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温かいお茶を淹れてソファで寛いでいるとスマホが着信を告げた。家用の方だ。画面をタップする時に目に入ったのは友龍の名前だった。
『何? どうしたの』
『お前今どこにいる』
……はい? 所在確認? 修学旅行の日程はこの前話した中で言っておいたはずなのに。
『家だよ。修学旅行今日で終わりだったから』
『あーそうだ。言ってたな。今一人か』
『うん。……何。どうしたのさ』
友龍の声が少し焦っている気がして、同時に何となく嫌な予感もしてきた。
『ちょっとまずい事になってる。お前、まだ日本に居る気なら母さんに直接そう言え。今ならあの人捕まるから。すぐな』
『えっ、すぐ?』
『切ったらすぐだ。でないとお前、最悪明日には迎えが行くかもしれない』
既に気分は最悪だ!!
何なんだよ唐突に。僕が弥坂の家に帰るのを見計らっての事だと思うけれどそれにしても、だ。
『とにかく掛けろ。あんな野郎に連れてかれるより浩貴の方が何割かマシだってぐらい最悪』
『連れ……? わかった、掛ける』
『帰りたくないってだけでいい。はっきり言ってやれいいな。俺も父さんもフォローしてるとこだけど。お前が言うのが絶対だからな』
返事をする間もなくプツ、と通信が途絶えた。焦る。焦るのに電話を掛けるのを躊躇ってしまう。
母さんと話すのは半年ぶりぐらいだ。メールなんか一方的だし時間差が生まれるものだから電話とは大違い。だから緊張してしまう。ご機嫌伺いをしてから本題に入るべき? いやでも友龍のあの言い方だとかなり急ぎ? つ、と画面をスライドさせて母の携帯番号を選び、しばらくかかったが友龍の言った通り繋がった。
『小龍? 久しぶりね』
『母さん、久しぶり。……ごめん、仕事してたかな』
『いいのよ。今一人だから』
何か用? と尋ねてくる声。心臓がばくばくとうるさい。お腹がキュッと痛くなる感覚は薬の効果が切れたのか、それとも緊張のせいか?
『あの、……僕、まだ帰りたくない』
『うん……? 急にどうしたの』
『僕が聞きたいぐらいなんだけど。母さん、ユウに何かした? あんなに慌ててるの、よっぽどの事なんじゃーー』
『あの子に何か言われて掛けてきたの? んん……もう耳に入っちゃったのね。帰りたくないって言えって言われたんじゃない?』
この畳み掛ける感じ。ああもう、既に泣きそう。
『僕の気持ちだよ。ユウに言われたからじゃない。まだこっちに居たいんだ僕は』
『ーーああそうだ。誕生日おめでとう。あなたも友龍ももう17歳ね』
話聞いてたーー?! そんな話じゃなかっただろう今! というツッコミは口の中に押し込んだ。
『あ、ありがとう。プレゼントも、見た……』
『気に入ってくれた?』
『何でアレだったのか分からないんだから気に入るも何も無くない?』
は、と嫌な笑い方をしてしまった。我ながら母親に対する態度がよろしくない。
『女の子に必要なものじゃない。だから。かわいいの選んだつもり』
小気味良さげですね、母さん。
『今の所全然使う気は無いんだけど。僕まだこのままこっちで過ごす気だし』
『帰りたくないって、あなたそっちで充分遊べたんじゃない? もういいんじゃないかって、この頃私も催促されるのよね』
ーー最悪。言われると思ってた。話、戻ったし。マイペースだよな相変わらず。
『よくないです。僕はもっとこっちに居たいし、家だって、……悪いけど継ぎたくないです全然』
『またそうやって。私だって嫌がらせで言ってるんじゃないのよ。あなたの為になるから言ってるの』
『うちの事は僕がやりたい事じゃないってずっと言ってるんだけど』
『それでもよ。間違い無いじゃない、うちなら』
『ユウが、やりたいってずっと言ってるの聞いてあげてる? 母さん。気にしてくれてるのはありがたいと思ってるけど、僕が継ぐ気無いって言ってるんだからもうそれでいいじゃないか』
『そうね、あなた達は双子だけどあの子は二番目だったから。……古臭いと思うだろうけどそう言う事もしつこく言われるのよ。家みたいに昔からの所はうるさいんだから』
