(6)
促されて革張りのソファに腰掛ける。中島先生は職員室で待っているからとさっさといなくなった。ええー……何を話せばいいんでしょうか。さっきからずっと笑顔なんですけど、校長先生。こっちは少し緊張してうまく笑えているか怪しい。
「いやはや、子どもの成長は早いものだね。永瀬は息災かな?」
父の旧姓が飛び出してきてぎょっとした。笹川先生は可笑しそうに笑って膝の上で両手を組んだ。
「彼は大学の後輩でね。君の事もよろしく頼むと言われてるんだよ。その顔じゃ聞いてなかったようだね」
「はあ……初耳です」
知らないだらけで放り出された感、再び。父の先輩という事は年もそう変わりないという事か。
「君の家の事情も聞いてるよ。大変だと思うけれど、ここにいる間何も心配いらないからね」
「あ、ありがとうございます。ーーえぇと……どこまで周知されてますか」
教師全員に箝口令は敷けないだろう。それに人の口に戸は立てられないので違う意味で不安要素がある。
「私と保健医だけだよ。細かい事は大人に任せて君は学生生活を満喫するといい」
恐縮ですと頭を下げると、先生は笑みを深めて「これぐらいはおやすいご用だよ」と言う。
「その先生って……」
「女性だから大丈夫。昔からいる人でね、私の茶飲み友達だよ。そういえば弟君も一緒かと思ったんだがね。君だけだと聞いて不思議だったんだよ」
「あ、……それは……」
説明した方がいいのか少し迷った。
息抜きにと父は言った。それは多分、僕がこうして好きにしていられる時間がもうないからで。母親が許したのもそれがあったからだと思う。
「……僕が、家を継ぐ方向だからだと思います」
「ああ、お母さんの方のね。永瀬が婿入りしたとか言っていたな確か」
「はい」
「つまり社会勉強かな。ふむふむ、跡継ぎは見識を広げるべしと……」
納得してもらえたようだ。ほっとしてはにかんで返す。実はあまりこの話をするのは好きじゃない。気持ちとしてはできるだけ遠くに置いておきたいのだ。
「おおそうだ、あまりのんびりはしてられないな。朝からお呼び立てしてすまなかったね」
「いえ、そんな――ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
お互いに礼をし合ってから腰を上げる。来るまでは緊張したけど話している間にそれも解れていた。しかしまあ、父さんもよく根回しできたなと感心する。この人が校長じゃなかったらどうしていたのか?!
違う高校に行かされていたら残念に思っただろう。きっと。優さんから高校での話は聞いていたし、幼なながらに楽しそうだなと憧れてもいたから。無理な話だけど通えたら楽しいだろうなと考えていたのが、思いがけず叶って嬉しい。優さんに送れる話題ができる。
職員室に戻ると中島先生が「これ教科書一式ね」と大きめの紙袋をくれた。ずっしり重たい。全教科分ならこんなものかと手に提げてついて行く。教室で紹介があるはずで、今日は自分の名前を何回言うんだろうなとぼんやり考えていた。
ホームルームの時間。またどきどきしつつ教壇から教室を見渡す。皆見てますね。当たり前か。
「えー今日からうちに転入してきた李君です。はい、自己紹介どうぞ」
「李 小龍です。香港から来ました。……えぇと、よろしくお願いします」
「前もちょっと言ってたけど、日本語には不自由ないそうなので。皆仲良くね。えー……そんなもんかな。じゃ、李君。席あっちね。空いてる所」
あっち、と指さされた先へ視線を移すと廊下側の一番後ろだった。名簿順だからかなと思った直後、目が留まった先にいる人を見てうっと喉が詰まった。
――浩貴、いるんじゃないかっ!
そうならそうと言え!
