって、どんな意味があったかな!?」
――まってまってまって、え、ちょ、まって。
彼女はソファーの前の机に指を滑らせた。どうやら文字を書いているらしい。
彼は唾を飲み込み、目に力を入れてわずかな動きも見逃すまいと、その指を追いかける。
彼女は4回ほど単語を書いた。
――書いてる、よね。確実に『KILL』って書いてるよね。
「殺人って意味で、あってるのかな」
彼の声がわずかに震えた。
――間違っていてくれ。俺の知らない言葉もあるはずだ。それとも何か、カカシでもずたぼろにしてしまったのか。それとも、人形をずたぼろに。今どきの人形はリアルだから、それとも、
しかし彼女は彼の想いを否定するようにしっかり頷き、
「心臓に鉈を刺しました」
淡々と告げた。




