カンツィローネファミリー
翌朝、彼女が目覚めると夜中に感じた温もりは消えていた。
――ルッツ。いない。どこ?
彼女は覚束ない足取りで寝室の扉を開ける。リビングの窓から部屋いっぱいに朝日が差し込んでいた。
思わず手で光を遮り、顔をしかめる。
「おはよう」
玄関の方から彼の声が聞こえた。
――いた。……だれ?
「ルッツ、おはようございます」
彼は玄関で見知らぬ男と話しているようだった。手帳とペンを持った、生真面目そうな中年男が口を開く。
「彼女にも訊きたいんだが」
「ああ、そうですね。サク、軍の方が来ててね、こっち来て。今朝そこのトンネルで男の人の死体が発見されたみたいなんだ。それからちょっと行った先にも女の人の死体が2つあったって。物騒だよねぇ」
彼は物騒と言いながらも我関せずといった様子だ。彼女はぼさぼさ頭のまま玄関へ来てつったている。
「起き抜けで申し訳ないが、昨日何か見なかったか。怪しい人や声、音が聞こえたりとか」
彼女は目をしぱしぱさせながら答える。
「いいえ、何にも」
「本当に些細なことでもいいんだ。悲鳴や何か聞かなかったか」
「……いいえ」
「そうか」
男は残念そうに手帳を閉じる。
「また伺うかもしれんが、その時は調査の協力を頼む」
「もちろんです。早く捕まえてほしいんでね。といっても俺たちに協力できるかは分かりませんが」
「……何か少しでも思い出せば連絡してくれ」
「はい、もちろんです」
「失礼する」
男が帰った後、彼は彼女の頭を手ですきながら言った。
「顔洗ってきなよ、朝はフレンチトーストでいいかい」
「はい」
彼女は彼の言うとおりに顔を洗いにいく。身支度を軽く整えリビングへ戻ると、机の上にフレンチトーストの乗った皿とコーヒーカップが置かれていた。
彼は椅子に腰かけ、新聞を読みながら尋ねる。
「昨日帰り遅かったけど、何か見た?」
「はい」
「そ。今聞いておきたいんだけど、そろそろ出ないと」
読んでいた新聞を机の上に捨てた彼は、全身鏡の前に立って身だしなみを確認する。
彼女は彼が無造作に置いた新聞を綺麗に畳み直した。『孤児院火災から5年、いまだ多くの謎を残し……』見出しにさほど興味も湧かず机に置きなおし、彼に秋物コートとカバンを渡して玄関まで見送った。
「じゃあ、昼には帰って来るから」
「はい」
彼女は欠伸を噛み締めて返事をする。
まだ寝起きでふにゃりとしている彼女の顔を見て彼は頬が緩むが、玄関の戸を閉めると表情を引き締めた。
彼が螺旋階段を下りアパートの扉を開けると、冷たい風が吹き込んできた。
――もうすぐ冬かな。寒すぎない、この季節が一番いいかもしれない。
彼はアパートの近所に住む人たちと、すれ違いざまに愛想よく挨拶を交わす。
今朝発覚した事件のせいか、あちこちで立ち話している人が目立った。不安そうな御老人や、興奮気味にくっちゃべっている奥様方。大人の会話にいれてもらえなかった子供たちは聞き耳を立てている。
彼は時計台のトンネルを抜け、花屋とパン屋の店主に挨拶をする。仕立て屋の娘たちが集まって会話していたが、彼が現れると一様に口を噤んだ。彼はいつものことだと気にもしないで挨拶をする。眉目端正な顔で微笑まれた娘たちは、頬を染めしどろもどろに挨拶を返す。
何処も彼処も事件の話題で持ちきりのようだった。
彼は腕時計を確認すると少し歩調を速めた。朝市で人がごった返している広場を避けて裏通りを歩く。しばらく道に沿って歩いていると、市場の喧騒が遠のいた。裏通りから馬車が通る大通りに出ると、いくつもの似たようなレンガ造りの建物が建てこんでいる。そのうちの1つに近づき、彼は慣れたふうに門の呼び鈴を鳴らした。
周囲と大差ない建物だが、堅固な門はどこか殺伐として閉鎖的な雰囲気を醸し出している。この呼び鈴を遊び半分で鳴らそうものなら、上階の窓から銃弾が飛んでくるだろう。なぜならここはマフィア・カンツィローネファミリーのバレス支部なのだから。
間もなく扉が開き、屈強な男が彼を見下ろした。
「ルッツ・ヴェルマー様ですね。お待ちしておりました。どうぞ中へ」
男が門の錠を解き、彼は屋内へ招かれる。
「サフドさん、いるかい」
「はい、いらっしゃいます。すでに応接室にてお待ちです」
「そう」
彼は豪華な赤色の絨毯を踏みしめ、2階の応接室へ繋がる階段を上る。2階の壁際には値段のわからない絵画や壺が並んでいて、彼は此処へ来る度に、うっかりそれらにぶつからないよう注意していた。
案内人が扉をノックする。
「ルッツ・ヴェルマー様がいらっしゃいました」
「入れ」
間髪入れずにものものしい男の声が聞こえた。
案内人が扉を開け彼が中に入ると、頭を丸刈りにしたごつい体格の男が黒いソファーに腰かけていた。室内は男の放つ厳粛的な雰囲気に支配されている。
