(9)
すごい光景を目の当たりにして内心どきどきでいっぱいです、僕。制服のままだけど寄り道してよかったのだろうかと今更考えていたりする。隣にいる龍次は涼しい顔で「入りますか」と促してきたが、外観からして後込みしてしまう。
「龍次、あのさあ、ここ……」
「大丈夫。僕も一緒ですからご心配なく」
柔らかな微笑みを浮かべる彼の背中に、どうも黒いものがうっすら漂って見えるのは錯覚だと思いたい。悪巧みしている雰囲気というか何というか……父さん、日本の子はなかなか押しが強くて色々と心臓によろしくないです。
そういえば浩貴の弱みなんか一つも握っていないと言ったのが始まりだった。二人共意外そうな顔で、しかしすぐに「じゃあ握ればいい」とにんまり笑ってみせた。言うのは易いが浩貴が僕にそんな事を教えてくれるわけがない。
「なら、自分で掴みに行きましょうか」
さわやかに口にされた事はよくよく考えたら恐ろしいものだったと今ならわかる。けれどその時は僕もノリノリで目を輝かせて龍次の提案に乗っかってしまった。浩貴に悪いなとかいう理由で後悔しているわけじゃない。週末の放課後、学校から直接連れられてきた先が明らかに場違いな所だった所為だ。
外からも見えるショーケースの中にずらりと並んだケーキの数々。ライトの加減もあってきらっきらです。外観はシンプルなのに中は豪華で――うわ、シャンデリア? あれ。デカいよぴかぴかだよすごい。
何だかもう綺麗でかわいいとしか言い様がない内装である。文句なしに、女子には堪らない空間に間違いない。でも、僕ら、男子高校生なんです。入りにくいったらないなもう! 友紀も来てくれればよかったけれど、三人だと目立つからやめとくわってさらりと断られてしまったのだ。何だそりゃ。
「あのさ……ここも龍次の家のなんだよね?」
「ええ。四年ぐらい前ですかね。姉が言い出してがっつり拘った店で……もうちょっと客層広い感じにしたらよかったのにと思うんですけどねいつも」
龍次も苦笑い。わかってるなら言ってやれよ。身内だろ。
「ホントにいいの」
「はい?」
「……や、龍次は入っても平気なんだよね」
「やっぱりこういう所は気後れします?」
「うっ……うぅん……」
僕は甘いものが好きじゃないのでこんな店に入った事がない。ほんのり漂ってくる甘い香りにも既に気力を削がれ始めていた。
「いや。やる事がやる事なんだし気合いは要るよね、うん」
これがどう浩貴の弱みに繋がるかを想像するのは後回しにしよう。見ればわかるのだから考えるだけ無駄だ。とにかく中に入らないと全貌が掴めない。
「弥坂君もですけど、李君も面白いですね」
龍次は目元を緩めながら言って、先に店のドアを開いた。彼の家の店ならば勝手知ったるという感じなのは当たり前か。
いらっしゃいませと迎えてくれた店員は若い女性で、二名様ですねとさくさく席に案内してくれた。やっぱり女性客ばっかりか! 浮いてるよ間違いなく! 友紀がいた方が少しはマシだったんじゃないかこれ?