配慮だか何だか知らないが正直げんなりした。家でも学校でも一緒ですかそうですか。校長先生は父の先輩だと言っていた。なら壮一郎さんとも知り合いなのかもしれない。父親同士のネットワークがここにまで及んで力を発揮しているとかそんな。
このクラスの名簿順でいくと弥坂の次に李がくるらしい。浩貴の後ろの机に座って若干――いや、かなりがっくりきた。辛い。学校でぐらい離れる方が僕としては適当な距離ができて気が楽なはずなのに。でもこれが前後逆だったらもっとひやひやしていただろう。視線を気にしなくて済むならまあいいかなと自分を納得させる。
――んー……まあ、その内慣れるよね……
その内がいつ来るのかはやっぱりわからないけれど、まずは学校生活に慣れないと。もう一人僕の事情を知るという先生に会いに、後で保健室にも行ってみた方がいいかなと考えている間に朝のホームルームは終わっていた。
* * *
授業の合間にある休み時間の度に近い席の子から紹介責めと質問責めにあう初日。外国人なのに日本語はべらべらに喋れるのがよかったのか悪かったのかはさておき、男子も女子も結構積極的に話しかけてきてくれた。テンション高めなクラスのようで、打ち解けるのが早い早い。うまくやっていけるかなという心配は杞憂に終わりそうだ。
「李君、お昼一緒に食べない?」
「えっ、」
声を掛けてくれたのはアイラインとか髪のセットがばっちりな女の子だった。ちらりと彼女の後方を窺うと同じようにいかにも【女子高生エンジョイしてます】という感じのメンツがこちらにひらひら手を振っている。
あの女子グループの中に単身囲まれるのか、僕? いいのかそれは。いや僕も中身は女だから別にいいのかもしれないが……
「や、悪いよそんな」
「え? 何で?」
「何でって……」
「そりゃあ初日からハーレム状態とかあれでしょー?」
後ろから声がしてぎょっとした。いつの間に。彼女は今朝、浩貴に飛びついた子だった。
「李君、呼び出し」
「は? 誰が……?」
「うん。いいから来ようか。ね?」
……強いなこの子。
笑った感じが猫っぽいなと思いつつ、促されるまま席を立つ。そういえば浩貴がいない。小枝子さんが持たせてくれたお弁当の包みを手に「ごめんね。また今度」と誘ってくれた子に謝った。「いいよーまたねぇ」と明るく返してくれたのでほっと一息。
「さてさて、ご案内ー」
「はあ……誰が呼んでるって?」
「え。別に誰も?」
「あ、そうなの……」
嘘ですかそうですか。しれっとしてるなこの子。
「やー、野郎一人で初対面のギャル相手はできないでしょ。それもあって」
「確かに」苦笑。「助かった」
「李君さ、弥坂ん家に住んでるってホント?」
「そうだよ」
「あいつよく電車で行くとか言ったわね。朝ダメでしょ?」
「よく知ってるね?」
やはり浩貴の彼女なのかという想像はすぐさま否定された。
「中学から知ってる奴だから。あれが彼氏とか無理っ!」
寒気するぅ! と彼女は嫌そうな顔をしてみせる。……まあ、その意見には賛同するかな。
半日後ろの席から見ていただけだけれど、浩貴は男子とは喋っても女子には淡泊な受け答えしかしないらしい。さっきみたいな子が寄ってきてもわいわい会話を楽しむようなタイプじゃないのだ。話しかけられても特にリアクションしませんオーラに負けないめげない女子はすごいと思う。顔がそこそこよくてもあれではお付き合いは難しそうだと思う。
行き先はどこだろうと思ったら、三階校舎の端だった。生徒会室とか書いてますけどいいんですかねちょっと。彼女、遠慮なくがらっとドアを引いて「リュウー? いるー?」と顔を覗かせてますが。
「はい?……ああ、友紀さんでしたか」
中にいたのは男子生徒一人で、顔を上げこちらを見やる。眼鏡男子とかいう単語を思い出した。(何とか男子って、流行りなんだよね確か。)
「またここで食べるんですか」
「何よーいいじゃんあんた以外に人来ないでしょ」
「まあ、構いませんけど……そちらは?」
「転校生。ほらあ、弥坂の、」
僕はどうも、と軽く会釈する。
「李 小龍です」
「河合 龍次です。初めまして」
きちんと頭を下げて薄く笑みを湛える彼は一体。ここにいるという事は生徒会の人なのだろう。同い年かな。さっきから丁寧語なんだけど。
「友紀さんとは同じクラスですか?」
「は、はい」
「じゃあ彼も?」
「そーそー。この子の席、あいつの真後ろなんだよ! やったねって感じなんじゃないの内心」
「惜しかった、の方が正確では? あちらからは見られないわけですし」
「いちいち視界に入ってたら落ち着かないっしょ。逆に」
「そんなもんですかね」
えー……何がやったねでどこが惜しいんですか。面倒見てやれとは言われていてもべったりというわけでもなかろうに。
浩貴が家でどんな風か見せてあげたい。僕がいる時のあの【しょうがねぇな】というように僅かにしかめられた顔ったらない。とっとこ進む会話を傍聴しつつ、僕はぽかんと突っ立っているしかなかった。
ぱっと河合君と目が合う。ああそうだ君もいましたよねという感じだ。思い出してもらえてよかったです、うん。
「お昼しながらの方がよさそうですね。どうぞ」
眼鏡の奥の双眸がにこやかに細められたので、僕はお言葉に甘えて生徒会室の中に足を踏み入れた。
*