それだけで? 万国共通なのか世襲制の重み。
『そんなのおかしいよね? ねえ、頼むから』
『シャオ。あなた、私達が出してる課題とってもよく出来てる。友龍よりもね』
『しないとそっちがうるさいからだよ。帰りたくないからこそちゃんとやらなきゃって思って……』
『帰ってきなさいな。そしたら自由よあなた。日本が悪いなんて思ってないけど、あなたずっとそのままでいられないじゃない。女の子なんだから。将来結婚だって出来ないわよ』
『そんな話じゃなくて!……大体好きな人ぐらい、母さんに用意されなくてもその内勝手に見つけるしっ』
『あら、いるのそんな人』
『や、……ーーいないけどさ今は、……ねえ、急かさないで。僕らが信じられない? 僕もユウも何もできないわけじゃないよ。もう』
『心配してるだけなの。あなた達が大事で大事で仕方なくて、だからおかしな方に行ってほしくなくて』
『現状、僕が【男】で生活してるのはおかしな方なんじゃないの。明らかに』
そうさせたのは他でもないあんただろう、と胸中で毒づく。嫌だな、こんな僕は。
『変な虫がついたら大変じゃない。嫌よ私、あなたが変な男に引っ掛かったりなんてしたら』
『そんな理由?! って言うかそっちでちょっかい掛けてきてる人って誰なの? ユウもすごく嫌がってた。何なのもう、そっちこそ変な人寄越してきてさ。僕が居ない間に勝手な事しないで。いい加減にして』
『その人に関しては私じゃないんだけど。まあいいわ。ーー全部、心配なだけなのよ。わかってちょうだい』
親の気持ちは子どもには伝わり難いものだって? 伝わらないだろう、この人がこれでは。変な心配ばっかりするんだから。
声も表情も暗くなる。お腹は痛くないはずなのに胸の辺りはもやもやしてくるしーーああヤダ。泣きそう。
『帰りたくないよ。母さん……僕もユウも、うちがそんなだからーー』
わふっ、とラティの声がしたと思ったらそれは外からの物だった。ガラス越しに庭からこちらに向かって一声吠えられただけなのにやたらびっくりしてしまった。
「げっ、」
『何? 小龍、』
『いや。何でも……と、にかく、僕は嫌だって言ってるものは絶対、嫌なんです』
もう帰ってきていたのかと動揺してしまう。トントンと肩を叩かれて、浩貴、と彼の顔をぱっと認識した時にはスマホが取り上げられてしまっていた。無表情が怖い! 画面をタップしてこちらに返されたので拡声モードに切り替えられたらしいと分かる。
『シャオはまだこっちに居たがってます。だから帰しません』
「こーき、ちょっと、ええ?」
浩貴の口から中国語が出てくるなんて思っていなかった。これまで、聞くのは分かるんだな程度の認識だったので目が点になる。
『……浩貴君かしら。話せるの?』
ご無沙汰してます、少しだけですけど、といつもより低い声だった。怒ってる? 恐る恐る窺うと浩貴は至って真面目な顔をしていて、そこには苛立ちや、母さんに臆する気配なんか無かった。
『こいつ、帰しませんから。自分の意志で帰るって言うまでこちらにって、秀征さんも言ってましたし』
『子どもの我儘が通ると思う?』
『大人の勝手も通らないですよ。そもそも自分の子どもの考えすら嘗めてるようじゃ大人としてどうなんですかね』
僕じゃなくて浩貴の方が言う事がストレートだ。それにしても、少しだけって言いながらかなり喋れてるよねこの人。いつからこんなに出来るようになってたんだろうと呆けるばかり。ふうん、と息を吐く母さんも何となく感心している風だ。
『優君にしても浩貴君にしてもよく勉強してるのね。すごいわ。頑張ったのね』
『昔兄貴にもよくして下さったそうですね。俺が言う事じゃないかもしれませんけどその節はどうも』
『いいえ。夫と二人して普通のアドバイスしかできなかったけど、お役に立ったなら』溜め息。『優君よりあなたの方がよく喋れるみたいね。世間と渡り合うには色々身についてる方がいいわ』
『それよりシャオの事です。他人の家の子どもが言うのも変ですけどもう少し待ってやれませんか。こいつの事』