「お決まりになりましたらお呼び下さい。スイーツはケースで見て選んでいただけますので」
「ありがとうございます。見せていただきますね」
「……あの、失礼ですがオーナーの弟さんでは……?」
店員さんがそっと尋ねてきたのを龍次は「ええ、まあ」と同じくそっと答えた。
「オーナーに御用でしたらお呼びしますけど……」
「いや、今日は私用で来ただけなのでお構いなく。ゆっくりさせていただきますね」
「左様でしたか。何かありましたらお申し付け下さい」
彼女は軽く会釈してテーブルから離れていく。龍次、いつもこんななのか君。間抜けな事だとはわかりながらも訊きたくなってきいてしまった。
「いつもじゃないですよ。あの方は偶々ご存知だっただけで」
「やー……何かすごいな。いいとこの子の雰囲気がこう――ぶわっと……」
「君もご実家ではそうでしょう?」
不思議そうに言うけれど僕の家はこんなのじゃないです。全然違います。子どもが会社のビルになんか行ったりしません。服買いに行く前にちゃっちゃとあてがわれてるから、系列店に一人で買いに行くとかも無いです。……これも他の人からすれば【いいとこの子】の環境によるものか。物が違うだけか。
「やっぱ違うんだなぁ……ピンキリだね、こういうのも」
「ははは。それはさておき、何か飲みますか?」
「あ、うん……」
メニューを開いて見せてくれるのでどれにしようかとしばし悩む。
「……うん、コーヒーで」
「甘いものはやっぱり無理ですか?」
「だねえ……龍次は好きなの?」
「すごく好きというわけじゃないですけど食べますよ。偶にこれ、食べたくなったり」
指された先は【パンケーキ】の一覧だった。フルーツやクリーム・アイスなどなどが添えられた絵は――僕にはどう頑張っても完食できそうにない物ばかりです食べられる人達尊敬する。
「結構いくね……」
「友紀さんなんか大喜びですよ。いつか制覇したいとか何とか」
「わあ、そうなんだ」
「ちなみに上半分まで制覇してらっしゃいます」
「っ……!」
上半分。五種類。五回は来てるのかあの子。五回もこの店で、こんなに甘い物をお腹に入れたとかそんな。更に下の四つも食べちゃうの本気で?(目眩がしますテーブルにおでこ打つ前に持ち直した僕エライ)
「李君、気持ちはお察ししますがしっかりして下さい」
「ーーうん、……うん、大丈夫。大丈夫……」
目に手をあてて深呼吸。ちょっと落ち着こう。
「聞きしに勝る甘いもの嫌いですね」
それほどまでとは思いませんでした、と龍次は驚いているようだ。我ながら過剰反応だとは思うけれど現時点では自分がこんなケーキをぱくつく姿は想像もできません。見るだけでも十分だ。
項垂れている間に龍次は近くにいた店員を呼び止めて注文してくれていた。男子高校生二人はやはり目立つらしくさっきから視線を感じるような……どこを見ても女性ばかりの店内。店員さんはさすがに男性もいるみたいだけれど、お客さんの中には二、三人いるぐらいである。彼女らしき女性と一緒で。
「僕はケーキ見てきますけど、李君どうしますか?」
「……行く」
ぽつんと座っているのも落ち着かない。見るだけ。龍次がどんなのを選ぶかもちょっと興味がある。
長いショーケースの中は色鮮やかで、整然とカットケーキが並んでいる。ホールケーキやタルトだって見た目からして【おいしそう】だ。他のお客さんの表情もきらきらしているし、魅力的な空間なのは僕にもわかる。これが甘いものじゃなかったら・僕も甘いものが好きだったら同じように喜んでいただろう。
「すごいね……どれも」
「そうですね。好きだからこそこれだけできるんですよきっと」
「龍次、どういうのが好きなの」
「僕ですか」沈黙。「これとかこれ……ですかね」
札に目を走らせるとビターチョコのケーキと、抹茶ムースらしい。どちらもシンプルな見た目である。他にもプリンだとかシュークリームだとかあっさりした物がちらほら。
「こういうのなら、苦手な人でも一口ぐらいならいけるもんなのかな……?」
「食べてみますか?」
「いい! もったいないから、いいっ」
「遠慮しなくていいんですよ? 僕が好きで連れてきたんですから」
そう言われても値段が。立地も何もかもを考えたらこうなるとは思うけれどまあまあいい値段である。一口しか食べられないのにそれを注文できるほど神経図太くない。丁重にお断りすると龍次は近くにいた店員を呼び止めて自分の分だけ注文した。用は済んだので再び席に戻る。
「……で、さあ。ここに何があるの」
「そうそう弥坂君の件ですよね」
忘れているわけじゃないようで安心した。
「彼、甘いものに目がないのはご存知ですか?」
「そうだっけ?」
前の事を振り返ってみるが、確かにおやつの時とてもおいしそうに食べていたなという程度の記憶しかない。
「相当ですよ。最初連れてきた時もなかなか決められなかったみたいで、じーっとあそこから離れなくてね。見るのも食べるのも好きなんですって」
「似合わない……!」
「好きなものには弱いというのは彼も例外じゃないようですよ。結局二つは食べてたかな? あれだけきちんと味わってもらえればケーキも本望でしょうねえ……」
「はー……」
意外な一面を知った。浩貴は甘いものが好きなのか。あの顔と中身でショーケースの前でどれにしようか迷いまくったとかそんな。見てみたかったな、その時の光景。
「弱みってこう……何かあったら甘いものちらつかせろって事?」
「それもありですけどね」にっこり。「あっち。見えますか」
龍次は僕の背中側に視線を投げかける。言われるままに首を捻って窺って、ひっ、と喉の奥が引きつったのがわかった。慌てて身を縮める。ここが隅っこでよかった多分あちらからはよく見えないはずだ。
お客さんのテーブルで端末を手に注文をとっているのは間違いなく浩貴だ。バイトしてるとかいう話の時言葉を濁していたのは場所がここだったから?
