(5)
※小龍視点に戻ります
お騒がせしましたと謝るべきだよなとそっとリビングに戻ってみると、小枝子さんがお茶を淹れている所だった。けろっとして「シャオちゃんもどう?」と先手を打たれたのでおずおずと頷く。
「……スミマセンでした、あわあわして」
が、結局謝る。だって間がもたないよこの微妙な沈黙。
「いやいや、ごめんねぇ。私もだけどあの子も」
「や、その……浩貴、何か言ってましたか」
「ん? 別に?」
ああやっぱり無感想ですか。というか言及する気すらありませんかあの人。
「シャオちゃん、あの子苦手?」
「っ! げほっ、げほっ、」
飲んでいたお茶が変な所に入って咽せた。
「っ、……いや、僕、いるの、浩貴の方が嫌なんじゃないかなとかは、思いますけど……」
「あらそう?」
「前来た時は仲良かったかなって思うんですけど、僕だけだったんですかね……友達だとか思ってるの」
いつまでも仲良しとはいかないのかな、とはメールでの遣り取りが減っていく中でも感じていた。僕には僕の・皆には皆の生活があるわけで、そして頻繁に会っていたわけでもないのだから距離ができていても当たり前か。優さんは近況なんかを教えてくれたり、逆に僕がどうしてるか訊いてくれたりしていた。優しいしマメな人だからとすっかり甘えていたけれど実際はどうだったのかな。
「メール、迷惑だったかなーと、今なら思います」
言い出したのは僕だった。日本語の練習にもなるからと最初優さんにお願いしたら「もちろん」と二つ返事で承諾してくれた。「浩貴ともどう? 同い年だからお互い学校の話とかできるんじゃないかな」というのも、僕は喜んで――浩貴はあの時、果たして快諾していただろうか。思い出せない。
「どうして? あの子そんな事言った?」
「そのー……優さんは色々書いてくれたんですけど、浩貴は何というか――ああ、そう、みたいな……? 途中から返事すら来なくなったからどうだったのかなと」
「あははは。そうだったの。あの子もねえ……負けず嫌いなくせにヘタレだからねぇ……」
そこは関係あるのかなと首をことり。負けず嫌いは分からなくないけれど、ヘタレってどこら辺からそんな話になるのか?
「そういえば、電車で通うって話はした?」
「ああぁぁっ! ま、まだ、でした……」
そんな間がなかったのもあるが、気まずい。非常に。何故かってついさっきの醜態が……! 浩貴にも浩貴の都合がある。明後日には学校が始まるのだから早めに相談しなければ。
「うう……僕の方がヘタレですねスミマセン」
「シャオちゃん、考え過ぎじゃないかしら。確かにまあ、我が子ながらとっつきにくいけとね」
案外ちゃんと喋れるもんじゃない? と小枝子さんに背中を押してもらっても気が重く、つい呻いてしまう。次に顔合わせた時にしようという辺りが自分の駄目さが表れている気がした。
* * *
火曜日。
僕は制服に薄いトレンチコートという出で立ちで電車に揺られていた。朝のラッシュに驚きつつ、三つ先までなら何とかなるかなと混んでいる車内でできるだけ身を縮めていたりする。(暖房いらないんじゃないかな、ここ……)そしてこんな中でもスマホをいじれる人達って一体。
「――ふあ……」
小さな欠伸が頭上でして、ちらりと視線を上げるとしかめ面と目が合った。眠そうだ、浩貴。電車だからと家を出る時間が早まったのは間違いない。不機嫌そうにも見えて、僕はすぐにまた足下に目を落とした。
毎朝バイク通学は怖いので困る旨を恐る恐る進言した時、しばし沈黙があった。向けられる視線が微妙に痛く、僕だけ電車で浩貴は今まで通りでいいからと継いだところ「電車でもいい」という返事がきたので正直びっくりした。
「や、別に無理しなくていいんだけど……」
「お前、一人で行けるのか?」
「場所ぐらい調べたらわかるよ。こんなちっちゃい子じゃあるまいに」
「…………」
浩貴は軽く眉を顰めてまた黙ってしまって、溜め息を吐いてから「お前ほっとくと母さんがうるさいし……」と言った。……確かに心配はされそうである。
「僕がその内学校に慣れてきたら浩貴はまたバイクでもいいんじゃないかな。朝苦手なんだし――おばさんもさすがにそこまで付き合えなんて言わないよ。早く慣れるようにするからさ」
「……好きにすれば」
あの溜め息と不満げな顔は何なのか。こっちは無理強いしたわけでもないのに。でもまあ、話はついたのでよしとしよう。
よしとしたのに、今朝の浩貴を見たらやはり僕一人で行った方がいい気がしてならなかった。低血圧って大変。何かこう――目が合ったら首絞められそうな怖さが! 朝ご飯食べたら少しマシになったけれど、起きてから一言も発して無いんですよねこの人。
ホームに降りると同じ制服の学生が何人もいて、ああこの人達も一緒の方向なのだなとわかった。やっぱり一人でも平気だったのでは。朝から隣を窺いながらひやひやして歩くのはちょっと……ねえ?