本人もちゃんと考えてる所なんだし、と同い年の浩貴に言われるのは何とも……情けないような頼もしいような、複雑な心境である。母さんがこれで引き下がるような気分ならいいけれど、考え込んでいるらしいこの間もドキドキする。
『……小龍、もし将来的にもそっちに居たいと思うなら自分達でこっちの事全部、片付けてからになるわよ。大学なり何なり行けばいいけれど、うちの面倒な所はあなたもよくよく分かってるでしょう?』
『帰るのは……ちょっと、』
『帰って、そのまま騙し討ちなんてしませんよね』
言ったよ! この人ハッキリ訊き過ぎ! ハラハラする! 母さんがカチンときて実力行使に出たらどうしてくれるのああもう涙出そう。この後何言われるんだろう僕、と体が強張る。
『しないわ。私はね』
明確な答え方に、え、と耳を疑った。
『うちに関わる人間がどれだけいると思う? その中でも色んな考えがあるわけだけど、特にうるさいのを納得させてからでないと私も困るのよ立場上。……あなたには友龍と秀征さんがついてるんだから、自分がどう思っててどうしていく気なのかはっきりさせて。その為に香港に戻るのすら躊躇う根性無しなら、この先どこで何しようが駄目になるわよ』
私はって。母さんがこれまでああだこうだと言ってきたのは本意じゃなかったって? そんな馬鹿なと、言われてきていた身としては疑ってしまう。母さんにも公的な立場があるのはわかる。自分の子どもだからといって甘やかせてばかりはいられない。ーー僕らはこれまで【母さん】にちゃんと向き合ってた? 本当に?
『一つだけちゃんと確認したいんですけど。……美雨さんはこいつらの味方ですよね。今話してる感じだと』
僕が訊きたい事を浩貴がばんばん訊いてくれるからありがたいけれど、やはり情けない。自分の母親が相手なのにまともに口がきけないなんて。
『これまで散々言ってきてるからそう簡単には信じないと思うけど。……悪いわね、私にも私の守らなきゃならない事があるからこんな口になるの。小さな面倒ごとが大きくならないようにあちこち見てはいるつもりだけど、古参連中の手も借りなきゃとてもじゃないけど、一人じゃね。必要だと思えば多少気に食わない相手も家に入れなきゃならないし。そういう人間に限って世襲がどうこう、面倒。私が自分の家庭に厳しくないといちいち、異常に噛み付いてくるんだからまったく。……ーーはあ、困ったわね。余所の子相手ではやっぱり勝手が違うわ。あなた達にこんなに喋るのはもう少し先だと思ってたんだけどーー浩貴君ったらいい男になってきたんじゃない? あんなに小さかったのに』
ふ、と笑う声がした。でも浩貴は相変わらず堅い表情のままだ。じっとスマホを見つめて、すごく考えている。相手がすらすら喋るのを咀嚼して、言葉をきちんと選んでいるような横顔。
『俺にもこいつらにも譲れない所はあります。美雨さん達からしたら子どもですけど、子どもなりに真剣に考えてますから、時間をくれませんか。……現状維持しようと思ったらそれはそれで色々面倒なのかもしれませんけど』
『……小龍。あなたこの子に言わせてばっかりだけど? 何かないの?』
浩貴もこちらに視線を寄越す。言えよ、と促すようなそれに少し勇気付けられて口を開いた。
『僕、は、えっと、……ーー母さんの気持ち聞いて、正直戸惑ってる。ユウも知らないよね? これ。色んな意味で結構ショックで、落ち着く時間、今欲しいんだけどさ。……もうずっと言ってるけど、僕は家業継ぐ気は無いから。今すぐって言うのはまだ難しいんだけど、うちに関わってる人達にも納得して送り出してもらえるようにするので。絶対。……とにかくまだ日本にいられるようにお願いします、母さん』
猶予はあるに越したことはない。単なる逃げで時間が欲しいわけじゃなくて、自分できちんと考えたいという前向きな気持ちからだ。
間が再び。固唾を呑んで相手の声を待つ。
『来年には答えをちょうだい。それまでは私が上手くやっておくから』
『本当?!』
『浩貴君がいるのに嘘なんか吐かないわ。それにあなたも前よりは自分の事に前向きになってくれたみたいだし』
言ってから、ふふふ、と愉しげな笑い声がした。何。何なのその笑いは!