「まずくない? 気付くんじゃないかなさすがに」
「お仕事中なので目に入ってるようで入ってないみたいです。いつもこちらから声掛けないと気付きませんし……友紀さんがいると気が付く率が高くなるので彼女、来なかったんですよ」
龍次は何回も浩貴がバイトしてる所に居合わせた事があるらしい。友紀が一緒だったりバックヤードでだったりはその時々で違うそうだが、余程近くに行かないと向こうは気付かずスルー状態だと……そんなに集中してるのか、あいつ。
「……どんな目してるんだろう」
「皆茄子にでも見えてるとかですかね。真面目ですし仕事となると意外と緊張するタイプなのかもしれません」
誰が笑いを誘えと言った! いやそれはいいけどこっちは制服でただでさえ他のお客さんより浮いてる状態だ。途端に落ち着かない。
「そんなにびくびくしなくて平気ですよ。普通に観察してみては?」
彼もここじゃいつもみたいな無愛想な顔はできませんから、と龍次は平然としている。観察、ですか……?
営業スマイルというはっきりしたものではないが、いつもの雰囲気とは違う。仏頂面で接客はできないので当たり前か。浩貴はフロアをあちこち行き来していて、慣れた様子でお客さんを案内したりサーブしたりと忙しそうだ。
「……あんな顔見たこと無いな……バイトっていつからやってるか知ってる?」
「去年僕が紹介したんですよ。僕も時々手伝ってたんですがちょっと忙しくなったので――姉に誰か女性受けしそうなのを連れて来いと言われまして」
お姉さんの注文にも驚いたが、その注文を受けて浩貴をチョイスした龍次にも驚きだ。受け……いいのか。(あ。何か若いお客さんと喋ってるよ、ええー…? 何あれ違う人にしか見えない物腰の柔らかさ!)
「よく引き受けたなぁ浩貴」
「彼にしてみたらいいバイト先なんじゃないですか? スイーツだらけで」
ある意味生殺しじゃないのか、それ。
「余ったら時々持って帰れますしね」
「ああ、そういうのってやっぱりあるんだ?」
「性格的にも合ってると思いますよ。細かい所も気が付きますし。ここなら学校のメンツがそんなに寄ってこないっていうのもよかったみたいです」
「見られるのが嫌だから?」
「多分。まあ、そういう気持ちからバイト先を選ぶ人も少なくないと思いますよ」
色々と条件が重なっての、ここ。なるほどね。頑張ってるんだなあ浩貴も。
こうして見ていると接客と一口に言っても色んな事をしなきゃいけないし、皆に平等にサービスしなければならないわけで。山ほどあるメニューの事も知っている方がいいに決まってる。
……そういえばコーヒーとかがまだ来てない。龍次のケーキも。
「さて、観察もほどほどにして。ちょっと驚かせましょうか」
「へ?」
すみません、と龍次が声を上げたのを止めるべきだった。ふっとあちこちの店員さんから向けられた視線の中には浩貴のものもあって、ガチッと硬直したのは僕も彼も同時だったと思う。
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