会話の努力をしてみよう。うん。
「……あのー……さぁ、」
何、という目が向けられる。
「すごいね。毎朝こんななの? 皆大変だなーと…」
それが? と僅かに眉が顰められる。
「優さんもこんなだったのかな」
「……さあ、」
会話終了ーー!
ああ、そうだよね。浩貴元からそんなにべらべら喋るタイプじゃなかった。努力、実を結ぶ日はいつ来ますか。来ないなら来ないでしょうがないけれど。
がっくりきつつ改札を出、どちらの出口から出るのかなと案内表示を見上げていると、とんと背中を叩かれる。……ああ、浩貴について行けばいいのか。
「……兄貴は早く出てた」
「へ?」
少し掠れた低い声だった。喋ったよ今日一言目。ぼそっとだけど。
「……ああ、うん。そうなんだ?」
「ラッシュが嫌で。……あの人、基本朝型人間だからな。すげー余裕で着いといて、本読んでたり寝てたりしてたんだと。学校で寝ても遅刻にはならねーから」
「っぽいなあ、」
想像に難くない。僕と友龍が早起きで朝から弥坂家の庭に出ていると優さんが部屋の窓からひょっこり顔を出し「二人も早起きだねーえらいなあ」とにっこり。今思い出してもさわやかさ満点な男子高校生だった。飼っている犬の散歩は優さんの日課で、それにもよくついて行った。こちらに遊びに来ていた間は毎日だったような……懐かしい。そういえばラティにまだ会ってないなと思い出した。
「そうそう。ラティ、いないの」
訊いてみると浩貴は「あー、あいつ今病院」と言う。
「ワクチンか何かだったかな。週末には帰ってんじゃねぇか」
一瞬病気なのかと思ったが違うらしい。ほっとした。前はまだ子犬だったけれど今はどのくらいになっているんだろう? 一つ楽しみができた、嬉しい。
「デカいから、驚くかもな」
「そんなに?」
「まあ、見たらわかる」
「へえ……楽しみだなぁ、久しぶりだし」
「……忘れられてるんじゃねーの」
「ちょっ、えぇー……」
落とされた。まあいいんだけど。
ふと、会話が続いたなと気が付いて、おおっと胸の内で小さな感動が生まれたのは内緒である。48時間前の出だしから考えれば僅かながら確かな進歩だ。うん。
* * *
古い校舎を仰ぎ見て、おー……とまた感動していたりする。視線をあちこちに向けながら歩いていると、すかさず浩貴から「前見て歩けよお前……」と呆れ半分に注意された。
「ご、ごめん……」
「そんな珍しいもんでもねぇだろうに」
「そうなんだけどさ――」
これからしばらくここに通うんだなとか、周りの子とうまくやっていけるかなとか思うわけで。
僕は【僕】で通しきらないとまずい。実際は女なのに公の場では男でやってきていると知れたら頭がおかしいと思われるだろう。家庭事情なんかをいちいち説明して回るなんてやる側も聞く側も面倒だし、例えば説明したとしても理解が得られるわけがない。――僕には僕の役目があるからこうさせられているだけだ。
「僕もね、色々思うところがあるんだよ」
「おま……」
「やっさかあぁぁ! おはよーーーっ」
後ろから元気のいい声が飛んできたと思ったら浩貴が「ぐっ!!」と呻いてぎょっとした。グキッと音がしそうな感じで仰け反っ……うわあ。これは痛かった絶対。
「珍しいじゃーん、あんたが歩きとか……あらら?」
文字通り後ろから勢いよく飛びついてきた女の子は、浩貴の首からぶら下がったままこちらを見留める。首を傾げたそれに倣ってロングのストレートヘアがさらりと揺れた。
「見たこと無い子がいるー」
「え? えっと……」
「かわいい系男子ねーこの子があんたのあれ?」
「い、……いからっ、離せっ!」
「あっ。何よーつれないわねー」
解放された浩貴は肩で息をして、チッと盛大に舌打ちした。朝っぱらからいきなり首を締められたらそうなっても仕方がないと思うよ。うん。……あんたのあれって何だろう。
