真夜中のトンネルで。
若い女が夜更けの道を足早に通り過ぎる。あたりは静まり返り、彼女の履くハイヒールが石畳に反響するだけだ。街灯があるとはいえ、女が一人で出歩くにはいささか物騒な時間帯である。
時計台の下にあるトンネルを抜けたら、あと少しでアパートに着く。しかし家路を急ぐ彼女は漂ってくる異臭に気づきその足を止めた。
――鉄の臭い。それに混じってなにか……卵?……くさい。……まるで血と臓物の臭いね。
彼女は周囲に目を配らせるが、別段変わったところはない。家屋の窓は閉め切られ、窓や外壁に血が飛び散っているわけでもない。道端に死体が転がっているわけでもなく、何処にも異変は見当たらない。何処にも異変は見当たらないのに、ただ臭いだけがあたりに立ちこめていた。警戒しながら歩き出した彼女の背に、家と家の狭間の路地から何かが忍び寄る。
――酷い臭い……早く帰ろう。ルッツはもう眠ってしまったかな。それとも、待ってくれているのかな。
彼女が短いトンネルにさしかかったとき、血濡れの鉈をぶら下げた男が涎を垂らして背後に迫る。
――ああでも、もし待ちくたびれていたら。急がなくちゃ。ルッツを待たせるなんて、
風切り音がして、彼女はゆっくりと振り向いた。
――邪魔しないで。私は早くルッツに会いたいの。
血濡れの鉈は男の手から離れた。腰を抜かした男は恐怖に体をわななかせる。その目に映っているのは、およそ今までに見たことのないものだった。夜の闇よりもさらに濃いうねうねと動く黒い蔓のような物体が、男の持っていた鉈を掴み上げる。男は恐怖に支配された体をどうにかこうにか動かそうとした。しかし震える手と足は虚しく地面を滑り、為す術もなく鉈に心臓を切り裂かれた。血が噴き出し、赤黒い鉈を新鮮な赤が染め上げる。恐怖に目を見開いたまま男は絶命した。
彼女は鉈に巻き付けていた黒い蔓のようなものを自身の足元へ引きずり込んだ。殺した男を少しの迷いもなく捨て置き、襲われる前と変わらないペースで歩き出す。服には一滴の染みもない。黒い蔓を吸い込んだ彼女の足元の影は元通りに、彼女の姿を地面に落として大人しく付き従った。
――ルッツ、ルッツ、待っててね。
彼女はすでに殺した男のことなど忘れ、ルッツという男のことしか頭にない。
殺された男が出てきた路地裏に、もう一人の男が佇んでいた。黒いパーカーのフードを深くかぶった男は、一部始終を見ていたようだ。
「解体屋、殺されてしまったか。けれどようやく見つけたよ。あの影は確かに女の足元へ帰って行った。……あれから5年かかってしまった、ようやくだ。……エルディー様の笑顔が目に浮かぶ」
男は口の片端をつり上げて、闇の中に溶け込んでいった。
彼女はアパートの扉を開く。奥にある螺旋状の階段が2階と3階へ続いている。彼女は軋む木の階段を2階まで上り、廊下を進んで突き当りの角部屋の前に立った。半日ぶりの自宅だ。扉を開けると、奥の部屋にはまだ小さな明かりが灯っていた。
――あ、音が。帰ってきたかな?
タイプライターに打ち込んでいた男は手を止め、椅子から立ち上がる。彼が足音のする方へ体を向けると同時に彼女が人形のように無表情な顔で彼に抱きついた。
「ルッツ、ただいま」
「おかえり、サク」
彼女の腕は小刻みに震えている。彼は彼女の腰に手を回し、頭を撫でながら問いかける。
「あいつらの連絡先は? 居場所は分かった?」
「連絡はつきます。電話番号を覚えてきました。でも、ごめんなさい。居場所は分かりませんでした。電話なら、少なくとも4日間は私の教えてもらった番号で連絡を取り合えるそうです」
「そう、よくやったね」
彼は事務的な声で褒める。彼女は彼を見上げ嬉しそうに微笑んだが、彼はニコリとも笑わず尋ねた。
「番号教えてくれる?」
「○※■*◆△です」
「そう、お疲れ様。震えてるけどどうかした? シャワーでも浴びてきたらいいよ。ご飯は冷めてしまったけどキッチンにあるから」
言いながら彼女の肩を押し、体から引きはがす。そして電話を手に取った。
彼女は彼の電話の邪魔にならないためか、彼から離れキッチンへむかう。冷めた料理を机に並べ、あまり音を立てずに食べ始めた。今夜はパンと野菜スープだけのようだ。しかしいまだに彼女の両手は震えている。
――人を殺したなんて、言えない。ルッツの手間になるようなことをして、怒られるだけで済むのかな。ルッツは優しいから、何もお咎め無しかもしれないけれど。でも、どうしよう。迷惑だと思われたら。嫌われたら。……置いてもらえなくなったら……。
彼女は震えを抑えるように、スプーンを握る手に力を込める。
――後から言ってもどうにもならないこともある。それこそ厄介だと思われたら……
彼女はきつく握りしめたスプーンをスープに浸し口に運ぶ。
「夜分遅くに失礼します。フリーライターのルッツ・ヴェルマーです。…………はい。連絡先がわかりました。……そうですね、明日の午前10時はいかがでしょう。……はい。では、失礼」
彼は電話を切り椅子に座ると、背もたれに寄り掛かった。背を伸ばし首をぐるりと回す。指の関節を鳴らして、再びタイプライターに打ち込み始めた。
――こういうことは早めに言った方がいいよね。どうせ言うなら早い方が。でも今はまだ仕事をしてるみたいだし……後でにしよう。……それより、どうしてさっきから震えているのかな。外はそんなに寒くなかったんだけど。…………どうでもいいわ。私が震えていたってルッツには関係ないもの。ああでも、もし寒くて震えているのなら、風邪をひいたら大変。ルッツに移してしまう。
彼女は手早く食事を済ませ、簡単に食器を洗うと体を温めるため浴室へ行った。
程なくして彼女が浴室からリビングへ戻ってくると、彼はまだタイプライターと向き合っていた。
――まだかかってる。いつまでやるつもりなのかな。
思いつつブランケットを手に取り彼の肩にかけようとする。
「いいよ、ブランケットは」
「はい」
「先に寝てなよ。俺もすぐ行くから」
「わかりました」
彼女は彼の言うとおりに寝室へ向かう。
――明日、言おう。今日は疲れてそうだし。
彼女はベッドに潜り込むと、彼がやって来るのを待ちきれずに重たい瞼を閉じた。
まどろみの中で体が引き寄せられるのを感じた。抱き竦められ身動きが取れない。しかし心は休まったようで、深い眠りに引き込まれていった。