――立ってるのは俺なのに、なぜだかいつも見下ろされてるような気がするね……それにその眼、止めてほしいな、見透かされてるみたいで気持ちが悪い。
「サフドさん、お待たせしてしまったようで」
心とは裏腹に慇懃な態度で頭を下げる。背後で扉の閉まる音がした。
「いや、まだ3分前だ」
サフドという男は悠々と答える。
彼はサフドに促され、机を挟んで対面のソファーに腰を下ろした。
「武器商人の件ですが、連絡先の番号が手に入りました」
早々と本題に入る。
「そうか。確かだろうな」
「ええ、しかしまた移動するようで。今日を含んで3日後までに連絡しなければ一から探すことになります」
「3日か、ご苦労。番号は」
「○※■*◆△です」
「今確認を取らせる」
サフドは番号のメモを走り書くと立ち上がり、部屋から出て行った。
サフドと入れ替わるようにして小間使いの女が彼に紅茶を運んでくる。
――ああ、またか。うっとおしいな。
紅茶を机の上に置き、女の役目はそこで終わりだ。しかしなかなか立ち去ろうとしない。仕方なく彼が女を見ると、女は頬を赤らめて髪をせわしなく触っていた。
「ありがとう」
彼は冷めた声で礼を言い視線を窓の外にやる。女はそれ以上のやり取りはできないと踏んだのか一礼して部屋を出て行った。
――ほんっとに此処に来るたび毎回毎回ぞろぞろと。人の顔をなんだと思って。女はどれも大嫌いだ。俺を苛々させるだけさ。あんな股の軽そうなやつ誰が相手にするっての。
一人きりになった彼だが、姿勢は崩さず紅茶にも手をつけない。
――サフドはまだか。早く帰りたいね全く。情報手に入れてやったのは俺、じゃなかった、サクだから。報酬はきっちり頂いてから帰るけどさ。
その後も2回、それぞれ違う女からお手拭や紅茶のお代わりを尋ねられたが、彼はにべもなく断った。
女からの舐めるような視線に晒されて彼の胸に苛立ちが込み上げてくる。されど周囲には全く気取られないよう物静かに待っていると、ようやく封筒を持ったサフドが部屋に戻ってきた。
「待たせたな」
「いえ」
彼は柔らかな声と笑みで応じる。けれどもサフドは、その人の良さそうな笑みを見て口を釣り上げた。
彼がサフドの表情を訝しむと、
「相変わらずの色男だな」
笑いを耐えた声で言われた。
――こいつは俺をキレさせたいのか
「そんなことありませんよ。サフドさんには敵いません」
慌てず、上辺だけの言葉を返す。
――俺は自分が思ってる以上に表情が顔に出てるのか? それともこの男が鋭いのか。
「まあそう気を悪くするな。そういや、お前んとこの近所で殺人があったらしいな」
「はい。今朝、軍が聞き込みに来ました」
「なんか情報はねえのか」
「今朝耳に入ったばかりですからね。これから調べますよ」
「有益な情報があるなら売りに来い。カンツィローネに、な」
サフドはファミリーの名前を強調し、彼の目を射抜くようにして告げた。
「ええ、私はカンツィローネファミリーには随分よくしてもらっていますから」
彼はサフドの目を臆することなく見て答える。
――なにがよくしてもらってる、だ。
彼は心中で、己と目の前の男を嘲笑った。
「……これが今回の報酬だ」
サフドは言いつつ札の入った封筒を机の上に滑らせる。
彼はそれを手に取り中身を確認した。
「確かに。約束通り受け取りました。それではまた御用がありましたら何なりと」
柔らかな笑みを崩さず言って、ソファーから立ち上がる。
「ああ」
サフドは彼の一挙一動を目で追う。彼は扉の前で丁寧に一礼してから部屋を出た。
――やっぱりあの眼は苦手だ。
しかし一息つく間もない。彼が部屋から出てくるのを待ち構えていたように
「出口まで案内いたします」
最初に紅茶を運んできた女が慎ましく会釈をした。
彼は辟易して無言で突き進む。傍目から見るとその行動も、クールな男と補正がかかるのだが彼は気づかない。
――慎ましいって言葉の意味を誤解してるんじゃないか? この女バカだな。
出そうになった溜め息を全身全霊で飲み込んで、勝手知ったるとばかりに角を曲がる。
女は先に歩き出した彼に慌ててついていくが、
「あ、あの……」
取り合ってもらえない。
――此処には何度も来てるし、出口ぐらいならわかるっての。監視目的でもあるんだろうけどね、俺もわざわざ自分から身を滅ぼしたりしないね。武器とかって、どうせ地下にでも仕舞ってあるんでしょ。
そそくさと出口へ向かうと、もはや速足どころではなく走っていた女に、
「急いでるんだじゃあね」
目も合わせずに言い捨てる。錠は開いていたので彼は自分で門を開き出て行った。
あっという間の出来事に女はしばし開け放たれた門の手前で立ち尽くす。気付いた時には彼の背中は遥か彼方にあった。