「お前なっ……普通にできねぇのかホントに……!」
「珍獣捕獲、的な?」
「誰がだ、誰がっ!」
「あんたでしょ。そんで、君、だぁれ?」
呆気に取られたまま成り行きを見守っていた僕にようやく口を開く番がきたらしい。
「李 小龍です。えーと……弥坂君のとこでお世話になってて、今日からここに……」
「ああ、弥坂が言ってた子で合ってるっぽいわ。へー……かわいい。実物のが断然かわいい」
この子、さっきからかわいいと言い過ぎな気が。
かわいいはあんまり嬉しくないなと苦笑いを浮かべてみせると、彼女は不思議そうに目を瞬かせた。
「? 話が違う気がするんだけどどーなってんのよ」
彼女は訝しげに浩貴を降り仰ぐ。どういう意味ですかちょっと。何をどう話したのかものすごく気になる。まさか変な風に言われてたんじゃないだろうなと浩貴に視線を移すと、彼は憮然としたまま首元をさすっていた。
「違わねぇだろ」
「違うっ! 何か違うんだけど? ねえ」
「きゃんきゃんうるせえ。めんどくせーなお前……」
「ムカつくーっ!」溜め息。「まあいいや。後できっちり話してもらお」
そう言って彼女はにんまり。何だか愉しそうなのは気のせいではなさそうだ。
「じゃ、また後でね」
ひらりと手を振って彼女は一足先に昇降口へと行ってしまった。それを見送ってから浩貴を見上げると何とも複雑極まりない顔をしている。微妙な空気である。
「……もしかして彼女さんとか?」
訊いてから後悔した。顔がものすごく嫌そうにしかめられる。「んなわけねぇだろ」と唸るように否定され、ごめんとしか言えなかった。怖い、再び。こっちまで顔が引き攣る!
「……お前、職員室行くんだろ」
「あ、そうそう」
「あっちから入ったらすぐ事務員さんいるし。わかんなかったらそこで訊けば。……じゃあな」
さっさと離れていってしまったので、止める間もなかった。止める必要もさほど感じなかったし、あんな目で睨まれた後では居心地がよろしくない。
浩貴に言われた通り職員玄関から入り、小さな窓から事務員さんに声をかけた。若いお姉さんで、僕の事は聞き及んでいたらしくすぐに職員室に案内してくれた。黙ってついて行きながら周りを見ていると、やはり日本でも学校は学校という空気に変わりないのだなと感じた。登校時間らしい、ざわざわした雰囲気。
「中島先生、転入生です」
声に反応したのはこれまた女の先生で、見た感じ三十歳ぐらいの人だった。僕を見て、ああ、と目元が緩む。事務員さんはそっと会釈してから職員室を出て行った。
「えーと、李君だね。おはよう」
「おはようございます。よろしくお願いします」
慌てて挨拶して返す。
「担任の中島です。二年四組ね。えー……教科書。教科書は後で、まずは校長室だわ」
「は、はいっ」
校長室と聞くと背筋が伸びる。挨拶ちゃんとしなきゃとどきどきしていると、中島先生が「そんなにカチコチにならなくてもいいよ」と笑った。
「顔見せてって言ったのはあっちだから。普通は行かないんだけどね」
「えー……それは……珍しいからですか?」
「海外からの子って意味で? かもね」
君、日本語上手だねと言われたので、父が日本人だからと答えておいた。なるほどバイリンガルだ、と彼女は納得顔だ。英語もまあまあとはわざわざ言わなくてもいいかなと思って、頷くに留める。
中島先生は校長室のプレートがついたドアをコンコンと叩き、どうぞと返事があってから「失礼します」と中に入った。続いて入った先には、白髪交じりの男性がにこにこして――
「やあやあ、お待ちかねだ」
と、僕を見て声を弾ませる。
「おはようございます! 初めまして。李 小龍です」
「おはよう。こちらこそ初めまして。校長の笹川と申します」
君が例の、と校長先生が口にしたのを、僕は怪訝に首を傾げてみせるしかなかった。
*