『優君じゃなくて浩貴君がいてくれてよかったわねあなた。彼もいい男みたいだから大事になさい。楽しみにしてるわ、将来』
『えっ、母さん?』
ふつりと通話が途絶える。途端に体から力が抜けた。それは浩貴もだったようで、はー、と長い息が吐き出される。
「……ごめ、あの、浩貴、びっくりしたよね」
「ホントに相変わらずなんだなお前の母さん」
はは、と軽い笑いしかお互い出てこない。浩貴がほとんど話してくれたから本当に助かった。いつもの押し問答で終わらなかったのは第三者がいてくれたからで、僕だけだったら危なかったと思う。多分、母さんは友龍にもすぐ話をするだろう。ーーあー……あの二人また喧嘩にならなきゃいいけど。
「浩貴があんなに喋れたのが……はは、ビックリした……」
「普段話す事無いしな別に。変に頭使った。……つか、聞いたろ。お前の母さん、味方っぽかったな」
そうなのだ。今まで散々上から押し付けるように物を言われてきたからかそんな事考える余地がなかった。母さんは母さんで、僕がどうなっていくか見定めているのだろう。
でもこれでどうにかなったわけじゃない。僕は、どうしていく?
「そういえばこーき、時間掛けたら分かるけど、早口はよく分かんないって言ってなかったっけ……?」
そっと目が逸らされた。待て。そこは嘘吐かなくてよかったんじゃないのか。
「えぇ、すごいなあ……ーーって事はあれか。僕、うかつに悪口も言えない感じだったり?」
「おー、聞いてたぞ。お前案外口が悪ぃなーとかそーゆーの思ってた。……ついでに家からの電話だと、すげー分かりやすくヘコんでんなとか、な」
「うわーごめん! ごめん!」
「いいよ別に。お前だし少々の悪口でも」
たかが知れてる、と浩貴はくしゃりと僕の頭を撫でる。慰められたのか何なのかはさておき、ほっと肩の力が抜けた感じがした。
「……少しは役に立ったか?」
「それはもう、うん。少しどころじゃないよ。本気で、実に素晴らしかったです」
「何だよその敬語」
あ、また笑った。
「ごめんね。帰っていきなりこんなでビックリしたんじゃない?」
「お前が電話であんな青い顔してんの親の話してる時ぐらいだろ。だから、……」
……うん? どうした続き。
「……考えたら、余計な事だったか」
「いやいやいや! 全然! ありがとうホントにありがとうって!」
「来年にはって言ってたの、忘れんなよ」
「あー、……うん」
来年。確かにそう言われた。時間はあるようでそんなに無い。年越しはこちらで出来そうだけどその後がどうなるか分からない。ヤバイ。のんびりはしていられない。でも何からどう手を付けるべきなのねえ。頭が痛い物理的な意味ではなく。
「まあ、な。とりあえず今日はゆっくりしろよ。大丈夫だから」
「でもっ、でもおぉぉお……」
「お前頭いいくせにこーゆー時ホント……さっきの今で考えがまとまるわけねぇだろ。体調万全にすんのが先。わかったな?」
うううう……優しさが沁みます。そうですねとりあえず思考をリセットして休みたい。ブルーデー真っ只中ではテンションも上がらないし。
「ありがとう。こーきがいてくれてよかった」
率直に感謝を述べたのを、浩貴は何とも言い難い表情で「お前にそう言われる日が来るとは思ってなかった」なんて言う。何だよ、頼っていいって言ったし僕だっていつまでも優さんにばっかり頼らないよ!
最後の「将来楽しみにしてる」って何だったんだろう。僕らも懐いていたし、母さんは優さんに好印象を持っていたはずだ。浩貴は僕と同い年だし昔会った時なんてほとんど喋ってなかったから印象も薄かったのかな。余所の家の子の成長が楽しみなんて言うタイプの人だっただろうか。今回の事でガッツリ印象に残っただろうね良いか悪いかはさておき。……いい男、ねえ。大事にはしているつもりだけど既に。
「何だ。お前も何か食う気になったとか?」
「いや、別に。何でもない……」
いい奴だよ。浩貴は。いい男と言われると何だか違う人の事を意識するようで、僕の中ではやっぱり【いい奴】の方がしっくりくる。
大事だよ。多分、お互い同じように。
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